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説教日:2023年4月2日 |
今日は、この後に記されていることについては飛ばして、今お話ししていることと深くかかわっている、33章1節ー3節に記されていることを取り上げます。 そこには、 主はモーセに言われた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、ここから上って行って、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地に行け。わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし、カナン人、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」 と記されています。 ここで「主」はモーセに二つのことを語っておられます。 一つは、1節ー3節前半に 主はモーセに言われた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、ここから上って行って、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地に行け。わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし、カナン人、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。 と記されていることです。 ここでは、「主」がご自身の契約を通してアブラハム、イサク、ヤコブにお与えになった約束にしたがって、イスラエルの民が約束の地に行くようにと言われています。これは、これまでお話ししたように、エジプト人(やエジプトとエジプトを出たイスラエルの民の動向を探っていたと考えられる周辺の民)が、「主」の、 わたしは「わたしはある」という者である。 という御名を汚すことがないように、「主」がアブラハム、イサク、ヤコブに与えられた契約にしたがって始められた出エジプトの贖いの御業を成し遂げられて、イスラエルの民を約束の地に導き入れてくださるようにというモーセのとりなしを、「主」が受け入れてくださったことに基づいています。 その際に、「主」は、 わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし、カナン人、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。 と約束してくださいました。この「一人の使い」は「使い」の単数形で表されているもので「一人の」ということばはありません。 「主」がモーセに語られたもう一つのことは、3節後半に記されている、 しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。 ということです。 ここでは、「主」はイスラエルの民の「ただ中にあっては」上って行ってくださらないと言われています。その理由は、イスラエルの民は「うなじを固くする民なので」、もし「主」の御臨在がイスラエルの民とともにあるなら、イスラエルの民は「主」ヤハウェの聖さを冒してしまい、「主」のさばきによって絶ち滅ぼされてしまうことになるからであると言われています。 「うなじを固くする」というのは、文字通りには「首がかたい」ということで、高慢で、強情で、手に負えない状態を表わしています。ですから、ここで問題になっているのは、「うなじを固くする民」であるという、イスラエルの民の実質的な特質です。普通に考えると、イスラエルの民が契約の神である「主」がご臨在されるシナイ山の麓で金の子牛を造って、それを自分たちの契約の神である「主」、ヤハウェであるとして拝んだ罪が問題であると考えられます。しかし、その出来事はイスラエルの民が「うなじを固くする民」であるということの現われの一つです。この時に至るまで、イスラエルの民はことあるごとに「主」に対する不信を募らせて、自らが「うなじを固くする民」であることを現してきました。この時にイスラエルの民がなしたことは、いわば、その頂点に当たることです。ですから、「主」が問題としておられるのは、そのような罪が生み出されるイスラエルの民の特質です。 「主」の御臨在がそのような「うなじを固くする民」とともにあるなら、その民は繰り返し「主」の聖さを冒してしまうことでしょう。そうなれば「主」はイスラエルの民をおさばきになり、絶ち滅ぼしてしまうことになりす。それで、「主」は「使い」を遣わしてくださって、アブラハム、イサク、ヤコブへの契約の約束にしたがってイスラエルの民を約束の地に導き入れてくださるけれども、ご自身はイスラエルの民とともには上って行かないと言われたのです。 ここには、その「使い」が誰なのかという問題があります。これについては見方が別れています。また、後ほどお話ししますが、この問題はモーセにとっても問題となります。 出エジプト記の中では、「主」がご自身の「使い」を遣わして、イスラエルの民を約束の地へと導き入れてくださるという約束は、すでに23章に記されていますので、まず、それを見て見ましょう。 23章20節ー23節には、 見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、道中あなたを守り、わたしが備えた場所にあなたを導く。あなたは、その者に心を留め、その声に聞き従いなさい。彼に逆らってはならない。わたしの名がその者のうちにあるので、彼はあなたがたの背きを赦さない。しかし、もしあなたが確かにその声に聞き従い、 わたしが告げることをみな行うなら、わたしはあなたの敵には敵となり、あなたの仇には仇となる。わたしの使いがあなたの前を行き、あなたをアモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、カナン人、ヒビ人、エブス人のところに導き、わたしが彼らを消し去る という「主」がモーセをとおしてイスラエルの民に語られたみことばが記されています。 ここでは、「主」が「使いをあなたの前に遣わし、道中あなたを守り、わたしが備えた場所にあなたを導く」と言われています。