黙示録講解

(第519回)


説教日:2023年6月11日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(272)


 先月は特別集会がありましたので、黙示録からのお話は二月空いてしまいましたが、本主日も、黙示録2章28節後半に記されている、

 勝利を得る者には、わたしは明けの明星を与える。

という、イエス・キリストの約束のみことばと関連することとして、神である「」に対する「」の契約の民の不信仰がもたらした絶望的な状態にあって、なお、「」の主権的で一方的な恵みが示されたことについてのお話を続けます。
 今は、出エジプト記32章ー34章に記されている、イスラエルの民が、「」がご臨在されるシナイ山の麓において、金の子牛を造ってこれを「」として礼拝した時のことについてお話ししています。
 前回は、出エジプト記33章1節ー17節に記されていることで、今お話ししていることとかかわっていることについてお話ししました。今日は前回お話ししたことをさらに補足することをお話ししますが、それは、この後、33章17節ー34章9節に記されていることともかかわっています。
 前回お話ししたことを振り返っておきますと、33章1節ー3節には、

はモーセに言われた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、ここから上って行って、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地に行け。わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし、カナン人、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。

と記されています。
 ここで「」は、モーセとイスラエルの民が約束の地に行くようにと言われました。このことは、この前に記されている三つのことを踏まえています。
 一つは、イスラエルの民が「」がご臨在されるシナイ山の麓において、金の子牛を造ってこれを「」として礼拝したことによって、「」の聖なる怒りによって絶ち滅ぼされるべきものになってしまったことです。
 もう一つは、モーセが「」が記して、与えてくださった十戒の二つの板を砕いたこと(32章19節)です。十戒の二つの板は「」の契約の文書に当たるもので、当時の発想では、その文書を破棄することは、契約そのものを破棄することです。それで、このことは「」の契約が破棄されてしまったこと意味しています。
 さらに、もう一つのことは、モーセがこの二つのことに対して、したがって、2度にわたって、イスラエルの民のために「」にとりなしたこと(32章11節ー13節、31節ー32節)を、「」がお聞きになり、受け入れてくださった(14節、34節)ことです。
 次に「」は、3節後半に記されているように、

しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。

と言われました。
 ここで「」は、イスラエルの民は「うなじを固くする民」だと言っておられます。この「うなじを固くする」ということは、高慢で、強情で、手に負えない状態を表わしています。
 イスラエルの民が「うなじを固くする民」であることは、すでに、彼らがエジプトの地において、「」がエジプトに対する十のさばきを執行されたけれども、自分たちが住んでいる所は守られていたこと、また、紅海において、ファラオの軍隊が追い迫ってきた時に、「」は紅海の水を分けて自分たちを通らせてくださり、その水を戻してファラオの軍隊を滅ぼされたことにおいて、「」の御業を目の当たりにしながら、その後も、ことあるごとに「」に対する不信を募らせてきたこと現われていました。
 そして、それが「」がご臨在されるシナイ山において、その御臨在に伴うさまざまな現象に触れて震え上がった(19章16節)ばかりでなく、その御臨在の中から十戒の戒めを語られた「」の御声を聞いて、自らの死の恐怖に捕らえられたイスラエルの民が、こともあろうに、「」がご臨在されるシナイ山の麓で、十戒の第2の戒めを破って、金の子牛を造り、それを「」、ヤハウェであるとして拝むようになったことにおいて頂点に達して、この上なく明確に現れました。
 このように、イスラエルの民が「うなじを固くする民」であることは、イスラエルの民の本質的な特質であったのです。もちろん、これはイスラエルの民だけのことではありません。私たちも含めて、罪を犯して堕落しているアダムの子孫である人類すべての生まれながらの本質的な特質です。
 「」の御臨在がそのような「うなじを固くする民」であるイスラエルの「ただ中に」あるなら、やがて「」は彼らをおさばきになり、絶ち滅ぼしてしまうことになりす。そのことは、この3節においてだけでなく、5節においても、

あなたがたは、うなじを固くする民だ。一時でも、あなたがたのただ中にあって上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう

と繰り返されています。それで、「」は「使い」を遣わしてくださって、アブラハム、イサク、ヤコブへの契約の約束にしたがってイスラエルの民を約束の地に導き入れてくださるけれども、ご自身はイスラエルの民の「ただ中にあっては上らない」と言われたのです。
 この「使い」についてですが、この「使い」は、すでに23章20節ー23節に出てきます。そこに記されていることとのかかわりで、前回お話ししたことの結論だけをお話ししますと、それは「」の御臨在を指しています。そして、「」の御臨在がイスラエルの民の「ただ中にあっては上らない」と言われていることは、33章7節に、

