黙示録講解

(第521回)


説教日:2023年8月13日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(274)


 本主日も、黙示録2章28節後半に記されている、

 勝利を得る者には、わたしは明けの明星を与える。

という、イエス・キリストの約束のみことばと関連することとして、神である「」に対する「」の契約の民の不信仰がもたらした絶望的な状態にあって、なお、「」の主権的で一方的な恵みが示されたことについてのお話を続けます。
 いくつかのことをお話ししてきて、今は、出エジプト記32章ー34章に記されている、イスラエルの民が、「」がご臨在されるシナイ山の麓において、金の子牛を造ってこれを「」として礼拝した時のことについてお話ししています。
 イスラエルの民はエジプトの地において、モーセとアロンをとおしてエジプトを十のさばきをもっておさばきになり、自分たちを奴隷の状態から贖い出してくださった「」の御業を目の当たりにしていました。さらに、「」はご自身の御臨在の現れである雲の柱によってイスラエルの民を導いてくださっていました。
 しかし、具体的なことはすでにお話ししているので省きますが、イスラエルの民は、紅海において、シュルの荒野において、シンの荒野において、レフィディムにおいて「」に対する不信を募らせ、モーセに、あるいはモーセとアロンに、自分たちをエジプトから連れ出したのは、そこで自分たちを死なせるためなのかと、不平を言いました。イスラエルの民は、出エジプトの贖いの御業が「」の自分たちに対する悪意から出ていると言っているのです。それでも、「」は、その都度、モーセに命じて、イスラエルの民を守り、その必要を満たしてくださいました。
 そして、「」はイスラエルの民をご自身が御臨在されるシナイ山にまで導いてくださり、そこで、御声をもってイスラエルの民に、御声をもって語られて十戒の戒めを与えてくださり、イスラエルの民と契約を結んでくださいました。さらに「」は、モーセにシナイ山にご臨在されるご自身の御許に上って来るようにお命じになり、そこで、イスラエルの民が「「」とともに歩むために必要な戒め、おもに「」がご臨在してくださるための聖所とその用具にかかわる戒めとそこで仕える祭司にかかわる戒め、最後には、安息日にかかわる戒めを与えてくださいました。そして、「」ご自身が書き記した2枚の十戒の石の板を与えてくださいました。
 そのモーセの帰りが遅いと思ったイスラエルの民は、こともあろうに、「」がご臨在されるシナイ山の麓において、金の子牛を造ってこれを「」として礼拝したのです。
 「」はモーセにこの民を滅ぼし、モーセから新しい民を興されると告げられましたが、モーセの2度にわたるとりなしを受け入れてくださり、この民を滅ぼすことはしないと約束してくださいました。
 これらのことを受けて、33章1節ー3節に記されているように、「」はモーセに、モーセとイスラエルの民が約束の地に行くように命じられました。しかし、イスラエルの民がことあるごとに「」への不信を募らせてきた「うなじを固くする民」であることには変わりがありません。それで、「」は、

しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。

と言われました。
 これに対して、13節ー17節に記されているように、モーセはさらに「」にイスラエルの民のためにとりなして祈っています。「」は、モーセのとりなしを受け入れてくださって、「」ご自身がイスラエルの民とともに約束の地まで行ってくださるということを約束してくださいました。
 これを受けて、続く18節には、

 モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」

と記されています。
 モーセは「」がご臨在されるシナイ山に上って行って、そこで「四十日四十夜」「」の栄光の御臨在に接していますし、その間に、さまざまな戒めを直接的に語ってくださった「」の御声を聞いています。それなのに、モーセはここで、

 どうか、あなたの栄光を私に見せてください。

と願っています。
 このときモーセが「」に「見せてください」と願った「」の栄光は、モーセがシナイ山において接した「」の栄光とは違う栄光です。
 繰り返しになりますが「うなじを固くする民」であるイスラエルの民は、約束の地に上っていく途中において、何かあれば、「」への不信を募らせることになるでしょう。モーセがシナイ山において接した「」の栄光は、そのようなイスラエルの民の罪を罰して、御前から絶ち滅ぼしてしまうことによって、「」が聖なる方であられることを示す栄光でした。モーセが、

