黙示録講解

(第171回)


説教日:2014年8月10日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章1節ー7節
説教題:エペソにある教会へのみことば(18)


 先主日には、黙示録からのお話はお休みしました。今日は再び黙示録からのお話を続けます。前回で2章1節ー7節についてのお話を終えたいと思っておりましたが、いくつかのことから、今日はもう少しお話を続けたいと思います。
 今は、7節後半に記されています、

 勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。

というイエス・キリストがエペソにある教会に与えてくださった約束のみことばについてお話ししています。
 これまで、この約束のみことばの背景となっている創世記2章7節ー9節に、

神であるは土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。神であるは東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。神であるは、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。

と記されていることから、いくつかのことをお話ししました。
 7節には、

神であるは土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

と記されています。ここでは神さまの御名は「神である」(ヤハウェ・エローヒーム)として示されています。この「神である」(ヤハウェ・エローヒーム)という御名についてはいろいろな議論がありますが、結論的には、契約の神である主、ヤハウェは、1章1節ー2章3節に記されています、創造の御業を遂行された「」(エローヒーム)であられる、ということを表していると考えられます。
 1章1節には、

 初めに、神が天と地を創造した。

と記されています。これは1章1節ー2章3節に記されています神さまの天地創造の御業の記事全体の「見出し」に当たるものです。「天と地」はメリスムスという表現による慣用句で、「秩序立てられたこの世界に存在するすべてのもの」を指しています。今日の私たちのことばで言えば「宇宙」に当たるものです。
 今日では、この宇宙は137億光年の彼方に広がっていることが分かっています。1光年とは光が1年かかって進む距離で、約9兆4800億キロメートルです。この宇宙は、その光が137億年かかって到達する所まで広がっているというのです。それは私たちの想像を絶する広大なものです。その中には、約1000億個ほどの恒星や星間物質、あまりよくわかっていないダークマターなどの大集団である銀河が、それより大きなものや小さいものがありますが、約千数百億個ほどあると言われています。地球がある太陽系も、そのような千数百億個ほどある銀河の一つの銀河系(天の川銀河)の中にある恒星の一つである太陽を中心として成り立っています。そして、それぞれの銀河の中で、また銀河同士のかかわりの中で、いろいろな現象が起こっていることが知られています。このような私たちの想像を絶する規模と多様性をもっている宇宙は天地創造の御業以来、今日に至るまで、造り主である神さまの御手によって、秩序と調和のうちに保たれて存在しています。
 もちろん、聖書が記された時代の人々には、このような宇宙の構造が分かったわけではありません。そうではあっても、今日の私たちの社会のように人工の光によって明るくなってしまった夜空からは見ることができない、満天の星々の輝きなどから、宇宙空間の広がりを感じ取り、造り主である神さまの御業の壮大さと、そのすべてをお造りになって支えておられる神さまの知恵と力と真実さを現実的に感じ取っていたと考えられます。また、それは己の存在がいかに小さなものであるかを痛感させられることでもありました。詩篇8篇3節ー4節は、まさにそのようなことを告白したものです。そこには、

 あなたの指のわざである天を見、
 あなたが整えられた月や星を見ますのに、
 人とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを心に留められるとは。
 人の子とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを顧みられるとは。

と記されています。
 創世記2章7節に、

神であるは土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

と記されています「神である」は、土くれから陶器を作る陶器師の表象で表されています。ご自身の御手で丁寧に「人を形造り」、形造られた人と向き合うようにして、人の「鼻にいのちの息を吹き込まれ」ました。

 そこで人は生きものとなった。

と言われていますように、人が最初に自覚したことは、自分が神である主の御臨在[ヘブル語では「御顔」を意味するパーニームで表します]の御前にあるということ、神である主が御顔を自分に向けていてくださるということでした。この2章7節では、そのように人に親しく御顔を向けてくださっている契約の神である主、ヤハウェは、天地創造の御業を遂行された「」(エローヒーム)であられるということも示されています。壮大な宇宙のすべてのものを真実な御手で支えておられる神である主が、そのいつくしみの御顔を私たちそれぞれに向けてくださるというのです。これは、先ほどの詩篇8篇3節ー4節に記されています、

