黙示録講解

(第522回)


説教日:2023年9月24日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(275)


 本主日も、黙示録2章28節後半に記されている、

 勝利を得る者には、わたしは明けの明星を与える。

という、イエス・キリストの約束のみことばと関連することとして、神である「」に対する「」の契約の民の不信仰がもたらした絶望的な状態にあって、なお、「」の主権的で一方的な恵みが示されたことについてのお話を続けます。
 今は、出エジプト記32章ー34章に記されている、イスラエルの民が、「」がご臨在されるシナイ山の麓において、金の子牛を造ってこれを「」として礼拝した時のことについてお話ししています。
 今日は、前回お話ししました教理的なことを補足することをお話ししたいと思います。
 まず、関連することを振り返っておきます。
 イスラエルの民はエジプトの地において、自分たちを奴隷の状態から贖い出してくださった「」の御業を目の当たりにしていました。そして、「」はご自身の御臨在の現れである雲の柱によってイスラエルの民を導いてくださっていました。しかし、イスラエルの民は、紅海において、シュルの荒野において、シンの荒野において、レフィディムにおいて「」に対する不信を募らせ、モーセに、あるいはモーセとアロンに、自分たちをエジプトから連れ出したのは、そこで自分たちを死なせるためなのかと、不平を言いました。イスラエルの民は、出エジプトの贖いの御業が「」の自分たちに対する悪意から出ていると言っているのです。それでも、「」は、その都度、モーセに命じて、イスラエルの民を守り、その必要を満たしてくださいました。
 さらに、「」はイスラエルの民をご自身が御臨在されるシナイ山にまで導いてくださり、そこで、イスラエルの民と契約を結んでくださいました。そして、モーセにシナイ山にご臨在されるご自身の御許に上って来るようにお命じになり、そこで、イスラエルの民が「」とともに歩むために必要な戒めを与えてくださいました。そして、最後に、「」ご自身が書き記した、契約文書としての意味をもっている十戒が記されている2枚の石の板を与えてくださいました。
 そのモーセの帰りが遅いと思ったイスラエルの民は、こともあろうに、「」がご臨在されるシナイ山の麓において、金の子牛を造ってこれを「」として礼拝したのです。イスラエルの民はそこで滅ぼされるべきものとなってしまいました。しかし「」は、2度にわたるモーセのとりなしを受け入れて、イスラエルの民を滅ぼすことはしないと約束してくださりました。けれども「」は、ご自身がイスラエルの民とともに約束の地に上って行くと、「うなじを固くする民」であるイスラエルの民をその途上において滅ぼすことになるから、イスラエルの民とともには上って行かないと言われました。
 それで、モーセがさらにイスラエルの民のためにとりなして、「」がともに上って行ってくださらないのであれば、自分たちを約束の地に上らせないでいただきたいと願いました。「」はそのモーセのとりなしをも受け入れてくださいました。
 そのことを受けて、モーセは

 どうか、あなたの栄光を私に見せてください。

と、「」に願い求めました。ここでモーセが「見せてください」と願った「」の栄光は、すでに「」がイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださり、この時に至るまで「うなじを固くする民」であるイスラエルの民を支え、導いてくださったことに現されている恵みに満ちている栄光ではなく、それよりさらに深く豊かな恵みに満ちている「」の栄光です。
 「」はその願いをも受け入れてくださいましたが、前回お話しした20節ー23節には、

また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」または言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」

と記されています。
 ここでは、モーセが「」の御顔を見ることができないということが三重に強調されています。
 ここで、

 あなたは・・・わたしの顔は決して見られない。

と言われているときの「顔を見る」ということは、一般的なこととしては、実際に、面と向かって(顔と顔とを合わせて)接することを意味しています。また、「」の「御顔」ということば(パーニーム)は、また、「」の「御臨在」をも意味しています。
 それで、ここでは、モーセであっても、先ほどのより深く豊かな恵みに満ちている「」の栄光の御臨在には直接的に接することができないことを意味しています。


