黙示録講解

(第172回)


説教日:2014年8月17日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章8節ー11節
説教題:スミルナにある教会へのみことば(1)


 黙示録2章ー3章には栄光のキリストが「アジヤにある七つの教会」(1章4節)のそれぞれに語りかけておられるみことばが記されています。
 これまで2章1節ー7節に記されていますエペソにある教会へのみことばについてお話ししてきました。今日から、2章6節ー11節に記されています、イエス・キリストがスミルナにある教会に語りかけておられるみことばについてお話しします。改めてそれをお読みいたしますと、そこには、

 また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。
「初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。『わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。』」

と記されています。
 今日は、ここに記されている、スミルナにある教会に語られたイエス・キリストのみことばの背景となっていることを、いくつかお話しします。


 まず、「アジヤにある七つの教会」の中でのスミルナの地理的な位置関係を見ておきます。
 復習になりますが、この場合の「アジヤ」はローマ帝国の属州である「アジヤ」のことで、今の小アジアの西の部分に当たり、その西側はエーゲ海に面しています。
 「アジヤにある七つの教会」のあった町の名前は、1章11節に、

 エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤ

と記されています。そして、2章ー3章では、ここに出てくる順序に従って、それぞれの町にあった教会に語りかけられたイエス・キリストのみことばが記されています。
 この順序は、地理的な位置関係を反映しています。
 ヨハネは「アジヤにある七つの教会」全体に目配りをしているという意味で「アジヤにある七つの教会」の牧会者であったと考えられますが、ヨハネが拠点として住んでいたのはエペソです。ただ、この時は、1章9節に、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

と記されていますように、ヨハネは捕らえられて「パトモスという島」に流刑となっていました。
 そして、これら七つの町のうち、パトモスから最も近い港湾都市はエペソでした。また、エペソはアジアにおいて、政治的にも、経済的にも、また宗教的にも第一の都市で、アジアの中心地でもありました。
 先ほどの、

 エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤ

という町の名前の順序は、このエペソから始まっていて、スミルナ、ペルガモと北上していき、そこから、南東にテアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、そして、ラオデキヤと下っていく環状道路に面していました。このようなことから、エペソにある教会に続いて、スミルナにある教会が取り上げられています。
 スミルナはエペソの約60キロメートル北にある、エーゲ海東岸にある細長い湾の南東岸にある港湾都市です。「アジヤにある七つの教会」のあった七つの都市のうち、ただ一つ今もある都市で、現在はトルコのイズミルです。
 歴史をたどりますと、古くは紀元前千年以上前から、アイオリス人、次いでイオニア人の植民地として建設されました。紀元前575年にリュディアのアリュアッテス王によって破壊されました。その後、前334年に東に遠征したアレクサンドロス大王がスミルナの再建を命じました。スミルナは前290年に、彼の後継者たちによって、それまでより港に近い所に再建されました。
 スミルナはローマ帝国の時代には、エペソに並んで栄えていました。ただ先ほどお話ししましたように、エペソがアジア州における第一の都市でした。スミルナは港湾都市として繁栄しましたが、それは、スミルナが肥沃なヘルモ低地につながっていて、その地の産物の流通において重要な役割を果たしていたことにもよっていました。
 スミルナはその美しさと、アジア州最大の劇場、さらには競技場、図書館などの建造物で知られていました。その当時のいくつかのコインには、スミルナのことが「美しさと大きさにおいてアジアでいちばん」と刻印されていました。それはスミルナの誇りでもありました。また、異論もありますが、スミルナはギリシアの詩人でイリアスやオデッセイアの作者であるホメロスの誕生の地とも言われています。
 港を望むように立っている小高い丘陵であるパゴス山の回りには道路が走っていて、女神の像の首飾りのようであると言われていました。そして、その道路の一方の端には、ゼウスの神殿、他方の端には、大地の女神キュベレーの神殿がありました。
 スミルナは歴史的、伝統的にローマに忠誠を尽くしてきました。まだローマがカルタゴと覇権を争っていたとき(前265年ー146年頃)に、スミルナはローマ側につき、前195年にローマを人格化したとされる女神ローマのための神殿を建設した最初の都市となりました。そして、タキトゥスの記録によりますと、前23年にアジアのほかの10都市に先駆けて皇帝ティベリウスのための神殿を建設する許可を得ました。このように、スミルナはローマ帝国との特別な関係にありました。
 スミルナにある教会がいつどのように形成されたかについては記録がありません。けれども、パウロがその第3次伝道旅行においてエペソに滞在していたときのことを記している使徒の働き19章8節ー10節には、

それから、パウロは会堂に入って、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、彼らを説得しようと努めた。しかし、ある者たちが心をかたくなにして聞き入れず、会衆の前で、この道をののしったので、パウロは彼らから身を引き、弟子たちをも退かせて、毎日ツラノの講堂で論じた。これが二年の間続いたので、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。