 人とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを心に留められるとは。
 人の子とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを顧みられるとは。

という驚きの告白に通じることです。
 契約の神である主、ヤハウェは、初めから、人をご自身の御臨在の御前に住まい、ご自身との愛の交わりに生きる者としてくださるために、人を愛を本質的な特性とする神のかたちにお造りになりました。そして、神のかたちに造られている人に、ご自身がお造りになったこの歴史的な世界のすべてを、ご自身のみこころにしたがって治める使命、すなわち、歴史と文化を造る使命を委ねてくださいました。創世記1章26節ー28節に、

神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されているとおりです。
 同じことが、先ほどの詩篇8篇3節ー4節に続く、5節ー6節には、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されています。
 ここで「あなた」と呼びかけられているのは、1節で、

 私たちの主、よ。

と呼びかけられている契約の神である主、ヤハウェです。5節で、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。

と言われていることは、契約の神である主、ヤハウェが、人を神のかたちにお造りになったことに触れています。そして、6節で、

 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と言われていることは、神のかたちに造られている人に歴史と文化を造る使命が委ねられたことに触れています。
 ここでは、人には「万物」が委ねられていることが示されています。この「万物」は、詩篇8篇の中では、7節ー8節において、

 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、
 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。

と言われている、この「地」に生息するすべての生き物たちです。これは、先ほど引用しました創世記1章26節ー28節に記されているみことばにも示されていることです。
 これとともに、この「万物」は、6節の、

 万物を彼の足の下に置かれました。

というみことばを引用している新約聖書のコリント人への手紙第一・15章27節、エペソ人への手紙1章22節、そして、ヘブル人への手紙2章8節では、これら「地」に生息するすべての生き物たちを越えて、神である主がお造りになった「すべてのもの」にまで当てはめています。そして、その意味での、

 万物を彼の足の下に置かれました。

と言われていることは、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされて、その完全な従順に対する報いとして、栄光を受けて死者の中からよみがえられ、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストによって成就されていることが示されています。
 このように、詩篇8篇6節の「万物」を神である主がお造りになった「すべてのもの」に適用すること、当てはめることは旧約聖書のみことばに根拠がない、その意味で不当な「拡大解釈」のように見えます。けれども、これは神のかたちに造られている人に委ねられている歴史と文化を造る使命がどのようなものであるかということに照らして見ますと、必ずしも、不当な「拡大解釈」とは言えません。そのことについて、考えてみましょう。
 詩篇8篇7節ー8節で、

 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、
 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。

