![]() |
説教日:2024年3月10日 |
これらのことを踏まえて、前回は34章1節ー8節に記されていることについてのお話を始めました。そこには、 主はモーセに言われた。「前のものと同じような二枚の石の板を切り取れ。わたしはその石の板の上に、あなたが砕いたこの前の石の板にあった、あのことばを書き記す。朝までに準備をし、朝シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。だれも、あなたと一緒に登ってはならない。また、だれも、山のどこにも人影があってはならない。また、羊でも牛でも、その山のふもとで草を食べていてはならない。」そこで、モーセは前のものと同じような二枚の石の板を切り取り、翌朝早く、主が命じられたとおりにシナイ山に登った。彼は手に二枚の石の板を持っていた。主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名を宣言された。主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏した。 と記されています。 前回はまず、1節ー4節に記されている、モーセが主のみことばに従って、「二枚の石の板」を切り取って、それを持ってシナイ山に登っていったことについてお話ししました。そして、続く5節ー8節に記されている、主がそこにご臨在されて宣言された、 主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。 という御名についてのお話を始めました。 これは、33章18節ー19節に、 モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」 と記されていることを受けて、主が「主の名を宣言された」(34章5節)ものです。それで、この主が宣言された御名は、そのような「うなじを固くする民」であるイスラエルの民を絶ち滅ぼすことなく、なおも、ともに約束の地まで行ってくださるという主の栄光を示すものです。 それで、この主が宣言された、 主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。 という御名は、3章14節ー15節に記されている、モーセがエジプトに遣わされるように召された時に示された、 わたしは「わたしはある」という者である。 という契約の神である主、ヤハウェの御名のさらなる意味を示すものであると考えられます。主、ヤハウェの御名がイスラエルの民の背教という事態にあって、どのような意味をもっているかを明らかにしてくださっているということです。 前回お話ししたように、この、主の御名の宣言は、 主、主(ヤハウェ、ヤハウェ)。あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す方。しかし、この方は罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる。 というように理解した方がよいと考えられます。それで、この訳に基づいてお話を進めていきますが、ここでは、「ヤハウェ(主)」という御名が二回繰り返して宣言されていて強調されています。これによって、 わたしは「わたしはある」という者である。 という御名の方が、確かにそこにご臨在しておられるということが示されています。この、 わたしは「わたしはある」という者である。 という御名は、この方が「永遠に在る方」、「独立自存で在る方」、「永遠に変わることなく在る方」であることを示しています。そして、それで、主、ヤハウェは、歴史の主として、ご自身がお造りになったこの歴史的な世界のすべてのものを支え、導いてくださっている方であることが分かります。 その方のことは、イザヤ書40章以下に何回か出てくるのですが、たとえば、44章6節に、 イスラエルの王である主、これを贖う方、 万軍の主はこう言われる。 「わたしは初めであり、 わたしは終わりである。 わたしのほかに神はいない。 と記されているように、「初めであり」、「終わりである」方です。 これは、「初め」と「終わり」というこの歴史的な世界の両端を組み合わせて、「初め」と「終わり」だけでなく、その間のすべてを表す(メリスムスという)表現の仕方で表されています。つまり、主、ヤハウェはこの歴史的な世界の歴史を始められた方であり、終わらせる(区切りを付けられる)方であるということとともに、そのすべてを支え、導き、治めておられる方であるということを意味しています。 しかも、出エジプト記3章では、先ほどの14節に続く15節に、 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。 と記されています。ここに出てくる「主(ヤハウェ)」が神の御名ですが、ここでは、直訳で、 主、あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神 と説明されています。