 どうか、あなたの栄光を私に見せてください。

と「」に願ったのは、そのような「うなじを固くする民」であるイスラエルの民を絶ち滅ぼすことなく、なおも、ともに約束の地まで行ってくださる「」の栄光です。
 これまで「」は、エジプトの奴隷であったイスラエルの民を、その奴隷の身分から贖い出してくださった御業を通して、ご自身の恵みに満ちた栄光を現されました。それは、それとして十分な恵みに満ちた栄光の現れでした。けれども、その「」の栄光の御臨在は「うなじを固くする民」であり、ついには、「」の栄光を汚してしまうに至ったイスラエルの民の罪をさばき、その御前から絶ち滅ぼしてしまうに至るものでした。そのようなイスラエルの民とともにあって、なおも、イスラエルの民を約束の地に至るまで導いてくださる「」の栄光の御臨在は、さらに深く豊かな恵みに満ちている栄光の御臨在であるはずです。モーセはそのような「」の栄光の御臨在、より深く豊かな恵みに満ちている栄光を見せていただきたいと「」に願ったのです。


 このようなことを踏まえて、前回は、33章19節ー23節に記されている「」のみことばについてのお話を始めました。
 前回は、19節に記されている、

主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」

という「」のみことばについてお話ししました。
 今日、注目したいのは、これに続いて20節ー23節に、

また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」または言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」

と記されている「」のみことばです。
 ここでは、モーセが「」の御顔を見ることができないということが20節と23節で繰り返されて強調されています。また、23節の最後では「わたしの顔は」が最初に出てきて強調されています。それで、

 わたしの顔は決して見られない。

と訳されています。それで、ここには、モーセが「」の御顔を見ることができないということが三重に強調されていることになります。
 まず、20節と23節に記されている、

 あなたはわたしの顔を見ることはできない。

という「」のみことばに出てくる、ことばについて二つのことに触れておきます。
 一つは、1般的なこととして、誰々の「顔を見ることはない」ということは、旧約聖書のいくつかの用例(創世記43章3節、5節、44章23節、出エジプト記10章28節ー29節、サムエル記第二・14章24節など)から汲み取ることができますが、その人と実際に、面と向かって(顔と顔とを合わせて)接することはないことを意味しています。
 もう一つは、「」の「御顔」ということば(パーニーム)は、また、「」の「御臨在」をも意味しているということです。
 民数記6章25節ー26節に、

 が御顔をあなたに照らし、
 あなたを恵まれますように。
 が御顔をあなたに向け、
 あなたに平安を与えられますように。

と記されている祭司による祝福に「」の「御顔」出てきますが、そこに、「」の御臨在があることが踏まえられています。
 それで、23節に記されている、

 あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。

という「」のみことばは、モーセが「」の栄光の御臨在(セオファニー)にどのように接するかということを示しています。

 このことについてお話しするに当たって、まず、踏まえておきたいことがあります。
 テモテへの手紙第一・6章15節ー16節には、

キリストの現れを、定められた時にもたらしてくださる、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできない方。この方に誉れと永遠の支配がありますように。アーメン。

と記されています。
 ここでは、「キリストの現れを、定められた時にもたらしてくださる」方のことが記されています。この方は、父なる神さまです。そして、この父なる神さまのことが、

祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできない方

であると言われています。
 教理的なお話になりますが、『ウェストミンスター小教理問答』問4の「神とは、どんなかたですか。」への答では、

神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです。

となっています(榊原康夫訳)。
 これにそって言いますと、神さまの存在と六つの属性「知恵、力、聖、義、善、真実」は、それぞれが無限、永遠、不変です。つまり、神さまはその存在において、無限、永遠、不変であられ、その「知恵」において無限、永遠、不変であられ、その「力」において無限、永遠、不変であられ・・・というようになっています。
 そして、神さまの存在と一つ一つの属性の輝きが神さまの栄光です。それで、神さまの存在と一つ一つの属性は無限、永遠、不変の栄光に満ちています。
 これに対して、神さまがお造りになったすべての被造物の存在と、人格的な被造物である神のかたちとして造られている人と御使いたちの特質、すなわち「知恵、力、聖、義、善、真実」は、有限、時間的、可変(変化するもの)です。
 ここで、

神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです。

と言われているときの「存在」と「知恵、力、聖、義、善、真実」は、造り主である神さまが、人と御使いたちにもあずからせてくださったものです。しかし、「無限、永遠、不変」は人と御使いたちにはあずからせることができないものです。
 神さまはあらゆる点において、「無限、永遠、不変」の方であられることにおいて、どのような被造物とも「絶対的に」区別される方です。そして、神さまがどのような被造物とも「絶対的に」区別される方であられることが、神さまの聖さの本質です。

