黙示録講解

(第179回)


説教日:2014年10月12日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章8節ー11節
説教題:スミルナにある教会へのみことば(8)


 黙示録2章8節ー11節に記されています、イエス・キリストがスミルナにある教会に語りかけられたみことばにおいて、イエス・キリストはご自身のことを、
  初めであり、終わりである方
として示しておられます。この、
  初めであり、終わりである方
というみことばは、イエス・キリストが黙示録の著者であるヨハネに、ご自身の栄光の御姿をお示しになった時に、ヨハネに語りかけられたみことばの最初の部分である1章17節後半に記されています、
  わたしは、最初であり、最後である
というみことばを受けています。それで、
  初めであり、終わりである方
がどのような方であるかを理解するためには、
  わたしは、最初であり、最後である
というみことばを理解する必要があります。
 この、
  わたしは、最初であり、最後である
というみことばは、強調形の、
  エゴー・エイミ・・・
という言い方で示されていて、イエス・キリストが出エジプト記3章14節に記されています、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の神、すなわち、契約の神である主、ヤハウェであられることを意味しています。
 この、
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名は、とても豊かな意味をもっています。その根本にあってすべての意味の土台となっていることは、神さまが何ものにも依存されることなく、永遠にご自身で存在される方であられるということです。
 このことを基本的なこととして、神さまが永遠からのみこころにしたがって創造の御業を遂行され、この世界を歴史的な世界としてお造りになった方であられること、また、お造りになったすべてのものをご自身の契約の中に入れてくださり、その契約に基づいて、すべてのものを歴史をとおして真実に支え、それぞれの特質を生かしてくださりつつ、導いてくださっておられる方、すなわち、歴史の主であられることを意味しています。そして、このことの中心には、神さまが創造の御業において人を神のかたちにお造りになって、ご自身が歴史的な世界としてお造りになったこの世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことがあります。
 先主日には、神さまが創造の御業において人を神のかたちにお造りになって、ご自身が歴史的な世界としてお造りになったこの世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことがどのようなことかを理解するために最も大切なことをお話ししました。今日は、それをもう少し補足しつつお話を進めたいと思います。
 まず、先主日にお話ししたことの復習になりますが、ヨハネの福音書1章1節ー3節には、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されています。
  初めに、ことばがあった。
と言われているときの「初め」は、創世記1章1節に、
  初めに、神が天と地を創造した。
と記されているときの「初め」を指しています。また、
  初めに、ことばがあった。
と言われているときの「あった」は過去のある時点、この場合は、天地創造の御業の「初め」において、継続してあったことを示しています。それで、
  初めに、ことばがあった。