この「主」のみことばから分かりますが、「主」が「使い」をイスラエルの民の「前に」遣わしてくださるということは、その「使い」がイスラエルの民を守ってくださり、約束の地に導いてくださることを意味しています。後ほどお話しすることとかかわっていますが、このことは、33章2節ー3節前半に、 わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし、カナン人、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。 と記されている「主」のみことばにも当てはまります。 23章21節の「あなたは、その者に心を留め」と訳されている部分の「その者」は、原文では「顔」とか「御臨在」を表わすことば(パーニーム)で表されています。それで「その者に心を留め」を直訳しますと「彼の臨在に心を留め」あるいは「彼の顔に心を留め」となります。このことは、「主」が遣わしてくださる「使い」は、イスラエルの民とともにいてくださる方、イスラエルの民の間にご臨在される方であることを示しています。 また、同じ21節では、「わたしの名がその者のうちにある」と言われていて、「主」の御名がその「使い」のうちにあることが示されています。「主」の御名は「主」ご自身を表示するものです。それで、「主」の御名がそのうちにあるということは、「主」ご自身がそこにご臨在しておられることを意味しています。 このように、「主」が遣わしてくださる「使い」は、イスラエルの民の間にある「主」の御臨在を意味していると考えられます。 33章1節ー3節に戻りますが、そうしますと、そのような「使い」が遣わされるということは、「主」の御臨在がイスラエルの民の間にあるという意味ではないか、それなのに「主」が、 わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。 と言われたのは、どういうことなのかいう疑問がわいてきます。 これについては、一般的に、この「使い」が、先ほどの23章20節ー23節に記されていた「使い」とまったく同じわけではないと考えられています。しかし、それと同時に、その「使い」の働きは、先ほど触れたように、イスラエルの民を守ってくださり、アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた契約に約束された地に導き入れてくださるという点で同じです。それで、この33章2節の「使い」は、「主」ヤハウェの御臨在ではあるけれども、その御臨在の意味合いが23章20節ー23節に示されている「使い」における御臨在と違っていることを示していると考えられます。 このこととのかかわりで注目されるのは、こここで「主」が、 わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。 と言われたときの、「あなたがたのただ中にあっては」ということばです。これは、「主」がイスラエルの民の「ただ中にあっては」ご臨在されないということを意味しています。 実際にそれがどのようなことであったかは、33章1節ー3節の後に記されている部分において示されていると考えられます。 7節ー9節には、 さて、モーセはいつも天幕を取り、自分のためにこれを宿営の外の、宿営から離れたところに張り、そして、これを会見の天幕と呼んでいた。だれでも主に伺いを立てる者は、宿営の外にある会見の天幕に行くのを常としていた。モーセがこの天幕に出て行くときは、民はみな立ち上がり、それぞれ自分の天幕の入り口に立って、モーセが天幕に入るまで彼を見守った。モーセがその天幕に入ると、雲の柱が降りて来て、天幕の入り口に立った。こうして主はモーセと語られた。 と記されています。 ここに記されていることがいつのことであるかについては、見方が分かれています。 一つの見方は、これは、イスラエルの民が金の子牛を作って、これを「主」ヤハウェであるとして拝んだ時からのことであるというものです。その時から、「主」の御臨在はイスラエルの民の宿営の外の離れた所にあるようになったというものです。もう一つの見方はその時より前のこと、つまり、イスラエルの民がシナイ山に宿営し始めた時からのことであるというものです。このことについては、それぞれに言い分があって、どちらであると断定することができません。 そのどちらであるとしても、具体的なことは34章に記されているので日を改めてお話ししますが、この後、今お話ししているイスラエルの民の背教にもかかわらず、「主」は一方的な恵みとあわれみによって、イスラエルの民との契約を回復してくださいます。そのようにして「主」との契約が回復された後、イスラエルの民は、「主」がシナイ山においてモーセに与えてくださった戒めにしたがって、「主」がご臨在される場である聖所を中心とした幕屋を造るようになります。そして、イスラエルの民はその幕屋を中心として宿営するようになります。つまり、「主」の御臨在がイスラエルの民の中心にあるようになるのです。 そして、「主」の御臨在がイスラエルの民の中心にあるということこそが、祭司の国として召されたイスラエルの民の本来のあり方でした。イスラエルの民がエジプトの奴隷の身分から贖い出されたのは、「主」の御臨在の御前に住まい、「主」の御臨在の御前で仕えるようになるためのことでした。そして、それを実現してくださるために、「主」は聖所を中心とする幕屋を建設するための戒めを、モーセを通して与えてくださったのでした。 しかし、先ほど引用しました33章7節に記されている、 さて、モーセはいつも天幕を取り、自分のためにこれを宿営の外の、宿営から離れたところに張り、そして、これを会見の天幕と呼んでいた。 ということばは、「主」の御臨在とイスラエルの民の宿営との間の距離を示しています。シナイ山でモーセに与えられた戒めにしたがって聖所を中心とする幕屋が造られるなら、それによって、「主」の御臨在がイスラエルの民の間にあるようになったはずです。イスラエルの民は「主」がご臨在される聖所を中心として宿営したはずです。ところが、イスラエルの民が金の子牛を作って、これを「主」ヤハウェであるとして拝んだことによって、「主」の契約は破棄され、「主」がイスラエルの民の間にご臨在してくださることはなくなってしまいました。 先ほどの二つの見方に関してですが、もし初めから「主」の御臨在の場である「会見の天幕」がイスラエルの民の宿営の外の離れた所にあったのであれば、この時のイスラエルの民の背教によって、その状態が続くことになったということになります。