さて、モーセはいつも天幕を取り、自分のためにこれを宿営の外の、宿営から離れたところに張り、そして、これを会見の天幕と呼んでいた。

と記されていることに当たると考えられます。つまり、「」の御臨在はイスラエルの民の「ただ中」ではなく「宿営の外の、宿営から離れたところ」にあったのです。
 しかし、そうであっても「」の御臨在はイスラエルの民とともにあったのではないかと言われることでしょう。それは、形としては、そのとおりなのですが、それは「」の御臨在の本来のあり方ではありません。そこには、「」にとって「祭司の王国、聖なる国民」として召されたイスラエルの民の存在の意味において、また、新しい契約の下での成就との関係において、とても大きな違いがあるのです。


 24章1節ー11節に記されていますが、「」はシナイ山でイスラエルの民と契約を結んでくださいました。これによってイスラエルの民は、やがて国家として、19章6節のことばで言えば、「」「にとって祭司の王国、聖なる国民となる」ように形成されていくべき民族として「」の契約の民となりました。
 その後、24章12節に、

はモーセに言われた。「山のわたしのところに上り、そこにとどまれ。わたしはあなたに石の板を授ける。それは、彼らを教えるために、わたしが書き記したおしえと命令である。」

と記されているように、「」はモーセにご自身がご臨在されるシナイ山に登るようお命じになり、ご自身が書き記される十戒の(二つの)板をお与えになることを約束されました。先ほどお話ししたように、この十戒の二つの板は、その当時、契約が結ばれたときに必ず作成された契約文書としての意味をもっていました。
 25章8節ー9節には、「」がシナイ山に登ったモーセに、

 彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。幕屋と幕屋のすべての備品は、わたしがあなたに示す型と全く同じように造らなければならない。

と命じられたことが記されています。
 ここでは、イスラエルの民が「」のお示しになるとおりに聖所を造ることによって、「」がイスラエルの民の「ただ中に住む」ようになることが約束されています。
 これは、イスラエルの民が「」の契約の祝福にあずかるようになることを意味しています。
 「」の契約の祝福には二つの面がありますが、それはレビ記26章11節ー12節に記されている、

わたしは、あなたがたのただ中にわたしの住まいを建てる。わたしの心は、あなたがたを嫌って退けたりはしない。わたしはあなたがたの間を歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

というみことばに示されています。
 その祝福の一つの面は、11節ー12節前半に、

わたしは、あなたがたのただ中にわたしの住まいを建てる。わたしの心は、あなたがたを嫌って退けたりはしない。わたしはあなたがたの間を歩み

と記されていることです。
 これは「」の民の生活にかかわることで、「」がご自身の民の間、「ただ中に」に住んでくださること、ご臨在してくださることです。
 もう一つの面は、12節後半に、

 あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

と記されていることです。
 これは、「」とご自身の民の関係にかかわることで、「」がご自身の民の神となってくださり、ご自身の民が「」の民となることです。
 これらのこととのかかわりで言いますと(以前お話ししたことがありますが)12節の新改訳2017年版の、

わたしはあなたがたの間を歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

という訳には問題があり、これは、

わたしはあなたがたの間を歩む。(で切って、改めて主語を立てて)わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

と訳した方がよいと考えています。というのは、

 わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

ということば、あるいは、

 わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

ということばは、「」の契約の祝福の二つの面の一つを表しているからですし、実際に、聖書の中には、このことばが繰り返し出てくきて、これだけで「」の契約の祝福を表しているからです(エレミヤ書7章23節、11章4節、24章7節、30章22節、31章33節、エゼキエル書11章20節、14章11節、36章28節、37章27節、コリント人への手紙第2・6章16節、ヘブル人への手紙8章10節、類似のことばとしてゼカリヤ書2章11節、8章8節、13章9節、黙示録21章3節)。
 これを、「」の契約の二つの祝福と言わないで、祝福の二つの面と言ったのは、この二つのことが表裏一体の関係にあって、そのどちらかがあれば、必ず、もう一つのことがあるからです。
 ちなみに、「」の契約の祝福のことを説明するときに、レビ記26章11節ー12節が取り上げられるのは、ここに「」の契約の祝福の二つの面が出てくるからです。
 そして、このことを踏まえた上で、「」の契約の祝福を一つのことばで言い表すと、マタイの福音書1章22節ー23節に、

このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。

と記されている、イエス・キリストの誕生に先だって告げられた御名である「インマヌエル」(インマヌーエール)、「神が私たちとともにおられる」になります。この「インマヌエル」ということばは、神さまが私たちの間にご臨在してくださっていることを意味していますが、これと表裏一体となっている、神さまが私たちの神となってくださっており、私たちが神さまの民となっていることをも意味することになります。
 このような「」の契約の祝福を踏まえると、「」がシナイ山において契約を結んでくださってご自身の民としてくださったイスラエルの民の「ただ中に」は住んでくださらない、ご臨在してくださらないということは、「」の御臨在の本来のあり方ではないこと、「」と「」の契約の民の関係の本来のあり方ではないことが分かります。
 しかし、前回お話ししたように、この「」と「」の契約の民の関係の本来のあり方ではない状態は、「」が(次回に改めてお話しする)出エジプト記34章に記されている、ご自身の一方的な恵みとあわれみによって、イスラエルの民との契約を更新してくださり、その更新された契約に基づいて、イスラエルの民の間にご臨在してくださることによって、本来のあり方に回復されるようになります。
 そして、それは、それに先立って、モーセが「」に祈った二つの祈りをお聞きくださり、それに答えてくださったことによっています。
 最初の祈りは、33章12節ー14節に、

さて、モーセはに言った。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」

と記されています。
 この祈りでは「」とモーセの間の「わたし」と「あなた」の個人的な関係が取り上げられています。
 次の祈りは、それに続く15節ー17節に、

モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」

と記されています。
 この祈りでは、モーセは「」に「私たち」あるいは「私とあなたの民」と語りかけて、イスラエルの民のためのとりなしの祈りをしています。
 言うまでもなく、この祈りは最初の祈りにおいてモーセが「」との個人的な関係において祈った祈りを、「」がお聞きくださり、それに答えてくださったことを踏まえた上で、それに基づいています。
 ここで注目したいのは、これら二つの祈りに5回出てくる「みこころにかなっている」ということばです。
 より具体的には、「」がモーセのことを「あなたはわたしの心にかなっている」と言われたことが2回(12節、17節)出てきます。
 この「あなたはわたしの心にかなっている」と訳されていることばを直訳調に訳すと「あなたはわたしの目の中に好意を見出した」となります。
 また、モーセが「」に「私がみこころにかなっている」(13節)とか、「私がみこころにかなうようになる」(13節)、さらに、「私とあなたの民がみこころにかなっている」(16節)と言っていることがあります。
 「私がみこころにかなっている」は直訳調に訳すと「私があなたの目の中に好意を見出した」となり、「私がみこころにかなうようになる」は直訳調に訳すと「私があなたの目の中に好意を見出すようになる」となります。そして、「私とあなたの民がみこころにかなっている」は、直訳調に訳すとかなりぎこちなくなりますが、「私があなたの目の中に好意を見出した。私とあなたの民が。」となります。
 これらの事例において、「好意」と訳されていることば(ヘーン)について、同じ言い方が出てくる、創世記6章8節の注解において、この「好意」は「恵み」に近いもので「恵み深い好意」と説明している方(Mathews)や、「恵み」と訳せば、この「好意が」(自分の力で)勝ち取るものではなく、見出すものであることが支持されると述べている方(Hamilton)もいます。
 私は、この「ヘーン」を「恵み」と訳すという(Hamiltonの)示唆にしたがって「恵み」と訳した方がよいのではないかと考えています。それで、新改訳が「」の「心にかなう」と訳していることばを、直訳調に「」の「目の中に恵みを見出す」ことと理解しています。モーセはひたすら「」の眼差しに示されている恵みに信頼していたということです。
 問題となるのは、モーセが「私とあなたの民がみこころにかなっている」―― 「私とあなたの民があなたの目の中に恵みを見出している」―― と言われていることです。モーセはそうであったけれども、「うなじを固くする民」であるイスラエルの民はとてもそうではなかったという問題です。この問題は、どの訳を取っても生まれてくるものです。私は、これについては次のように考えています。
 先ほどお話ししたように、モーセの最初の祈りにおいて、モーセが「」の「目の中に恵みを見出している」ことが明確に示されています。そしてモーセは、そのことを踏まえ、また、そのことに基づいて、次の祈りにおいて、イスラエルの民のためにとりなしています。その際に、モーセは自分自身がイスラエルの民と一つであることを示して、「私たちが」とか「私とあなたの民が」と言っています。このことにおいて、イスラエルの民も「」の「目の中に恵みを見出すようになる」と考えられます。[注]

[注]イスラエルの民は古い契約の仲保者であるモーセと一体にあるものとして「」の御臨在の御許に住まうものとされています。私たちは新しい契約の仲保者であるイエス・キリストとの一体にあるものとして「」の御臨在の御許に住まうものとされています。

