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説教日:2014年9月21日 |
これらすべてのことはことは、神である主がご自身の契約において約束してくださったことであり、神である主がその愛と恵みによって成し遂げてくださることで、人はただその約束を信じて、神である主の愛と恵みにあずかるだけであるということは、アブラハムにおいて、明白に示されていることです。 先主日も取り上げましたが、創世記15章5節ー6節には、 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。 と記されています。 6節に、 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。 と記されていますように、アブラハムはこの主、ヤハウェを信じて義と認められました。具体的には、5節に記 されています、 あなたの子孫はこのようになる という主、ヤハウェの約束のみことば、アブラハムの子孫が数えきれない天の星のように多くなるという約束のみことばを信じて義と認められました。主を信じることは、主がご自身の契約において約束してくださったことを信じることであり、その約束のみことばを信じることです。 実際に、神である主、ヤハウェはご自身の契約においてアブラハムに与えられた約束のみことばを真実に実現してくださいました。それは、神である主の御名が、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名であり、主、ヤハウェはご自身の契約に対して真実であられ、必ず、その約束を実現してくださる方であるからです。そして、アブラハムはその、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名の主、ヤハウェを信じてそれにあずかるだけでした。 このことは、アブラハムがその子イサクを献げるよう命じられた時に、それに従ったことにおいても変わってはいません。そのことについて、ヘブル人への手紙11章17節ー19節には、 信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。 と記されています。 アブラハムがイサクをささげるよう命じられて、それに従ったことは創世記22章1節ー19節に記されています。イサクはアブラハムとサラの間に生まれたただ一人の子でした。血肉のつながりから言いますと、アブラハムにはイサクの他に、サラの側女であったハガルから生まれたイシュマエルや、ケトラから生まれた「ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデヤン、イシュバク、シュアハ」(25章1節ー2節)がいました。 けれども、サラにとっては、イサクがただ一人の子どもでした。そして、主がアブラハムと契約を結んでくださったことを記している創世記17章には、サラへの祝福の約束が記されています。16節には、 わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」 と記されていますし、19節には、アブラハムがそれはイシュマエルのことではないかと考えたことに対して、神さまが言われた、 いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。 というみことばが記されています。このようにして、神である主の契約において示されているアブラハムへの祝福の約束はイサクに受け継がれていきました。もし、イサクがアブラハムへの契約の祝福を受け継ぐことがなかったなら、神さまがサラに与えられた祝福の約束は実現しなかったことになります。 このことと一致して、というか、このことを受けて、創世記21章12節には、 イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれる という神さまがアブラハムに語られたみことばが記されています。このみことばも、イサクとイシュマエルとの関係をめぐってのものです。9節ー11節には、 そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。 と記されています。「エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子」はイシュマエルのことです。彼がイサクを「からかっている」と言われていますが、なんのことをどのようにからかったのかは示されていません。けれどもこれには「手がかり」があります。イサク(イツハーク)という名前は、「彼は笑うでしょう」という意味のことば[イツハク(動詞ツァーハクの未完了時制、3人称、男性、単数形)]に由来する名前です。この「彼は笑うでしょう」という意味のことばは、6節に記されています、 神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。 というサラのことばに出てきます。この笑いはイサクの誕生に関して、神である主がサラに対してなしてくださってことに現れている、主の恵みと真実さを覚える笑いです。ここで、イシュマエルがイサクを「からかっている」と言われていときの「からかっている」と訳されていることばは、先ほどの「笑う」という意味の動詞の強調形(ピエル語幹)です。このことから、一般に、イシュマエルはイサクの誕生の次第に関して「からかっている」のではないかと考えられています。たとえば、自分の母は若いけれど、イサクの母は老人であるというようなことで、神である主が年老いた不妊の女であったサラに約束の子を与えてくださったことが、あざけられるようなことであったということです。このことを受けて、サラは、 このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。 とアブラハムに訴えたと考えられます。そして、12節には、 すると、神はアブラハムに仰せられた。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。 と記されています。 少し話が横道にそれてしまいましたが、改めて、ヘブル人への手紙11章17節ー19節を見てみますと、そこには、 信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。 と記されていました。ここでは、アブラハムが神さまの命令にしたがってイサクを献げた時、 イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる という神さまのみことばを信じていたので、 神には人を死者の中からよみがえらせることもできる と考えて、イサクを献げたと言われています。