 前回は、このことの根底にあること ―― いわば、そのことの奥のさらに奥にあること[注] についてお話ししました。

[注]「奥のさらに奥にあること」ということには意味があります。
 その「より深く豊かな恵みに満ちている『』の栄光の御臨在」は、古い契約の下にあるモーセにとっては、古い契約の「地上的なひな型」としての限界のために、直接的に接することができないものです。
 しかし、日を改めてお話ししますが、新しい契約の下にある私たちにとっては、その「より深く豊かな恵みに満ちている『』の栄光の御臨在」に直接的に接することは、すでに、原理的・実質的に、私たちの間で実現しています。また、それは終わりの日に私たちがよみがえって、栄光のキリストのかたちに似た者になるときには、完全な形で実現します。ヨハネの手紙第一・3章2節に、「愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。」と記されているとおりです。
 そのようになっても、私たちが神さまによって造られたものであることには変わりがありません。無限、永遠、不変の栄光の神さまと被造物である私たちの間には「絶対的な」区別があります。これが神さまの聖さの本質です。それで、新しい天と新しい地においても、私たちが神さまの無限、永遠、不変の栄光に直接的に接することはできません。私たちは栄光のキリストにあって、栄光のキリストにあってご臨在される父なる神さまの栄光の御臨在の御許に近づくことができます。

 テモテへの手紙第一・6章15節ー16節には、

キリストの現れを、定められた時にもたらしてくださる、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできない方。この方に誉れと永遠の支配がありますように。アーメン。

と記されています。
 ここでは、「キリストの現れを、定められた時にもたらしてくださる」方のことが記されています。この方は、父なる神さまです。そして、この父なる神さまのことが、

祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできない方

であると言われています。
 神さまはあらゆる点において無限、永遠、不変の方であり、無限、永遠、不変の栄光に満ちておられます。神さまはその存在において、また一つ一つの属性において、無限、永遠、不変であられます。さらに、神さまの存在と一つ一つの属性の輝きである栄光も無限、永遠、不変です。
 これに対して、神さまがお造りになったすべての被造物は、人格的な被造物である神のかたちとして造られている人も御使いたちも、あらゆる点において、有限であり、時間的(に経過するもの)であり、変化する(ことがありえる)[注]ものです。

[注]原子の1億分の1と言われている素粒子のレプトンやクォークを百分の1ミリの砂粒にたとえれば、人間は太陽系ほどの大きさになると言われています。そのレプトンやクォークは初めから変わっていないとされていますが、それは、造り主である神さまが御霊によってそれぞれの存在を支え、特質を活かしてくださっているからのことであって、仮に神さまが手を引かれることがあるとしたら、それらは存在することもできなくなります。念のために言いますと、そのような素粒子であっても無限、永遠、不変の神さまには小さ過ぎることはありませんし、一般に、今は470億光年の彼方に広がっていると考えられている宇宙であっても、大き過ぎることはありません。

 神さまはあらゆる点において、「無限、永遠、不変」の方であられることにおいて、どのような被造物とも「絶対的に」区別される方です。そして、神さまがどのような被造物とも「絶対的に」区別される方であられることが、神さまの聖さの本質です。
 私たちは「無限、永遠、不変」と言ってはいますが、私たちが考えている、また、私たちが考えることができる無限、永遠、不変と、神さまに当てはまる無限、永遠、不変の間には、やはり、「絶対的な」区別があります。
 私たちが考えることができる「無限」は「どこまでも広がっていること」であり、量的な無限です。また、私たちが考えることができる「永遠」は「いつまでも続いていること」であり、量的な永遠です。また、私たちが考えている「不変」は、時の経過の中で「ずっと変わらないこと」です。それは、神さまがお造りになったこの世界が空間的に広がっており、時間的に経過し、変化していく世界であり、私たちもそのようなものとして造られているからです。
 ですから、私たちが考えることができる無限、永遠、不変は、神さまに当てはまる無限、永遠、不変とは「絶対的に」区別されます。それで、私たちは神さまに当てはまる無限、永遠、不変を、ありのままに知ることはできません 。それはご自身のことを完全に知っておられる神さまだけが知っておられることです。私たちは神さまが啓示してくださっていることに基づいて、私たちなりに、神さまが無限な方であり、永遠なる方であり、不変の方であると理解しています。
 このように、あらゆる点において無限、永遠、不変の栄光の主であり、万物の造り主である神さまが、あらゆる点において限りのある被造物と「絶対的に」区別される方であるということが、神さまの聖さの本質です。さらに、私たちは、神さまがこの世界のすべてのものと「絶対的に」区別される方であると言ってはいますが、神さまの無限、永遠、不変をありのままに知ることができない私たちには、「『絶対的に』区別される」ということが、実際にどのようなことなのかも分かりません。