つまり、主はアブラハムにご自身の契約を与えてくださり、それをその子イサク、さらに、その子ヤコブに受け継がせてくださった神であること、また、それで、アブラハムの子孫であるエジプトの奴隷となっているイスラエルの民をも、その契約に与らせてくださって、その奴隷の状態から贖い出してくださる方である、ということを示しています。 それで、先ほどのイザヤ書44章6節では、「初めであり」、「終わりである」方である主、ヤハウェのことが、 イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主 と言われています。 これは、イザヤにとっては、かつてモーセの時代に、イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださった主、ヤハウェが、やがて起こるべき、南王国ユダの王たちの背教に対するさばきとして執行されるバビロンへの捕囚を越えて、そこからの帰還を預言的に約束してくださっているのです。 その捕囚からの解放と帰還のことは、モーセの時代の出エジプトの贖いの御業とともに、古い契約の下での「地上的なひな型」としても意味をもっている歴史的な出来事として、やがて来たるべき新しい契約の下で成就する、まことの贖い主による最終的な贖いの御業を指し示しています。 そして、そのことは、今から2千年前に、父なる神が遣わしてくださった御子イエス・キリストによって成就し、2千年後の今日においても私たちの現実となっています。それは、契約の神である主、ヤハウェが、「初めであり」、「終わりである」方であるからにほかなりません。 さらに、このようにして、私たち主の民の間で現実となっている贖いの御業が終わりの日に完成し、私たちが、前回2月11日にお話しした、アブラハムが信仰によって待ち望んでいた新しい天と新しい地を受け継ぐようになることも、契約の神である主、ヤハウェが、「初めであり」、「終わりである」方であるからにほかなりません。 そればかりではありません。その新しい天と新しい地も歴史的な世界です。そして、ヘブル人への手紙2章5節ー10節においては、詩篇8篇5節ー6節を引用して、 というのも、神は、私たちが語っている来たるべき世を、御使いたちに従わせたのではないからです。ある箇所[詩篇八篇四節ー六節]で、ある人がこう証ししています。 「人とは何ものなのでしょう。 あなたがこれを心に留められるとは。 人の子とはいったい何ものなのでしょう。 あなたがこれを顧みてくださるとは。 あなたは、人を御使いよりも わずかの間低いものとし、 これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、 万物を彼の足の下に置かれました。」 神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。 と記されています。 説明は省きますが、これは神が「来たるべき世」すなわち新しい天と新しい地の歴史と文化を造る使命を「御使いたちに」ではなく、神のかたちとして造られている人に委ねてくださっていることを示しています。このことも、契約の神である主、ヤハウェが、「初めであり」、「終わりである」方であり、新しい天と新しい地の歴史のすべてを支え、導いてくださる方であるから、終わりの日に、私たち主の契約の民の現実になるのです。 出エジプト記3章において、神がモーセに啓示してくださった、 わたしは「わたしはある」という者である。 という御名は、どちらかと言うと、契約の神である主、ヤハウェの存在に強調点があります。 これに対して、34章6節ー7節において宣言されている、 主、主、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す方。しかし、この方は罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる。 という御名の啓示は、「情け深い」、「怒るのに遅い」、「恵みとまことに富む」など、主、ヤハウェの聖なる属性が強調されています。これは、主が「うなじを固くする民」であるイスラエルの民の間にご臨在してくださってもなお、イスラエルの民が御前から絶ち滅ぼされてしまうことがないこと、さらには、イスラエルの民とともに約束の地まで上って行ってくださることの根拠・理由を示してくださっているものです。 そして、この34章6節ー7節において宣言されている、契約の神である主、ヤハウェの御名が示していることの根底には、やはり、主が、 わたしは「わたしはある」という者である。 という御名によって呼ばれる方として、「永遠に在る方」、「独立自存で在る方」、「永遠に変わることなく在る方」であるということがあります。主、ヤハウェがそのような御名の方であるので、変わることなく、 あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す方。しかし、この方は罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる。 という方であるのです。