と記されています。また、このパウロの宣教の結果として、女神アルテミスとその神殿をめぐる騒動が起こったことを記している25節後半ー27節には、

皆さん。ご承知のように、私たちが繁盛しているのは、この仕事のおかげです。ところが、皆さんが見てもいるし聞いてもいるように、あのパウロが、手で作った物など神ではないと言って、エペソばかりか、ほとんどアジヤ全体にわたって、大ぜいの人々を説き伏せ、迷わせているのです。これでは、私たちのこの仕事も信用を失う危険があるばかりか、大女神アルテミスの神殿も顧みられなくなり、全アジヤ、全世界の拝むこの大女神のご威光も地に落ちてしまいそうです。

という、銀細工職人デメリオのことばが記されています。ここで、デメリオは、パウロが、

エペソばかりか、ほとんどアジヤ全体にわたって、大ぜいの人々を説き伏せ、迷わせている

と述べています。このことは、10節において、

 アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。

と言われていることが、エペソの住民たちの間でも知れ渡っていたことを示しています。このことから、パウロがスミルナにおいても福音を宣べ伝えていたと考えられます。
 先ほどお話ししましたように、スミルナはエペソの約60キロメートルにある町でしたし、港湾都市として繁栄していました。また、パウロはその地方にある重要な都市に福音を伝えて、そこからさらに福音がその地方一帯に伝えられていくという宣教の方策をとっていたと考えられます。これらのことも、パウロがエペソに滞在していた「二年の間」にスミルナにおいても福音を宣べ伝えたことを支持しています。というより、これらのことから、10節において、

 アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。

と言われているときの「アジヤに住む者はみな」の中にスミルナに住んでいる人々が入っていないということの方が考えにくいことです。
 黙示録2章9節後半に記されています、

またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。

というイエス・キリストのみことばからもうかがわれますが、スミルナには多くのユダヤ人が住んでいて、クリスチャンたちに対して敵対的でした。これには歴史的な事情があったと考えられていますが、それにつきましては、後ほど一般的なことをお話ししますが、9節を取り上げるときに、改めてお話ししたいと思います。
 このようにスミルナのユダヤ人たちがクリスチャンたちに敵対的であったことと、スミルナが伝統的にローマに忠誠を尽くしてきた町であり、皇帝礼拝に熱心な地でもあったことから、この町でクリスチャンとして生きることがきわめて困難なことであったことが分かります。スミルナがエーゲ海に面する港湾都市として、エペソと並んで繁栄した町であったにもかかわらず、9節前半に記されています、

 わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる――

というイエス・キリストのみことばが示していますように、この町で主の民として生きることは、大きな苦難と経済的な貧困にさらされることになりました。それは、スミルナにある教会のクリスチャンたちに加えられた迫害によっていました。それで、10節には、

あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

というイエス・キリストのみことばが記されています。

 このこととの関連でお話ししておきたいことは、スミルナの司教であったポリュカルポスの殉教のことです。
 ポリュカルポスは、アンティオキア(アンテオケ)イグナティオス(イグナティウス)、ローマのクレメンスなどとともに、「使徒教父」、すなわち、使徒たちの弟子であった教父として知られています、伝承によりますと、ポリュカルポスは若い頃に使徒ヨハネから教えられたヨハネの弟子でした。ポリュカルポスはヨハネによってスミルナの司教に任命されました。その後、ポリュカルポスはアジア州における指導的な主教となったようです。
 ポリュカルポスは86歳で殉教者となりました。彼の殉教については『ポリュカルポスの殉教』という古い報告が存在しています。おそらく皆さんも、いろいろな機会に耳にしておられるのではないかと思います。ポリュカルポスはスミルナにおける12番目の殉教であったと言われています。
 ここで、少し長くなりますが、手元にあります、教会史の研究者として知られている、R・H・ベイントンの『世界キリスト教史物語』の20頁ー22頁に記されています、ポリュカルポスの殉教に関する記述を引用したいと思います。これは『ポリュカルポスの殉教』に基づいて記されているもので、言うまでもなく、かなりの省略があります。
 以下は引用です。

