![]() |
説教日:2023年7月9日 |
これを受けて、続く38節には、 モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」 と記されています。 これは、私たちには思いがけない祈りです。 というのは、24章15節ー18節に、 モーセが山に登ると、雲が山をおおった。主の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は六日間、山をおおっていた。七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。主の栄光の現れは、イスラエルの子らの目には、山の頂を焼き尽くす火のようであった。モーセは雲の中に入って行き、山に登った。そして、モーセは四十日四十夜、山にいた。 と記されているように、モーセは、すでに、 主の栄光の現れは、イスラエルの子らの目には、山の頂を焼き尽くす火のようであった。 と記されている、「主」がご臨在されるシナイ山に登っていって、そこで「四十日四十夜」「主」の栄光の御臨在に接していますし、その間に、25章ー31章に記されているさまざまな規定を「主」が直接的に語ってくださった御声を聞いています。 それなのに、モーセはここで、 どうか、あなたの栄光を私に見せてください。 と願っているのです。もちろん、これは、あの「四十日四十夜」に「主」の栄光を見ていなかったという意味ではありません。 このモーセが「主」に願ったことの意味を考えるための鍵は、先ほどの33章1節ー3節に記されている「主」のみことば、特に、「主」が最後に、 しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ と言われたことです。 繰り返しになりますが、ここで「主」はモーセにイスラエルの民を率いて約束の地に上るように命じられました。けれども、「うなじを固くする民」であるイスラエルの民を途中で絶ち滅ぼしてしまうことがないために、イスラエルの民の「ただ中にあって」は上らない、その意味で、イスラエルの民とともには約束の地に上って行かれないと言われました。 すでに、エジプトの地を出てからのイスラエルの民の歩みで明らかになっているように、「うなじを固くする民」であるイスラエルの民は、約束の地に上っていく途中でも、また同じような罪を犯してしまうでしょう。そうなれば、「主」はイスラエルの民を絶ち滅ぼしてしまうことになります。ですから、これは、「うなじを固くする民」であるイスラエルの民への「主」のご配慮によることでした。 ところが、この時は、「主」はモーセの二度目のとりなしにお答えになって、ご自身がイスラエルの民とともに約束の地に上って行ってくださると言われました。「主」のご臨在がイスラエルの民の「ただ中にあって」、すなわち、その宿営の中心にあって、イスラエルの民は「主」のご臨在の御許に住まう状態で、約束の地まで導かれていくということです。 そうすると、ここに別の問題が生じてきます。 「主」がイスラエルの民の「ただ中にあって」イスラエルの民とともに約束の地に上って行ってくださるなら、「うなじを固くする民」であるイスラエルの民は、その本質は変わりませんから、遅かれ早かれ、「主」に対して罪を犯してしまうことになります。そのために、「主」の聖なる御怒りを引き起こして、絶ち滅ぼされてしまうことになります。 モーセが、 どうか、あなたの栄光を私に見せてください。 と「主」に願ったのは、このような問題を踏まえてのことであると考えられます。 どういうことかと言いますと、モーセはすでに「主」の栄光のご臨在のあるシナイ山に上って行って、「主」の栄光のご臨在に触れました。その「主」の栄光は「うなじを固くする民」であるイスラエルの民の罪を罰して、御前から絶ち滅ぼしてしまうことによって、「主」が聖なる方であられることを表す栄光でした。 その「主」の栄光のご臨在は、「主」の契約に基づくものですが、その契約文書に当たるのは十戒の戒めです。十戒の戒めは、モーセ律法全体を集約してまとめたものです。 モーセ律法が与えられたことの時間的な順序では、「主」は、まず、最も基本的な律法としての十戒を与えてくださり、その後に、十戒に基づいて、さまざまなことにかかわる律法を与えてくださったということになります。それで、モーセ律法全体を集約してまとめると十戒になります。そして、十戒の第1戒から第4戒までは、神である「主」との関係のあり方に関する戒めであり、第5戒から第10戒までは隣人との関係のあり方に関する戒めです。これをさらに集約してまとめると、マタイの福音書22章35節ー40節に記されているイエス・キリストの教えに示されているように、 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 という「重要な第一の戒め」と、 あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい という「それと同じように重要」な「第二の戒め」になります。 このことを踏まえた上で、さらにお話ししますと、この「主」がモーセをとおして与えられた律法については、申命記27章26節に、 このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる。 と記されています。パウロはガラテヤ人への手紙3章10節で、このみことばを引用して、 律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。 と記しています。また、パウロはローマ人への手紙3章19節ー20節においても、 私たちは知っています。律法が言うことはみな、律法の下にある者たちに対して語られているのです。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。 と記しています。 すべての人は、「主」の律法の下にあって、最初の人アダムにあって罪を犯して堕落し、その本性が罪によって腐敗している状態で生まれてきて、罪を犯します。人の目から見て罪を犯していない、いい人としか見えないとしても、生まれながらの人はすべて、詩篇14篇1節に、 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。 