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説教日:2014年9月7日 |
黙示録2章8節に記されています、 初めであり、終わりである方 というみことばを踏まえています、1章17節後半の、 わたしは、最初であり、最後である というみことばには、もう一つの旧約聖書の背景があります。それは、やはり、出エジプト記3章14節に記されています、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という契約の神である主、ヤハウェの御名に基づいている、預言としてのみことばです。このようなみことばはいくつか考えられますが、今日は、 初めであり、終わりである方 というみことばの直接的な背景とはいえませんが、預言者たちの預言活動の基礎となっている申命記の32章1節ー43節に記されているみことばからお話しします。申命記32章1節ー43節には、一般に「モーセの歌」として知られている、契約の神である主、ヤハウェがモーセをとおして預言的に語られたみことばが記されています。今日取り上げるのは、その「モーセの歌」の最後の部分に記されている39節ー41節に記されているみことばです。これについては1年ほど前にお話ししましたが、それを補足しながらお話しします。 39節ー41節には、 今、見よ。わたしこそ、それなのだ。 わたしのほかに神はいない。 わたしは殺し、また生かす。 わたしは傷つけ、またいやす。 わたしの手から救い出せる者はいない。 まことに、わたしは誓って言う。 「わたしは永遠に生きる。 わたしがきらめく剣をとぎ、 手にさばきを握るとき、 わたしは仇に復讐をし、 わたしを憎む者たちに報いよう。」 と記されています。 39節で、 今、見よ。わたしこそ、それなのだ。 と言われているときの、 わたしこそ、それなのだ。 と訳されていることば(アニー・アニー・フー)は、直訳では、 わたし、わたしがその者だ。 です。この「わたし、わたしが」は「わたし」を重ねて強調するものですので、新改訳では「「わたしこそ」と訳されています。 この、 わたしこそ、それなのだ。 と訳されていることばはヘブル語で記されていますが、そのギリシャ語訳である七十人訳では、やはり「エゴー・エイミ」つまり、 わたしはある と訳されています。このことから分かりますが、この、 わたしこそ、それなのだ。 というみことばは、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という、主、ヤハウェの御名に相当します。 39節では、この、 今、見よ。わたしこそ、それなのだ。 というみことばに続いて、 わたしのほかに神はいない。 と言われています。 このみことばは、古代オリエントの社会と文化の発想を踏まえています。古代オリエントの社会と文化では、一つの国の王がその行く先々で勝利を収めるのは、その国の神あるいは神々によると考えられていました。ここでは、そのことを踏まえて、 わたしのほかに神はいない。 と言われています。これによって、主に比べられるものはないということが示されています。 ここでは、このことを受けて、 わたしは殺し、また生かす。 わたしは傷つけ、またいやす。 わたしの手から救い出せる者はいない。 と言われています。このみことばによって、主おひとりが、歴史の主として、ご自身の主権的なみこころにしたがって、この歴史的な世界のすべてのことを治めておられる方であるということが示されています。 注意しなくてはならないのは、このことは「モーセの歌」の中で示されているということです。「モーセの歌」は、モーセの後の世代のイスラエルの民の歴史を預言的に語っています。その「モーセの歌」では、主がイスラエルの民に示してくださった一方的な愛と恵みが記されています。たとえば、10節ー14節には、 主は荒野で、 獣のほえる荒地で彼を見つけ、 これをいだき、世話をして、 ご自分のひとみのように、 これを守られた。 鷲が巣のひなを呼びさまし、 そのひなの上を舞いかけり、 翼を広げてこれを取り、 羽に載せて行くように。 ただ主だけでこれを導き、 主とともに外国の神は、いなかった。 主はこれを、地の高い所に上らせ、 野の産物を食べさせた。 主は岩からの蜜と、 堅い岩からの油で、これを養い、 牛の凝乳と、羊の乳とを、 最良の子羊とともに、 バシャンのものである雄羊と、雄やぎとを、 小麦の最も良いものとともに、食べさせた。 あわ立つぶどうの血をあなたは飲んでいた。 と記されています。 その一方で、「モーセの歌」では、イスラエルの民が主の愛と恵みを忘れ、主に対する不信仰を繰り返して、背教してしまうようになることが示されています。先ほどの10節ー14節に続く15節ー18節には、 エシュルンは肥え太ったとき、足でけった。 あなたはむさぼり食って、肥え太った。 自分を造った神を捨て、 自分の救いの岩を軽んじた。 彼らは異なる神々で、 主のねたみを引き起こし、 忌みきらうべきことで、 主の怒りを燃えさせた。 神ではない悪霊どもに、 彼らはいけにえをささげた。 それらは彼らの知らなかった神々、 近ごろ出てきた新しい神々、 先祖が恐れもしなかった神々だ。 あなたは自分を生んだ岩をおろそかにし、 産みの苦しみをした神を忘れてしまった。 と記されています。 それで、主が背教してしまうイスラエルの民をおさばきになることも示されています。それは、19節ー25節に記されています。その導入に当たる19節には、 主は見て、彼らを退けられた。 主の息子と娘たちへの怒りのために。 と記されています。 そして、さらにその後にも、イスラエルの民の愚かさと罪の現実とさばきのことが記されています。 しかし、「モーセの歌」では、さばきにおいても主のあわれみが働いていることが示されています。たとえば、26節ー27節には、 わたしは彼らを粉々にし、 人々から彼らの記憶を消してしまおうと 考えたであろう。 もし、わたしが敵のののしりを 気づかっていないのだったら。 ――彼らの仇が誤解して、 『われわれの手で勝ったのだ。 これはみな主がしたのではない』 と言うといけない。 と記されています。