 これについては、もう一つのことに触れておきます。
 私たちは「無限、永遠、不変」と言ってはいますが、私たちが考えている、また、私たちが考えることができる無限、永遠、不変と、神さまに当てはまる無限、永遠、不変の間には、やはり、「絶対的な」区別があります。
 どういうことかと言いますと、私たちが考えることができる「無限」は「どこまでも広がっていること」であり、量的な無限です。また、私たちが考えることができる「永遠」は「いつまでも続いていること」であり、量的な永遠です。また、私たちが考えている「不変」は、時の経過の中で「ずっと変わらないこと」です。それは、神さまがお造りになったこの世界が空間的に広がっており、時間的に経過し、変化していく世界であり、私たちもそのようなものとして造られているからです。
 ですから、この世界のすべてのものは、それがどんなに大きなものであっても限界がありますし、ここにあれば、あそこにはありません。また、かつてあったものは、今はなく、この後にあるようになるものも、今はありません。私たちの存在そのものがそのような限界の中にありますから、私たちが考えることができることも、そのような限界の中にあります。
 しかし、この世界とその中のすべてのものをお造りになった神さまは、この世界の限界の中にはありません。ですから、私たちが考えることができる無限、永遠、不変は、神さまに当てはまる無限、永遠、不変とは「絶対的に」区別されます。それで、私たちは神さまに当てはまる無限、永遠、不変を、ありのままに知ることはできません 。それはご自身のことを完全に知っておられる神さまだけが知っておられることです。私たちは神さまが啓示してくださっていることに基づいて、私たちなりに、神さまが無限な方であり、永遠なる方であり、不変の方であると理解しているのです。
 このように、造り主である神さまと、神さまがお造りになったこの世界とそのすべてのものの間には「絶対的な」区別があります。そして、このように、あらゆる点において無限、永遠、不変の栄光の主であり、万物の造り主である神さまが、あらゆる点において限りのある被造物と「絶対的に」区別される方であるということが、神さまの聖さの本質です。
 一般的には、神さまの聖さは罪のけがれとの対比で考えられてます。しかし、これは、派生的なことです。なぜなら、罪は、人やサタンをかしらとする悪霊たちが神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって生じたことであるからです。
 このことを考えるために、イザヤ書6章1節ー4節に記されていることを見てみましょう。そこには、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、互いにこう呼び交わしていた。
 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の
 その栄光は全地に満ちる。」
その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。

と記されています。
 ここに出てくるセラフィム(サーラーフの複数形)は、神である「」の御臨在の御前に仕えている最も聖い生き物たちです ―― とはいえ、神である「」を礼拝し、6節ー7節ではイザヤに語りかけていますので、人格的な存在であり、御使いに属しています。彼らは罪がないばかりか最も聖い生き物たちです。そうであっても、彼らは顔と両足を覆って、身を低くして、「」を礼拝し、「」の聖さを讃えています(同様のことを記している、黙示録4章1節ー8節も見てください)。
 聖書に名前が出てくるミカエルやガブリエルも、その他の御使いたちも神である「」の御臨在の御前においては、ひたすら、身を低くしてその無限、永遠、不変の栄光を讃える他はありません。
 さらにもう一つのことに触れておきます。
 神さまがこの世界のすべてのものと「絶対的に」区別される方であるということは、神さまとこの世界のすべてのものとを比べてみたときに、そこに「絶対的な」区別がある、という意味ではありません。神さまは、この世界のどのようなものとも比べることもできない方であり、私たちが考える比較ということを超えた方であるという意味で、この世界のすべてのものと「絶対的に」区別される方であるのです。
 ただ、私たちは、自らの限界のために、神さまの無限の豊かさをありのままに知ることができませんので、自分の想像力を働かせて、神さまとこの世界のすべてのものを比べてしまいます。私たちは、神さまとこの世界を比べる時、自分の頭の中で、一方に神さまを置き、もう一方にこの世界を置いてしまいます。そこでは、神さまが相対化されてしまっています。このことは、私たちには避けられないことですが、神さまはそのような私たちの限界をご存知であられます。それで、限界がある私たちに合わせて、私たちにわかるように、ご自身を掲示してくださっています。私たちとしては、本来、神さまは、この世界のどのようなものとも比べることもできない方であることを心に銘記していなければなりません。
 さらに、私たちは、神さまがこの世界のすべてのものと「絶対的に」区別される方であると言ってはいますが、神さまの無限、永遠、不変をありのままに知ることができない私たちには、「『絶対的に』区別される」ということが、実際にどのようなことなのかも分かりません。