というみことばは、神さまが創造の御業を始められた時に「ことば」はすでに存在し続けておられたことを示しています。時間は神さまがお造りになったこの世界の時間であり、天地創造の御業とともに始まっています。それでここでは、「ことば」この時間的な世界を越えた永遠の存在であることが示されています。これに続く、
  ことばは神とともにあった。
というみことばは、「ことば」が父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられることを示しています。このことはとても大切なことですので、2節において、
  この方は、初めに神とともにおられた。
と言われて繰り返されています。これは、天地創造の御業の「初め」において、「ことば」は、ずっと、父なる神さまとの愛の交わりのうちに存在しておられたことを示しています。「ことば」は永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちに充足しておられます。
 このことを踏まえたうえで、3節では、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と言われています。
  すべてのものは、この方によって造られた。
ということは、天地創造の御業を遂行された方は「ことば」であったことを示しています。これは「Aさんが家を建てた」というときに、Aさんは「建築主」で、自分の家を立てる計画を立てた人です。そして、実際に、「建築主」の意向にしたがって、建築の働きをしたのは大工さんです。このたとえの「建築主」であるAさんは、「天地の造り主」であられる父なる神さまに当たります。父なる神さまが創造の御業をご計画されました。そして、実際に、「建築主」の意向にしたがって、家を建てた大工さんは、創造の御業を遂行された御子に当たります。御子が父なる神さまのみこころに従って、創造の御業を遂行されました。これが、ここで、
  すべてのものは、この方によって造られた。
と言われていることです。父なる神さまが御子によって「すべてのもの」をお造りになりました。御子は父なる神さまのみこころに従って、創造の御業を遂行され「すべてのもの」をお造りになりました。
 このことを1節ー2節に記されていることとのつながりに注目しますと、ここでは、「すべてのものは」永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちに充足しておられる「ことば」によって造られたということが示されています。
 このことから、神さまの天地創造の御業は、愛のうちにまったく充足しておられる神さまが遂行された御業であることが分かります。ご自身の愛をご自身の外に向けて表現された御業です。父なる神さまがご自身の愛を御子によって造られた「すべてのもの」に注いでくださっています。この愛を受け止めるために造られたのは人格的な存在、特に、愛を本質的な特性とする神のかたちに造られている人です。
 このことが、神さまが創造の御業において人を神のかたちにお造りになって、ご自身が歴史的な世界としてお造りになったこの世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことの意味を理解するための鍵です。また、このことを離れて、人が神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられていることを正しく理解することはできません。歴史と文化を造る使命の中心は、神さまの愛を受け止め、愛をもって神さまに応答することにあります。より具体的には、父なる神さまが、自分たちばかりでなく、お造りになった「すべてのもの」に愛といつくしみを注いでくださっていることを受け止め、感謝をもって、愛といつくしみに満ちた神さまの栄光を讃え、礼拝することにあります。


