黙示録講解

(第525回)


説教日:2024年1月14日
聖書箇所:(ヨハネの黙示録2章18節ー29節)/出エジプト記34章1節ー8節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(278)


 前回は降誕節に関連するお話をしましたので2ヶ月ほど間が開いてしまいましたが、本主日も、黙示録2章28節後半に記されている、

 勝利を得る者には、わたしは明けの明星を与える。

という、イエス・キリストの約束のみことばと関連することとして、神である「」に対する「」の契約の民の不信仰がもたらした絶望的な状態にあって、なお、「」の主権的で一方的な恵みが示されたことについてのお話を続けます。
 今は、出エジプト記32章ー34章に記されている、イスラエルの民が、「」がご臨在されるシナイ山の麓において、金の子牛を造ってこれを「」として礼拝した時のことについてお話ししています。このことは、突然のこととして起こったのではなく、エジプトの奴隷の状態にあったイスラエルの民が、「」の主権的で一方的な愛に基づく恵みによって、エジプトの王ファラオの主権の下から贖い出された後に、なおも、ことあるごとに「」に対する不信を募らせ続けたことが最終的に至ったことでした。
 これによってイスラエルの民は、「」がその御声をもってイスラエルの民に語られ、「」の契約の文書に当たるものとして、「」が石の板に記された十戒の第二戒の、

あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

という戒めを破ってしまいました。
 それで「」は、モーセにこの民を絶ち滅ぼし、モーセから新しい民を興されると告げられました。しかし、モーセが二度にわたってイスラエルの民のためにとりなした時、「」はそれをを受け入れてくださり、この民を絶ち滅ぼすことはしないと約束してくださいました。
 このことを受けて、「」はモーセに、モーセとイスラエルの民が約束の地に行くように命じられました。しかし、「」は、

しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。

と言われました。
 この時も、モーセは二度にわたってイスラエルの民のために「」にとりなしました。「」はモーセのとりなしを受け入れてくださって、「」ご自身がイスラエルの民とともに約束の地まで行ってくださるということを約束してくださいました。これを受けて、モーセは「」に、

 どうか、あなたの栄光を私に見せてください。

と願いました。
 このときモーセが「」に「見せてください」と願った「」の栄光は、そのような「うなじを固くする民」であるイスラエルの民を絶ち滅ぼすことなく、なおも、ともに約束の地まで行ってくださる栄光です。それは、出エジプトの贖いの御業や、その後のシナイ山の麓まで導いてくださったこと、そして、ご自身の民として契約を結んでくださったことにおいて現された恵みより、さらに深く豊かな恵みに満ちている「」の栄光です。
 このことを受けて「」は、モーセに、

見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。

と言われました。
 ここで「」が「わたしの顔」と言われたときの「」と訳されていることば(パーニーム)は、文字通りの「」を意味しますが、この場合は「御臨在」を意味しています。それで、「あなたは・・・わたしの顔は決して見られない」ということは、「」がイスラエルの民のためになされた出エジプトの贖いの御業や、その後にイスラエルの民をシナイ山の麓まで導いてくださって、ご自身の民として契約を与えてくださったことに現された恵みよりさらに深く豊かな恵みに満ちている「」の栄光の御臨在の御前に、モーセが立って、直接的にそれを見ることはできないということを意味しています。
 前回は、これがモーセの人となりによっているのではないということをお話ししました。
 モーセは「」のしもべとして、出エジプトという「」の贖いの御業のために用いられた「」のしもべであっただけでなく、民数記12章2節で、

 モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和であった。

と証しされているほどの優れた人でした。しかし、そのモーセも、古い契約の下にある「地上的なひな型」としての限界の中にありました。
 モーセは「」が示してくださった幕屋で仕えていました。そこで「」が備えてくださっていた罪の贖いは、動物の血によるものでした。それについては、ヘブル人への手紙9章9節に、

この幕屋は今の時を示す比喩です。それにしたがって、ささげ物といけにえが献げられますが、それらは礼拝する人の良心を完全にすることができません。

と記されており、10章4節に、

 雄牛と雄やぎの血は罪を除くことができない

と記されています。それは、やがて「」が新しい契約の下で備えてくださる御子イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられる完全な罪の贖いを指し示す「地上的なひな型」でした。その本体については、9章11節ー12節に、

キリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。

と記されています。


 これらのことを踏まえて、34章1節ー8節に記されていることを見てみましょう。そこには、

はモーセに言われた。「前のものと同じような二枚の石の板を切り取れ。わたしはその石の板の上に、あなたが砕いたこの前の石の板にあった、あのことばを書き記す。朝までに準備をし、朝シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。だれも、あなたと一緒に登ってはならない。また、だれも、山のどこにも人影があってはならない。また、羊でも牛でも、その山のふもとで草を食べていてはならない。」そこで、モーセは前のものと同じような二枚の石の板を切り取り、翌朝早く、が命じられたとおりにシナイ山に登った。彼は手に二枚の石の板を持っていた。は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、の名を宣言された。は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏した。