そして、これに続いて、アブラハムは、いわば、 死者の中からイサクを取り戻したのです と言われています。アブラハムがイサクを献げたことは、アブラハムが契約の神である主に従順であったことを示しています。それと同時に、アブラハムは神さまの契約のみことばに示されている、イサクに関する約束を信じていて、その信仰にしたがって、また、信仰に支えられて、神さまに従順でありました。アブラハムの従順のうちには、このような主の約束のみことばへの信頼が働いていました。 もう一つ注意したいのは、アブラハムはイサクを献げなくてもよかったのではなく、アブラハムはイサクを神さまに献げたということです。もし、このことがアブラハムの従順を試すためだけのこと、アブラハムが主のどのような命令にも従うかどうかを試すだけのものであったのであれば、アブラハムが祭壇の上に置かれ対策を手にかけようとした時に、それを止めてくださるだけで十分でした。もうそれだけで、アブラハムの従順は示されました。しかし、創世記22章13節に、 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。 と記されています。神さまは「一頭の雄羊」を備えてくださって、アブラハムがイサクを献げることを完遂させてくださいました。これによって、アブラハムはイサクを神さまに献げ、イサクは神さまのものとなりました。そして、アブラハムはそのようにして神さまにささげられて、神さまのものとなったイサクを新たに与えられたのです。このようにアブラハムは、いわば、「新しいイサク」を神さまから受け取っています。ヘブル人への手 紙11章19節で、 それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。 と言われているとおりです。そして、アブラハムがイサクを主に献げ、主から「新しいイサク」が与えられたことを受けて、創世記22章18節には、 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。 という祝福が与えられています。 やはりこの場合も、アブラハムは、試練の中でも、神である主の契約において約束されていることを信じて、神さまが与えてくださっている恵みの備えと、祝福の約束を受け取っています。 ヘブル人への手紙の著者が、アブラハムは、 イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる という神さまのみことばを信じていたので、 神には人を死者の中からよみがえらせることもできる と考えたとあかししていることは、これまでお話ししてきましたこととのかかわりで言いますと、アブラハムは神さまが、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名の主であることを信じていたということになります。 これに対して、このヘブル人への手紙の著者のことばから、そのようなことを読み取ることはできないという主張もあることでしょう。確かに、アブラハムは、 神には人を死者の中からよみがえらせることもできる と考えたとあかしされていますので、アブラハムは神さまの「人を死者の中からよみがえらせることもできる」御力を信じたと言われているように思われます。 アブラハムが神さまの御力を信じたということ自体は間違ってはいないのですが、これだけでは、アブラハムの信仰の本質を捉えきれません。 というのは、神さまを信じている人はだれでも、神さまが全能の主であられることを信じています。それで、神さまは「人を死者の中からよみがえらせることもできる」と信じています。そうであっても、神さまはいたずらにその御力を働かせることはありません。私たちの愛する人が召された時にも、私たちは確かに、神さまは「人を死者の中からよみがえらせることもできる」と信じています。けれども、たとえば、ベタニヤのマルタとマリヤの兄弟ラザロが死んだ後に、イエス・キリストが彼を生き返らせてくださったことには、ご自身が、 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。 とあかしされる契約の神である主、ヤハウェであられることを、ことばだけでなく、その御業をもって啓示されるという、特別な意味があってのことであることを知っています。ですから、神さまがそのみこころにしたがって召された私たちの愛する人を、ラザロのように、その場ですぐに、生き返らせてくださると信じているわけではありません。また、そうであるからといって、それが不信仰であるというわけでもありません。 とはいえ、神さまがそのみこころにしたがって、主にあって召された私たちの愛する人たちは、直ちに、パラダイス、すなわち栄光の主の御臨在のあるところに移されて、主との愛にあるいのちの交わりのうちに入れていただいていると信じています。なぜなら、それが神である主がご自身の契約のみことばをとおして啓示してくださっていることであるからです。 このことから、アブラハムの信仰の本質が見えてきます。アブラハムの信仰の本質は、 イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる という契約の主のみことばを信じていたことと、神である主は、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名の主として、ご自身の契約に約束されていることを必ず実現してくださる方であることを信じていたことにあります。それで、イサクを献げるようにと命じられた時には、主、ヤハウェは、 イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる というご自身のみことばを実現してくださるためには、 人を死者の中からよみがえらせることもできる と考えたということです。 ここで、 彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。 と記されている中で「考えました」と言われていることに注意してください。アブラハムは、 イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる という契約の主の約束のみことばと、神である主は、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名の主として、ご自身の契約に約束されていることを必ず実現してくださる方であることを信じていたので、イサクを献げた時に、 神には人を死者の中からよみがえらせることもできる と考えたということです、 もう詳しい説明はいらないと思いますが、同じことは、ローマ人への手紙4章16節ー22節に、 そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。 