 天地創造の御業が神さまの愛の表現であるということは、ヨハネの福音書1章1節ー3節に記されていることによって初めて分かるようになったのではありません。すでにいろいろな機会にお話ししてきましたように、そのことは天地創造の御業の記事から汲み取ることができます。このことも簡単に振り返っておきましょう。
 イザヤ書45章18節に、
  天を創造した方、すなわち神、
  地を形造り、これを仕上げた方、
  すなわちこれを堅く立てた方、
  これを茫漠としたものに創造せず、
  人の住みかにこれを形造った方、
と記されていますように、神さまは創造の御業において「地を」「人の住みかに」形造られました。これはこの「」をお造りになった神さまの御業の目的です。
 創造の御業の記事を見ますと、この「」が最終的に「人の住みかに」形造られるようになるまでに、神さまはさまざまな御業を遂行しておられます。その第一歩が、創世記1章2節に、
  地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
と記されています。これは、神さまが最初に造り出された時の「」の状態を示しています。「」は「大水」に覆われ、隠れていたのに、
  地は茫漠として何もなかった。
と言われているのはおかしいと感じられるかもしれませんが、この「大水」は「」に属している水です。これは後に、地殻変動による隆起陥没などにより、一所に集められて「」となります(9節ー10節)。
 また、「茫漠として」ということには、ある意味合いがあります。ここで、
  地は茫漠として何もなかった。
と言われているときの「茫漠として」と訳されていることばと、イザヤ書45章18節で、
  これを茫漠としたものに創造せず、
  人の住みかにこれを形造った方、
と言われているときの「茫漠とした」と訳されていることばは同じことば(トーフー)です。そして、このイザヤ書45章18節では、「茫漠としたもの」と「人の住みか」が対比されています。つまり、「茫漠としたもの」は、とても「人の住みか」とは言えない状態を示しています。ですから、創世記1章2節に、
  地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、
と記されていることは、「」が、まだ、とても「人の住みか」とは言えない状態にあったことを示しています。
 けれども、そこでは、さらに、
  神の霊が水の上を動いていた。
と記されています。「」が、まだ、とても「人の住みか」とは言えない状態にあった時に、すでに、「神の霊」が「」にご臨在しておられました。ですから、この「」は「人の住みか」として形造られる前に、造り主である神さまがご臨在される所として、聖別されていたのです。
 そして、そのように、御霊によってこの「」にご臨在しておられた神さまが、続く3節に、
  神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
と記されていますように、
  光があれ。
という「創造のみことば」をもって、「」を明るく暖かな世界とされました。このようにして「」にあるようになった「」は、この「」にご臨在しておられる神さまの御臨在に伴う光です。神さまの御臨在が「」にあることの現れです。同じようにして、これに続く一連の「創造のみことば」をもって形造られた環境と、生み出された豊かないのちの営みが、神さまの御臨在が「」にあることを現し、あかししています。創造の御業の第4日に「」とのかかわりでの「役割」が確立された天体も、詩篇19篇1節に、
  天は神の栄光を語り告げ、
  大空は御手のわざを告げ知らせる。
と記されていますように、造り主である神さまの御臨在の超越性を映し出すという意味をもっています。
 このように、この「」はここに神さまがご臨在しておられることを現し、あかししている豊かさに満ちています。詩篇104篇10節ー14節には、
  主は泉を谷に送り、山々の間を流れさせ、
  野のすべての獣に飲ませられます。
  野ろばも渇きをいやします。
  そのかたわらには空の鳥が住み、
  枝の間でさえずっています。
  主はその高殿から山々に水を注ぎ、
  地はあなたのみわざの実によって
  満ち足りています。
  主は家畜のために草を、
  また、人に役立つ植物を生えさせられます。
  人が地から食物を得るために。
と記されており、24節には、
  よ。あなたのみわざはなんと多いことでしょう。
  あなたは、それらをみな、
  知恵をもって造っておられます。
  地はあなたの造られたもので満ちています。
と記されています。
 これらの詩篇のみことばから、天地創造の御業は、神さまがご自身の愛を造られたものに注いでくださる御業であったことが分かります。また、これらの詩篇が、そのことを告白して、神さまを讃えていることから、神のかたちに造られている人がその神さまの愛を受け止め、感謝と讃美をもって応答するように造られていることが分かります。
 このように、創世記1章1節ー2章3節に記されています天地創造の御業の記事は、神さまが「」をご自身がご臨在される所として聖別され、御臨在に伴う豊かさをあふれさせてくださったことと、それが、この「」を「人の住みか」としてくださるためのことであったこと指し示しています。これによって、人は神さまの御臨在の御許に住まうものとしていただいています。それは、当然、神のかたちに造られている人が、神さまの御臨在の御前に近づいて、神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛の交わりに生きるようになるためのことでした。