主が不信仰を重ねて主に背いたイスラエルの民へのあわれみをお示しになったのは主の御名のためでした。それは、主がイスラエルの民と契約によって一つとなってくださっていたからです。そのイスラエルの民がさばきを受けて滅びてしまうことは、諸国の民の目からは、主、ヤハウェに力がなかったからだと写ります。 このような主のあわれみは、特に、「モーセの歌」の最後の部分である36節ー43節に示されています。そこでは、イスラエルの民が不信仰を重ねて主に背いてもなお、主はあわれみをもってイスラエルの民を顧みてくださること、そして、ご自身の民を贖い出してくださることが示されています。その導入に当たる36節には、 主は御民をかばい、 主のしもべらをあわれむ。 彼らの力が去って行き、 奴隷も、自由の者も、 いなくなるのを見られるときに。 と記されています。 彼らの力が去って行き、 奴隷も、自由の者も、 いなくなるのを見られるときに。 と言われているのは、自らを誇り、自らの力により頼んでいたイスラエルの民が打ち砕かれて、もはや、神である主のあわれみだけを頼みとするほかなくなってしまうようになる時のことを指しています。歴史的には、北王国イスラエルがアッシリヤによって滅ぼされ、南王国ユダもバビロンによって滅ぼされてしまうに至る時です。けれども、それは古い契約の「地上的なひな型」的なことで、人はすべて、自らの力を頼みとして主の御前に立つことはできません。ただ主が一方的な愛と恵みによって備えてくださる罪の贖いによってのみ、主の御前に立つことができます。エペソ人への手紙2章8節ー9節に、 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 と記されているとおりです(ローマ人への手紙3章25節ー28節も見てください)。 先ほど取り上げました申命記32章39節後半の、 わたしは殺し、また生かす。 わたしは傷つけ、またいやす。 わたしの手から救い出せる者はいない。 というみことばは、この「モーセの歌」の最後の部分に出てきますので、特に、イスラエルの民をその罪のためにおさばきになる主が、なおも、ご自身の民をあわれみをもって顧みてくださり、彼らを贖い出してくださることを示しています。 そのことが、さらに、続く40節と41節で、 わたしは永遠に生きる。 わたしがきらめく剣をとぎ、 手にさばきを握るとき、 わたしは仇に復讐をし、 わたしを憎む者たちに報いよう。 と言われています。 ここで主、ヤハウェがご自身の「仇」と呼び、「わたしを憎む者たち」と言っておられる者たちがだれであるかは特定されてはいません。ここでは、一般的なこととして、野心、野望に駆られて、主の契約の民イスラエルを攻撃し、その血を流し、彼らから略奪し、搾取し、捕囚として捕らえ移すようになる国や、それに乗じて主の契約の民を襲って、その血を流し、彼らから略奪し、搾取するイスラエルの周辺の国々へのさばきを執行されることを示しています。 実際には、これは北王国イスラエルを滅ぼしたアッシリヤと、南王国ユダを滅ぼしたバビロン、さらには、アッシリヤやバビロンにくみして主の契約の民を攻撃した周辺諸国へのさばきとして成就していきます。 大切なことは、主がこれらの国々へのさばきを執行されることと、主がご自身の民に示されるあわれみによる救いをもたらされることは、主の贖いの御業の裏表であるということです。主の救いとさばきが主の贖いの御業の裏表であることは、神さまのみことばである聖書全体が示していることです。それは、まず、創世記3章15節に、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 と記されています「最初の福音」が、「蛇」の背後にあって働いていたサタンと、その霊的な子孫に対するさばきの宣言であったことと、それが「女」と「女の子孫」の救いを意味していることに現れています。「最初の福音」では、神である主がサタンとその霊的な子孫へのさばきを、この時にご自身で執行されないで、「女」と「女の子孫」の共同体をとおして執行されること、そして、最終的には、「女の子孫」のかしらとして来られる方をとおして執行されることを示しています。これによって「女」と「女の子孫」は主の側に立つものとされます。これは「女」と「女の子孫」の救いを意味しています。このことは、この「最初の福音」が与えられて以来、終わりの日において、サタンとその霊的な子孫への最終的なさばきの執行と、「女」と「女の子孫」の救いの完成に至るまで、一貫しています。 言うまでもなく、これは、私たち主の契約の民の罪がさばかれることはないという意味ではありません。私たちの罪もさばきによって完全に清算されなければなりません。けれども、それは、「女の子孫」のかしらとして来てくださり、十字架にかかって、私たちの罪に対する刑罰を、私たちに代わってすべて受けてくださったイエス・キリストによって、完全に清算されているのです。 このようにして、主が最後には、ご自身の民をあわれみをもって顧みてくださるのは、先ほど取り上げました申命記32章39節の初めに記されています、 わたしこそ、それなのだ。 というみことばに示されていますように、主が、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名の主であられることによっています。主、ヤハウェが、先ほどの「最初の福音」を初めとして、ご自身の契約において約束してくださったことを必ず実現してくださる、真実な方であられるからです。 スミルナにある教会の信徒たちに、 初めであり、終わりである方 としてご自身をお示しになったイエス・キリストは、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名の主であられます。そして、厳しい迫害の中にある信徒たちを、真実にお支えになり、約束してくださっているいのちへと導き入れてくださいました。イエス・キリストは今日においてもご自身の契約に真実であられ、私たちをどのような状況にあっても、真実にお支えくださり、約束してくださっている永遠のいのち、栄光あるいのちへと導き入れてくださいます。 |
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