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説教日:2014年8月10日 |
神さまがどのようにして人を神のかたちにお造りになったかについては、先ほど触れましたように、創世記2章7節に、 神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。 と記されています。 契約の神である主、ヤハウェは、ご自身の契約に基づいて、ご自身がお造りになったこの「地」にご臨在されて、陶器師が丹精を込めて陶器を作るように人を形造られ、その鼻にいのちの息を吹き込まれました。人はその時から、そこにご臨在される神である主の御顔を仰ぎ見、神である主を礼拝することを中心として、主との愛の交わりに生きるようになりました。このことが、愛を本質的な特質とする神のかたちとしての人の最も基本的なあり方です。神のかたちに造られている人のいのちの本質は神である主との愛の交わりに生きることにあります。それで、神のかたちとしての人に委ねられている歴史と文化を造る使命も、神である主を礼拝することを中心とした歴史と文化を造る使命です。 神である主はご自身のかたちにお造りになった人が、ご自身を礼拝することを中心として、ご自身との愛の交わりに生きることができるようにしてくださるために、ご自身がご臨在される所として「エデンの園」を設けられました。創世記2章8節ー9節に、 神である主は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。 と記されているとおりです。 エデンの園は神である主がご臨在される所としての豊かさと潤いと楽しみに満ちている所でした。8節では、 神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。 と言われていますが、 見るからに好ましく食べるのに良いすべての木 の「見るからに好ましく」とは、木が人の視覚に訴える、美しさ、さわやかさ、新鮮さ、豊かさなどのすべてを備えていたことを意味しています。それも、「見るからに好ましい・・・すべての木」ということで、あらゆる種類の木があって、その美しさにもさまざまな形があったことを示しています。また、「食べるのに良い」ということは、食べ物として良いということで、おいしくて、栄養価の高いものであったことを示しています。それも、「食べるのに良いすべての木」ということで、味も変化に富んでおり、栄養もバランスが取れるようになっていたということでしょう。これらの豊かさは、神である主の御臨在に伴う豊かさで、そこに神である主の御臨在があることを指し示していました。 そのような意味をもっていた 見るからに好ましく食べるのに良いすべての木 の中でも、特別な意味をもっていたのは、神である主がエデンの園の中央に生えさせられた「いのちの木」と「善悪の知識の木」でした。「いのちの木」と「善悪の知識の木」は、木そのものとしては、ほかの木と同じように「見るからに好ましく食べるのに良い」木でした。ただ、それらが園の中央に生えていて、それぞれに「いのちの木」と「善悪の知識の木」という特別な名がつけられていたことに違いがありました。 「いのちの木」は神のかたちに造られている人のいのちの本質が、神である主を礼拝することを中心として、主との愛の交わりに生きることにあることと深くかかわっています。この「いのちの木」は、そこに目で見ることができない神である主がご自身の契約に基づいてご臨在してくださっていることを表示しています。そして、人が主の契約に基づく御臨在を信じて、この「いのちの木」から取って食べるときに、神である主の愛といつくしみをより現実的に覚える(実感する)ことができるようにしてくださるために、神である主が備えてくださった「恵みの手段」であったと考えられます。前回お話ししましたように、人はエデンの園において、常に、この「いのちの木」から取って食べていたと考えられます。 これに対して、「善悪の知識の木」は、2章16節ー17節に、 神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」 と記されていますように、「いのちの木」も含めて、ほかのどの木からでも食べてよい中で、この木からだけは食べてはならないと戒められていました。この木は、木そのものとしてはほかの木と同じように「見るからに好ましく食べるのに良い」木でした。それで、その木に有害なものがあるわけではありません。しかも、ほかにいくらでもその実を食べることができる木があるわけですから、この木から取って食べないことで何か不都合が生じることはありません。ですから、その木から取って食べてはいけない理由はただ一つ、神である主がそのように命じられたからであるということだけです。人はこの「善悪の知識の木」を見て、契約の神である主、ヤハウェこそが主であられ、自分は主の契約のしもべであり、主のみこころに従うべきものであることを、改めて、思い起こすことができました。 エデンの園においては、人がなすことがすべて豊かな実を結ぶようになっていました。そのような状態が続いていくうちに、人は自分には何でもできるというような高ぶりに陥りかねません。実際に、それはサタンが陥ったわなです。そのような人が、「善悪の知識の木」を見て、自分は主の契約のしもべであることを、改めて、思い起こすことができたのです。その意味で、「善悪の知識の木」も、神である主が備えてくださった「恵みの手段」でした。人は「いのちの木」から取って食べるたびに、この「善悪の知識の木」を見ることになります。そして、契約の神である主、ヤハウェこそが主であられ、自分が神である主のしもべであり、神である主を主として礼拝することを中心として、主との愛の交わりに生きる恵みにあずかっていることを、常に新たに思い起こすように導かれていました。 すでにお話ししましたように、人は神さまがお造りになったこの世界のすべてのものをとおして現されている神さまの知恵と力、真実といつくしみを汲み取りつつ、一切の栄光を神である主に帰して、主を礼拝することを中心として、神さまから委ねられている歴史と文化を造る使命を果たします。神である主はご自身の契約において、人がそのようにして、歴史と文化を造る使命を果たしていく中で、神さまのみこころに従いとおしたときに、その従順に対する報いとして、最初に神のかたちに造られた時の栄光にまさる栄光を人に与えてくださることを約束してくださいました。 