と記されているように、造り主である神さまを神として認めることはありません、まして、その神である「主」を愛することはありません。それは、「主」の律法の中で、「重要な第一の戒め」である あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 という根本的な律法に背いている状態です。このように、すべての人が律法の下にある者として生まれてきて、律法の「のろいのもとにあります」。それで、パウロのことばを用いますと、「すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服する」ことになるのです。 「神のさばきに服する」ことの恐ろしさが古い契約の下で典型的に現されたのは、「主」がご臨在されるシナイ山の麓に宿営していたイスラエルの民が、十戒の戒めを直接的に語られた「主」の御声を聞いた時のことです。出エジプト記19章16節には、 三日目の朝、雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上にあって、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。 と記されています。これは、イスラエルの民が「主」の栄光の御臨在にともなう現象に接したときのことです。その時、イスラエルの民は震え上がるほどの恐ろしさを感じました。しかし、20章18節ー19節には、 民はみな、雷鳴、稲妻、角笛の音、煙る山を目の前にしていた。民は見て身震いし、遠く離れて立っていた。彼らはモーセに言った。「あなたが私たちに語ってください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお語りになりませんように。さもないと、私たちは死んでしまいます。」 と記されています。イスラエルの民は「主」の御声を直接的に聞いたときには、自分たちが死んでしまうと感じるほどの恐ろしさに打たれました。「主」の栄光の御臨在が最も現実的に感じられたのは「主」の御声を直接的に聞いたときでした。 しかし、それさえも、古い契約の下での「地上的なひな型」としての出来事でした。 罪ある者が「主」の御臨在に触れるときの恐ろしさが本当の意味で分かるのは、イエス・キリストの十字架の死においてです。しかし、その恐ろしさはイエス・キリストお一人が感じられたもので、私たちには隠されています。 その時のことが、マタイの福音書27章45節ー46節に、 さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 と記されています。 「十二時から午後三時まで闇が全地をおおった」間に何が起こっていたのかは記されていません。過越の祭りは満月に当たりますから、この「全地をおおった」「闇」は日蝕によるものではありません。 しかし、 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」・・・、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」 と記されていることから、また、コリント人への手紙第一・5章7節に、 私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。 と記されているように、この時、イエス・キリストは過越の子羊の新しい契約の下での「本体」として十字架におかかりになっていることから、父なる神さまが私たち「主」の民の罪に対する聖なる御怒りによる刑罰を、すべて、御子イエス・キリストに注がれたということが分かります。この時には、世の終わりに再臨される栄光のキリストによって執行されるはずであった私たち「主」の民の罪に対する最終的なさばきが、御子イエス・キリストに対して執行されたということです。ですから、その神さまの聖なる御怒りのさばきの恐ろしさは御子イエス・キリストが受け止められたことであって、私たちには隠されています。 イエス・キリストはローマ人の手によって十字架につけられて処刑されました。これは、人が考え出した最も残酷な処刑の仕方の一つとされている形で処刑されたということです。そればかりではありません、これは申命記21章23節に、 木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。 と記されている規定からすると、神にのろわれて死んだことを意味しています。 とはいえ、これらのことはイエス・キリストとともに十字架につけられた二人の犯罪人(彼らもユダヤ人でした)にとっても同じでした。この二人の死とイエス・キリストの死のどこが違っていたのでしょうか、それは、この二人は、人が加えることができる最も残酷な苦しみによる死でしたが、それ以上のものではありませんでした。確かに、それは神にのろわれた者としての死でしたが、古い契約の下での儀式的な意味での、のろいの死でした。 これに対して、イエス・キリストの死は、父なる神さまが、私たちのすべての罪に対する聖なる御怒りを余すことなく御子イエス・キリストに注がれて、私たちの罪に対する刑罰を執行されたことによる死です。それは形として同じように十字架につけられた人々の苦しみを限りなく越えた苦しみであり、私たちの想像をはるかに絶する苦しみです。 福音のみことばは、この御子イエス・キリストの十字架の死において、私たちそれぞれの罪に対するさばきは執行されて終わっていると、私たちに伝えています。 ここで、このことをお話ししたのは、モーセが、 どうか、あなたの栄光を私に見せてください。 と「主」に願ったときの「主」の栄光、また、「主」がモーセに示してくださった栄光が、最終的には、この御子イエス・キリストの十字架の死において現されるようになる栄光につながっていくからです。 このことについては、日を改めてお話しします。 すでにお話ししたように、「主」の栄光の御臨在がイスラエルの民とともにあるなら、「うなじを固くする民」であるイスラエルの民は、必ずや、「主」の御名の聖さを冒し、「主」の聖なる御怒りを引き起こして滅ぼされることになります。 けれども、「主」は、ご自身の栄光の御臨在が「うなじを固くする民」であるイスラエルの民とともにあって、イスラエルの民を約束の地に導き入れてくださると約束してくださいました。このことは「主」の約束ですので、必ず実現します。