黙示録講解

(第177回)


説教日:2014年9月28日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章8節ー11節
説教題:スミルナにある教会へのみことば(6)


 黙示録2章8節ー11節に記されています、スミルナにある教会に語りかけられたみことばにおいて、イエス・キリストは、まず、ご自身のことを、
  初めであり、終わりである方
として示しておられます。この、
  初めであり、終わりである方
というみことばは、1章10節ー20節に記されていますが、イエス・キリストがご自身の栄光の御姿をヨハネにお示しになった時に、ヨハネに語りかけられたみことばの最初の部分である17節後半に記されています、
  わたしは、最初であり、最後である
というみことばを受けています。新改訳は、1章17節では、
  最初であり、最後である
となっており、2章8節では、
  初めであり、終わりである
となっていますが、原文のギリシャ語では同じことばです。
 1章17節の、
  わたしは、最初であり、最後である
というみことばは、イエス・キリストが出エジプト記3章14節に記されている、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の神、すなわち、契約の神である主、ヤハウェであられることを意味しています。
 出エジプト記3章14節ー15節では、この、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名が、「わたしはある」に短縮され、さらに3人称化されて、「ヤハウェ」となっています。この「ヤハウェ」が神さまの固有名詞としての御名です。
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名はとても豊かな意味を示しています。その最も基本的なことは、神さまが何ものにも依存されることなく、永遠にご自身で存在される方であられるということです。このことを基本的なこととして、神さまが永遠からのみこころにしたがって創造の御業を遂行され、この世界を歴史的な世界としてお造りになった方であられること、また、お造りになったすべてのものをご自身の契約の中に入れてくださり、その契約に基づいて、すべてのものを歴史をとおして真実に支え、導いてくださっておられる方、すなわち、歴史の主であられることを意味しています。


 このことはすでにお話ししたことですが、これに対してもう少し補足しておきたいと思います。
 とはいえ、まったく新しいことをお話しするわけではありませんが、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の神である主が歴史の主であられることは、特に、創世記1章26節ー28節に、

神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されていますように、神さまが創造の御業において、人をご自身のかたちにお造りになり、人にこの歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことと切り離し難くかかわっています。
 というのは、この、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という神さまの御名は、神のかたちに造られている人と、御使いたちに対して啓示してくださった御名で、ご自身がどのような方であられるかを示しているからです。
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という神さまの御名は、神さまがお造りになったすべての人格的な存在に対して啓示されています。そして、そのすべての人格的な存在が、神さまを、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の主として礼拝し、愛し敬い、その御名の栄光をあらわすための応答をするものとして造られています。
 そのように造られている人格的な存在の中で、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねられているのは、御使いたちではなく、神のかたちに造られている人です。神のかたちに造られている人は、ご自身の契約(私たちは「創造の契約」と呼んでいます)に基づいてご臨在してくださる神である主の御前に出でて、神である主を、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の主として礼拝し、愛し敬い、その御名の栄光をあらわすための応答をすることによって、この歴史と文化を造る使命を果たすよう召されています。
 神のかたちに造られている人が神である主を、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の主として礼拝し、愛し敬い、その御名の栄光をあらわすために、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を果たすことによって、神さまの栄光は歴史の進展とともにこの世界のうちにより豊かに現され、あかしされるようになります。
 さらに、創造の御業において、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人に与えられた契約(「創造の契約」)において、神さまは、人が神さまのみこころにしたがって歴史と文化を造る使命を果たしたなら、そのことへの報いとして、最初に神のかたちに造られた時の栄光にまさる栄光を与えられることを約束してくださいました。これによって、神のかたちに造られている人がより豊かな栄光において神である主の御臨在の御許に近づき、より深く豊かな愛にあるいのちの交わりに生きるようになります。これを言い換えますと、私たちが永遠のいのちに生きるようになるということです。