 そのことは、さらに、創世記2章7節に、

神であるは土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

と記されていることからも汲み取ることができます。創造の御業において示されたみこころに従い、神である主はご自身の契約に基づいて、この「」にご臨在されて、「土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれ」ました。それによって「人は生きものとなった」と言われています。そのようにして造られた人が、最初に意識したことは、自分が神である主の御臨在の御前にあるということであったはずです。神のかたちに造られている人は造られたその時から、神である主との愛の交わりに生きることができたのです。
 続く8節に、
  神であるは東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。
と記されていますように、神である主は人をご自身の御臨在の豊かさが満ちあふれているエデンの園に置いてくださいました。このことも、神である主が、人をご自身との愛の交わりに生きることができるようにしてくださったことを意味しています。
 先ほど引用しました詩篇のみことばから分かりますが、神さまは創造の御業においてご自身の愛といつくしみをいのちあるものとしてお造りになったすべてのものに注いでくださっています。また、創世記1章21節ー22節には、

神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神はそれを見て良しとされた。神はそれらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」

と記されています。創造の御業においては、この時、初めて「いのちあるもの」が造り出されました。そして、神さまは、この時、初めて、お造りになったものを祝福されました。このことは、創造の御業における神さまの祝福がいのちの豊かさにかかわっていることを意味しています。このことからも、神さまはご自身がお造りになったいのちあるものに愛といつくしみを注いでおられることを汲み取ることができます。
 生き物たちは、造り主である神さまの愛といつくしみにあずかっていますが、造り主である神さまを知りません。まして、神さまを礼拝して、愛といつくしみに満ちた神さまの栄光を、感謝とともに讃えることはありません。けれども、愛を本質的な特性とする神のかたちに造られている人が、そのような神さまの愛といつくしみがすべてのいのちあるものに注がれていることを受け止め、愛といつくしみに満ちた神さまの栄光を讃えて、神さまを礼拝するように召されています。神のかたちに造られている人は、神さまの愛といつくしみが自分に注がれていることを受け止めるだけではありません。すべてのいのちあるものに注がれている神さまの愛といつくしみをも受け止めて、感謝と讃美をもって神さまを礼拝することを中心として、神さまの愛に応答します。それが神のかたちに造られている人に委ねられている歴史と文化を造る使命の本質です。
 この意味において、神のかたちに造られている人は、神さまがお造りになったすべてのものを代表して、神さまの愛といつくしみに満ちた栄光を、感謝とともに讃え、礼拝しています。このことが、神のかたちに造られている人が特別な意味で神である主の御臨在があり、その豊かさに満ちていたエデンの園に置かれていた理由であったと考えられます。すべてのいのちあるものが、神さまの御臨在を映し出す豊かさに満ちているこの「」にあって、神さまの愛といつくしみにあずかっています。その中にあって、神のかたちに造られている人は特別な意味で神である主がご臨在されるエデンの園にあって、神である主の御臨在の御前に近づいて、神である主の御顔を仰ぎ、その愛を受け止め、主を神として礼拝することによって、その愛に応答して、一切の栄光を神である主に帰していました。エデンの園は、そのようにして、神のかたちに造られている人が神である主を礼拝することを中心として、神である主との愛の交わりに生きるために、神である主が備えてくださったところです。
 このように、天地創造の御業が、神さまがご自身の愛を造られたものに注いでくださる御業であったことは、創世記の記事から汲み取ることができます。ただ、ヨハネの福音書1章1節ー3節の記事によって、神さまが無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにあってまったく充足しておられることが明確に示されるようになりました。そして、創造の御業は父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにまったく充足しておられる御子によって遂行されたことも、明確に示されるようになりました。この点においては、啓示がより豊かに与えられています。

