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説教日:2023年11月12日 |
前回詳しくお話ししたように、モーセが、その、さらに深く豊かな恵みに満ちている「主」の栄光の御臨在の御前に立つことはできなかったのは、モーセの人としての資質に問題があったからではありません。モーセはその人となりにおいて、民数記12章3節に記されているように「地の上のだれにもまさって柔和」でした。 またモーセは、その働きにおいては、「主」が古い契約の下でご自身の民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださる御業を遂行されたときにお用いになった「主」のしもべでした。 さらに、モーセは、「主」がご臨在されるシナイ山に登って行って、直接的に「主」の御臨在の御前に立って、その御声を聞き、イスラエルの王制、祭司制、預言者の働きの法的な基盤となる、一般に「モーセ律法」と呼ばれる、十戒を中核とする「主」の律法を与えられました。その意味で、モーセは古い契約の下でのイスラエルの王、祭司、預言者の職務を兼ね備えた仲保者でした。 まず、このことに関連していくつかのことをお話しします。 歴代誌第二・26章4節ー5節に記されていますが、ウジヤ王は「主」を求め、「主」の目にかなうことを行いました。それで、「主」はウジヤを栄えさせてくださいました。しかし、16節ー21節に記されていますが、 彼が強くなると、その心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は自分の神、主の信頼を裏切った。香の壇の上で香をたこうとして主の神殿に入ったのである。 と記されています。 モーセ律法によると、そこに居合わせた祭司たちがウジヤに言ったように、「主に香をたくのは・・・聖別された祭司たち、アロンの子らのすることです」(18節)。ですから、たとえ王であったとしても、「主」の聖所に入ることはできません。そのために、「主」はツァラアトによってウジヤを打たれました。21節には、 ウジヤ王は死ぬ日までツァラアトに冒され、ツァラアトに冒された者として隔離された家に住んだ。彼が主の宮から断たれたからである。 と記されています。 しかし、モーセは人の手で造った聖所どころか、「主」が御臨在されるシナイ山に登って行って、「主」の御臨在の御前に立ち、「主」の御声を聞いています。このことから、モーセはイスラエルの王や祭司を越える存在であることが分かります。 さらに、預言者とのかかわりですが、申命記の最後の部分である34章10節ー12節には、 モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼は、主が顔と顔を合わせて選び出したのであった。それは、主が彼をエジプトの地に遣わして、ファラオとそのすべての家臣たち、およびその全土に対して、あらゆるしるしと不思議を行わせるためであり、また、モーセが全イスラエルの目の前で、あらゆる力強い権威と、あらゆる恐るべき威力をふるうためであった。 と記されています。 10節前半で、 モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。 と言われていることは、モーセをエリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなど、すべての預言者たちと比較した上で、モーセが彼らより偉大な預言者であったという意味ではありません。 10節後半には、 彼は、主が顔と顔を合わせて選び出したのであった。 と記されています。確かに、預言者たちは「主」から遣わされており、「主」の御名によって語っています。しかし、彼らは「主が顔と顔を合わせて選び出した」預言者ではありません。 また、出エジプト記33章11節には、 主は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた。 と記されています。しかし、「主」は預言者たちにそのようには語られませんでした。民数記12章6節ー8節にも、「主」がミリアムとアロンに、 聞け、わたしのことばを。もし、あなたがたの間に預言者がいるなら、主であるわたしは、幻の中でその人にわたし自身を知らせ、夢の中でその人と語る。だがわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者。彼とは、わたしは口と口で語り、明らかに語って、謎では話さない。彼は主の姿を仰ぎ見ている。 と語られたことが記されています。 申命記34章では10節に続いて11節ー12節には、 それは、主が彼をエジプトの地に遣わして、ファラオとそのすべての家臣たち、およびその全土に対して、あらゆるしるしと不思議を行わせるためであり、また、モーセが全イスラエルの目の前で、あらゆる力強い権威と、あらゆる恐るべき威力をふるうためであった。 と記されています。これは、モーセは、「主」が出エジプトという、古い契約の下での贖いの御業を遂行されたときに用いられた「主」のしもべであることと、「主」がモーセに与えられた権威を示しています。その権威は、「主」がモーセをとおしてイスラエルの民をこの時まで導いてきてくださったことに発揮されていますが、その根底には、「主」がイスラエルの民と契約を結んでくださって律法を与えてくださり、イスラエルの国家としての法的な基盤を据えてくださったことがあります。 実際に、預言者たちは、基本的に、自分たちが遣わされた時代の王たちに「主」のみこころを語っていますが、その「主」のみこころの根底にあるのはモーセ律法です。その預言の働きにおいて、際立っているのは王たちの契約違反 ―― 王たちがモーセ律法に示されている「主」のみこころに背いていること ―― を糾弾することです。これを「契約のリーブ」と呼びます。「リーブ」は広く「論争」「言い争い」を表しますが、この場合は法的なことですので「法廷闘争」を意味しています。古い契約の下にあった預言者たちはモーセが据えた土台の上に立って活動しました。 