黙示録講解

(第178回)


説教日:2014年10月5日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章8節ー11節
説教題:スミルナにある教会へのみことば(7)


 黙示録2章8節ー11節には、イエス・キリストがスミルナにある教会に語りかけられたみことばが記されています。この語りかけにおいて、イエス・キリストはご自身のことを、
  初めであり、終わりである方
というみことばは、1章17節後半に記されています、イエス・キリストがご自身の栄光の御姿をヨハネにお示しになった時に、ヨハネに語りかけられたみことばの最初の部分である、
  わたしは、最初であり、最後である
というみことばを受けています。それで、
  初めであり、終わりである方
がどのような方であるかを理解するためには、1章17節後半の、
  わたしは、最初であり、最後である
というみことばを理解する必要があります。
 これまで、この、
  わたしは、最初であり、最後である
というみことばは、イエス・キリストが出エジプト記3章14節に記されている、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の神、すなわち、契約の神である主、ヤハウェであられることを意味しているということをお話ししました。
 この、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名はとても豊かな意味をもっていますが、最も基本的なことは、神さまが何ものにも依存されることなく、永遠にご自身で存在される方であられるということです。
 このことを基本的なこととして、神さまが永遠からのみこころにしたがって創造の御業を遂行され、この世界を歴史的な世界としてお造りになった方であられること、また、お造りになったすべてのものをご自身の契約の中に入れてくださり、その契約に基づいて、すべてのものを歴史をとおして真実に支え、導いてくださっておられる方、すなわち、歴史の主であられることを意味しています。
 先主日にお話ししましたように、このことの中心には、神さまが創造の御業において人を神のかたちにお造りになって、ご自身が歴史的な世界としてお造りになったこの世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことがあります。
 今日は、このことについて、先主日にお話ししたことを補足するお話をしたいと思います。
 ヨハネの福音書1章1節ー3節には、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されています。何度か取り上げたことがありますが、新たに礼拝に参加してくださるようになった方々もおられますので、簡単に注釈をしながらお話を進めていきます。
 ここで、
  初めに、ことばがあった。
と言われているときの「ことば」は、14節で、
  ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
と言われていますように、今から2千年前に、人としての性質を取って来てくださった、御子イエス・キリストのことです。
 また、1節の冒頭に出てくる「初めに」は、創世記1章1節で、
  初めに、神が天と地を創造した。
と言われているときの「初めに」に当たります。
 時間はこの造られた世界の時間ですので、この世界が造られた時に始まっています。それで、この「初め」は、この歴史的・時間的な世界の初めを意味しています。ヨハネの福音書1章1節では、その歴史的・時間的な世界の「初めに」、「ことばがあった」と言われています。この場合の「あった」(エーン)は未完了時制で、過去における「継続」を示していて、神さまが創造の御業を遂行された時に、「ことば」はすでに存在し続けておられたことを示しています。ですから、「ことば」は時間を超越しておられる方、すなわち、永遠の神であられる方です。それで、1節の最後には、
  ことばは神であった。
と記されています。
 また、3節に、
  すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
と記されていますように、創造の御業を遂行されたのは、この「ことば」すなわち御子です。
 私たちは、「使徒信条」によって、
  我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
と告白しています。これは父なる神さまが「天地の造り主」であると告白するものです。そうしますと、ヨハネの福音書1章3節で、
  すべてのものは、この方によって造られた。
と言われていることはどう考えたらいいのかという問題が生じます。これについては、人が家を建てる時のことにたとえて考えると分かりやすくなります。「Aさんが家を建てた」というのは、Aさんが家を建てるという計画を立てたことを意味しています。しかし、実際にその家を建てる働きをしたのは、Aさんから建築を依頼された大工さんです。
 我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
という告白は、このたとえの「Aさんが家を建てた」ということに当たります。そして、
  すべてのものは、この方によって造られた。
と言われていることは、そのたとえでは、Aさんから建築を依頼された大工さん家を建てる働きをしたということに当たります。ですから、天地創造の御業は、父なる神さまがすべてのことをご計画され、その父なる神さまのみこころにしたがって、御子が創造の御業を遂行されたものです(コロサイ人への手紙1章15節ー17節やヘブル人への手紙1章2節後半ー3節前半も見てください)。
 今お話ししていることとのかかわりで注目したいのは、ヨハネの福音書1章1節で、
  ことばは神とともにあった。
と言われていることです。この場合の「神とともに」ということば(プロス・トン・セオン)は、「ことば」すなわち御子が父なる神さまの方を向いておられることを示していて、御子が父なる神さまとの愛の交わりのうちにあったことを示唆しています。御子が父なる神さまとの愛の交わりのうちにあったことは、この後の18節において、御子イエス・キリストのことが、
  父のふところにおられるひとり子の神
と呼ばれていることによって、明確に示されています。この、
  ことばは神とともにあった。
ということが大切なことであることは、2節に、
  この方は、初めに神とともにおられた。
と記されていて、このことが繰り返されていることから分かります。ここでは、神さまが創造の御業を遂行された時、御子は父なる神さまとの愛の交わりのうちに存在し続けておられたことを示しています。つまり、三位一体の御父と御子の間には、永遠の愛の交わりがあるということです。
 ここで御父と御子のことしか記されていないのは、これが三位一体の教理を示すためではなく、「ことば」と呼ばれている御子のことを紹介するために記されているからです。
 御子が永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちにあることは、私たちの信仰にとってとても大切なことです。
 もし神さまが一位一体の神であられるとしたら、永遠の人格としての存在は神さまお一人ですので、神さまには永遠の愛を通わすことができる存在がいないことになってしまいます。また、造り主である神さまと神さまによって造られた被造物の間には絶対的な区別があります。神さまの愛は無限、永遠、不変ですが、神さまはその無限、永遠、不変の愛を完全に表現し合う存在がいないということになります。さらに、神さまには、ご自身が創造の御業によって人格的な存在をお造りになるまでは、ご自身の愛を受け止め、愛をもって応えてくれる存在がいなかったということになります。つまり、神さまは無限、永遠、不変の愛の性質をもっておられるけれども、永遠の次元においては、その愛を表現できないで、孤独であられるということになってしまうのです。これに対して、ヨハネの福音書1章1節ー2節においては、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。

