黙示録講解

(第523回)


説教日:2023年10月15日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(276)


 本主日も、引き続き、黙示録2章28節後半に記されている、

 勝利を得る者には、わたしは明けの明星を与える。

という、イエス・キリストの約束のみことばと関連することとして、神である「」に対する「」の契約の民の不信仰がもたらした絶望的な状態にあって、なお、「」の主権的で一方的な恵みが示されたことについてのお話を続けます。
 今は、出エジプト記32章ー34章に記されている、イスラエルの民が、「」がご臨在されるシナイ山の麓において、金の子牛を造ってこれを「」として礼拝した時のことについてお話ししています。
 改めて、これまでお話ししたことを振り返っておきます。
 イスラエルの民はエジプトの地において、自分たちを奴隷の状態から贖い出してくださった「」の御業を目の当たりにしていました。さらに、「」はご自身の御臨在の現れである雲の柱によってイスラエルの民を導いてくださっていました。
 しかし、イスラエルの民は、紅海において、シュルの荒野において、シンの荒野において、レフィディムにおいて困難な状況に直面した時、自分たちとともにいてくださる「」を信頼して待ち望むのではなく、「」に対する不信を募らせました。そして、モーセに、あるいはモーセとアロンに、不平を言いました。それでも、「」は、その都度、イスラエルの民を守り、必要を満たしてくださいました。
 さらに、「」はイスラエルの民をご自身が御臨在されるシナイ山にまで導いてくださり、そこで、御声をもってイスラエルの民に語られて十戒の十の戒めを与えてくださり、イスラエルの民と契約を結んでくださいました。そして、モーセにシナイ山にご臨在されるご自身の御許に上って来るようにお命じになり、そこで、イスラエルの民が「「」とともに歩むために必要な戒め を与えてくださいました。その上で、その契約文書として、「」ご自身が十戒を書き記した2枚の石の板を与えてくださいました。
 そのモーセの帰りが遅いと思ったイスラエルの民は、「」がご臨在されるシナイ山の麓において、金の子牛を造って、これを自分たちを「エジプトの地から導き上った」神、「」ヤハウェであるとして礼拝したのです。
 それで「」は、モーセにこの民を絶ち滅ぼし、モーセから新しい民を興されると告げられました。確かに、イスラエルの民は絶ち滅ぼされるべき罪を犯したのです。しかし、モーセが二度にわたってイスラエルの民のためにとりなした時、「」はそれをを受け入れてくださり、この民を絶ち滅ぼすことはしないと約束してくださいました。
 これらのことを受けて、「」はモーセに、モーセとイスラエルの民が約束の地に行くように命じられました。しかし、「」は、

しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。

と言われました。
 これに対して、モーセはさらに二度にわたってイスラエルの民のために「」にとりなして祈っています。この時も、「」はモーセのとりなしを受け入れてくださって、「」ご自身がイスラエルの民とともに約束の地まで行ってくださるということを約束してくださいました。これを受けて、モーセは「」に、

 どうか、あなたの栄光を私に見せてください。

と願いました。
 このときモーセが「」に「見せてください」と願った「」の栄光は、モーセが「」の御臨在されるシナイ山において接した「」の栄光とは違う栄光です。「うなじを固くする民」であるイスラエルの民は、約束の地に上っていく途中において、何かあれば、「」への不信を募らせることになるでしょう。モーセがシナイ山において接した「」の栄光は、そのようなイスラエルの民の罪を罰して、御前から絶ち滅ぼしてしまうことによって、「」が聖なる方であられることを示す栄光でした。
 しかし、この時モーセが、

 どうか、あなたの栄光を私に見せてください。

と「」に願った「」の栄光は、そのような「うなじを固くする民」であるイスラエルの民を絶ち滅ぼすことなく、なおも、ともに約束の地まで行ってくださる栄光です。それは、出エジプトの贖いの御業や、その後のシナイ山の麓まで導いてくださったこと、そして、ご自身の民として契約を結んでくださったことにおいて現された恵みより、さらに深く豊かな恵みに満ちている「」の栄光です。
 このことを受けて、33章20節ー23節には、

また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」または言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」

と記されています。
 ここで「」が言われる「わたしの顔」の「」(パーニーム)は、御臨在を意味しています。それで、ここで、「」が、モーセに、
 あなたはわたしの顔を見ることはできない。
と言われたことは、出エジプトの贖いの御業や、その後のシナイ山の麓まで導いてくださって、ご自身の民として契約を与えてくださったことに現された恵みよりさらに深く豊かな恵みに満ちている「」の栄光の御臨在の御前に、モーセが立つことはできないということを意味しています。