 このようなことは、神さまの創造の御業という遠い時代のことで、今の私たちにはあまり関係がないと感じられるかも知れません。それで後でお話しすべきことを先取りしてお話しするような形になりますが、このことが、すでに、私たちの現実となっていることについてお話しします。
 私たちは今すでに、最初に神のかたちに造られた時の人の状態よりさらに栄光ある状態にあって、神さまとの愛にあるいのちの交わりにあずかっていますし、そのような実質をもつ者に造り変えられつつあります。それは、永遠の神の御子イエス・キリストが人としての性質を取って来てくださり、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことによって、その完全な従順に対する報いとして栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことによっています。イエス・キリストはまことの人となって来てくださり、神さまが創造の御業において人に与えられた契約(「創造の契約」)に約束された祝福を実現してくださったのです。
 イエス・キリストが栄光をお受になったのは、ご自身のためではありません。イエス・キリストは永遠の神の御子であられ、その栄光は無限、永遠、不変です。神の御子としてのご自身のためには、それ以上の栄光というものはありえませんから、神の御子としてのご自身にさらなる栄光が付け加えられたりすることはありえません。イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されて獲得された栄光は人としてのより豊かな栄光であり、私たちをそれにあずからせてくださるために獲得されたものです。
 私たちはイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって罪を完全に贖っていただいているだけではありません。イエス・キリストが栄光をお受けになって死者の中からよみがえってくださったことにもあずかって、新しく生まれています。それは、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊のお働きによることです。御霊は、私たち主の契約の民を、新しい契約のかしらであられるイエス・キリストと結び合わせてくださり、私たちをイエス・キリストの復活にあずからせてくださって、新しく生まれさせてくださいました。これによって、私たちはイエス・キリストの復活の栄光にあずかる者としていただいています。
 コリント人への手紙第二・3章18節には、

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と記されています。これは、私たち主の契約の民が、今すでに、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストの栄光の御姿に似た者へと、御霊によって造り変えていただいていることを示しています。
 また、私たちはイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかることによって、神の子どもとしての身分を与えられています。そして、それにふさわしく、父なる神さまを「アバ、父」と呼ぶ親しさにおいて、神さまとの愛の交わりに生きるものとしていただいています。ローマ人への手紙8章14節ー15節に、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

と記されているとおりです。父なる神さまを個人的に親しく「アバ、父」と呼ぶことは、御子イエス・キリストの特権でした。それで、御使いたちも神さまに向かって個人的に親しく「アバ、父」と呼ぶことはできないと考えられます。私たちはこの本来イエス・キリストに固有の特権に与るものとしていただいています。ガラテヤ人への手紙4章6節に、

そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

と記されているとおりです。
 とはいえ、このことの完成は終わりの日に再臨される栄光のキリストが、私たちのからだを栄光あるものへとよみがえらせてくださることによっています。その時には、私たちはご自身の契約に基づいて私たちの間にご臨在してくださる栄光の主と顔と顔を合わせてまみえるという近さにおいて、主との愛の交わりのうちに生きるようになります。ヨハネの手紙第一・3章2節に、

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

と記されているとおりです。
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の主であられる神さまは御子イエス・キリストがご自身の血によって確立してくださった契約において約束してくださったこれらの祝福を、必ず、実現してくださいます。先主日にお話ししましたように、このことを信じることが、アブラハムの信仰に倣うことです。

 先主日にも触れましたが、厳しい迫害と貧困の中にあったスミルナにある教会の信徒たちには、このようにして終わりの日に完成するに至る祝福の約束が、二つ記されています。黙示録2章10節には、
  死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。
と記されていますし、11節には、
  勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。
と記されています。
 ここで、
  死に至るまで忠実でありなさい。
と言われていることについて、一つのことをお話ししておきたいと思います。これは、その前の10節前半に、

あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。

と記されていることを受けていますので、基本的に、迫害の中で、
  死に至るまで忠実でありなさい。
と言われています。けれども、これに続いて記されています、
  そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。
という約束は、迫害の中でいのちを失った信徒たちだけに与えられているわけではありません。スミルナにある教会の信徒たちすべてに与えられている祝福の約束です。先ほど引用しました10節前半に記されています、
  あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。
というイエス・キリストのみことばから分かりますように、スミルナにある教会の信徒たちすべてが同じように迫害を受けていたわけではありませんし、すべての人が迫害によっていのちを失ったわけではありません。
 さらに、すでにお話ししたことがありますが、2章ー3章に記されています、アジアにある七つの教会のそれぞれに対して与えられている祝福の約束は、それぞれの教会だけに与えられているのではなく、アジアにある七つの教会のすべてに、ひいては、「7」という完全数によって表されているアジアにある七つの教会が表象的に表している、その後のすべての時代にあるイエス・キリストの教会のすべてに与えられています。
 このようなことから、
  死に至るまで忠実でありなさい。
ということは、必ずしも、迫害によって苦しめられている信徒たちだけに当てはまることではないと考えられます。
 私たち主の契約の民はこの世にあっては、様々なことで試練にあいます。それは外からやって来る迫害だけによるのではありません。教会のうちからも誘惑がやって来ます。たとえば、自分が熱心に主に仕えていることを頼みとするように誘う律法主義を生み出すような、福音を歪めてしまう教えに惑わされることがあります。また、主を信頼していると言いながら、実質的には、自分が持っている富に信頼しているという「実際的な無神論」と呼ばれる状態に陥ってしまう危険もあります。さらには、私たちのあわれみ深い大祭司であられるイエス・キリストに倣って、罪を犯してしまった兄弟姉妹のためにとりなし祈るのではなく、その兄弟姉妹をさばいてしまい、黙示録12章10節で「私たちの兄弟たちの告発者」と呼ばれているサタンにくみするようなわなに陥ってしまう危険もあります。その他、私たちのうちに残っている罪の性質のために、自己中心的なさまざまな衝動や欲望に支配されてしまうという現実もあります。
 これらすべてのことの中にあっても、そして、そのような危険やわなに陥って主に罪を犯したとしても、なお、ただ御子イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった罪の贖いの完全さのみにより頼むようになることによって、また、積極的には、御霊によって導いていただいて、愛のうちを歩み続けることにおいて、「死に至るまで忠実で」あることが、私たちの現実となります。この場合、その死は迫害によってもたらされるものとは限りません。病、事故、災害、戦争、飢饉、あるいは、寿命を全うしての死など、いろいろな形で、私たちは死を迎えることになります。その「死に至るまで」契約の神である主ヤハウェが福音のみことばのうちに約束してくださっている恵みのうちにとどまり続ける忠実さです。
 いずれにしましても、私たちがすでに御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって受けている神の子どもとしての祝福は、神である主が創造の御業において与えてくださった契約(「創造の契約」)において約束してくださっている祝福を、イエス・キリストがその十字架の死に至るまでの従順によって、私たちのために獲得してくださったものです。
 これらのことが、創造の御業において現されている神さまのみこころの中心にあります。そして、御使いたちはこのことに仕えるものとされていると考えられます。このことを直接的に示しているみことばは(私には)見つかりませんが、ヘブル人への手紙1章14節に記されています、
  御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。
というみことばから推し量ることができます。

 そうであるとしますと、神のかたちに造られている人がこの歴史的な世界の歴史の主ではないかと問われることになります。それはまったく間違っているわけではありません。先ほど引用しました創世記1章26節ー28節に記されていますように、神のかたちに造られている人には、地を満たし、地を従え、すべての生き物を支配する使命と権威が委ねられています。その意味では、神のかたちに造られている人は「王的」な使命とそれにふさわしい権威を担っています。
 けれども、それは造り主である神さまから委ねられた使命であり権威です。その意味で、人は神さまのしもべです。神のかたちに造られている人は、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の主であられる神さまの契約のしもべであり、神さまは契約の主です。
 神さまがご自身の主権的なみこころに基づいて、人をご自身の契約のうちにあって、ご自身との愛の交わりのうちに生きるものとして、ご自身のかたちにお造りになりました。神のかたちに造られている人には造り主である神さまへのわきまえが与えられていました。また、神さまとの契約関係においてどのように生きるべきであるかのわきまえも与えられていました。つまり、愛の律法が心に記されていました。それで、人は造られたそのときから、ご自身の契約に基づいてご臨在してくださっている神である主を神として礼拝することを中心として、神である主との愛の交わりに生きることができました。
 また、神のかたちに造られている人に歴史と文化を造る使命を委ねてくださった神さまは、人にそれを果たすのに必要なすべての賜物を与えてくださっています。歴史と文化を造る使命を果たすために必要な能力だけでなく、歴史意識、すなわち、この世界が造り主である神さまのみこころによるご計画を実現するようになる歴史的な世界であることへのわきまえを与えてくださっています。
 そればかりではありません。そのようにして神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、ご自身の契約に基づいてご臨在してくださっている神である主との愛の交わりに生きることができるのも、また、委ねられている歴史と文化を造る使命を果たすことができるのも、神さまが御霊によって、神のかたちに造られている人のすべてを支え導いてくださっているからです。人が神のかたちの本質的な特性である愛を現すことができるのも、心に記されている愛の律法にしたがって、物事の判断ができるのも、また、歴史と文化を造る使命を果たすのに必要なすべての賜物を生かすことができるのも、神である主の御霊によるお働きによっています。さらに、これらのことは神である主の神のかたちに造られている人の内側への働きかけですが、神のかたちに造られている人ばかりでなく、人が生きるこの世界のすべてのことを、ご自身のみこころにしたがって、支えてくださり、導いてくださっておられるのは、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の主であられる神さまです。ですから、これらすべてにおいて、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の主であられる神さまが歴史の主であられるのです。そして、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、すべての点において、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の主であられる神さまによって支えていただき、導いていただいて、神である主を神として礼拝することを中心として、神である主との愛の交わりのうちに生き、委ねられている歴史と文化を造る使命を果たすように召されています。