と言われている生き物たちの中で、「」と「」は家畜を代表的に表しています。人は、自分の身近にいる生き物たちのため、より豊かな食べ物が行き渡るように、地を耕し、食物となる植物の手入れをすることができましたし、実際に、そのようにして、エデンの園を耕していました。ところが、「野の獣」、「空の鳥」、「海の魚」、「海路を通うもの」たちは、必ずしも、人の手の届く所に住んでいるわけではありません。ちなみに、「海路を通うもの」は魚以外の海の生き物、特に、回遊する海の生物のことを指していると考えられます。そうであれば、人はそれらの生き物のすべてを治めることはできないのではないかということになります。
 けれども、むしろこのことが、神のかたちに造られている人に委ねられている歴史と文化を造る使命がどのようなものであるかを示しています。人はそれらの生き物について、それらがどのような特徴をもっているか、どのようにして生息しているかということを調べることができます。実に多様な生き物が驚くべき特質をもっており、その生態も謎に満ちています。そのことをとおして、人はそれらをお造りになって、そのいのちを育んでくださっている神である主の知恵と力、真実さといつくしみに触れることができます。そして、そのことから神である主に一切の栄光を帰して、主を礼拝することができます。
 このように、神さまがお造りになったこの世界のあらゆるものを探り求めて、それらすべてのものに現されている造り主である神さまの知恵と力、真実さといつくしみを汲み取り、それによって神である主に一切の栄光を帰して、神である主を礼拝することに、歴史と文化を造る使命の核心があります。そして、実際に、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人には、この使命を果たすために必要な力が与えられています。それで、先ほどお話ししましたように、今日では、人の探究の範囲が137億年の彼方に広がっている宇宙の構造にまで及ぶようになっているわけです。またそのような巨視的な世界とは逆の素粒子の世界にまで及ぶようになっているわけです。もちろん、そうなったと言っても、この世界にはまだまだ分からないことがいくらでもあります。
 ただし、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、神さまから与えられたさまざまな賜物を用いてこの世界のすべてのものについて探究しますが、それによって、神である主に一切の栄光を帰して礼拝することはありません。
 いずれにしましても、これらのことも、神さまが人を神のかたちにお造りになって歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことにかかわっています。その意味では、先ほど触れました、コリント人への手紙第一・15章27節、エペソ人への手紙1章22節、そして、ヘブル人への手紙2章8節で、詩篇8篇6節の、

 万物を彼の足の下に置かれました。

というみことばに出てくる「万物」を神さまが創造の御業においてお造りになった「すべてのもの」にまで適用していることは、不当な拡大解釈とは言えません。むしろ、歴史と文化を造る使命の趣旨に沿っていると言うことができます。


 神さまがどのようにして人を神のかたちにお造りになったかについては、先ほど触れましたように、創世記2章7節に、

神であるは土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

と記されています。
 契約の神である主、ヤハウェは、ご自身の契約に基づいて、ご自身がお造りになったこの「」にご臨在されて、陶器師が丹精を込めて陶器を作るように人を形造られ、その鼻にいのちの息を吹き込まれました。人はその時から、そこにご臨在される神である主の御顔を仰ぎ見、神である主を礼拝することを中心として、主との愛の交わりに生きるようになりました。このことが、愛を本質的な特質とする神のかたちとしての人の最も基本的なあり方です。神のかたちに造られている人のいのちの本質は神である主との愛の交わりに生きることにあります。それで、神のかたちとしての人に委ねられている歴史と文化を造る使命も、神である主を礼拝することを中心とした歴史と文化を造る使命です。
 神である主はご自身のかたちにお造りになった人が、ご自身を礼拝することを中心として、ご自身との愛の交わりに生きることができるようにしてくださるために、ご自身がご臨在される所として「エデンの園」を設けられました。創世記2章8節ー9節に、

 神であるは東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。神であるは、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。

と記されているとおりです。
 エデンの園は神である主がご臨在される所としての豊かさと潤いと楽しみに満ちている所でした。8節では、

 神であるは、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。

と言われていますが、

 見るからに好ましく食べるのに良いすべての木

の「見るからに好ましく」とは、木が人の視覚に訴える、美しさ、さわやかさ、新鮮さ、豊かさなどのすべてを備えていたことを意味しています。それも、「見るからに好ましい・・・すべての木」ということで、あらゆる種類の木があって、その美しさにもさまざまな形があったことを示しています。また、「食べるのに良い」ということは、食べ物として良いということで、おいしくて、栄養価の高いものであったことを示しています。それも、「食べるのに良いすべての木」ということで、味も変化に富んでおり、栄養もバランスが取れるようになっていたということでしょう。これらの豊かさは、神である主の御臨在に伴う豊かさで、そこに神である主の御臨在があることを指し示していました。
 そのような意味をもっていた