 これは、一般的に考えられる、モーセの人としての資質の問題によるのではありません。
 モーセは、「」が古い契約の下でご自身の民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださる御業を遂行されたときにお用いになった「」のしもべであり、古い契約の下でのイスラエルの王、祭司、預言者の職務を兼ね備えた仲保者でした。また、そのために、「」がご臨在されるシナイ山に登って行って、直接的に「」の御臨在の御前に立って、その御声を聞き、イスラエルの王制、祭司制、預言者の働きの法的な基盤となる、一般に「モーセ律法」と呼ばれる、十戒を中核とする「」の律法を与えられました。
 そのような働きばかりではありません。モーセ自身の人となりについては、民数記12章3節に、

 モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和であった。

と記されています。
 そのことは、これまで繰り返しお話ししてきたモーセのとりなしの祈りに典型的に現れています。
 そのとりなしの祈りは、「」への愛と、「」が愛して、自分を遣わしてくださっているイスラエルの民への愛から出ています。
 そのモーセのとりなしの祈りを振り返っておきますと、32章11節ー14節に記されている最初のとりなしの祈りでは、12節に、

どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。

と記されています。
 紅海においてファラオの軍隊が滅ぼされたエジプトは、その後、イスラエルの民を追撃することはありませんでした。しかし、当然、その諜報機関がイスラエルの民の動静を調べていたはずです。もしイスラエルの民がこの時に「」によって滅ぼされてしまったら、当然、エジプト人は自分たちの神についての考え方に従ってそれを解釈し理解します。それで、それはイスラエルの神である「」の力が足りなかったからであると考えるでしょう。イスラエルの民をエジプトから連れ出したのも、「山地」すなわちシナイ山の麓で「殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ」と考えるでしょう。そのようにして、「」が侮られるようになってしまいます。それは、モーセにとっては耐えがたいことでした。
 このように、モーセがまず最初に考えたことは、「」ご自身の栄光のことでした。もちろん、そのことの根底には「」への愛があります。この「」への愛は、この後に何回か繰り返されるモーセのとりなしの祈りの根底にあります。
 モーセは、ことあるごとに、「」への不信を募らせてきた「うなじを固くする民」であるイスラエルの民のために、また、その度に、モーセに向かって不平を投げつけ、レフィデムで渇いた時には、モーセを殺そうとした(17章4節)イスラエルの民のためにとりなし続けました。ことに、「」がご臨在されるシナイ山の麓で、金の子牛を造って、これを、自分たちをエジプトの地から連れ上った神、「」(ヤハウェ)であるとして拝むに至ったときには、32章32節に記されているように、

今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら ―― 。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。

と、自分がイスラエルの民の代わりに滅ぼされるようにと、「」の栄光のために、また、イスラエルの民のために、とりなし祈りました。
 しかし、その人として極めて優れたモーセでさえも、出エジプトの贖いの御業において、また、その後も「うなじを固くする民」であり、ことあるごとに「」への不信を募らせたイスラエルの民を、なおも、シナイ山の麓まで導いてくださってご自身の民として契約を結んでくださったことにおいて現された恵みより、さらに深く豊かな恵みに満ちている「」の栄光の御臨在の御前には立つことができないというのです。
 これは、私たちからすると、とても不思議なこと、不可解なことです。
 先ほどお話ししたように、モーセは「」がご臨在されるシナイ山に登って行って、そこで「」の栄光の御臨在の御前に立って、直接的に、いわば、「」と顔と顔を合わせるようにして、「」が語られる御声を聞いています。しかも、その「」の栄光は、「うなじを固くする民」であり、ことあるごとに「」への不信を募らせるイスラエルの民の罪を罰して、御前から絶ち滅ぼしてしまうことによって、「」が聖なる方であられることを示す栄光でした。
 それは私たちにとってだけでなく、モーセにとっても、とても恐ろしい「」の栄光の御臨在です。ヘブル人への手紙12章18節ー21節には、モーセが、イスラエルの民とともに、最初に、シナイ山にご臨在される「」の栄光の御臨在に接したときのことが、一部省略しますが、