と記されていて、御父と御子の間には無限、永遠、不変の愛が通わされており、神さまは愛においてまったく充足しておられることが示されています。
 そして、3節においては、
  すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
と記されており、父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりにあって、まったく充足しておられる御子によって、この世界のすべてのものが造られたと言われています。
 ですから、この世界のすべてのものは、愛の性質があっても、その愛を表現できなかった神さまが、ご自身の必要を満たすために、お造りになったのではありません。むしろ、無限、永遠、不変の愛にある交わりのうちにまったく充足しておられる父なる神さまのみこころに従い、同じく無限、永遠、不変の愛にある交わりのうちにまったく充足しておられる御子が、創造の御業を遂行されたのです。それは、無限、永遠、不変の愛のうちにあってまったく充足しておられる神さまが、その愛をご自身の外に向けて現される御業です。父なる神さまが御子イエス・キリストによって、ご自身の愛を造られたものに注いでくださり、ご自身の愛をもって満たしてくださるための御業であることを意味しています。
 そして、その神さまの愛を受け止めて、愛をもって応答するように造られているのが、人格的な存在であり、特に、愛を本質的な特性とする神のかたちに造られている人です。
 このようなことの中にあって、神さまは創造の御業において、人を神のかたちにお造りになり、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。それで、このことは、神さまの一方的な愛から出ています。決して、ご自身の必要を満たすためではなく、私たちをご自身の愛にあずからせてくださるためのことです。