と記されています。
 1節ー2節には、

はモーセに言われた。「前のものと同じような二枚の石の板を切り取れ。わたしはその石の板の上に、あなたが砕いたこの前の石の板にあった、あのことばを書き記す。朝までに準備をし、朝シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。

と記されています。
 ここに出てくる「あなたが砕いたこの前の石の板」は、32章15節ー16節に、

モーセは向きを変え、山から下りた。彼の手には二枚のさとしの板があった。板は両面に、すなわち表と裏に書かれていた。その板は神の作であった。その筆跡は神の筆跡で、その板に刻まれていた。

と記されているように、神ご自身がお作りになり、十戒の戒めを書き記された「石の板」のことです。32章19節に記されているように、モーセはその「石の板」をシナイ山の麓において砕いてしまいました。これは、モーセが怒りのあまり、思わずなしてしまったことではありません。このことは、契約文書を破棄することは契約を破棄することであるという、その当時の発想を踏まえて理解する必要があります。それで、これは、イスラエルの民が「」の契約を破り、その契約が破棄されてしまったということを示しています。
 神のみことばである聖書が一貫して示していることは、「」がご自身の民の間にご臨在してくださるのは、「」の契約によっています。それで、「」の契約が破棄されたということは、「」がイスラエルの民の間にご臨在してくださるための法的な基盤がなくなってしまったということを意味しています。
 それで、この34章1節に記されていることは、「」がその主権的で一方的な恵みによって、再び、イスラエルの民に契約を与えてくださるということを意味しています。それは、また、「」がイスラエルの民の間にご臨在してくださるようになることを意味しています。そして、繰り返しになりますが、その「」の御臨在の栄光は、出エジプトの贖いの御業や、その後のシナイ山の麓まで導いてくださったこと、そして、ご自身の民として契約を結んでくださったことにおいて現された恵みより、さらに深く豊かな恵みに満ちている「」の栄光です。
 このことを受けて、4節には、

そこで、モーセは前のものと同じような二枚の石の板を切り取り、翌朝早く、が命じられたとおりにシナイ山に登った。彼は手に二枚の石の板を持っていた。

と記されています。
 そして、5節ー7節には、

は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、の名を宣言された。は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」

と記されています。
 5節で、

 は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、の名を宣言された。

と言われているときの「」は、「」の御臨在に伴い、「」の栄光の御臨在を表示する「」のことです。13章21節ー22節に、

は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。

と記されている「雲の柱」も「」の栄光の御臨在が、常に、イスラエルの民とともにあって、彼らを導いていたことを意味しています。同じように、ここで、

 は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って

と言われていることは、「」がモーセとともにあるように栄光のうちにご臨在してくださったことを意味しています。ただし、また繰り返しになりますが、この場合の「」の御臨在の栄光は、出エジプトの贖いの御業や、その後のシナイ山の麓まで導いてくださったこと、そして、ご自身の民として契約を結んでくださったことにおいて現された恵みより、さらに深く豊かな恵みに満ちている栄光です。
 ここでは、これに続いて、

 の名を宣言された。

と記されています。
 この「の名」は、基本的には、3章14節ー15節に記されていますが、「」がモーセをエジプトの王ファラオの許に遣わされるに当たってお示しになった、

 わたしは「わたしはある」という者である。

という御名です。
 3章14節ー15節では、この、

 わたしは「わたしはある」という者である。

という御名が「わたしはある」に短縮され、さらに、これが三人称化されて「ヤハウェ」(新改訳では太字の「」)として示されたと考えられます。そして、ここ34章5節で、

 の名を宣言された。

と言われていることは、この時には、出エジプトの贖いの御業や、その後のシナイ山の麓まで導いてくださったこと、そして、ご自身の民として契約を結んでくださったことにおいて現された恵みより、さらに深く豊かな恵みに満ちている「」の栄光がモーセに示されようとしているということを踏まえて理解する必要があります。ですから、これは、すでにモーセに示されていた、

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という契約の神である「」ヤハウェの御名のさらに豊かな意味が啓示されたことを示しています。
 すでにお話ししたように、この時、モーセは「」の栄光のご臨在の現れである「」の栄光の顕現(セオファニー)を直接的に見ることはできませんでした。けれども、モーセは「」がご臨在の御許から語られた御声を聞きました。それは、6節ー7節に記されているように、

は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。

というものでした。
 これをどのように理解するかについては見方が分かれています。ヘブル語の順序では、最初に契約の神である「」「ヤハウェ」という御名が2回繰り返されています。続いて、「神」を意味する「エール」が続いており、それに「神」エールを説明することばが続いています。
 新改訳は「」というように、2番目の「ヤハウェ」をそれ以下の部分の主語であると理解しています。これも可能ですが、ここでは、最初に「ヤハウェ」という御名が繰り返し宣言されていて、「神」エール以下が同格の形で「ヤハウェ」を説明していると理解したほうがいいのではないかと思われます。その場合には、