 そうであるとしますと、神さまとこの世界のすべてのものとの「接点」はないのではないかというような疑問が出てきます。
 これについては、いろいろな機会にお話ししてきたことを繰り返すことになりますが、私たちは、神さまは三位一体の神であられるので、そのような問題は生じない、と考えています。
 もし、神さまが一位一体であり、しかも、その存在と属性の輝きである栄光において無限の、聖なる神であられるとしたら、神さまとこの世界の「接点」はなくなってしまいます。というより、この後お話ししますが、そもそも、この世界は存在できなかったはずです。しかし、三位一体の神さまは、栄光において無限、永遠、不変の方として、聖なる方でありつつ、確かに、この世界と私たちにかかわってくださることがおできになります。
 聖書は、神さまが天と地を創造されたことを示しています。それは、神さまが、この世界にかかわってくださったということであり、今もかかわってくださっていることを意味しています。
 同時に、聖書は、創造の御業(と贖いの御業)の遂行に当たって、三位一体の神さまの、御父と御子と御霊の間に「職務上の区別」、私たちに合わせて言いますと「役割分担」があったことを示しています。とはいえ、それぞれの職務を遂行されるに当たっても、御父、御子、御霊は常に一体であられます(参照・ヨハネの福音書14章10節)。
 具体的には、父なる神さまは無限、永遠、不変の栄光の神さまを代表しておられ、神さまの無限、永遠、不変の栄光を現しておられます。また、父なる神さまは創造の御業(と贖いの御業)のご計画をお立てになっておられます。御子は、その父なる神さまのみこころにしたがって創造の御業(と贖いの御業)を遂行されました。その際に、御子は、その無限、永遠、不変の栄光を、いわば「お隠しになって」この世界とその中のすべてのものとかかわってくださっています。[注]

[注]ここでは御霊のことは取り上げませんが、御霊は、御子が遂行された御業を、それにあずかっている一つ一つのものに当てはめてくださっています。創造の御業について言えば、御子が造り出されたそれぞれのものを、その特質を活かして、支え導いてくださっています。

 そのことは、新約聖書のいくつかの個所から汲み取ることができますが、創造の御業について言えば、特に、ヨハネの福音書1章1節ー3節に、

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

と記されていることから汲み取ることができます。
 今お話ししているとのかかわりで注目したいのは、3節に、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

と記されていることです。ここで、「この方によって造られた」と言われていることは、「この方」すなわち「ことば」と言われている御子が、創造の御業を遂行されたことを意味しています。
 新約聖書には、イエス・キリストが一貫して父なる神さまのみこころを遂行されたことが示されています。それは、マタイの福音書26章39節に、

わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。

と記されている、イエス・キリストのゲツセマネにおける祈りから汲み取ることができますし、ヨハネの福音書では、4章34節に、

わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです

というイエス・キリストの教えが記されています[そのほか、5章19節、30節、6章38節、12章27節ー28節、49節ー50節、14章31節、17章5節、参照・ピリピ人への手紙2章8節(自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。)]。
 これらは贖いの御業の遂行にかかわっていますが、創造の御業の遂行にも当てはまります。御子が御父のみこころにしたがって、創造の御業を遂行されたのです。ヘブル人への手紙1章2節には、

 神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。

と記されています。
 もし、一位一体にして、無限、永遠、不変の栄光の神が創造の御業を遂行したなら、どうなるでしょうか。かすかなたとえでしかありませんが、ヘブル人への手紙12章29節に、

 私たちの神は焼き尽くす火なのです。

と記されていることにそって、神さまの無限、永遠、不変の栄光を太陽の燃える火にたとえますと、この世界は紙切れのようなものです。一位一体にして、無限、永遠、不変の栄光の神が創造の御業を遂行したなら、それは、いわば、太陽の燃える火の中に、紙切れが造り出されたようなことです。ですから、もし神が一位一体にして、無限、永遠、不変の栄光の神であるなら、そもそも、この世界は存在することができません。
 無限、永遠、不変の栄光の神さまを代表しておられ、神さまの無限、永遠、不変の栄光を現しておられる父なる神さまの御臨在の御前には、どのような被造物も近づくことができません。先ほどの、テモテへの手紙第一・6章15節ー16節において、父なる神さまのことが、

祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできない方

であると言われていることは、このようなことによっています。
 また、出エジプト記33章20節において、「」がモーセに、

あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。

と言われたことの根底には、このようなことがあります。
 しかし、話を先取りする形になりますが、古い契約の下にいたモーセに対して、新しい契約の下にあっては、ヨハネの福音書1章18節には、

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と記されています。また、14章7節には、

あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです

と記されており、9節には、

 わたしを見た人は、父を見たのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。さらに、ヘブル人への手紙1章3節には、

 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであ(る) 

と記されています。
 父なる神さまの御臨在の御前には、どのような被造物も近づくことができません。しかし、ヨハネの福音書14節6節には、

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

と記されています。私たちはイエス・キリストをとおして父なる神さまの御許に近づくことができます。


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