 神さまは創造の御業の初めから、人を豊かに祝福してくださり、愛を本質的な特性とする神のかたちにお造りになりました。そして、神である主が特別な意味でご臨在されるエデンの園に置いてくださって、人をご自身との愛の交わりに生きることができるように、すべての備えをしてくださっていました。このように、人に限りない愛を注いでくださっていた神である主にとって、人がご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことは、どんなにみこころを痛める出来事であったでしょうか。
 それはまた、神である主に敵対して、そのみこころの実現を阻止しようとして働いている暗やみの主権者であるサタンにとっては、神である主の御名を、決定的に辱めることができたと思われた瞬間であったことでしょう。
 しかし、神である主は、すぐれた御使いとして造られたサタンの、いわば、悪知恵によるはかりごとをはるかに越えたみこころをお示しになりました。それが、創世記3章15節に記されています、
  わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。
  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。
という、サタンへのさばきの宣言の中で示された「最初の福音」です。
 ここで神である主は、罪を犯してサタンと一つになってしまっている人に、自分の力で、サタンとのつながりを断ち切るようにと命じられたのではありません。3章9節ー13節に記されていますように、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人とその妻は、自らの罪を悔い改めて、神である主に立ち返ることはありませんでした。ですから、人が自分の力でサタンとのつながりを断ち切ることができないことは、すでに明らかになっています。これに対して、神である主ご自身が「」と「女の子孫」の共同体と、サタンとその霊的な子孫の共同体との間に「敵意」を置いてくださって、両者のつながりを断ち切ってくださると言われています。それによって、「」と「女の子孫」が、神である主に敵対しているサタンとその子孫との霊的な戦いを展開すようになると言われています。これは、霊的な戦いにおいて、「」と「女の子孫」が神である主の側につくようになるということで、「」と「女の子孫」の共同体の救いを意味しています。そして、「女の子孫」のかしらとして来られる方によって、サタンに対する最終的なさばきを執行されると言われています。
 神である主はただこのようなみこころを示されただけではありません。
  わたしは、「わたしはある」という者である。
という御名の主として、この「最初の福音」に示されたみろを、その後の人類の歴史をとおして実現してくださいました。そのことにつきましては、先主日にお話ししたとおりです。
 ここでは一つのことを取り上げます。
 この「最初の福音」が啓示されたとき、人は神である主の愛を退け、主に背いて、暗やみの主権者であるサタンと一つになってしまっていました。もはや神である主への恐怖という恐れに満たされてしまっていて、とても主の愛を受け止めることはできません。また、罪の結果である死の力に捕らえられてしまっていて、自分の力では自分を解放することもできませんでした。「最初の福音」はそのような状態にあった人に対して、神である主がすべてをなしてくださると約束してくださったものです。ですから、それは神である主の一方的な愛と恵みによることです。人にはそのように約束してくださった神である主と、神である主の約束を信じることしか求められてはいません。
 このことを念頭に置いて、すでにお話ししたことを思い出してみましょう。
 イエス・キリストがヨハネに語られた、
  わたしは、最初であり、最後である
というみことばの背景を探っていきますと、契約の神である主、ヤハウェが歴史の主として、ご自身の契約において約束されたことを必ず実現してくださる方であられることに行き着きます。しかも、それは、すでにお話ししました申命記32章に記されています「モーセの歌」に示されていましたように、主の一方的な愛と恵みによって、エジプトの奴隷の状態から贖い出されたイスラエルの民が、その主に対する不信を募らせて、主に背き続けて、ついには、さばきを招くに至るにもかかわらず、主がご自身の契約においてアブラハム、イサク、ヤコブに約束してくださった祝福を必ず実現してくださる方であられることを意味していました。
 このことを、先ほどお話ししました「最初の福音」に照らして見てみますと、そこには一貫しているものがあることが分かります。神である主の一方的な愛といつくしみによって、豊かな祝福にあずかっていた主の民が、主に対する不信を募らせて、主に背き、自らの身にさばきを招くようになるにもかかわらず、主がご自身の契約において約束してくださった祝福を必ず実現してくださるということは、イスラエルの民の背教の歴史の中で初めて啓示されたことではありませんでした。それは、創造の御業において限りなく豊かな祝福にあずかっていた人、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられていた人が、また、神である主の御臨在の御許に近づいて、その愛を一身に受けて、御顔を仰いでいた人が、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後に、神である主が「最初の福音」を与えてくださった時から、一貫して示されていた、神である主の愛と恵みによることでした。
 それは約束の贖い主として来てくださったイエス・キリストにおいて、私たちの間の現実となっている神さまの愛と恵みです。私たちが自分の力ではどうすることもできない状態にあることをご存知であられる神である主ご自身が、すべてをなしてくださっていることに示されている愛と恵みです。私たちは、順境にあっても、逆境にあっても、ご自身のことを、
  わたしは、最初であり、最後である
というみことばをもってお示しになった、御子イエス・キリストの真実な愛と恵みに信頼し、神である主の御臨在の御許に近づいて、主を礼拝することを中心として、主との愛の交わりのうちに歩み続けるように召されています。
 主の愛と恵みがこのように一貫したものであれば、スミルナにある教会の信徒たちが激しい迫害にさらされていたとしても、神である主の一方的な愛と恵みによる御臨在の祝福が変わることなく注がれていたと信じることができます。


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