黙示録講解

(第175回)


説教日:2014年9月14日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章8節ー11節
説教題:スミルナにある教会へのみことば(4)


 今日も、黙示録2章8節ー11節に記されています、イエス・キリストがスミルナにある教会に語りかけられたみことばについてのお話を続けます。
 いま取り上げているのは、8節に記されています、イエス・キリストがご自身のことをお示しになっている、
  初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方
というみことばの前半の、
  初めであり、終わりである方、
というみことばです。
 後半のみことばも含めた、
  初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方
というみことばは、1章17節後半ー18節前半に記されています、イエス・キリストがご自身の栄光の御姿をヨハネにお示しになった時に、ヨハネに語られた、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。

というみことばを受けています。それで、
  初めであり、終わりである方
という、イエス・キリストがスミルナにある教会に語られたみことばを理解するためには、
  わたしは、最初であり、最後である
という、イエス・キリストがヨハネに語られたみことばを理解する必要があります。
 すでに繰り返しお話ししましたので詳しい説明を省きますが、イエス・キリストがヨハネに語られた、
  わたしは、最初であり、最後である
というみことばは、イエス・キリストが出エジプト記3章14節に記されている、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の神、すなわち、契約の神である主、ヤハウェであられることを意味しています。この、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名は「ある」ということにかかわっていて、基本的には、神さまが何ものにも依存されることなく、永遠にご自身で存在される方であられることを意味しています。そして、このことを基本的なこととして、神さまが永遠からのみこころにしたがって創造の御業を遂行され、この歴史的な世界のすべてのものをお造りになった方であること、また、ご自身がお造りになったすべてのものをご自身の契約の中に入れてくださり、その契約に基づいて、すべてのものを歴史をとおして真実に支え、導いてくださっておられる方であること、すなわち、この歴史的な世界のすべてのものを真実に支え、導いておられる歴史の主であられるということを意味しています。
 さらに、このことに基づいて、すなわち、神さまは、歴史の主として、人類の堕落の後には、やはり永遠からのみこころにしたがって、贖いの御業を遂行され、贖いの御業にかかわる契約に基づいて、ご自身の民を死と滅びの中から贖い出し、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者としてくださる方であられることを意味しています。
 出エジプト記3章14節ー15節では、この、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名が、「わたしはある」に短縮され、さらに3人称化されて、「ヤハウェ」となっています。この「ヤハウェ」が神さまの固有名詞としての御名です。
 この御名が啓示されたことが記されている、出エジプト記3章14節ー15節は、神さまがアブラハム、イサク、ヤコブとの契約に基づいて、エジプトの奴隷となっていたイスラエルの民を、その奴隷の状態から贖い出してくださるために、モーセをエジプトに遣わしてくださったことを記している3章1節ー4章17節の記事の一部です。それで、この時には、この、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名は、神さまが贖いの御業に関わる契約に基づいて、真実に贖いの御業を遂行される方であられることを示しています。そして、その契約は、神さまがアブラハム、イサク、ヤコブと結んでくださった契約です。より具体的には、神さまがアブラハムと結んでくださり、さらに、イサクへ、そしてヤコブへと受け継がせてくださった契約です。神さまはその契約に基づいて出エジプトの贖いの御業を遂行してくださり、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださいました。そのことは、神さまがモーセを召してくださり、エジプトに遣わしてくださったことを記している3章1節ー4章17節に先立って、2章の終わりの部分である23節ー25節に、

それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。

と記されていることから分かります。ここで、
  神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。
と言われていることは、それまで神さまがアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を忘れておられたけれど、イスラエルの民の叫びをお聞きになって、忘れておられた契約を思い起こされたという意味ではありません。神さまがご自身の契約を思い起こされたということは、神さまが、いよいよ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約に基づいて、贖いの御業、すなわち、ご自身の契約の民のための救いの御業と、ご自身に敵対している者たちへのさばきの御業に着手されるようになったということを意味しています。
 神さまはご自身の栄光の顕現(セオファニー)である燃える柴の中からモーセに語りかけられましたが、最初にご自身がどなたであられるかを示されたのは、6節に記されています、
  わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。
というみことばです。[注] このことによって、神さまがアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚えてくださっているために、モーセにご自身を現してくださったこと、そして、モーセを召してくださって、エジプトに遣わそうとしておられることが示されています。また、それで、15節には、