そして、それゆえに、イスラエルの民が「うなじを固くする民」であることがこの上もなく明らかになったときも、なおも、ご自身の契約に基づいて、イスラエルの民の間にご臨在してくださるのです。 このように、主、ヤハウェが、 あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す方。しかし、この方は罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる。 という方であることが、明確に、ご自身のみことばをとおして啓示されたのは、イスラエルの民が、主がご臨在されるシナイ山の麓で金の子牛を作って、これを主、ヤハウェであるとして拝んで背教してしまった時のことでした。 しかしこれは、この時に主が、 あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す方。しかし、この方は罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる。 という方になったということではありません。主は、 わたしは「わたしはある」という者である。 という御名によって呼ばれる方として、初めから、そして、常に、このような方です。その主が、イスラエルの民がシナイ山の麓で金の子牛を作って、これを主、ヤハウェであるとして拝んで背教してしまい、主のさばきを受けて滅ぼされて当然のものになってしまった時に、モーセのとりなしとそのとりなしの奥に生きて働いている信仰を生かしてくださって、ご自身がこのような方であることをより鮮明に啓示してくださったのです。 これは、いわば、暗い夜であればあるほど星が輝いて見えるというようなことです。もう50年以上前のことですが、私は妻とともにで、信州にある母の家に帰省したおりに、乗っていた排気量360CCの「ミニカ」が峠の長い上り坂の途中で止まってしまいましたので、エンジンを休めるために外に出たことがあります。その時はすでに夜になっており、満天の星空が目に飛び込んできました。空一面の星が今にも降ってくるのではないかと恐ろしくなるほどでした。その星の輝きはずっとあるのに、都会に住んでいた私たちには、そのようには見えていませんでした。 もちろん、これは主が一方的な恵みによって啓示してくださったことであって、イスラエルの民が罪を犯して主に背けば、当然、啓示されるというようなことではありません。 このようにして啓示された、 あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す方。しかし、この方は罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる。 という、主、ヤハウェがどのような方であるかの啓示は、同じ出エジプト記20章4節ー6節に記されている、 あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。 という、十戒の第2戒の、偶像を作ることと、それを拝むことを禁じた戒めのことばを背景として語られたものです。 この、 あなたは自分のために偶像を造ってはならない。 という十戒の第2戒は、第1戒を踏まえて語られています。第1戒は、3節に記されていて、 あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。 と言われています。 これは、神はただお一人であって、主のほかに神はいない、ということとは少し意味合いが違います。もちろん、神はただお一人であって、天と地とその中のすべてのものをお造りになった方です。主のほかに神はいません。ただ、ここでは「あなたには・・・あってはならない」というように、それとは少し意味合いが違う言い方がされているということです。 どういうことかと言いますと、この、 あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。 という戒めは、古代オリエントの文化圏において、それぞれの国が、さまざまな神々を自分たちの神として取り入れていたことを踏まえています。長いことエジプトの奴隷であって、エジプトの文化に触れていたイスラエルの民は、当然、その影響を受けていました。金の子牛を作ってしまったこともその現れです。この時代に、エジプトでは雄牛が礼拝されていたようです(Zondervan Illustrated Bible Dictionary, p.242 )。そうしますと、イスラエルの民は、自分たちの父祖であるアブラハム、イサク、ヤコブの神である主、ヤハウェを自分たちの神とするだけでなく、ほかの神々をも自分たちの神として取り入れてしまう可能性がありました。それで、第1戒では、 あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。 と戒められていると考えられます。 もちろん、主は天と地をお造りになった方であり、ただお一人の神です。そのことは考え方、生き方にかかわるすべてのことの根本的な基盤ですから、イスラエルの民はそのことをしっかりと心に留めておかなければなりません。