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説教日:2024年1月14日 |
これらのことを踏まえて、34章1節ー8節に記されていることを見てみましょう。そこには、 主はモーセに言われた。「前のものと同じような二枚の石の板を切り取れ。わたしはその石の板の上に、あなたが砕いたこの前の石の板にあった、あのことばを書き記す。朝までに準備をし、朝シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。だれも、あなたと一緒に登ってはならない。また、だれも、山のどこにも人影があってはならない。また、羊でも牛でも、その山のふもとで草を食べていてはならない。」そこで、モーセは前のものと同じような二枚の石の板を切り取り、翌朝早く、主が命じられたとおりにシナイ山に登った。彼は手に二枚の石の板を持っていた。主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名を宣言された。主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏した。 と記されています。 1節ー2節には、 主はモーセに言われた。「前のものと同じような二枚の石の板を切り取れ。わたしはその石の板の上に、あなたが砕いたこの前の石の板にあった、あのことばを書き記す。朝までに準備をし、朝シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。 と記されています。 ここに出てくる「あなたが砕いたこの前の石の板」は、32章15節ー16節に、 モーセは向きを変え、山から下りた。彼の手には二枚のさとしの板があった。板は両面に、すなわち表と裏に書かれていた。その板は神の作であった。その筆跡は神の筆跡で、その板に刻まれていた。 と記されているように、神ご自身がお作りになり、十戒の戒めを書き記された「石の板」のことです。32章19節に記されているように、モーセはその「石の板」をシナイ山の麓において砕いてしまいました。これは、モーセが怒りのあまり、思わずなしてしまったことではありません。このことは、契約文書を破棄することは契約を破棄することであるという、その当時の発想を踏まえて理解する必要があります。それで、これは、イスラエルの民が「主」の契約を破り、その契約が破棄されてしまったということを示しています。 神のみことばである聖書が一貫して示していることは、「主」がご自身の民の間にご臨在してくださるのは、「主」の契約によっています。それで、「主」の契約が破棄されたということは、「主」がイスラエルの民の間にご臨在してくださるための法的な基盤がなくなってしまったということを意味しています。 それで、この34章1節に記されていることは、「主」がその主権的で一方的な恵みによって、再び、イスラエルの民に契約を与えてくださるということを意味しています。それは、また、「主」がイスラエルの民の間にご臨在してくださるようになることを意味しています。そして、繰り返しになりますが、その「主」の御臨在の栄光は、出エジプトの贖いの御業や、その後のシナイ山の麓まで導いてくださったこと、そして、ご自身の民として契約を結んでくださったことにおいて現された恵みより、さらに深く豊かな恵みに満ちている「主」の栄光です。 このことを受けて、4節には、 そこで、モーセは前のものと同じような二枚の石の板を切り取り、翌朝早く、主が命じられたとおりにシナイ山に登った。彼は手に二枚の石の板を持っていた。 と記されています。 そして、5節ー7節には、 主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名を宣言された。主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」 と記されています。 5節で、 主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名を宣言された。 と言われているときの「雲」は、「主」の御臨在に伴い、「主」の栄光の御臨在を表示する「雲」のことです。13章21節ー22節に、 主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。 と記されている「雲の柱」も「主」の栄光の御臨在が、常に、イスラエルの民とともにあって、彼らを導いていたことを意味しています。同じように、ここで、 主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って と言われていることは、「主」がモーセとともにあるように栄光のうちにご臨在してくださったことを意味しています。ただし、また繰り返しになりますが、この場合の「主」の御臨在の栄光は、出エジプトの贖いの御業や、その後のシナイ山の麓まで導いてくださったこと、そして、ご自身の民として契約を結んでくださったことにおいて現された恵みより、さらに深く豊かな恵みに満ちている栄光です。 ここでは、これに続いて、 主の名を宣言された。 と記されています。 この「主の名」は、基本的には、3章14節ー15節に記されていますが、「主」がモーセをエジプトの王ファラオの許に遣わされるに当たってお示しになった、 わたしは「わたしはある」という者である。 という御名です。 3章14節ー15節では、この、 わたしは「わたしはある」という者である。 という御名が「わたしはある」に短縮され、さらに、これが三人称化されて「ヤハウェ」(新改訳では太字の「主」)として示されたと考えられます。そして、ここ34章5節で、 主の名を宣言された。 と言われていることは、この時には、出エジプトの贖いの御業や、その後のシナイ山の麓まで導いてくださったこと、そして、ご自身の民として契約を結んでくださったことにおいて現された恵みより、さらに深く豊かな恵みに満ちている「主」の栄光がモーセに示されようとしているということを踏まえて理解する必要があります。ですから、これは、すでにモーセに示されていた、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という契約の神である「主」ヤハウェの御名のさらに豊かな意味が啓示されたことを示しています。 すでにお話ししたように、この時、モーセは「主」の栄光のご臨在の現れである「主」の栄光の顕現(セオファニー)を直接的に見ることはできませんでした。けれども、モーセは「主」がご臨在の御許から語られた御声を聞きました。それは、6節ー7節に記されているように、 主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。 というものでした。 これをどのように理解するかについては見方が分かれています。ヘブル語の順序では、最初に契約の神である「主」「ヤハウェ」という御名が2回繰り返されています。続いて、「神」を意味する「エール」が続いており、それに「神」エールを説明することばが続いています。 新改訳は「主、主は」というように、2番目の「ヤハウェ」をそれ以下の部分の主語であると理解しています。これも可能ですが、ここでは、最初に「ヤハウェ」という御名が繰り返し宣言されていて、「神」エール以下が同格の形で「ヤハウェ」を説明していると理解したほうがいいのではないかと思われます。