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説教日:2014年8月31日 |
タキトゥス『年代記』(国原吉之助訳 岩波文庫)下
269ー270頁
これはネロ(在位54年ー68年)の晩年におけるクリスチャンに対する迫害のことです。ネロは68年に自死しますので、64年は彼の晩年のことになります。このタキトゥスの記録からも、ローマ帝国において、クリスチャンたちがどのように考えられていたかをうかがうことができます。 このネロの時代に黙示録が記されたと主張する学者たちは多くいます。それには、それとしての説得力がありますので、その可能性は否定できません。しかし、このネロの時代にローマ帝国内でクリスチャンへの迫害がなされていたことは確かですが、属州においても、クリスチャンに対する迫害がなされていたということを示す資料が今のところ見つかっていないようです。もし、黙示録がネロの時代に記されたとするなら、その時代に、属州においてもクリスチャンへの迫害がなされていたことの唯一の見つかっている記録であるということになります。黙示録が記された年代については、どちらとも言い難い状態ながら、ドミティアヌス帝の時代の90年代の中ごろに記された可能性の方が高いのではないかと思われます。いずれにしましても、ローマ帝国内、また、属州におけるクリスチャンたちの置かれている状況の厳しさには変わりがなかったと考えられます。 * * * 黙示録2章8節には、 また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。 「初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。 と記されています。 ここでイエス・キリストは御自身のことを、 初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方 として示しておられます。これは、イエス・キリストが黙示録の著者であるヨハネにご自身の栄光の御姿を現してくださったことを記している1章10節ー18節の最後の部分である17節ー18節に、 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。 と記されている中で、イエス・キリストがヨハネに語りかけられた、 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。 というみことばを受けています。 2章8節に記されています、 初めであり、終わりである方 というみことばは、1章17節後半に記されています、 わたしは、最初であり、最後である というイエス・キリストのみことばを受けています。それで、 初めであり、終わりである方 というみことばを理解するためには、 わたしは、最初であり、最後である というイエス・キリストのみことばを理解する必要があります。 この わたしは、最初であり、最後である というイエス・キリストのみことばには、二つの背景があります。 今日は、その二つの背景のうちの、より根本にあることを取り上げます。この、 わたしは、最初であり、最後である というイエス・キリストのみことばは、原文のギリシャ語では(「エゴー・エイミ・ホ・プロートス・カイ・ホ・エスカトス」で)強調形の、 わたしは・・・である(エゴー・エイミ・・・) で表されています。このことは、イエス・キリストが、契約の神である主、ヤハウェであられることを意味しています。 出エジプト記3章に記されていますが、神さまはエジプトの奴隷となっていたイスラエルの民を、奴隷の状態から贖い出してくださるためにモーセをエジプトにお遣わしになりました。その際に、14節ー15節に記されていますが、神さまはご自身の御名が、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名であることをモーセに啓示してくださいました。ヘブル語聖書のギリシャ語訳である七十人訳では、この御名は、 エゴー・エイミ・ホ・オーン「わたしは存在する者である」 と、やはり、強調形の、 わたしは・・・である(エゴー・エイミ・・・) で表されています。 この、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名は「在る」ということにかかわっていて、「主」、ヤハウェは何ものにも依存されないで、永遠にご自身で存在しておられる方であること、そして、この世界のあらゆるものを創造されて存在するものとされた方であること、また、天地創造の御業以来の歴史をとおして、お造りになったすべてのものを真実に支えておられる方であるということを意味していると考えられます。 神さまが天地創造の御業以来の歴史をとおして、お造りになったすべてのものを真実に支えておられるのは、神である主の契約によっています。そのことは、引用はいたしませんが、エレミヤ書33章19節ー26節に記されています主のみことばから分かります。主はご自身がお造りになったすべてのものと契約を結んでくださり、すべてのものを真実に支えてくださっています。それで、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名は、神さまがご自身の契約に対して真実な方であるということをも意味することになります。 神さまがこの御名をモーセに啓示してくださったことを記している出エジプト記3章14節ー15節では、この、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名が、 わたしはある に短縮され、さらに3人称化されて「ヤハウェ」として示されています。この「ヤハウェ」は固有名詞としての神さまの御名です。新改訳では、この「ヤハウェ」という御名が太文字の「主」と訳されています 出エジプト記3章15節には、 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。 これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。 と記されています。ここで神さまはご自身のことを、 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主 として示しておられます。原文のヘブル語では「主」(ヤハウェ)という御名が先にあって、これに、 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、 という説明に当たることばが続いています。それで、日本語に訳しますと、日本語では説明のことばが先に来ますので、 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主 となります。 この、 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主 というみことばは、契約の神である主、ヤハウェはアブラハムに与えられた契約を、その子イサクに受け継がせてくださり、さらに、その子ヤコブに受け継がせてくださったということを示しています。