このように、モーセはイスラエルの王制、祭司制、預言者制の法的な基礎を築いた存在として、イスラエルの王や祭司や預言者を越える存在であり、古い契約の下でのイスラエルの王、祭司、預言者の職務を兼ね備えた仲保者でした。 その意味で、モーセは新しい契約の仲保者であられる御子イエス・キリストと対比されつつ、御子イエス・キリストを指し示しています。ヘブル人への手紙3章2節ー6節に、 モーセが神の家全体の中で忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実でした。家よりも、家を建てる人が大いなる栄誉を持つのと同じように、イエスはモーセよりも大いなる栄光を受けるにふさわしいとされました。家はそれぞれだれかが建てるのですが、すべてのものを造られたのは神です。モーセは、後に語られることを証しするために、神の家全体の中でしもべとして忠実でした。しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。もし確信と、希望による誇りを持ち続けさえすれば、そうなのです。 と記されているとおりです。 しかし、そのモーセも、最初の人アダムにあって罪を犯して堕落し、生まれながらに罪の本性を自らのうちに宿している人でした。そのために、「主」の栄光の御臨在の御許に近づくためには、その罪が贖われ、罪の本性がきよめられなければなりません。 ところが、モーセは古い契約の下にありました。 古い契約の下にあっては、祭司たちが「地上的なひな型」としての人の手によって造られた聖所である幕屋で仕えていました。その幕屋は、ヘブル人への手紙8章5節に、 この祭司たちは、天にあるものの写しと影に仕えています。それは、モーセが幕屋を設営しようとしたときに、御告げを受けたとおりのものです。神は、「よく注意して、山であなたに示された型どおりに、すべてのものを作らなければならない」と言われました。 と記されているように、「天にあるものの写しと影」です。ですから、幕屋はその本体である「天にある」まことの聖所を指し示していた「地上的なひな型」です。 また、この幕屋において献げられていた、動物のいけにえも「地上的なひな型」であり、それを献げる人の罪を贖うことができませんし、その人の罪の本性をきよめることはできません。それは、その本体である、やがて「主」が備えてくださるまことのいけにえを指し示しつつ、約束しているものでした。そして、その本体は、まことの神でありつつ、私たちと同じ人としての性質を取って来てくださり、十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わってすべて受けてくださって、私たちの罪を完全に贖ってくださった御子イエス・キリストです。 この贖いの御業を成し遂げられた御子イエス・キリストは、「天にある」まことの聖所に入られました。ヘブル人への手紙9章24節に、 キリストは、本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして今、私たちのために神の御前に現れてくださいます。 と記されているとおりです。 さらに、前回お話ししたように、モーセがシナイ山に登って行って、そこにご臨在される「主」の栄光の御臨在の御前に立って、「主」の御声を聞くことができたのは、その「主」の栄光の御臨在が、実は、動物の血によって結ばれた古い契約の下での「地上的なひな型」であったからです。 しかし、そのモーセであっても、主」がイスラエルの民のためになされた出エジプトの贖いの御業や、その後にイスラエルの民をシナイ山の麓まで導いてくださって、ご自身の民として契約を与えてくださったことに現された恵みよりさらに深く豊かな恵みに満ちている「主」の栄光の御臨在の御前に立つことはできませんでした。それは、その、さらに深く豊かな恵みに満ちている「主」の栄光の御臨在が、古い契約の下での「地上的なひな型」であった「主」の栄光の御臨在が指し示していた「本体」としての「主」の栄光の御臨在であるからです。 これに対して、御子イエス・キリストの血によって結ばれた新しい契約の下にある私たちは、あのモーセであっても近づくことができなかった、「主」の栄光の御臨在の御前に近づくことができます。 このことと関連して、もう一つのことをお話しします。ヘブル人への手紙10章12節ー14節には、 キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。 と記されています。 12節前半で、 キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた と言われていることは、御子イエス・キリストの祭司としてのお働きについて述べています。そして、これに続く12節後半ー13節に、 永遠に神の右の座に着き、あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。 と記されていることは、メシア詩篇(メシアのことを預言的に示している詩篇)である詩篇110篇1節に、 主は 私の主に言われた。 「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。 わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」 と預言的に記されていることがイエス・キリストにおいて成就していることを示しています。 ここに一つの問題があります。 すでにいろいろな機会にお話ししてきましたが、この詩篇110篇1節に、 主は 私の主に言われた。 「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。 わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」 と記されていることは、「主」がダビデに与えてくださった契約(ダビデ契約)において「主」がダビデの子の王座を永遠に堅く立ててくださると約束してくださっていることに触れています。そのダビデ契約の約束は、サムエル記第二・7章12節ー13節には、 あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。 と記されています。