 それで、私たちに委ねられている歴史と文化を造る使命を遂行することにおいて最も大切なことは、私たちが神さまの愛を受け止めることであり、私たちのすべてを尽くして神さまの愛にお応えすることです。またそれで、マタイの福音書22章37節ー40節に記されている、イエス・キリストの教えに示されていますように、神さまの律法を要約すると、
  心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。
という第一の戒めになり、
  あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。
という第二の戒めになります。
 この、
  心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。
という第一の戒めは、申命記6章5節に記されている、
  心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、を愛しなさい。
という戒めの引用です。この申命記の戒めに出てくる「」は、新改訳では太字の「」で、「ヤハウェ」を示しています。このことから分かりますように、第一の戒めに出てくる「あなたの神である主」は契約の神である主、ヤハウェです。
 契約の神である主、ヤハウェは創造の御業の初めから、ご自身の契約に基づいて、神のかたちに造られている人とともにあるためにこの地にご臨在してくださっています。そして、神のかたちに造られている人は、造られたその時から、造り主にして契約の神である主、ヤハウェを知っており、神である主を神として礼拝することを中心として、主、ヤハウェとの愛の交わりに生きていました。それがエデンの園において、そこに御臨在しておられる神である主と最初の人であるアダムとエバの交わりでした。神さまが人に委ねてくださった歴史と文化を造る使命は、このようにして、神である主を神として礼拝することを中心として、すべてを尽くして神さまの愛を受け止め、すべてを尽くして神さまの愛に応答する形で果たされていきます。
 それとともに、第二の戒めが示していますように、神のかたちの本質的な特性である愛をお互いの間で現すことによって、愛の共同体が形成されていくことも、創世記1章28節に記されています、
  生めよ。ふえよ。地を満たせ。
というみことばで始まる歴史と文化を造る使命を果たすことの重要な要素になります。それぞれが愛を現すことによって、愛の共同体が形成され、それがやがて地を満たすようになります。また、愛を具体的に現すことによって、それぞれの愛がさらに豊かになっていき、それぞれが人格的に成熟していくようになっていました。それが、それぞれにとっての歴史となりますし、愛の共同体の歴史ともなります。
 このように愛がさらに豊かに現されるようになることは、人と人との間におけることだけに限られません。神のかたちに造られている人は、神である主を神として礼拝することを中心として、すべてを尽くして神である主の愛を受け止め、すべてを尽くして神である主の愛に応答することによって、神である主の愛をさらに深く豊かに受け止めることができるようになりますし、さらに豊かな愛をもって神である主を愛することができるようになります。これによっても、人は愛において豊かなものとして成長し、人格的に成熟していき、神である主との愛の交わりを深めていくことができます。これも、神のかたちに造られている人が、この歴史的な世界にあるものとして造られていることの現れですし、神さまが人に歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことの目的です。
 このように見ますと、創造の御業において神さまが人をご自身のかたちにお造りになって、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねくださったことが、神さまの愛から出ていることが分かります。そして、神のかたちに造られている人が歴史と文化を造る使命を果たすことが、
  心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。
という第一の戒めと、
  あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。
という第二の戒めに沿って生きることであることも分かります。
 そのことは、創世記1章28節に、
 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。
と記されています歴史と文化を造る使命の後半の、
  地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。
という戒めにも当てはまります。愛を本質的な特性とする神のかたちに造られている人は、自らの愛を自分たちの間だけで現すのではなく、神さまが愛といつくしみをもってお造りになった生き物たちに対しても現すことによって、歴史と文化を造る使命を果たすように召されています。
 このことは、先ほどお話ししましたように、無限、永遠、不変の愛の交わりにおいて、まったく充足しておられる神さまが、創造の御業において、ご自身の愛をご自身の外に向けて現され、注がれたことを思い起こさせます。神のかたちに造られている人も、いわば神さまに倣って、歴史と文化を造る使命を果たす中でお互いの間の愛を深めて充足するだけで終わらず、その愛を自分たちの外に向けて現すことによって、その愛をさらに豊かに現すようになるのです。

 これらのことを心に留めますと、神である主が創造の御業において、人を初めからご自身の契約のうちにあるものとして、神のかたちにお造りになり、歴史と文化を造る使命をお委ねになったことの意味がよりよく理解されます。
 これには二つの面が考えられます。
 一つは、今お話ししましたように、愛を本質的な特性とする神のかたちに造られている人が、ご自身の契約に基づいて、自分たちの間にご臨在してくださる神である主の御前に近づいて、神である主を礼拝することを中心として、神である主との愛の交わりを深め、愛の共同体を形成していくとともに、その愛の実践をとおして自分たち自身が愛において成長し、人格的に成熟していきます。そのようにして、神さまから委ねられている歴史と文化を造る使命が果たされていきます。このように、人が愛の実践をとおして、その愛において成長し、人格的に成熟していくことは、歴史的な世界に存在している人として自然なことです。
 もう一つのことは、それ以上のことです。契約の神である主、ヤハウェは、神のかたちに造られている人が歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、このような愛のみこころに従い通した時に、その人自身が愛において成長し、人格的に成熟していくだけでなく、最初に神のかたちに造られた時の栄光にまさる栄光の状態に入れてくださることを約束してくださっていました。
 神である主がこのような契約の祝福を約束してくださっていたことは、あまり語られることがありませんので、分かりにくいかもしれませんが、いくつかのみことばの教えから導き出すことができます。
 創造の御業の記事の中では、神である主がエデンの園の中央に、「いのちの木」とともに生えさせられた「善悪の知識の木」とそれについての戒めによって示されていました。その戒めは、創世記2章16節ー17節に、