そうであれば、この「主」の栄光の御臨在は、先にモーセがシナイ山で触れた栄光の御臨在とは違った意味をもつ栄光の御臨在であるはずです。 これまで「主」は、エジプトの奴隷であったイスラエルの民を、その奴隷の身分から贖い出してくださった御業を通して、ご自身の恵みに満ちた栄光を現されました。それは、それとして十分な恵みに満ちた栄光の現れでした。けれども、その「主」の栄光の御臨在は「うなじを固くする民」であるイスラエルの民の罪をさばき、ついにはその御前から絶ち滅ぼしてしまうに至るものでした。そのようなイスラエルの民とともにあって、なおも、イスラエルの民が約束の地に至るまで導いてくださる「主」の栄光の御臨在は、さらに深く豊かな恵みに満ちている栄光の御臨在であるはずです。モーセはそのような新しい意味をもっている「主」の栄光の御臨在、より深く豊かな恵みに満ちている栄光を見せていただきたいと「主」に願ったと考えられます。 「主」はモーセの願いを受け入れてくださいました。33章19節ー23節には、 主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」また主は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」 と記されています。 19節に記されているように、「主」は、まず、 わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。 と言われました。 この場合の「わたし自身」は代名詞による強調形です。[注] [注]ギリシア語でもそうですが、ヘブル語の動詞には人称と数による違いがあります。それで、たとえば、1人称単数形の動詞であれば、それだけで「わたしは・・・する」を表します。ここでは、これに代名詞の「わたし」(アニー)がついていて強調形になっていますので、「わたし自身」と訳されています。 この「わたし自身」と響き合うように対応しているのが、2回繰り返されている「あなたの前に」ということばです。このことばは文字通りには「あなたの顔に」で、慣用句として「あなたの前に」ということを表します。ここでは、強調形の「わたし」と、2回繰り返されている「あなたの前に」ということばが響き合って、「主」が親しくモーセとかかわってくださることを表しています。 さらに、この強調形の「わたし」は、同じ19節後半の、 わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。 ということばに示されている「主」の恵みの主権性にもつながっていると考えられます。 「主」の恵みは主権的な恵みです。私たちが死と滅びの中から贖い出されたのは「主」の一方的な恵みによることですが、それを言い換えますと、私たちは、「主」ご自身が、 わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。 とあかししておられる主権的な恵みによって死と滅びの道から贖い出されているということです。つまり、「主」は私たち自身のうちに何か良いところがあるので私たちをあわれみ、恵みを示してくださったのではないということです。ここでは、モーセであってさえ、「主」の主権的で、それゆえに一方的な恵みにあずかって、「主」の御臨在の御前に近づけられていることが示されています。 「主」が、 わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、 と言われたときの「わたしのあらゆる良きもの」は単数形です。これが何を意味しているかについては意見が分かれていますが、結論的に言いますと、「主」のいくつかの本質的な特質を総称的に(まとめて)表していると考えられます。それは、これも日を改めてお話ししますが、「主」の栄光がモーセに示されたことを記している、34章5節ー7節に、 主は雲の中にあって降りて来られ、 彼とともにそこに立って、主の名を宣言された。主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」 と記されていることに具体的に示されていると考えられます。 「主」は続いて、 主の名であなたの前に宣言する。 と言われました。 この場合の「主の名」の「主」は契約の神の御名である「ヤハウェ」です。 新改訳によりますと、ここでは、何が宣言されるのかが示されてはいません。新改訳が「主の名で・・・宣言する」と訳したのは、「名」の前に「で」に当たる前置詞(ベ)があるからです。新改訳は、この前置詞(ベ)は手段を示すと理解しています。 これに対して、新国際訳(NIV)は、この「主の名」を「宣言する」の目的と取って、 わたしの名、主、を宣言する。 と訳しています。新共同訳も、これと同じように、 主という名を宣言する。 と訳しています。しかし、その後に出版された聖書教会共同訳は、新改訳と同じように、 主の名によって宣言する。 と訳しています。 これについては、結論だけを言いますと、この「主」のことばの意味は、新国際訳、共同訳と、新改訳、聖書教会共同訳の中間にあると思われます。ここで「御名」の前に前置詞(ベ)を用いて表わされていることは、ただ単に「ヤハウェ」という御名そのものが宣言されるということではなく、その「ヤハウェ」という御名が表していることが明らかにされるということであると考えられます。 しかも、それは、これまでお話ししたように、「主」がご臨在されるシナイ山の麓で宿営していたイスラエルの民が、金の子牛を造って、これを契約の神である「主」ヤハウェと呼んで、礼拝したことを踏まえてのことです。繰り返しになりますが、「うなじを固くする民」であるイスラエルの民は、その本質が変わりませんので、「主」に対して罪を犯し続けます。それで、いずれ、「主」のさばきを招いて絶ち滅ぼされることになります。しかし、「主」は、そのようなイスラエルの民の間にご臨在してくださって、イスラエルの民を約束の地まで導き上ってくださると言われました。それは、「うなじを固くする民」であるイスラエルの民を、なおも、約束の地へと導き上ってくださるという、より深く豊かな恵みに満ちた栄光において示されるヤハウェの御名であるはずです。 主の名であなたの前に宣言する。 という「主」のみことばは、ヤハウェの御名のそのような意味を明らかにしてくださることを意味しています。 これについては、続く34章に記されていますので、日を改めてお話しします。 |
![]() |
||