また、この時のイスラエルの民の背教によって「会見の天幕」がイスラエルの民の宿営の外の離れた所に移された可能性もあります。 そのいずれであったとしても、これでは、「主」がイスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から贖い出してくださって、イスラエルの民と契約を結んでくださったこと、そして、聖所を中心とする幕屋に関する戒めを与えてくださったことが、空しいことになってしまいます。 そうではあっても、9節に、 モーセがその天幕に入ると、雲の柱が降りて来て、天幕の入り口に立った。こうして主はモーセと語られた。。 と記されているように、モーセが「会見の天幕」に入ると、「主」はそこにご臨在されて、モーセと語ってくださいました。しかも、11節には、 主は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた。 と記されています。 そのことが、33章2節に記されている「主」が「使い」をモーセとイスラエルの民の前に遣わして、約束の地まで導いてくださるということが意味することであると考えられます。 しかし、モーセはこのことをよしとして引き下がることはありませんでした。12節ー17節には、 さて、モーセは主に言った。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」主はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」 と記されています。 モーセは、まず、 ご覧ください。あなたは私に「この民を連れ上れ」と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。 と「主」に訴えています。 これは、1節ー3節前半に記されている、 あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、ここから上って行って、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地に行け。わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし、カナン人、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。 という「主」のことばに触れるものです。 そして、「主」が、 わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし と言われたことについて、その「使い」が誰であるかを問題としています。これに対しては、「主」が、 わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。 とお答えになっています。 しかしモーセは、「主」が、 わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。 とお答えくださっただけでは引き下がりませんでした。というのは、それは「主」が遣わしてくださる「使い」が誰であるかに対する答えではありますが、 わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。 ということばに示されているように、基本的にモーセ個人にかかわることです。それでは、イスラエルの民の宿営の外に「主」がご臨在されて、ただ、モーセとだけ語られることだけかもしれません。それで、モーセはさらに、 もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。 と祈りました。これはイスラエルの民のためのとりなしの祈りです。そして、イスラエルの民の存在の意味を回復してくださることを祈り求めることです。 「主」の御臨在がイスラエルの民の中心にあって、イスラエルの民が「主」の御前に住み、「主」の御前で仕えることがなければ、イスラエルの民の存在の意味はなくなってしまいます。それで、「主」の御臨在がイスラエルの民とともにないのであれば、いくらそこが「乳と蜜の流れる地」であっても、約束の地に入る意味はなくなってしまいます。それでモーセは、 もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。 と訴えています。もし「主」の御臨在がないのであれば、イスラエルの民はこの、荒野ではあるけれども、「主」がご臨在しておられるシナイ山の麓にいるべきだというのです。 これはそのまま、私たちの存在の意味にも当てはまります。もし私たちが「主」の御臨在の御前に住まい、「主」を礼拝することを中心として「主」に仕えることがないのであれば、どんなに平穏な所に住んでも、繁栄している所に住んでも、私たちの存在の意味は空しくなってしまいます。そこでの歩みのすべては、この世、この時代とともに過ぎ去ってしまいます。 「主」はそのような告白を伴うモーセのとりなしの祈りを受け入れてくださり、17節に記されているように、 あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。 とお答えになりました。「主」はイスラエルの民の間にご臨在してくださって、イスラエルの民を約束の地にまで導き上ってくださるというのです。 けれども、このことは3節後半に、 わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。 と記されていることとのかかわりで、さらに新しい問題を生み出すことになります。「主」が「うなじを固くする民」であるイスラエルの民の間にご臨在してくださって、イスラエルの民を約束の地にまで導き上ってくださるというのであれば、「うなじを固くする民」であるイスラエルの民は、その「途中で」、「主」によって絶ち滅ぼされてしまうのではないかという疑問です。 これは、モーセのうちにあった疑問でもあったと考えられます。この後、この疑問にかかわることをめぐって、「主」の御名についてのより豊かな意味が啓示されるようになっていきます。 そのことについては日を改めてお話しします。 |
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