 神さまが聖なる方であり、ご自身が造られたあらゆるものと「絶対的に」区別される方であるということをわきまえておくことはとても大切なことです。それは、神さまが三位一体の神であられることを、私たちなりに理解することにも当てはまります。
 神のみことばである聖書は、神は唯一であられることと、御父と御子と御霊は、それぞれまことの神であられること、そして、御父と御子と御霊は区別されることを示しています。それで、私たちは、神は唯一であるということを、神の「実体」あるいは「本質」はただ一つであると告白し、御父と御子と御霊が、同じ神としての本質をもちつつ、位格(人格)的に区別される方であると告白しています。これが三位一体の教理としてまとめられているみことばの教えです。
 ここで問題となるのは、御父は神であり、御子は神であり、御霊は神であるのに、神は唯一であるということです。そのこと、すなわち、神さまが三位一体であることは、私たちには理解できない秘義であると言われています。それはそのとおりですが、まったくわけが分からないことではありません。どうして私たちには理解できないことなのかを説明することができます。
 「3」や「1」などの数は、私たちがものを数える時に用いているものです。私たちは空気や水のように「数えられないもの」を数えることができません。私たちが数えることができるのは、「この部屋の空気」とか「コップ1杯の水」というように、空気や水を何らかの形で区切ったときです。私たちが、具体的なものとして数えることができるのは、そのように空間的に広がっているとともに、「区切られたもの」です。ある本を1冊と数えることができるのは、その本が広がりをもっているとともに、区切られているからです。つまり、私たちが数えることができるものは、神さまがお造りになったこの世界の中にあって、空間的に広がりをもっていて ―― あるいは、御使いや悪霊たちのように霊としての広がりをもっていて ―― 、なおかつ、区切られるものです。しかし、無限、永遠、不変の神さまには、そのことが当てはまりません。あらゆる点で無限の神さまを区切ることはできません。ですから、そもそも、私たちの数の概念を無限、永遠、不変の方である神さまに当てはめることはできないのです。
 ところが、あらゆる点で有限である私たちは、存在においても思考においても有限です。その私たちが、たとえば、「人、犬、猫」を考えるとき、私たちの「頭の中で」、すなわち、私たちの「思考空間」の中で、「人」と「犬」と「猫」を並べて、「人」と「犬」と「猫」を区別して考えています。それと同じように、私たちが「御父、御子、御霊」を考えるときには、私たちの「思考空間」の中で、「御父」、「御子」、「御霊」を並べて考えて、「御父」は「御父」として、「御子」は「御子」として、「御霊」は「御霊」として区切って、区別しています。そこ、すなわち、私たちの「思考空間」の中では、御父、御子、御霊を三者として数えることができます。同時に、そこでは御父、御子、御霊がそれぞれ区切られて、相対化されてしまっています。けれども、私たちにはそのようにしてしか、「御父、御子、御霊」を考えることができません。
 このように、私たちは、私たちの数の概念が当てはまらない無限、永遠、不変の神さまを考えるとき、私たちの数の概念を当てはめて、すなわち、神さまを区切って(他のものと区別して)「神さまはお一人である」と言うという、いわば「無理なこと」をしています。同じように、私たちの数の概念が当てはまらない無限、永遠、不変の神である「御父」、「御子」、「御霊」のそれぞれを区切って、区別して、三者/三位であると理解するという「無理なこと」をしているのです。
 言うまでもないことですが、もし神がこの世界に住んでいて、この世界の一部をなしているのであれば、その「神」には限界がありますから、その「神」を他のものと並べて置いて、それぞれを区切って、他のものと区別することができます。また、その「神」には私たちの数概念が当てはまり、数えることができます。
 これらのことを踏まえると、無限、永遠、不変の神さまが三位一体の神であられることが、私たちの理解をはるかに越えたこと、その意味で、私たちには秘義であることが了解されます。
 もう50年近く前のことですが、思想史の中で、ある人が、私たちは神のことを考える(あるいは、口にする)ときに、無限の神を有限な自分の思想空間の中に取り込んでしまって、相対化してしまうから、神のことは考えては(あるいは、口にしては)ならないと言ったというようなことを聞いたことがあります。そのことを聞いたときには、「なるほど」と思ったものです。
 たしかに、哲学者にはそのようなことが言えるでしょう。しかし、この世界のすべてのものをお造りになり、私たちを神のかたちとしてお造りになった神さまは、私たちがそのような限界の中にあることをご存知です。それで、私たちがそのような限界の中でご自身のことを考えることをとがめるようなことは決してありません。いや、むしろ、みことばの光の下で、私たちなりにご自身のことを理解し、考えて、ご自身を親しく知り、ご自身との愛の交わりに生きることをお喜びくださっています。それで、そのために、みことばによって、私たちに合わせて、私たちに分かるように、ご自身を啓示してくださっています。