 先ほど、御使いたちは、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、このような神である主のみこころにしたがって、歴史と文化を造る使命を果たすことに仕えるものとされていると考えられるということをお話ししました。これに対して、聖書にはその経緯が明確に記されているわけではありませんが、すぐれた御使いとして造られながら、造り主である神さまの御前に高ぶり、自ら神のようになろうとして神さまに背いて罪を犯し、堕落してしまったサタンをかしらとする悪霊たちは、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、神である主のみこころにしたがって、歴史と文化を造る使命を果たすことを阻止しようとして働いています。
 言うまでもなく、堕落した御使いであるサタンと悪霊たちも、神さまが、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の主であられることを、堕落する前から啓示されて知っています。そして、堕落する前には、御使いの本分として、主の御名があがめられるためにすべてのことをなしていたと考えられます。けれども、造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後には、神さまの、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名が辱められるために、知恵を尽くして働いています。そのことの最も明確な現れが、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人を誘惑して、契約の神である主、ヤハウェに背かせ、神さまが創造の御業をとおして示しておられるみこころが実現することを阻止しようとしたことです。
 そして、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、サタンのもくろみが現実になってしまいました。このことを、これまでお話ししてきました、神さまの御名のためにということとのかかわりで見ますと、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の神さまが創造の御業において示されたみこころが、暗やみの主権者であるサタンの働きによって阻止されてしまうという事態になったことを意味しています。
 もし、神である主がこの時、サタンに対する最終的なさばきを執行しておられたとしたら、サタンとサタンにくみして働いている悪霊たちは滅ぼされてしまったことでしょう。そうなれば、その後には、サタンや悪霊たちの働きがなくなり、人の苦しみもなくなっていたのではないか、神である主はどうしてそうなさらなかったのかと言われるかも知れません。しかし、それは大変な間違いです。その時に、神である主が最終的なさばきを執行されていたとしたら、罪によってサタンと結ばれてしまっていた人とその妻も、最終的なさばきを受けて滅ぼされてしまっていたはずです。
 確かに、それによって罪はすべて清算されることになり、神さまの聖さがあかしされることになります。けれども、それによって、神さまが創造の御業において現されたみこころは実現しないことになってしまいます。神さまが歴史的な世界としてお造りになった、この世界の歴史は、ほとんど進展をみないままに、すなわち、わずかに、アダムとエバが堕落するまでの期間、歴史と文化を造る使命を果たしたというだけで、罪と罪がもたらした悲惨をもって終わってしまいます。その意味では、霊的な戦いにおいて、サタンが勝利したとも言うべきことになってしまいます。
 これに対して、神である主は、創世記3章15節に記されています、サタンに対するさばきの宣言の中で、
  わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。
  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。
と言われて、「最初の福音」をお示しになりました。それは、この時に、神である主が最終的なさばきを執行されないで、「女の子孫」のかしらとして来られる方によって、サタンとサタンとその霊的な子孫に対する最終的なさばきを執行されるというみこころです。
 そのために、神である主は、サタンと、サタンの誘惑にしたがって罪を犯してサタンと一つになってしまった「女との間に」「敵意」を置いてくださると言われています。さらに、神である主が置かれた「敵意」はサタンの霊的な子孫と「女の子孫」の間にも引き継がれていって、最終的には、「女の子孫」のかしらとして来られる方によってサタンに対する最終的なさばきが執行されるというのです。これによって「」と「女の子孫」の共同体は、霊的な戦いにおいて、サタンの陣営から引き離され、神である主の側に立つようになります。それが、「」と「女の子孫」の共同体に属する者たちの救いを意味しています。
 そればかりではありません。先ほどお話ししましたように、「女の子孫」のかしらとして来られた御子イエス・キリストによって、神さまが創造の御業において現されたみこころが実現しています。私たちは今、その祝福にあずかって、最初に人が神のかたちに造られた時に享受していた、神である主との交わりよりもさらに栄光に満ちた交わりにあずかるようになっています。すべて、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の主であられるイエス・キリストが、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりに基づいて、私たちご自身の契約の民のために実現してくださっていることです。


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