そのようにして、人が最初に神のかたちに造られた時の栄光にまさる栄光を与えられる状態を表示していたのが、「神のようになる」ということを表示していた「善悪の知識の木」という名でした。ただし、それは、「善悪の知識の木」から取って食べることによって実現することではありません。人が「善悪の知識の木」に関する神である主の戒めが示している、神である主こそが契約の主であられ、自分は主の契約のしもべであって、主を神として恐れ、敬い、愛するからこそ、主のみこころに従って、歴史と文化を造る使命を果たしていくことによって、そのことに対する報いとして、神である主から与えられる栄光の状態でした。 先ほどお話ししましたように、イエス・キリストは父なる神さまを愛して、十字架の死に至るまで、そのみこころに従いとおされました。そして、そのことに対する報いとして、栄光をお受けて死者の中からよみがえられ、父なる神さまの右の座に着座されました。それは、まことの人となって来てくださったイエス・キリストが、その人としての性質において獲得してくださった栄光です。 しかし、実際には、人は「善悪の知識の木」そのものに人を「神のようにする」力があるというサタンのことばを信じて、「善悪の知識の木」から取って食べて、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。それは、「善悪の知識の木」に関する神である主の戒めが示していた、神である主を契約の主として愛して、恐れ、敬いつつそのみこころに従うべきことを真っ向から否定することでした。 このようにして、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人は、その本性が罪によって汚れてしまい、神である主を神として愛し、恐れ敬いつつそのみこころに従うことができなくなってしまいました。さらに、罪によって本性が汚れてしまっている人は。神である主を神として認めることはありません。それで、自分が神である主に対して罪を犯してしまったために、そして、常に罪を犯してしまう者であるために、死の力に捕らえられ、主の御臨在の御前から退けられてしまっていることを認めることはありません。そのような状態にある人は、エデンの園にある「いのちの木」の実が「不老長寿の薬」であるかのように考えて、その実を食べようとするでしょう。しかし、そのように罪に汚れてしまっている人が、まさに「いのちの木」が表示している、エデンの園にご臨在される神である主の御前に近づきますと、主の聖さを冒すものとして、さばきを受けて滅ぼされてしまいます。それで、神である主は、ご自身の聖さを守られるために、また、人がご自身の聖さを冒して滅ぼされることがないようにしてくださるために、人をエデンの園から追放されました。創世記3章22節ー24節に、 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。 と記されているとおりです。 ここで注目したいのは、神である主は、人がご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後も、エデンの園とその中央に生えている「いのちの木」と「いのちの木への道」をそのまま残されたということです。ただ、その、 いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。 と言われています。これによって、自らの罪によって汚れてしまった人が罪のあるままで主の御臨在の御許に近づいて、主の聖さを冒して、滅ぼされてしまうことがないようにしてくださいました。 おそらく、エデンの園はノアの時代の大洪水によるさばきのときに地上から取り去られたのではないかと考えられます。 もう一つ注目したいことは、神である主はこのようにご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人をエデンの園から追放される前に、3章15節に記されています、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 という、「蛇」を用いてエバを誘惑したサタンに対するさばきの宣言において、「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主を約束してくださっているということです。人はこの贖い主の約束を与えられた上で、エデンの園から追放されたのです。 この二つのことをとおして示されている神である主のみこころは、この「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主の贖いの御業をとおして、「女の子孫」たちが再び神である主の民として回復されて、ご自身を礼拝することを中心として、ご自身との愛の交わりのうちに生きるようになること、新しい時代の歴史と文化を造る使命を果たすようになることです。 実際に、神さまはご自身の御子イエス・キリストを、私たちのための贖い主としてお遣わしになりました。そして、その十字架の死をもって私たちの罪を完全に贖ってくださいました。そればかりでなく、先ほどお話ししましたように、イエス・キリストはその十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされて、その従順に対する報いとして、栄光をお受けになって死者の中かからよみがえられました。 このすべては、私たちご自身の契約の民のためになされたことです。私たちはイエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を贖っていただいているだけではありません。イエス・キリストの復活にもあずかって、より豊かな栄光にある状態において、契約の神である主との愛の交わりに生きること、すなわち、永遠のいのちにあずかっています。これによって、私たちは父なる神さまを「アバ、父」と呼ぶ、神の子どもとしていただいています。その意味で、「善悪の知識の木」が指し示していた「神のようになる」ことが実現しています。このことは、すでに私たちの間の現実になっていますが、その完全な実現は、終わりの日において再臨されるイエス・キリストによってもたらされます。そして、そのことが、黙示録2章7節の、 勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。 というみことばにおいて約束されています。 |
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