 また、前回は、神さまはあらゆる点において無限、永遠、不変の栄光の主であられ、この世界のすべてのものと「絶対的に区別される」方であるのであれば、神さまとこの世界の「接点」はないのではないかというような疑問についてお話ししました。
 もし、一位一体にして、無限、永遠、不変の栄光の神が創造の御業を遂行したなら、どうなるでしょうか。前回お話ししたように、一位一体にして、無限、永遠、不変の栄光の神が創造の御業を遂行したなら、それは、いわば、太陽の燃える火の中に、紙切れが造り出されたようなことです。ですから、もし神が一位一体にして、無限、永遠、不変の栄光の神であるなら、そもそも、この世界は存在することができません。
 しかし聖書は、創造の御業と贖いの御業の遂行に当たって、人間的な言い方(人間になぞらえた言い方)をしますと、三位一体の神さまの御父と御子と御霊の間に、「職務上の区別」があったことを示しています。
 具体的には、父なる神さまは無限、永遠、不変の栄光の神さまを代表しておられ、神さまの無限、永遠、不変の栄光を現しておられます。また、父なる神さまは創造の御業と贖いの御業のご計画をお立てになっておられます。
 御子は、その父なる神さまのみこころにしたがって創造の御業と贖いの御業を遂行されました。その際に、御子は、これも人間的な言い方(人になぞらえた言い方)ですが、その無限、永遠、不変の栄光を「お隠しになって」この世界とその中のすべてのものとかかわってくださっています。
 御霊は、御子が遂行された御業を、それにあずかっている一つ一つのものに当てはめてくださっています。創造の御業について言えば、御子が造り出されたそれぞれのものを、その特質を活かして、支え導いてくださっています。
 創造の御業において御子がそのような職務を遂行しておられることは、前回取り上げた、ヨハネの福音書1章3節に、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

と記されていることから汲み取ることができます。
ここで、

 すべてのものは、この方によって造られた。

と言われているときの、「によって」と訳されていることば(前置詞・ディア)は「実行者」、「遂行者」を示すことばです。それで、

 すべてのものは、この方によって造られた。

というのは、「ことば」すなわち御子が、実際に、天地創造の御業を遂行なさった方であることを示しています。
 私たちが「使徒信条」で「我は、天地の造り主、全能の父なる神を信ず。」と告白するときには、父なる神さまが天地の造り主であると告白しています。しかし、これは、御子が天地創造の御業を遂行なさった方であるという意味で、

 すべてのものは、この方によって造られた。

と言うのと、少し意味合いが違います。
 聖書においては、父なる神さまが天地の造り主であることを表すときには、御子が天地創造の御業を遂行なさったことを示すときに用いられる「ディア」ということばが用いられることはありません。父なる神さまが天地の造り主であることを表すときには「起源」を表す「エク」が用いられます。また、天地創造の御業とのかかわりにおいて、このエク」が御子のお働きについて用いられることはありません。それで、私たちは、すべてのものの「起源」は父なる神さまであるという意味で、「我は、天地の造り主、全能の父なる神を信ず。」と告白しています。そして、実際に、天地創造の御業を遂行なさって、すべてのものをお造りになったのは、御子イエス・キリストであると告白しているのです。具体的には、御子イエス・キリストが父なる神さまのみこころ、あるいは、ご計画にしたがって天地創造の御業を遂行され、すべてのものをお造りになったということになります。
 完全なたとえではありませんが、Aさんが家を建てたとします。その場合、Aさんは、その家を建てようと計画したのです。しかし、実際に家を建てたのは大工さんです。この家の建築はAさん「から」出ています。その意味で、Aさんは、この家の「建築主」です。これが、父なる神さまが「天地の造り主」であるということに当たります。そして、その家は大工さん「によって」建てられました。これが、