 見るからに好ましく食べるのに良いすべての木

の中でも、特別な意味をもっていたのは、神である主がエデンの園の中央に生えさせられた「いのちの木」と「善悪の知識の木」でした。「いのちの木」と「善悪の知識の木」は、木そのものとしては、ほかの木と同じように「見るからに好ましく食べるのに良い」木でした。ただ、それらが園の中央に生えていて、それぞれに「いのちの木」と「善悪の知識の木」という特別な名がつけられていたことに違いがありました。
 「いのちの木」は神のかたちに造られている人のいのちの本質が、神である主を礼拝することを中心として、主との愛の交わりに生きることにあることと深くかかわっています。この「いのちの木」は、そこに目で見ることができない神である主がご自身の契約に基づいてご臨在してくださっていることを表示しています。そして、人が主の契約に基づく御臨在を信じて、この「いのちの木」から取って食べるときに、神である主の愛といつくしみをより現実的に覚える(実感する)ことができるようにしてくださるために、神である主が備えてくださった「恵みの手段」であったと考えられます。前回お話ししましたように、人はエデンの園において、常に、この「いのちの木」から取って食べていたと考えられます。
 これに対して、「善悪の知識の木」は、2章16節ー17節に、

神であるは人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

と記されていますように、「いのちの木」も含めて、ほかのどの木からでも食べてよい中で、この木からだけは食べてはならないと戒められていました。この木は、木そのものとしてはほかの木と同じように「見るからに好ましく食べるのに良い」木でした。それで、その木に有害なものがあるわけではありません。しかも、ほかにいくらでもその実を食べることができる木があるわけですから、この木から取って食べないことで何か不都合が生じることはありません。ですから、その木から取って食べてはいけない理由はただ一つ、神である主がそのように命じられたからであるということだけです。人はこの「善悪の知識の木」を見て、契約の神である主、ヤハウェこそが主であられ、自分は主の契約のしもべであり、主のみこころに従うべきものであることを、改めて、思い起こすことができました。
 エデンの園においては、人がなすことがすべて豊かな実を結ぶようになっていました。そのような状態が続いていくうちに、人は自分には何でもできるというような高ぶりに陥りかねません。実際に、それはサタンが陥ったわなです。そのような人が、「善悪の知識の木」を見て、自分は主の契約のしもべであることを、改めて、思い起こすことができたのです。その意味で、「善悪の知識の木」も、神である主が備えてくださった「恵みの手段」でした。人は「いのちの木」から取って食べるたびに、この「善悪の知識の木」を見ることになります。そして、契約の神である主、ヤハウェこそが主であられ、自分が神である主のしもべであり、神である主を主として礼拝することを中心として、主との愛の交わりに生きる恵みにあずかっていることを、常に新たに思い起こすように導かれていました。
 すでにお話ししましたように、人は神さまがお造りになったこの世界のすべてのものをとおして現されている神さまの知恵と力、真実といつくしみを汲み取りつつ、一切の栄光を神である主に帰して、主を礼拝することを中心として、神さまから委ねられている歴史と文化を造る使命を果たします。神である主はご自身の契約において、人がそのようにして、歴史と文化を造る使命を果たしていく中で、神さまのみこころに従いとおしたときに、その従順に対する報いとして、最初に神のかたちに造られた時の栄光にまさる栄光を人に与えてくださることを約束してくださいました。
 そのようにして、人が最初に神のかたちに造られた時の栄光にまさる栄光を与えられる状態を表示していたのが、「神のようになる」ということを表示していた「善悪の知識の木」という名でした。ただし、それは、「善悪の知識の木」から取って食べることによって実現することではありません。人が「善悪の知識の木」に関する神である主の戒めが示している、神である主こそが契約の主であられ、自分は主の契約のしもべであって、主を神として恐れ、敬い、愛するからこそ、主のみこころに従って、歴史と文化を造る使命を果たしていくことによって、そのことに対する報いとして、神である主から与えられる栄光の状態でした。
 先ほどお話ししましたように、イエス・キリストは父なる神さまを愛して、十字架の死に至るまで、そのみこころに従いとおされました。そして、そのことに対する報いとして、栄光をお受けて死者の中からよみがえられ、父なる神さまの右の座に着座されました。それは、まことの人となって来てくださったイエス・キリストが、その人としての性質において獲得してくださった栄光です。
 しかし、実際には、人は「善悪の知識の木」そのものに人を「神のようにする」力があるというサタンのことばを信じて、「善悪の知識の木」から取って食べて、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。それは、「善悪の知識の木」に関する神である主の戒めが示していた、神である主を契約の主として愛して、恐れ、敬いつつそのみこころに従うべきことを真っ向から否定することでした。
 このようにして、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人は、その本性が罪によって汚れてしまい、神である主を神として愛し、恐れ敬いつつそのみこころに従うことができなくなってしまいました。さらに、罪によって本性が汚れてしまっている人は。神である主を神として認めることはありません。それで、自分が神である主に対して罪を犯してしまったために、そして、常に罪を犯してしまう者であるために、死の力に捕らえられ、主の御臨在の御前から退けられてしまっていることを認めることはありません。そのような状態にある人は、エデンの園にある「いのちの木」の実が「不老長寿の薬」であるかのように考えて、その実を食べようとするでしょう。しかし、そのように罪に汚れてしまっている人が、まさに「いのちの木」が表示している、エデンの園にご臨在される神である主の御前に近づきますと、主の聖さを冒すものとして、さばきを受けて滅ぼされてしまいます。それで、神である主は、ご自身の聖さを守られるために、また、人がご自身の聖さを冒して滅ぼされることがないようにしてくださるために、人をエデンの園から追放されました。創世記3章22節ー24節に、