 現在のトルコの都市スミルナに、この種のある事件が起こりました。群衆はこう叫びました。「無神論者を追放せよ!」([ローマ帝国では人々が]神々を信じないキリスト教徒を無神論者と呼びました)。「ポリュカルポスを捕らえろ」。スミルナの老司教ポリュカルポスは、いのちを捨てて殉教しようとしましたが、友人たちがしいていなかのある小さな農家に身を避けるように説きつけました。彼はそこで捕らえられて、スミルナに連れもどされました。たまたまその妹がキリスト教徒であったところの上級官吏は、ポリュカルポスとともに乗馬でこの都市に向かう途中で、こう言ったものです。
「『カイゼル(皇帝)は神にまします』と言って、祭壇に香をたき、身の安全をはかることがどうして悪いのか。」
 ポリュカルポスはこれを拒否し、闘技場にひかれてライオンのえじきとされることになりました。総督は死刑を免れうる機会を三度まで与えました。最初に「無神論者を追放せよ!」と言うように命ぜられました。ポリュカルポスは桟敷の異教徒を指して、「無神論者を追放せよ!」と言いました。総督はもう一度機会を与えました。
「キリストを呪え。」ポリュカルポスは答えました。「私は86年間キリストに仕えてきましたが。キリストは私になんの害も与えたまいませんでした。私を救いたもう主をののしることができますか。」
 三度目に総督は言いました。「カイゼルにかけて誓え」。ポリュカルポスは答えました。「私はキリスト教徒です。もし総督がキリスト教のなんたるかを知りたいならば、日を改めて私の語るところに耳をかたむけていただきたい」。「人民たちに説き教えたらよかろう」と総督は言いました。・・・中略・・・[注 この「・・・中略・・・」とした個所は、総督とポリュカルポスとのやり取りではなく、掲載されている図画についての著者の説明がカッコに入れられています。この後の2人のやり取りを、別の資料から補足しておきます。
 総督はポリュカルポスに「私の所には野獣がいるが、お前が悔い改めないなら、お前をその中に投げ込むぞと言いました。]
 「野獣を連れて来たらよいでしょう」。ポリュカルポスが言いました。「もしおまえが野獣をあなどるならば、お前も焼き殺してしまうぞ。」
「総督は一時間しか燃えない火で、私をおびやかそうとしていますが、永遠に消えない地獄の火のことを忘れています。」
 総督は民衆に呼びかけて言いました。「ポリュカルポスは自らキリスト教徒だと豪語しているぞよ」。そこで群衆はどよめきました。「こいつはアジアの教師だ。キリスト教徒の首領だ。俺たちの神々を破壊する奴だ」と叫びました。
 ポリュカルポスは火刑に処せられました。死にのぞんで彼はこう祈りました。「全能の主なる神、イエス・キリストのおん父、いまこの時にあたり、キリストの苦しみにあずかって殉教者の列に加わり、聖霊によってよみがえるにふさわしい者と見なしたもうゆえに、あなたをほめたたえます。この身を神のよみしたもう犠牲たらしめたまえ。イエス・キリストをとおして、あなたをあがめ、あなたをほめたたえ、あなたを讃美いたします。」

 以上で引用は終わりです。ポリュカルポスが捕らえられたときの様子を、もう少し補足しておきます。
 ポリュカルポスを追ってきた人々が彼のいる農家に来たとき、彼は2階のベッドにいました。追っ手の人々が来たことを知ったポリュカルポスは、別の納屋に逃げることもできましたが、そうしないで、自分から降りてきて、彼らに話しかけました。ポリュカルポスを見た人々は彼の年齢と冷静沈着さに驚きました。その時、ポリュカルポスは、彼の伴の者たちに、追っ手の人々が望むだけの食べ物と飲み物を用意して、彼らに与えるようにと命じました。そして、煩わされることなく祈るために一時間の猶予を与えてくれるよう、彼らに願いました。彼らがそれを受け入れたとき、ポリュカルポスは立ち上がって祈りました。彼は神の恵みに満たされていましたので、2時間もの間、祈りをやめることができませんでした。彼のことばを聞いた多くの人々は、このように敬虔で尊敬すべき老人を捕まえにきたことを後悔し始めていました。

 『世界キリスト教史物語』にはローマ帝国においてキリスト教徒が迫害を受けるようになった理由が記されていますので、それも引用して紹介いたします。15頁には、

 ローマ人は進んで皇帝を拝し、その祭壇に香をたきました。キリスト教徒はこういうことをすることを拒否しました。ローマ人は兵士として国家に奉仕し、蛮族と戦って帝国の守護に当たりましたキリスト教徒は敵を愛せよというキリストの教えを受けていましたから、兵役に服したがりませんでした。その他ローマの社会では当たりまえのこととされていた多くのことを、キリスト教徒はしようとしなかったのです。こうしてローマ人はキリスト教が新しい宗教であることを知り、彼らの立場からするとはなはだ危険な宗教であると見たのです。支配者たちはキリスト教徒を処罰し始めました。

と記されています。
 ここで、「ローマの社会では当たりまえのこととされていた多くのことを、キリスト教徒はしようとしなかった」と言われていますが、それがどのようなことであったかについても、さらに説明されています。17頁ー20頁に記されていることから、そのいくつかを、いくらか省略したり、語句の変更をしますが、引用いたします。