それは、アブラハムに与えられた契約が、アブラハムとアブラハムの子孫への祝福を約束するものであるからです。 創世記17章7節ー8節には、 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。 という主、ヤハウェがアブラハムに与えられた契約のみことばが記されています。ここには、主、ヤハウェがアブラハムとアブラハムの子孫の神となってくださるという祝福が約束されています。 そして、その約束のとおり、主、ヤハウェはアブラハムに与えられた契約を、その子イサクに受け継がせてくださって、イサクの神となられ、さらに、その子ヤコブに受け継がせてくださって、ヤコブの神となってくださいました。 このようにして、 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主 という御名は、主、ヤハウェがご自身の契約に対して真実な方であられることを意味しています。そして、まさにその御名が示しているとおり、主は出エジプトの時代に、ご自身がアブラハムに与えられた契約に基づいて、アブラハムの子孫であるイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださって、ご自身の民としてくださいました。主がアブラハムを召してくださったのは、アブラハムが75歳(創世記12章4節)の時です。(NBDが示している可能性として)アブラハムが2千年ごろに生まれたとしますと、出エジプトの年代には早期説と後期説がありますが、少なくとも約5百年ほど後のことです。その間、主は真実にアブラハムの子孫を覚えてくださり、祝福を受け継がせてくださってきましたし、この後も受け継がせてくださっていきます。 * * * このアブラハムへの契約は、創世記12章1節ー3節に、 主はアブラムに仰せられた。 「あなたは、 あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、 わたしが示す地へ行きなさい。 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、 あなたを祝福し、 あなたの名を大いなるものとしよう。 あなたの名は祝福となる。 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、 あなたをのろう者をわたしはのろう。 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。」 と記されていますように、主、ヤハウェが「地上のすべての民族」を祝福してくださるためにアブラハムを召してくださったことを受けています。主、ヤハウェはアブラハムによって「地上のすべての民族」を祝福してくださるために、アブラハムと契約を結んでくださったのです。 改めて、アブラハムに与えられた主の契約のみことばを見てみますと、それは、 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。 というものでした。 主のみことばである聖書全体の光の下で見ますと、主がアブラハムによって「地上のすべての民族」を祝福してくださるということは、「地上のすべての民族」の中から、主が契約のみことばの中で「あなたの後のあなたの子孫」と呼んでおられるアブラハムの子孫が出てきて、 わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。 と言われているとおり、主がそのアブラハムの子孫の神となってくださることを意味しています。 そして、このことの成就が、ガラテヤ人への手紙3章6節ー9節に、 アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。 と記されています。 ここでは、血肉のアブラハムの子孫であるユダヤ人と、異邦人の区別を越えて、「信仰による人々こそアブラハムの子孫」であることが明らかにされています。その上で、 聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。 と言われています。そして、このことがアブラハムの子(マタイの福音書1章1節)として来られた贖い主イエス・キリストによって実現していることが、13節ー14節に、 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。 と記されています。さらに、16節には、 ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。 と記されていて、イエス・キリストこそがアブラハムの子孫であられることが示されています。そして、27節ー29節には、 バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。 と記されています。 このようにして、アブラハムに与えられた契約の祝福はアブラハムのまことの子であるイエス・キリストによって成就しています。先ほどの年代計算からしますと、アブラハムが召しを受けてから、およそ1960年ほど後に、十字架におかかりになってご自身の民の罪を贖ってくださった、イエス・キリストによって成就したことになります。それは、まさに、 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主 という御名の主、ヤハウェがご自身の契約に真実であられることのあかしです。 黙示録1章17節後半に記されています、 わたしは、最初であり、最後である というイエス・キリストのみことば、イエス・キリストが契約の神である主、ヤハウェであられることを示しています。これを受けて、2章8節では、イエス・キリストのことが、 初めであり、終わりである方 と言われています。新改訳では、「最初であり、最後である」と「初めであり、終わりである」というように、訳語が違っていますが、原文のギリシャ語では同じことば(ホ・プロートス・カイ・ホ・エスカトス)です。 スミルナにある教会の信徒たちは迫害にさらされて苦しんでいましたし、そのために貧困にあえいでいました。けれども、そのような厳しい状況の中にあって、なおも主に対して真実であり、忠実でした。それはスミルナにある教会の信徒たちの力によることではなく、ご自身の契約に対して真実な主、ヤハウェであられるイエス・キリストが、真実に彼らを支え続けてくださっているからに他なりません。スミルナにある教会の信徒たちの真実さは、イエス・キリストが彼らに対して真実を尽くしてくださっていたことの現れです。イエス・キリストは今日の私たちに対しても、変わることなく、真実を尽くしてくださっていないでしょうか。私たちがこの世にあるがために経さまざまな試練を通しての苦しみや悲しみを味わわなければなりませんが、そのような中にあっても、また、そのような中にあってこそ、イエス・キリストは真実に私たちをご自身の民として支えてくださり、神の子どもとして御前を歩ませてくださっていないでしょうか。 |
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