 すべてのものは、この方によって造られた。

ということに当たります。

 繰り返しになりますが、あらゆる点において無限に豊かであって、無限の栄光のうちにおられ、愛においても永遠に充足しておられる神さまは、ご自身の豊かさをもって、天地創造の御業を遂行されました。その際に、御父と御子と御霊の間に、「職務の分担」がなされました。
 父なる神さまは、あらゆる点において無限に豊かである神さまの、無限の栄光と聖さを代表し、表現しておられます。言い換えますと、父なる神さまは、神さまによって造られたこの世界と「絶対的に」区別される神さまを代表しておられます。それで、父なる神さまが天地創造の御業の(永遠の)ご計画をお立てになっておられます。
 御子は、父なる神さまのみこころにしたがって、創造の御業を遂行される方としての「職務」を担っておられます。
 そして、御霊は、御子が遂行してくださった御業を、この世界の一つ一つのものに対して当てはめてくださり、それぞれの本質と特質を生かしてくださる方としての「職務」を担っておられます。
 この「職務の分担」は、天地創造の御業においてばかりでなく、私たちの罪のための贖いの御業においても見られるものです。父なる神さまが私たちの贖いのためのご計画を立ててくださり、御子が、今から2千年前に人の性質を取って来てくださって、十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださって、私たちのための贖いの御業を遂行してくださいました。そして、御霊は、御子が成し遂げられた贖いを私たちに当てはめて、私たちの現実としてくださっています。
 とはいえ、それぞれの職務を遂行されるに当たっても、御父、御子、御霊は常に一体であられます。
 先ほどお話ししたように、神のみことばである聖書は、神さまは唯一であられることと、御父と御子と御霊はまことの神であられること、そして、御父と御子と御霊は区別されることを示しています。それで、私たちは、神さまは唯一であるということを、神さまの「実体」あるいは「本質」はただ一つであると告白し、御父と御子と御霊が、同じ神としての本質をもちつつ、位格(人格)的に区別される方であると告白しています。これが三位一体の教理としてまとめられているみことばの教えです。
 この意味での三位一体は神さまご自身のあり方、すなわち、神さまの存在に関わる三位一体です。これを「本体論的三位一体」 あるいは「本質論的三位一体」/「本質的三位一体」(そのほか、「存在的三位一体」、「内在的三位一体」)と呼びます。
 そして、創造の御業と贖いの御業における職務の違いに関わる三位一体を「経綸論的三位一体」/経綸的三位一体」と呼びます。
 この三位一体論における、「本体論的三位一体」と「経綸論的三位一体」との区別と関係を理解することはとても大切なことです。というのは、この「経綸論的三位一体」の、創造の御業と贖いの御業における職務の違いにおいては、御父、御子、御霊のお働きの間にはある種の従属関係があるからです。そして、そのために、教会の歴史においては、初代教会から、御子は神ではないという主張がされてきたからです。
 その職務の違いは、具体的には、御父がご計画された御業を御子が遂行され、御子が遂行された御業を御霊が、その御業にあずかるものたちに適用されるということです。
 これは、家族の三人が事業をしていることにたとえられます。父が社長をし、長男が製品を製造をして、次男ができ上がった製品を配送をするとします。この場合、社長である父が代表者として事業計画を立て、長男がそれに従って製品を製造し、次男ができ上がった製品を顧客に配送するということになります。ここには、職務の上での従属関係があります。父が事業計画を立てることが最初にあって、長男はそれに「従って」製品を造ります。そして、長男が製品を造って初めて、次男は配送することができます。けれども、長男と次男は、父に従っているから、人間ではない、と言うことはできません。この職務の上での従属関係にもかかわらず、三人は同じ人間です。
 これと同じように、創造の御業と贖いの御業において、御子が御父のみこころに従って御業を遂行されたからといって、御子は神ではないと言うことはできません。また、御霊は御子が成し遂げられた創造の御業と贖いの御業を、それにあずかるものに当てはめておられるからといって、御霊は神ではないと言うこともできません。


【メッセージ】のリストに戻る

「黙示録講解」
(第521回)へ戻る

「黙示録講解」
(第523回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church