神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。
あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。

と記されていて、神さまの固有名詞としての御名である「(ヤハウェ)」が、
  あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神
と説明されています。

[注]この場合の「あなたの父」は単数形で、エジプトの奴隷となっていたモーセの父(アムラム、参照・出エジプト6章20節)であると考えられています。

 先主日には、このような神さまの御名を踏まえて、申命記32章1節ー43節に記されています、一般に「モーセの歌」として知られている、契約の神である主、ヤハウェがモーセをとおして預言的に語られたみことばについて、特に、その最後の部分である39節ー41節に記されています、
  今、見よ。わたしこそ、それなのだ。
  わたしのほかに神はいない。
  わたしは殺し、また生かす。
  わたしは傷つけ、またいやす。
  わたしの手から救い出せる者はいない。
  まことに、わたしは誓って言う。
  「わたしは永遠に生きる。
  わたしがきらめく剣をとぎ、
  手にさばきを握るとき、
  わたしは仇に復讐をし、
  わたしを憎む者たちに報いよう。」
というみことばについてお話ししました。
 このみことばの最初に出てきます、
  わたしこそ、それなのだ。
と訳されていることば(アニー・アニー・フー)は、ヘブル語聖書のギリシャ語訳である七十人訳では、強調形の、
  エゴー・エイミ
つまり、
  わたしはある
と訳されています。このことから分かりますが、この、
  わたしこそ、それなのだ。
というみことばは、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という、契約の神である主、ヤハウェの御名に相当します。
 先主日に具体的に引用してお話ししましたが、「モーセの歌」は、モーセの後の世代のイスラエルの民の歴史を預言的に語っています。「モーセの歌」には、主がイスラエルの民に一方的な愛と恵みを示してくださったことが記されていますが、それで終わってはいません。そこには、さらに、主から愛と恵みを受けているイスラエルの民が、主を捨てて、異教の偶像の神々に走ってしまうこと、そのために、主がイスラエルの民をおさばきになることが預言的に記されています。
 けれども、「モーセの歌」はそれでも終わってはいません。そこには、主が、背教したイスラエルの民をおさばきになる時にも、あわれみをお示しになることが、預言的に記されています。それは、イスラエルの民の側に良いところがあるからではなく、主の御名のためでした。そして「モーセの歌」では、最後には、そのように主に対する不信仰を重ねていくイスラエルの民を、主はあわれみをもって顧みてくださり、彼らを贖い出してくださることが記されています。それは、ひとえに、ご自身の御名のためです。


 この「契約の神である主、ヤハウェの御名のため」ということは、聖書の中でも大切なことで、今日の私たちにも関わっていることです。私たちも代々の聖徒たちと心を合わせて、
  御名があがめられますように。
と祈っています。それで、改めて、このことについてお話ししたいと思います。
 「契約の神である主、ヤハウェの御名のため」ということには、二つのことが関わっています。
 実は、先主日には、そのうちの一つのことをお話ししました。それは、主がイスラエルの民をおさばきになって、イスラエルの民を滅ぼしてしまわれると、周囲の民たちは、主、ヤハウェに力がなかったからイスラエルの民は滅びてしまったと考えます。そのようにして、主ご自身が侮られ、御名がさげすまれるようになるので、主はイスラエルの民を滅ぼし尽くされないということです。
 今日は、もう一つのことで、それより根本的なことをお話しします。
 これまでお話ししてきましたように、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という、契約の神である主、ヤハウェの御名は、神さまがアブラハムに与えられ、イサク、ヤコブへと受け継がせてくださった契約に対して真実であられ、ご自身の契約において約束されたことを、必ず、実現される方であられることを意味しています。もし契約の神である主、ヤハウェがご自身の契約において約束されたことを実現されることがないとしたら、それは御名がさげすまれ、辱められることになります。そして、サタンをかしらとする暗やみの主権者たちは、まさにこのこと、御名がさげすまれ、辱められるようになることを目的として働いています。
 神である主がご自身の契約において約束してくださったこととのかかわりで、改めて、創世記12章1節ー3節に記されていることを見てみましょう。そこには、
  はアブラムに仰せられた。
  「あなたは、
  あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
  わたしが示す地へ行きなさい。
  そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
  あなたを祝福し、
  あなたの名を大いなるものとしよう。
  あなたの名は祝福となる。
  あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
  あなたをのろう者をわたしはのろう。
  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。」
と記されています。
 神さまは、
  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。
という約束と使命をお与えになって、アブラハムをカルデヤ人のウルから召し出されました。続く4節に記されていますように、その時、アブラハムは75歳でした。そして、11章30節に、
 サライは不妊の女で、子どもがなかった。
と記されていますように、妻のサラが「不妊の女で」あったためにアブラハムには子どもがいませんでした。16章に記されていますように、アブラハムはサラの勧めに従って、サラのはしためであったハガルによってイシュマエルを生むようになります(15節)し、サラが召された後には、ケトラをめとり、彼女によって子どもたちを生みます。どうやら、アブラハムはサラを愛していて、自分からは、側女によって子を生むことはしなかったようです。
 契約の神である主、ヤハウェは、アブラハムに与えてくださった、
  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。
という約束を実現してくださるために、アブラハムと契約を結んでくださいました。その最初の契約が結ばれたことは、創世記15章に記されています。それはアブラハムに相続人である子が生まれ、アブラハムの子孫が天の星のように多くなるという約束です。15章5節ー6節には、

そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼はを信じた。主はそれを彼の義と認められた。

と記されています。ここに記されていますように、アブラハムはこの主、ヤハウェの約束を信じて義と認められました。
 さらに、主は、アブラハムとアブラハムの子孫にカナンの地を与えてくださると約束してくださいました。
 そして、これらの約束についての契約を結んでくださいましたが、それは、9節ー10節に記されていますように、「三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊」を「真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせに」置いて、その切り裂かれたものの間を通り抜けるという、古代オリエントの契約締結の儀式に従うものでした。これは、、もしこの契約に違反したなら、そのことへの制裁として、自分がこれらの動物のようにのろいを受けるようにということで、一種の誓いの儀式です。けれども、17節に、

さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。

と記されていますように、主の栄光の顕現(セオファニー)としての「煙の立つかまどと、燃えているたいまつ」が「切り裂かれたものの間を通り過ぎた」だけで、アブラハムはその間を通りませんでした。ですから、これは主が一方的にこの契約に対して真実を尽くしてくださり、この契約において約束してくださったことを必ず実現してくださるということです。アブラハムはただ主の契約の約束を信じて、これにあずかるだけでした。このことについては、先ほどお話ししましたように、サラが「不妊の女で」アブラハムには子どもがいませんでしたから、アブラハムはただ主の約束だけに頼る他はなかったということになるように思われますが、その当時の一般的な習慣では、側女によって自分の子どもを生むことがありましたし、実際に、アブラハムもサラの勧めに従って、ハガルによってイシュマエルを生むようになります。けれども、主はサラから生まれる子がアブラハムの相続人としての子、アブラハムとの契約を受け継ぐ子であることを示されました。そのことは17章16節と19節に記されている、サラについてのみことばに示されています。19節には、

いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。

という神さまのみことばが記されています。そして、実際に、アブラハムが百歳、サラが90歳の時に、イサクが生まれました。確かに、主が一方的に、アブラハムへの契約に対して真実を尽くしてくださったのです。
 けれども、主がアブラハムに与えてくださった契約は、イサクの誕生で終わるものではありません。その契約の約束は、アブラハムの子孫が天の星のように多くなることでしたし、17章7節ー8節に、
わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。
と記されていますように、主がアブラハムとアブラハムの子孫の神となってくださることと、アブラハムとアブラハムの子孫に、カナンの地を「地上的なひな型」とする「約束の地」を与えてくださることでした。
 神さまの、
 わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名は、神さまが歴史の主として、ご自身の契約に真実であられ、約束してくださったことを必ず実現してくださる方であられることを示しています。
 そのことが、「モーセの歌」において預言的に示されているイスラエルの民の歴史をとおして示されています。
 まず、アブラハムの血肉の子孫であるイスラエルの民が主の契約の民としていただいたことは、主の一方的な愛と恵みによることでした。申命記7章7節ー8節には、

があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。

と記されているとおりです。主はあえてエジプトの奴隷となっていたイスラエルの民をご自身の契約の民とされました。ですからそれは、イスラエルの民の価値にはよっていません。ただ、主がイスラエルの民を愛されたから、また、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を守られたからです。このことも、神さまの御名が、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名であること、すなわち、主がご自身の契約に真実であられ、約束してくださったことを必ず実現してくださる方であられることによっています。
 さらに、その後のイスラエルの民の歴史において、イスラエルの民は、繰り返し、主に対する不信を募らせて、主に逆らい、主を捨てて、異教の偶像の神々を礼拝するようになりました。そのことはすでに「モーセの歌」において、預言的に示されていたことでした。また、実際に、主は預言者たちをお遣わしになって、イスラエルの背信と反逆を告発され、主のさばきが迫ってきていることを警告されました。けれども、彼らはにせ預言者たちの心地よいことばに耳を傾け、主のみことばを語った預言者たちを迫害し、ますます、主に背いていきました。そして、最終的には、主のさばきを招いて、地上の王国としてのイスラエルは滅亡してしまいました。具体的には、ソロモンの後、イスラエルはソロモンが偶像の神々に走ったことへのさばきを受けて、南北に分裂し、北王国イスラエルは前722年にアッシリヤによって滅ぼされ、南王国ユダは前587年にバビロンによって滅ぼされてしまいました。
 これらは、動物の血によって成り立っていた古い契約の下における「地上的なひな型」の限界を示しています。ヘブル人への手紙10章4節に、
  雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。
と記されており、9章9節に、

この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。

と記されていますように、動物のいけにえの血は、主の契約の民の罪を贖い、良心を聖めることはできません。ですから、古い契約の下にあったイスラエルは繰り返し主に背き、主を捨てて、偶像の神々に走ってしまいました。

 そのようなイスラエルの現実を明らかにして、来たるべき主のさばきを預言し、警告した預言者たちは、さらに、来たるべき主のさばきを越えて、主がアブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約のまことの成就である、新しい契約の祝福をも預言しました。それは、主の契約の民の罪を贖い、彼らを内側から新しくしてくださる主の恵みです。たとえば、エレミヤ書31章31節ー34節には、

見よ。その日が来る。――の御告げ――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。――の御告げ――彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――の御告げ――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――の御告げ――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。

と記されています。また、エゼキエル書36章25節ー27節には、

わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。

と記されています。
 これらのことは、永遠の神の御子イエス・キリストがまことの人となってきてくださって、十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの御怒りによる刑罰を、私たちに代わってすべて受けてくださったことによって、また、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことに対する報いを受けて、死者の中からよみがえってくださったことによって実現しています。ヘブル人への手紙9章14節には、

キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

と記されていますし、10章10節には、

イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。

と記されています。

 さらに、10章14節には、
  キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。
と記されています。この場合の「聖なるものとされる人々」とは、アブラハムへの契約の祝福にあずかって、主の契約の民とされる人々のことです。ヘブル人への手紙では2章14節ー16節に、

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。

と記されているときの、「アブラハムの子孫」です。これは、同じ2章の5節からの流れの中で見ますと、アブラハムの血肉の子孫であるユダヤ人を越えて、すべての民族から出てくるアブラハムの霊的な子孫のことです。
 父なる神さまはご自身の御子をもお遣わしになって、御子によってこれらすべてのことを実現してくださいました。これは、神さまの御名が、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名であり、神さまが歴史の主として、ご自身の契約に真実であられ、約束してくださったことを必ず実現してくださる方であられることによっています。
 このように、神さまの「御名のため」ということは、神さまがご自身の契約に真実であられ、約束してくださったことを必ず実現してくださることによって、神さまの栄光が豊かに現されるようになることを意味しています。具体的には、人間としての資質においては、私たちは主に対して不信を募らせ、主に背き続けたイスラエルの民と変わることはありません。神さまはこのような私たちのために、ご自身の御子をも与えてくださって、私たちの罪を完全に贖ってくださり、私たちを内側から聖めてくださり、造り変えてくださって、愛といつくしみと恵みに満ちた栄光を豊かに現しておられます。


【メッセージ】のリストに戻る

「黙示録講解」
(第174回)へ戻る

「黙示録講解」
(第176回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church