その場合には、 ヤハウェ、ヤハウェ、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す方。しかし、この方は罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる。 というようになります。 このように理解した場合の2回繰り返されている「ヤハウェ」という御名の宣言は、強調のためです。この時、「雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立たれた」「ヤハウェ」の栄光の顕現は通り過ぎてしまい、モーセはそれを直接的に見ることはできませんでした。しかし、この「ヤハウェ、ヤハウェ」という御名の宣言によって、確かに、「ヤハウェ」という御名をもって呼ばれる方がそこにご臨在しておられるということが明確に示されています。 そして、これによって導入される、 あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す方。しかし、この方は罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる。 という、「主」ヤハウェの自己啓示のみことばによって、3章14節ー15節に記されている、モーセの召命の時の出来事をとおしてモーセに啓示されていた「ヤハウェ」という御名が、このようなイスラエルの民の背教が極まった時において、さらに豊かな恵みに満ちた栄光の「主」ヤハウェの御名として啓示されたことが示されています。 「主」はモーセを召してくださったとき、すでに、ご自身が、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名によって呼ばれる方として、「永遠に在る方」、何ものにも依存することなく「独立自存で在る方」、「永遠に変わることなく在る方」であられること、さらに、この世界のすべてのものを存在させ、それを真実に保っておられる方であることを、モーセにお示しになりました。そして、 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主 [注] [注]ヘブル語の順序では、「主」ヤハウェが先にあり、それを説明する「あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」が続いています。(日本語では、説明する部分が先にくるので、新改訳のようになります。) としてご自身を示されることによって、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という「主」の御名は、ご自身が一人超然としておられることをお示しになったものではなく、ご自身の契約に対して真実であられて、歴史の移り変わりの中で、この世界の状況がどのように変わってしまうとしても、契約をとおして約束されたことを必ず成し遂げてくださる方であるということを示してくださるものでした。―― このことは、今、「主」のみことばが示している終わりの日の様相を色濃くしている時代に生きている私たち「主」の民にとっても、とても大切なことです。 このように、「主」は、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名の方であられるので、イスラエルの民がエジプトというその当時の最も強大な帝国の奴隷となっていたとしても、父祖アブラハム、イサク、ヤコブにお与えになった契約に基づいて、奴隷の身分から贖い出してくださったのでした。 しかし、そのようにエジプトの奴隷の身分から贖い出されて、「主」ヤハウェとの契約のうちに入れていただいたイスラエルの民が、こともあろうに、「主」のご臨在されるシナイ山の麓で金の子牛を作り、それを「主」ヤハウェであるとして礼拝したのです。それによって「主」との契約は破棄されてしまいました。 それでも、モーセは、「主」が、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名の方であられるので、アブラハム、イサク、ヤコブへの契約に基づいてイスラエルの民を赦してくださるようにとりなしました(32章13節)。そして、「主」はイスラエルの民へのさばきを留めてくださいました。さらに、「主」がイスラエルの民とともにあって約束の地に上ってくださらないと言われたときにも、「主」が、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名の方であられることに基づいて、アブラハム、イサク、ヤコブに対する契約によって約束してくださった約束の地にまで、イスラエルの民を導き上ってくださるようにという願いをもって、とりなしました(参照・33章15節ー16節)。「主」はそのとりなしをも受け入れたくださいました。そして、このことを実現してくださるために、これまで啓示されていた以上に深く豊かな恵みに満ちた「主」の栄光のご臨在を啓示してくださったのです。それが、 ヤハウェ、ヤハウェ、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す方。しかし、この方は罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる。 という、ヤハウェの御名の意味のさらなる啓示であったのです。 このように見てみますと、このすべての根底に、「主」ご自身が、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名の方であられることがあることが分かります。そして、イスラエルの民の罪が極まってしまって、イスラエルの民が「うなじを固くする民」であることがこの上なくはっきりとしたときに、「主」が、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名の方であられることのより豊かな意味が明らかにされるようになったことが分かります。 この、 ヤハウェ、ヤハウェ、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す方。しかし、この方は罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる。 というヤハウェの御名の意味については、日を改めてお話ししますが、一つのことに触れておきます。 この御名の啓示は、この時、金の子牛を作って、これを契約の神である「主」、ヤハウェとして拝んだ、イスラエルの民が破ってしまった十戒の第二戒の、 あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。 という戒めを背景として、それと対比する形で示されています―― どちらにも「父の咎を子に・・・三代、四代に」ということと「恵みを千代まで」ということが出てきますが、「恵みを千代まで」ということについては、対比があります。 このことも、イスラエルの民の罪が極まったときに、「主」のさらに豊かな恵みに満ちた栄光が啓示されたということを伝えています。 |
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