神であるは人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

と記されています。
 神である主は「いのちの木」も含めて、ほかのどの木からでも食べてよいけれど、この「善悪の知識の木」からは食べてはならないと戒められました。この木は、木そのものとしてはほかの木と同じように「見るからに好ましく食べるのに良い」木でしたから、この木が有害なものであるので食べてはならないと戒められていたのではありません。また、この木から取って食べないことで何か不都合が生じることはありませんし、この木から取って食べないために、努力が必要なわけでもありません。
 ですから、その木から取って食べてはいけない理由はただ一つ、神である主がそのように命じられたからであるということだけです。人はこの「善悪の知識の木」を見て、契約の神である主、ヤハウェこそが主であられ、自分は主の契約のしもべであることと、主の一方的な愛と恵みによって、主との愛の交わりのうちに生きるものとしていただいていること、そして、それゆえに、すべてを尽くして主の愛を受け止め、すべてを尽くして主を愛し、その愛のみこころに従うべきものであることを、改めて、思い起こすことができました。
 エデンの園においては、人がなすことがすべて豊かな実を結びました。そのような状態が続いていくうちに、人は自分には何でもできるというような高ぶりに陥りかねません。実際に、それがサタンが陥ったわなです。「善悪の知識の木」はそのような危険に陥りかねない人のために、神である主が備えてくださった「恵みの手段」でした。
 しかも、「善悪の知識の木」という名は「神のようになる」ことを意味していました。けれども、それは、「善悪の知識の木」から取って食べることによって実現することではありません。人が「善悪の知識の木」に関する神である主の戒めが示している、神である主こそが契約の主であられ、自分は主の契約のしもべであって、主を神として恐れ、すべてを尽くして主の愛を受け止め、主を愛し、敬うからこそ、主の愛のみこころに従って、歴史と文化を造る使命を果たしていくことによっています。それは、神である主がそのことに対する報いとして与えてくださる栄光の状態です。
 この栄光の状態は、イエス・キリストによって実現しています。イエス・キリストは最初に神のかたちに造られた時のアダムと同じ人としての性質を取って来てくださいました。そして、父なる神さまを愛して、十字架の死に至るまで、そのみこころに従いとおされました。それで、そのことに対する報いとして、栄光をお受けて死者の中からよみがえられ、父なる神さまの右の座に着座されました。このようにして、イエス・キリストがお受けになった栄光は、人が最初に神のかたちに造られた時の栄光にまさる栄光でした。
 このことについて、パウロは、復活についての教えを記している、コリント人への手紙第一・15章26節ー27節で、
 最後の敵である死も滅ぼされます。「彼は万物をその足の下に従わせた」からです。
と記しています。また、エペソ人への手紙1章22節では、

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

と記しています。
 ここでパウロは、神さまが創造の御業において神のかたちにお造りになった、人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことを記している、詩篇8篇6節に記されています、
  万物を彼の足の下に置かれました。
というみことばを引用しています。新改訳はエペソ人への手紙1章22節で、
  いっさいのものをキリストの足の下に従わせ
と訳していますが、「キリストの足の下に」は直訳では「彼の足の下に」です。詩篇8篇は、神のかたちに造られている人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後にも、人に委ねられている歴史と文化を造る使命が取り消されてはいないことを示しています。
 ここで、パウロは、イエス・キリストが栄光をお受けて死者の中からよみがえられ、父なる神さまの右の座に着座されたことによって、神さまが創造の御業において神のかたちに造られている人に委ねてくださった歴史と文化を造る使命が成就していることを明らかにしています。
 このことは、神のかたちに造られている人が歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて神である主のみこころに従い通すことと、最初に神のかたちに造られた時の栄光にまさる栄光を与えられることが密接につながっていることを示しています。
 そして、新約聖書は、私たち主の契約の民がこのイエス・キリストの復活の栄光にあずかっていることを示しています。人は神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、最初に神のかたちに造られた時の栄光を失ってしまいましたが、神さまは御子イエス・キリストによってそれを回復してくださっただけでなく、さらにまさる栄光にあずからせてくださっています。それは、私たち主の契約の民が、イエス・キリストの復活の栄光にあずかって、最初に神のかたちに造られた時の栄光にある神である主のとの愛の交わりよりさらに深く豊かな栄光にある神である主との愛の交わりに生きるようになるためのことです。
 神さまはどうして、私たち主の契約の民をこのような深く豊かな栄光にあって神である主との愛の交わりに生きるようにしてくださったのでしょうか。それは、ご自身が無限、永遠、不変の愛の交わりの中にまったく充足しておられる神さまが、創造の御業において、ご自身の愛をご自身の外に向けて現してくださったことによっています。そして、その神さまの愛がどこかでとどまることがない愛であることによっています。神さまは神のかたちに造られている人がご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後にも、私たち主の契約の民に対する初めからの愛、創造の御業において現してくださっている愛を貫いてくださり、その愛のみこころを実現してくださるために、御子イエス・キリストをお遣わしになったのです。
 私たち主の契約の民は、今すでにイエス・キリストの復活のいのちにあずかって新しく生まれていますが、その完成は終わりの日にイエス・キリストが再臨されて、私たちを栄光のからだによみがえらせてくださるとともに、新しい天と新しい地を再創造してくださる時に実現します。これによって、神である主が最初にエデンの園にご臨在してくださった時の栄光よりさらに満ちた栄光においてご自身の契約の民の間にご臨在してくださるようになります。その時には、神さまが創造の御業においてお示しになったみこころが完全に実現します。それはまた、アジアにある七つの教会へのみことばにおいて、イエス・キリストが約束してくださっている一つ一つの祝福がすべて実現することでもあります。


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