ヤハウェ、ヤハウェ、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す方。しかし、この方は罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる。

というようになります。
 このように理解した場合の2回繰り返されている「ヤハウェ」という御名の宣言は、強調のためです。この時、「雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立たれた」「ヤハウェ」の栄光の顕現は通り過ぎてしまい、モーセはそれを直接的に見ることはできませんでした。しかし、この「ヤハウェ、ヤハウェ」という御名の宣言によって、確かに、「ヤハウェ」という御名をもって呼ばれる方がそこにご臨在しておられるということが明確に示されています。
 そして、これによって導入される、

あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す方。しかし、この方は罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる。

という、「」ヤハウェの自己啓示のみことばによって、3章14節ー15節に記されている、モーセの召命の時の出来事をとおしてモーセに啓示されていた「ヤハウェ」という御名が、このようなイスラエルの民の背教が極まった時において、さらに豊かな恵みに満ちた栄光の「」ヤハウェの御名として啓示されたことが示されています。

 「」はモーセを召してくださったとき、すでに、ご自身が、

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名によって呼ばれる方として、「永遠に在る方」、何ものにも依存することなく「独立自存で在る方」、「永遠に変わることなく在る方」であられること、さらに、この世界のすべてのものを存在させ、それを真実に保っておられる方であることを、モーセにお示しになりました。そして、

 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、[注]

[注]ヘブル語の順序では、「」ヤハウェが先にあり、それを説明する「あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」が続いています。(日本語では、説明する部分が先にくるので、新改訳のようになります。)

としてご自身を示されることによって、

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という「」の御名は、ご自身が一人超然としておられることをお示しになったものではなく、ご自身の契約に対して真実であられて、歴史の移り変わりの中で、この世界の状況がどのように変わってしまうとしても、契約をとおして約束されたことを必ず成し遂げてくださる方であるということを示してくださるものでした。―― このことは、今、「」のみことばが示している終わりの日の様相を色濃くしている時代に生きている私たち「」の民にとっても、とても大切なことです。
 このように、「」は、

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名の方であられるので、イスラエルの民がエジプトというその当時の最も強大な帝国の奴隷となっていたとしても、父祖アブラハム、イサク、ヤコブにお与えになった契約に基づいて、奴隷の身分から贖い出してくださったのでした。
 しかし、そのようにエジプトの奴隷の身分から贖い出されて、「」ヤハウェとの契約のうちに入れていただいたイスラエルの民が、こともあろうに、「」のご臨在されるシナイ山の麓で金の子牛を作り、それを「」ヤハウェであるとして礼拝したのです。それによって「」との契約は破棄されてしまいました。
 それでも、モーセは、「」が、

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名の方であられるので、アブラハム、イサク、ヤコブへの契約に基づいてイスラエルの民を赦してくださるようにとりなしました(32章13節)。そして、「」はイスラエルの民へのさばきを留めてくださいました。さらに、「」がイスラエルの民とともにあって約束の地に上ってくださらないと言われたときにも、「」が、

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名の方であられることに基づいて、アブラハム、イサク、ヤコブに対する契約によって約束してくださった約束の地にまで、イスラエルの民を導き上ってくださるようにという願いをもって、とりなしました(参照・33章15節ー16節)。「」はそのとりなしをも受け入れたくださいました。そして、このことを実現してくださるために、これまで啓示されていた以上に深く豊かな恵みに満ちた「」の栄光のご臨在を啓示してくださったのです。それが、

ヤハウェ、ヤハウェ、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す方。しかし、この方は罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる。

という、ヤハウェの御名の意味のさらなる啓示であったのです。
 このように見てみますと、このすべての根底に、「」ご自身が、

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名の方であられることがあることが分かります。そして、イスラエルの民の罪が極まってしまって、イスラエルの民が「うなじを固くする民」であることがこの上なくはっきりとしたときに、「」が、

 わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名の方であられることのより豊かな意味が明らかにされるようになったことが分かります。

 この、

ヤハウェ、ヤハウェ、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す方。しかし、この方は罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる。

というヤハウェの御名の意味については、日を改めてお話ししますが、一つのことに触れておきます。
 この御名の啓示は、この時、金の子牛を作って、これを契約の神である「」、ヤハウェとして拝んだ、イスラエルの民が破ってしまった十戒の第二戒の、

あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

という戒めを背景として、それと対比する形で示されています―― どちらにも「父の咎を子に・・・三代、四代に」ということと「恵みを千代まで」ということが出てきますが、「恵みを千代まで」ということについては、対比があります。
 このことも、イスラエルの民の罪が極まったときに、「」のさらに豊かな恵みに満ちた栄光が啓示されたということを伝えています。


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