燃える火、黒雲、暗闇、嵐、ラッパの響き、ことばのとどろき・・・そのことばのとどろきを聞いた者たちは、それ以上一言も自分たちに語らないでくださいと懇願しました。彼らは、「たとえ獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」という命令に耐えることができませんでした。また、その光景があまりに恐ろしかったので、モーセは「私は怖くて震える」と言いました。

と記されています。ここで「ことばのとどろき」と言われているのは、「」がその御声をもって、直接的に、十戒の十の戒めを語られたことを指しています。
 しかし、「」はモーセに、そのようにとても恐ろしい「」の栄光の御臨在の御許に来るように命じられました。それで、モーセは「」に従って、シナイ山に登って行き、「」の栄光の御臨在の御前に立ちました。そして、「」と顔と顔を合わせるようにして、「」が語られる御声を聞きました。その意味で、モーセはそこで「」の御顔を見ることができたのです。それは、まさに、「」の深く豊かな恵みによることであり、深く豊かな恵みによる祝福でした。
 そうであれば、この「うなじを固くする民」であり、ことあるごとに「」への不信を募らせたイスラエルの民を、なおも、シナイ山の麓まで導いてくださって、ご自身の民として契約を結んでくださったことにおいて現された恵みより、さらに深く豊かな恵みに満ちている「」の栄光の御臨在の御前には、もっと近く近づいて、もっと親しく顔と顔とを合わせるようにして向き合って、御顔を見ることができるようになるのではないかと、と思いたくなります。それこそが、さらに深く豊かな恵みがもたらしてくれる祝福なのではないかと思いたくなります。それなのに、そのモーセであっても、さらに深く豊かな恵みに満ちている「」の栄光の御臨在の御前には、近づいて、顔と顔とを合わせるようにして向き合って、その御顔を見ることはできないというのです。これは、いったい、どうしてなのでしょうか。

 このことがどのようなことかについては、これに続いて、34章1節ー7節に記されていること、さらに、29節ー35節に記されていることに基づいて理解すべきことです。
 しかし、これには、そこには明確に記されていない、より基本的なことが二つあります。
 一つは、先ほどお話ししたように、モーセは人として、極めて優れた人でした。その才能はもとより、人となりも「地の上のだれにもまさって柔和」でした。「」を愛して、「」の栄光のために、そして、「」が愛して、そこに自分を遣わしてくださったイスラエルの民を、自分も愛して、そのためにとりなし続けた人です。しかし、そのモーセも、最初の人アダムにあって罪を犯して堕落し、生まれながらに罪の本性を自らのうちに宿している人であることには変わりがありません。そのために、たとえモーセであっても、「」の栄光の御臨在の御許に近づくためには、その罪が贖われ、罪の本性がきよめられなければなりません。
 もう一つのことは、このことと関連しています。それは、モーセが古い契約の下にあったということです。
 レビ記17章11節には、

実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。

と記されています。同じように、ヘブル人への手紙9章22節には、

律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。

と記されています。
 しかし、ヘブル人への手紙10章1節ー4節には、

律法には来たるべき良きものの影はあっても、その実物はありません。ですから律法は、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって神に近づく人々を、完全にすることができません。それができたのなら、礼拝する人たちは一度できよめられて、もはや罪を意識することがなくなるので、いけにえを献げることは終わったはずです。ところがむしろ、これらのいけにえによって罪が年ごとに思い出されるのです。雄牛と雄やぎの血は罪を除くことができないからです。

と記されています。
 モーセは古い契約の下にあって「地上的なひな型」としての人の手によって造られた聖所である幕屋で仕えていました。その幕屋については、出エジプト記25章8節ー9節に、

彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。幕屋と幕屋のすべての備品は、わたしがあなたに示す型と全く同じように造らなければならない。

と記されています。これは、その前の24章1節ー11節に記されていますが、「」がご臨在されるシナイ山の麓にいるイスラエルの民と契約を結んでくださった後、12節に、

はモーセに言われた。「山のわたしのところに上り、そこにとどまれ。わたしはあなたに石の板を授ける。それは、彼らを教えるために、わたしが書き記したおしえと命令である。」

と記されているように、モーセにシナイ山にご臨在される「」の御許に上って来るよう命じられたことを受けて、モーセがシナイ山に登って「」の御臨在の御前に立った時に、「」がモーセに命じられたことです。
 「」はこの「」の聖所としての幕屋にご臨在されて、イスラエルの民のただ中に住んでくださると約束してくださいました。
 そして、この幕屋で祭司として「」に仕えたのは、モーセの兄のアロンの子(子孫)でした。そして、その長子が大祭司となりました。
 この地上にある聖所としての幕屋で仕えた祭司については、ヘブル人への手紙8章5節に、