それだけでなく、主を自分たちの神として、主にのみ心をささげて、主にのみ従い、主のみを礼拝しなければなりません。第1戒は、そのような、主、ヤハウェとイスラエルの民の間の人格的な関係の中に、ほかの神々が入り込んできてはならないということを示しています。 このような、十戒の第1戒を踏まえて、 あなたは自分のために偶像を造ってはならない。 という第2戒が与えられています。もし、 あなたには、わたし以外に、ほかの神々があってはならない。 という第1戒を受け入れて、それを守っているなら、ほかの神々を自分の神とするということはありません。そうすれば、ほかの神々の偶像を作るということもありません。そうしますと、 あなたは自分のために偶像を造ってはならない。 という第2戒が想定している偶像は、他の神々の偶像ではなく、契約の神である主、ヤハウェの偶像であると考えられます。それで、第2戒が禁止しているのは、主、ヤハウェを拝むために偶像を作ってはならないということであると考えられます。 このことと調和して、第2戒は、 あなたは自分のために偶像を造ってはならない。 となっていて、「自分のために」ということばが入っています。これによって、第1戒に従って契約の神である主、ヤハウェを自分の神としている者が、ヤハウェを礼拝するために、自分の考えや都合に合わせて、ヤハウェの偶像を作ってはならないと戒められていると考えられます。 ですから、イスラエルの民が、主がご臨在されるシナイ山の麓で金の子牛を作って、これを契約の神である主、ヤハウェと呼んで礼拝したことは、まさに、十戒の第2戒に背く罪を犯したということを意味しています。 このことと関連してお話ししたいのですが、神はこの世界でご自身がどのような方であるかを見える形で現す存在をお造りになりました。それは、神のかたちとして造られている人です。もちろん、人は被造物に過ぎませんから、無限、永遠、不変の栄光の神をそのまま現すというようなことはできません。あくまでも、造られたものとしての限界の中で、また、神が与えてくださった人格的な特質にしたがって、造り主である神を現すのです。 この世界は生きておられる人格的な神によって造られたものですから、造られたすべてのものが、何らかの意味で、造り主である神を現しています。この宇宙の壮大さと複雑さ、身近にある一つ一つのものの成り立ちの精巧さ、そして、いのちあるものの成り立ちと営みの神秘的なまでの不思議さなどは、造り主である神の無限、永遠、不変の知恵と力をあかししています。詩篇19篇1節に、 天は神の栄光を語り告げ 大空は御手のわざを告げ知らせる。 と記されており、ローマ人への手紙1章20節に、 神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められる と記されているとおりです。 このように、神がお造りになったこの世界のすべてのものが、何らかの形で造り主である神を現し、あかししています。しかし、それは、この壮大でありつつ微妙で精巧な、素晴らしい世界と、その中のすべてのものをお造りになった神の知恵と力は無限であるというように、また、今日に至るまで変わることなく、そのすべてを保っていてくださる神の真実と慈しみも無限であるというように、神の人格的な特質を間接的にあかししているだけです。それは、たとえて言うと、素晴しい芸術作品に触れたときに、それを創作した人の才能は豊かなものであるということを感じるのと同じです。その作品を見てその人の才能の豊かさは感じ取れますが、それ以外の点においてその人がどのような人なのかということまでは知ることができません。 これに対して、神のかたちとして造られている人は、自分自身が人格的な存在として造られています。もちろん、人にも、からだの仕組みや、肉体と霊魂の関係など、人格的な存在としての人自身の成り立ちの神秘的なまでの不思議さに、造り主である神の知恵と力、真実さと慈しみが現されているという面があります。しかし、人の場合にはそれだけではありません。人は被造物としての限界の中でではありますが、神の人格的な特質に与っています。それで、自分自身の思いとことばと行ないのすべてにおいて、神の人格的な特質を現しあかしする存在であるのです。 言うまでもなく、最も豊かに神がどのような方であるかを現された方は、人としての性質を取って来てくださった御子イエス・キリストです。そして、コリント人への手紙第二・3章18節に、 私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 と記されているように、私たちは、今、御霊によって、 栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。 それによって、神がどのような方であるかをより豊かに現すようになっていきます。 このようなことを踏まえると、造り主である神から神のかたちとしての栄光と尊厳性を与えられている人が、このような栄光と尊厳性を与えられていないものに似せた偶像を作ることが、どれほど神の栄光を汚すことであるか、また、それゆえに、いかに愚かで、恐ろしいことであるかが分かります。 |
![]() |
||