と記されていることにも当てはまります。 アブラハムは神さまが「死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方」であられることを信じていただけではありません。もしアブラハムが、神さまは「死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方」であられることを信じていただけで、 あなたの子孫はこのようになる という神である主の約束を信じていなかったとしたら、「彼は望みえないときに望みを抱いて信じ」ることはできなかったことでしょう。しかし、アブラハムは、先ほど触れました、創世記15章5節ー6節に記されていましたように、 あなたの子孫はこのようになる という神である主の約束のみことばを信じました。そして、創世記15章でアブラハムに語りかけてくださったのは、契約の神である主、ヤハウェであることが示されていますが、主、ヤハウェは、その、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名のとおりに、ご自身の契約において約束してくださっていることを必ず実現してくださる方です。創世記15章6節において、 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。 と言われているのは、アブラハムがこの契約の神である主、ヤハウェを信じたことを意味しています。それで、ローマ人への手紙4章19節ー22節には。 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。 と記されているのです。 また、このことを踏まえますと、続く、23節ー25節に、 しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。 と記されていることも理解できます。 創世記12章1節ー3節に記されていますように、主、ヤハウェは、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 という祝福の約束とともにアブラハムを召されました。そして、先ほどお話ししましたが、アブラハムがイサクを献げた時には、創世記22章18節に記されていますように、 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。 という祝福の約束を与えてくださいました。それは、アブラハムの子孫としてこられ、ご自身の民の罪を贖ってくださるために、十字架にかかって死んでくださり、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きる者としてくださるために、栄光を受けてよみがえってくださったイエス・キリストにおいて、私たちの間に実現しています。ガラテヤ人への手紙3章13節ー14節に、 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。 と記されているとおりです。そして、この「約束の御霊」は、4章6節に、 そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。 と記されているとおり、私たちを神の子どもとして、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生かしてくださる「御子の御霊」です。神である主は、その、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名のとおりに、ご自身の契約においてアブラハムに約束してくださっていることを、最終的に実現してくださるために、ご自身の御子をも、まことの「アブラハムの子孫」としてお遣わしになられました。また、御子イエス・キリストも、その、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名のとおりに、私たちご自身の民の罪を贖ってくださるために、ご自身のご意思で十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきをすべて、私たちに変わって受けてくださいましたし、私たちを父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生かしてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。すべて、その、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名のとおりに、ご自身が、契約において約束してくださったことを真実に実現してくださるためのことです。 イエス・キリストはスミルナにある教会の信徒たちに、 初めであり、終わりである方 としてご自身をお示しになり、ご自身が、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名の主であられることをあかししておられます。 そのスミルナにある教会の信徒たちは、激しい迫害にさられており、貧しさのうちにありました。この世の目には、最も悲惨な状態にうち捨てられていると写ります。けれども、イエス・キリストは、 死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。 と約束してくださっており、 勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。 と約束してくださっています。スミルナにある教会の信徒たちが、厳しい迫害と貧しさの中で、 初めであり、終わりである方 であられるイエス・キリストを信じることは、イエス・キリストが契約の神である主、ヤハウェとして、これらの祝福の約束を必ず実現してくださる方であることを信じることです。それは、「望みえないときに望みを抱いて信じ」、「神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じ」たアブラハムの信仰に倣うことです。 私たちも人間的な目からは、絶望的な状況に追い込まれてしまっているとしか思えないことがあるかも知れません。そのような時にこそ、御霊のお導きの下に、アブラハムの信仰に倣って、 わたしは、「わたしはある」という者である。 という御名の主の約束のみことばを信じて、望みのうちを歩みたいと思います。 |
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