この祭司たちは、天にあるものの写しと影に仕えています。それは、モーセが幕屋を設営しようとしたときに、御告げを受けたとおりのものです。神は、「よく注意して、山であなたに示された型どおりに、すべてのものを作らなければならない」と言われました。

と記されています。
 ここで、「天にあるものの写しと影」と言われているときの「写しと影」を言い換えると、古い契約の下にある「地上的なひな型」です。これには、それが指し示している本体があります。それが、「天にあるもの」です。
 そして、この古い契約の下にある「地上的なひな型」としての幕屋においては、モーセ律法の規定に従って、動物のいけにえがささげられました。それは、その動物の血によって、きよめがなされるためです。そして、祭司たちはその血によるきよめをしてから、幕屋で仕えたのです。
 しかし、先ほど引用した10章4節には、

 雄牛と雄やぎの血は罪を除くことができない

と記されていました。また、10章11節には、

祭司がみな、毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえを繰り返し献げても、それらは決して罪を除き去ることができません

と記されています。動物のいけにえの血はそれを献げる人の罪を贖うことができませんし、人の内にある罪の本性をきよめることはできません。
 さらに、9章9節ー10節には、

この幕屋は今の時を示す比喩です。それにしたがって、ささげ物といけにえが献げられますが、それらは礼拝する人の良心を完全にすることができません。それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序が立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎません。

と記されています。10節で、

それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序が立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎません。

と言われていることを言い換えると、それらはやがて「」が与えてくださる、本体である、まことのいけにえを指し示している「写し」、「地上的なひな型」、私たちの日常のことばで言えば「視聴覚教材」であるということです。
 このように、古い契約の下で、人の手によって造られた聖所である幕屋において献げられていた動物のいけにえは、いわば、罪が贖われ、きよめられるためには血が流されなければならないということを教えるための視聴覚教材であるとともに、やがて「」がまことのいけにえを与えてくださるということを約束するものでした。

 モーセがシナイ山にご臨在される「」の栄光の御臨在の御許に近づくことができたのは、その「」の栄光の御臨在が、実は、古い契約の下での「地上的なひな型」であったからです。
 そのことは、先ほどは一部省略して引用した、ヘブル人への手紙12章18節ー21節に、

あなたがたが近づいているのは、手でさわれるもの、燃える火、黒雲、暗闇、嵐、ラッパの響き、ことばのとどろきではありません。そのことばのとどろきを聞いた者たちは、それ以上一言も自分たちに語らないでくださいと懇願しました。彼らは、「たとえ獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」という命令に耐えることができませんでした。また、その光景があまりに恐ろしかったので、モーセは「私は怖くて震える」と言いました。

と記されていること、特に、その描写の初めに「手でさわれるもの」と記されていることから分かります。それは、天にある本体ではなく、「地上的なひな型」でした。それで、モーセは、出エジプト記24章1節ー11節に記されている「」の契約が結ばれたときに、献げられたいけにえの動物の血によって儀式的にきよめられて(5節ー8節)、恐れつつも、シナイ山に登って来るようにとの、「」のみことばに従って、その「」の栄光の御臨在の御許に行くことができたのです。
 言うまでもなく、古い契約の下でのいけにえの動物の本体は、十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わってすべて受けてくださった御子イエス・キリストです。
 それで、9章23節ー26節には、

ですから、天にあるものの写しは、これらのものによってきよめられる必要がありますが、天上にある本体そのものは、それ以上にすぐれたいけにえによって、きよめられる必要があります。キリストは、本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして今、私たちのために神の御前に現れてくださいます。・・・今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。

と記されています。さらに、10章10節には、

イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています

と記されており、14節には、

 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成された

と記されています。
 御子イエス・キリストの血によって結ばれた新しい契約の下にある私たちは、あのモーセであっても近づくことができなかった、「うなじを固くする民」であり、ことあるごとに「」への不信を募らせたイスラエルの民を、なおも、シナイ山の麓まで導いてくださって、ご自身の民として契約を結んでくださったことにおいて現された恵みより、さらに深く豊かな恵みに満ちている「」の栄光の御臨在の御前に近づくことができるのです。


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