神であるは仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」そこで神であるは、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

と記されているとおりです。
 ここで注目したいのは、神である主は、人がご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後も、エデンの園とその中央に生えている「いのちの木」と「いのちの木への道」をそのまま残されたということです。ただ、その、

 いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

と言われています。これによって、自らの罪によって汚れてしまった人が罪のあるままで主の御臨在の御許に近づいて、主の聖さを冒して、滅ぼされてしまうことがないようにしてくださいました。
 おそらく、エデンの園はノアの時代の大洪水によるさばきのときに地上から取り去られたのではないかと考えられます。
 もう一つ注目したいことは、神である主はこのようにご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人をエデンの園から追放される前に、3章15節に記されています、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

という、「」を用いてエバを誘惑したサタンに対するさばきの宣言において、「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主を約束してくださっているということです。人はこの贖い主の約束を与えられた上で、エデンの園から追放されたのです。
 この二つのことをとおして示されている神である主のみこころは、この「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主の贖いの御業をとおして、「女の子孫」たちが再び神である主の民として回復されて、ご自身を礼拝することを中心として、ご自身との愛の交わりのうちに生きるようになること、新しい時代の歴史と文化を造る使命を果たすようになることです。
 実際に、神さまはご自身の御子イエス・キリストを、私たちのための贖い主としてお遣わしになりました。そして、その十字架の死をもって私たちの罪を完全に贖ってくださいました。そればかりでなく、先ほどお話ししましたように、イエス・キリストはその十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされて、その従順に対する報いとして、栄光をお受けになって死者の中かからよみがえられました。
 このすべては、私たちご自身の契約の民のためになされたことです。私たちはイエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を贖っていただいているだけではありません。イエス・キリストの復活にもあずかって、より豊かな栄光にある状態において、契約の神である主との愛の交わりに生きること、すなわち、永遠のいのちにあずかっています。これによって、私たちは父なる神さまを「アバ、父」と呼ぶ、神の子どもとしていただいています。その意味で、「善悪の知識の木」が指し示していた「神のようになる」ことが実現しています。このことは、すでに私たちの間の現実になっていますが、その完全な実現は、終わりの日において再臨されるイエス・キリストによってもたらされます。そして、そのことが、黙示録2章7節の、

 勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。

というみことばにおいて約束されています。


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