 また、この「」の恵みは、改めてお話しします34章に記されていることにおいて鮮明に示されることになり、「」はご自身の契約を更新してくださるようになります。
 そして、その後に、イスラエルの民は、「」がシナイ山においてモーセに与えてくださった戒めにしたがって、「」がご臨在される場である聖所を中心とした幕屋を造るようになります。さらに、イスラエルの民はその幕屋を中心として宿営するようになります。それによって、「」の御臨在がイスラエルの民の中心にあるようになります。
 そして、前回のことばを繰り返しますが、「」の御臨在がイスラエルの民の中心にあるということこそが、祭司の国として召されたイスラエルの民の本来のあり方でした。イスラエルの民がエジプトの奴隷の身分から贖い出されたのは、「」の御臨在の御前に住まい、「」の御臨在の御前で仕えるようになるためのことでした。そして、それを実現してくださるために、「」は聖所を中心とする幕屋を造るための戒めを、モーセを通して与えてくださったのでした。

 この古い契約の下にあって、「」の御臨在が「」の契約の民であるイスラエルの中心にあったということは、やがて、御子イエス・キリストが十字架の上で流された血によって確立された新しい契約の下にある私たちにおいて成就しています。
 イスラエルの民が荒野を旅していた間、「」は聖所を中心とする幕屋にご臨在されて、イスラエルの民を導いてくださいました。やがて、イスラエルの民が約束の地であるカナンに入って、定住するようになってからは、「」がダビデに与えてくださった契約に基づいて、ダビデの子であるソロモンが王座に着いて、「」の神殿を建設しました。しかし、ソロモンは、「」がダビデ契約に約束してくださったまことのダビデの子ではありませんでしたし、人の手によって建てられた神殿も、破壊されたり再建されたりしましたが、いずれも、「」がダビデ契約に約束してくださったまことの神殿ではありませんでした。
 ヨハネの福音書1章14節には、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

と記されています。ここで、

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

と言われているときの「住まわれた」と訳されていることば(スケーノオー)は「幕屋を張る」こと、「幕屋に宿る」ことを意味していて、これが、先ほどの、出エジプト記25章8節に、

彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。

と記されていたことの成就であることを示しています。
 さらに、ヨハネの福音書2章19節ー22節には、

イエスは彼らに答えられた。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか。」しかし、イエスはご自分のからだという神殿について語られたのであった。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた。

と記されています。
 ここで、イエス・キリストは、ご自身のからだこそが、シオンの丘に建てられているエルサレム神殿の「本体」であることを教えておられます。
 このことは、より具体的には、エペソ人への手紙1章23節に、

教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

と記されていることに示されています。
 ここでは、教会が「キリストのからだ」であると言われていますが、この「キリスト」は、これに先立って20節ー22節に、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。

と記されている「キリスト」すなわち、栄光のキリストです。
 20節ー21節で父なる神さまが、

キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に・・・置かれました。

と言われていることは、ダビデ契約に約束されている、まことのダビデの子であるメシアのことを預言的に記している詩篇110篇1節に、

 は 私の主に言われた。
 「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。
 わたしがあなたの敵を
 あなたの足台とするまで。」

と記されていることの成就です。
 ダビデ契約に約束されていた永遠の王座は地上のどこかにあるのではなく、父なる神さまの右の座です。そして、そこには私たちご自身の民のための罪の贖いを成し遂げてくださってから、栄光を受けて死者の中からよみがえられた栄光のキリストが着座しておられます。
 この栄光のキリストの主権は、

また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。

と記されているように、終わりの日まで続くだけでなく、その後に栄光のキリストが再創造される新しい天と新しい地においても続いていく主権です。[注]

[注]時間の関係で省略しましたが、22節に、
 神はすべてのものをキリスト[直訳「彼」]の足の下に従わせた
と記されていることは、詩篇8篇5節ー6節に、
 あなたは 人を御使いより
 わずかに欠けがあるものとし
 これに栄光と誉れの冠を
 かぶらせてくださいました。
 あなたの御手のわざを人に治めさせ
 万物を彼の足の下に置かれました。
と記されている中の、
 万物を彼の足の下に置かれました。
と言われていることの成就であり、栄光のキリストは、神が神のかたちとしてお造りになった人に委ねられた歴史と文化を造る使命を成就しておられるということを示しています。

 23節では、この栄光のキリストを踏まえて、

教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

と言われています。
 ここで「すべてのものをすべてのもので満たす方」と言われているのは栄光のキリストのことであり、栄光のキリストは御霊によってご自身のからだである教会にご臨在してくださっています。まさに、私たちの「ただ中に」ご臨在してくださっているのです。


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