ここに出てくるダビデの子は、王としてその「王国の王座」に着座されてその王国を治めます。 この詩篇110篇1節に記されていることは、そのダビデの子が着座される永遠の王座は、地上にあるのではなく、神の右の座であるということを示しています。そして、新約聖書はこのことが、私たちご自身の民のために十字架におかかりになって罪を贖ってくださってくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえられた御子イエス・キリストが父なる神さまの右の座に着座されたことによって成就していることを示しています(使徒の働き2章29節ー35節、エペソ人への手紙1章20節ー21節、参照・マタイの福音書22章41節ー45節)。 ところが、ヘブル人への手紙10章12節ー13節に、 キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。 と記されていることは、祭司としての御子イエス・キリストが「永遠に神の右の座に着き、あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられ」るということです。 これはおかしなことではありません。詩篇110篇では、そのダビデ契約に約束されている永遠の王座に着座される王としてのメシアは、また、永遠の祭司でもあることが示されているからです。4節に、 主は誓われた。思い直されることはない。 「あなたは メルキゼデクの例に倣い とこしえに祭司である。」 と記されているとおりです。 ヘブル人への手紙はこの4節に記されていることを引用しています。5章6節ー10節に、 別の箇所でも、 「あなたは、メルキゼデクの例に倣い、 とこしえに祭司である」 と言っておられるとおりです。キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、メルキゼデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれました。 と記されているとおりです。 そうであっても疑問は残ります。それは、10章12節ー13節には、祭司としてのメシアが「敵がご自分の足台とされるのを待っておられ」ると言われているからです。それは王としてのメシアに約束されていることではないだろうかという疑問です。 しかし、ヘブル人への手紙2章14節ー15節には、 そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。 と記されています。 ここでは、御子イエス・キリストは、私たちご自身の民と同じように「血と肉を」お持ちになり、「死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放」してくださったことが示されています。これは「ご自分の死によって滅ぼし」と言われていることから分かりますが、メシアとしての御子イエス・キリストの祭司的なお働きにかかわっています。そのことは、また、このことを受けて、17節ー18節に、 したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。 と記されていることからも分かります。 しかし、このメシアの祭司としてのお働きは、王としてのお働きと完全に調和しています。 マルコの福音書10章43節後半ー45節には、 あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。 というイエス・キリストの教えが記されています。これは、その前の42節ー43節前半に、 あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。 と記されているように、この世の王たちや権力者たちが人々の上に立って支配し、権力を振るうこととの対比で語られた教えです。ヨハネの福音書18章36節には、イエス・キリストがローマの総督ピラトに語られた、 わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。 という教えが記されています。この世の国においてはしもべたちが王のためにいのちを捨てます。しかし、メシアの国においては王であるメシアがしもべたちのためにいのちをお捨てになったのです。そして、そのことにおいてこそ、メシアの国の栄光は最も豊かに現されています(ヨハネの福音書12章23節ー24節、27節ー33節)。事実、黙示録5章においては、天における礼拝のことが記されています。その礼拝においては、13節に、 屠られた子羊は、 力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を 受けるにふさわしい方です。 と記されているように、栄光のキリストは「屠られた子羊」として讃えられています。 この王としてのメシアは、今も、「あわれみ深い、忠実な大祭司」として、私たちのために、とりなしてくださっています。ローマ人への手紙8章34節にも、 だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。 と記されています。 ヘブル人への手紙10章19節ー22節には、 こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。 と記されています。ここで、 私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。 と言われているときの「聖所」は、先ほど引用した9章24節に記されている、私たちの大祭司であるイエス・キリストが入られた「天そのもの」、すなわち、「天にある」まことの聖所です。 今、私たちは地上にあって、神である「主」を礼拝していますが、私たちは御霊によって栄光のキリストと一つに結ばれています。それで、私たちは栄光のキリストを大祭司として戴く祭司として、私たちの大祭司が主宰してくださっている、「天にある」まことの聖所における礼拝にあずかっているのです。 |
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