 キリスト教徒の彫刻家は異教徒の偶像を制作したり、墓石に依頼主の神々の像を彫ることを依頼されても断りました。
 ローマ人が大衆の娯楽のために、戦争で捕虜になった人や奴隷の一方が倒れるまで闘わせた拳闘を見に行こうとはしませんでした。
 キリスト教徒が劇場に行こうとしなかったのは、演劇が残虐であり、下品であったからです。
 キリスト教徒が法廷に行こうとしなかったのは、キリスト教徒が争いを起こしたときには、自分たちの間で解決すべきであるとパウロが教えているからです。[注 これはコリント人への手紙第一・6章1節ー7節に記されているパウロの教えのことです。1節には、

あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるのでしょうか。

と記されていますし、5節ー6節には、

私はあなたがたをはずかしめるためにこう言っているのです。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。それで、兄弟は兄弟を告訴し、しかもそれを不信者の前でするのですか。

と記されています。]
 キリスト教徒は奴隷を所有していましたが、親切な扱いをして、教会の中では他のだれとも変わらない権利を持つことを認めていました。以前には奴隷であった者が、ローマの司教になった例もあります。
 キリスト教徒は異教徒とは違って、弱い子どもや欲しくない子どもを森に連れて行って死なせてしまったり、盗賊がかすめるのにゆだねるというようなことはしませんでした。もしキリスト教徒の婦人が異教徒と結婚して女の子が生まれると、父親は「捨ててしまえ」と言ったでしょうが、母親はそれを拒否したものです。

 これらが「ローマの社会では当たりまえのこととされていた多くのことを、キリスト教徒がしようとしなかった」ことの事例です。このようなことから、人々はキリスト教徒のことを頑迷奇矯な者であり、「人類の敵」であるとさえ思ったようです。
 それで、キリスト教徒について、多くの事実無根の噂が広まり、ますます憎悪の念がましていきました。そのような事実無根の噂の例は、キリスト教徒は人食い人種であって、赤ちゃんを食べているというものでした。これは迫害のさなかに、主の晩餐を秘密裏に行ったところから出たものでした。異教徒の人々は、イエス・キリストの肉を食べ、その血を飲むということが語られるのを聞いて、仰天したことでしょう。ベイントンは、

 このような恐るべきことをする人々が生存を許されているならば、あらゆる災厄を地上にもたらすに違いない、と大衆は考えたのです。こんな悪事は、神々を怒らせて、単にキリスト教徒に天罰を加えるばかりでなく、彼らの生存を許している人々までも罰するようになるだろうというのでした。家畜が死んだり、ティベル川の堤防が決壊したりすると、異教徒は異口同音に言いました。「それ見たことか!キリスト教徒をライオンのえじきにしてしまおう。」

と記しています。
 これがローマ帝国でクリスチャンたちが誤解され、迫害されていくようになった一般的な事情です。そして、一般的に、迫害はローマ帝国内においてよりも、その属州においてより厳しいものであったと言われています。
 このようなことが背景となって、スミルナにある教会の信徒たちは厳しい迫害にさらされ、苦しみと貧しさのうちを歩まなければなりませんでした。実際に、スミルナにある教会は、同じく迫害にさらされていたフィラデルフィヤにある教会と同様に、「アジヤにある七つの教会」のうちで、最も小さな教会であったと考えられています。
 今日のいわゆる「繁栄の福音」になじんでいる人々の目からは、スミルナにある教会の信徒たちは、スミルナという繁栄している港湾都市にあるのに、人々から置き去りにされた「負け組」としか見えないことでしょう。実際、ここに記されているスミルナにある教会の信徒たちの描写には、「繁栄の福音」になじんでいる人々が考えている神からの祝福のかけらさえも見られません。そのような教会は気の毒がられるか、無視されてしまうに違いありません。
 しかし、イエス・キリストは、スミルナにある教会の信徒たちに、

 わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。

と語りかけておられます。イエス・キリストはスミルナにある教会の信徒たちの苦境をつぶさに見ておられますし、知ってくださっています。そればかりでなく、

 しかしあなたは実際は富んでいる

と語りかけておられます。この世的な繁栄はありませんが、父なる神さまと御子イエス・キリストの御前においては、スミルナにある教会の信徒たちは富んでいると宣言してくださっています。
 これこそは、かつてイエス・キリストご自身が、弟子たちに教えられた、真に祝福された状態ではなかったでしょうか。ルカの福音書6章20節ー23節には、

イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。
 「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。
 いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。
 いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。
 人の子のため、人々があなたがたを憎むとき、あなたがたを除名し、辱め、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。その日には喜びなさい、おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。彼らの父祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。

と記されています。


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