本主日も、黙示録2章28節後半に記されている、
勝利を得る者には、わたしは明けの明星を与える。
という、イエス・キリストの約束のみことばと関連することとして、神である「主」に対する「主」の契約の民の不信仰がもたらした絶望的な状態にあって、なお、「主」の主権的で一方的な恵みが示されたことについてのお話を続けます。
今は、出エジプト記32章ー34章に記されている、イスラエルの民が、「主」がご臨在されるシナイ山の麓において、金の子牛を造ってこれを「主」として礼拝した時のことについてお話ししています。
すでにお話ししたように、それは、シナイ山にご臨在された「主」が御声をもって、直接的に、イスラエルの民に語られた十戒の第二戒を破ることでした。また、それは、契約の神である「主」の、
わたしは「わたしはある」という者である。
という御名を汚すことでした。
それで、32章7節ー10節に記されているように、このような罪を犯したイスラエルの民に対して「主」ヤハウェの聖なる御怒りが燃え上がりました。そして、「主」はモーセに、この民を絶ち滅ぼして、モーセから新しい民を起こそうと言われました。
けれども、モーセは、自分から新しい民が起こされ、自分の名が高くなることに心を動かされることなく、ひたすら、「主」の御名の聖さが守られることを求めていました。そのことは、7節ー10節に続く11節ー14節に記されている、モーセのとりなしの祈りから汲み取ることができます。
今日はそのことと関連することをもう少しお話しします。
11節ー14節には、
しかしモーセは、自分の神、主に嘆願して言った。「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」すると主は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。
と記されています。
前回お話ししたように、このとりなしにおいてモーセは三つのことを祈っています。
最初の祈りでモーセは、
主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。
と祈っています。
これだけを見ると、何となく、「主」が、「偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民」であるイスラエルの民に「御怒りを燃やされる」ことに対して、その理不尽さに抗議しているように聞こえます。
しかし、ここでモーセは、「主」がご臨在されるシナイ山の麓において、金の子牛を作り、これを「主」ヤハウェであるとして礼拝して、「主」の御名を汚したイスラエルの民に対して、「主」が「御怒りを燃やされる」ことに対して抗議しているのではありません。この違いは大切なことです。
モーセはイスラエルの民がしたことに対して、「主」が「御怒りを燃やされる」ことは当然のことであるということを知っていました。
そのことは、この11節ー14節に続いて、15節ー20節に、
モーセは向きを変え、山から下りた。彼の手には二枚のさとしの板があった。板は両面に、すなわち表と裏に書かれていた。その板は神の作であった。その筆跡は神の筆跡で、その板に刻まれていた。ヨシュアは民の叫ぶ大声を聞いて、モーセに言った。「宿営の中に戦の声があります。」モーセは言った。「あれは勝利を叫ぶ声でも敗北を嘆く声でもない。私が聞くのは歌いさわぐ声である。」宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして、手にしていたあの板を投げ捨て、それらを山のふもとで砕いた。それから、彼らが造った子牛を取って火で焼き、さらにそれを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの子らに飲ませた。
と記されていることからも分かります。
19節には、
宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして、手にしていたあの板を投げ捨て、それらを山のふもとで砕いた。
と記されています。
シナイ山の麓に下りたモーセも、イスラエルの民がしていることを見て、怒りを燃え上がらせたのです。
また、ここで、モーセが「手にしていたあの板を投げ捨て、それらを山のふもとで砕いた」と言われていることには、その当時の文化における発想(考え方)が背景となっています。
この「あの板」は15節ー16節に、
彼の手には二枚のさとしの板があった。板は両面に、すなわち表と裏に書かれていた。その板は神の作であった。その筆跡は神の筆跡で、その板に刻まれていた。
と記されている、神さまが御声をもって語られた十戒の戒めを、神ご自身が記された「二枚のさとしの板」です。
それは、25章16節に記されているように、「主」の聖所に置かれた契約の箱に納めるように命じられていました。その当時においては、契約が結ばれた場合には、2通の契約文書を作成して、それを当事者双方のそれぞれの聖所に納めることになっていました。「主」とイスラエルの民の聖所は同じ「主」の聖所ですので、2通の契約文書、すなわち、2枚の石の板が「主」の聖所に納められることになっていました。このことから、この2枚の石の板は、それぞれに十戒の戒めが記されている、「主」がイスラエルの民と結んでくださった契約文書に当たることが分かります。
そして、その当時においては、契約文書を破棄することは契約を破ることを意味していました。ですから、モーセがその2枚の板を「投げ捨て、それらを山のふもとで砕いた」ことは、モーセが怒りに駆られて思わずなしたことではなく、イスラエルの民が、「主」がイスラエルの民と結んでくださった契約の違反者となってしまったことを意味しています。
また、その当時の契約文書には、契約を守ることへの祝福と、それを破ることへののろいが記されていました(例外もあって、「のろい」しか記されていないものもあります)。それは、聖書に記されている「主」の契約にも見られることです。それで、モーセがその2枚の板を砕いたことは、その契約ののろいがイスラエルの民に及ぶこと、すなわち、イスラエルの民は滅びに値するということを意味しています。
ですから、7節ー8節に記されているように、「主」が、
さあ、下りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道から外れてしまった。彼らは自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえを献げ、『イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ』と言っている。
と言われた時に、モーセは、イスラエルの民が十戒の中でも極めて重要で、
あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
というように、詳細で念を押すような戒めである第二戒を破ってしまったこと、そして、それが「主」の契約を破ることであったことを理解していました。
しかし、モーセは、このことを十分分かった上で、なおも、そのイスラエルの民のためにとりなしているのです。
ですから、モーセがこの時に、「主」がご臨在されるシナイ山の麓において、金の子牛を作り、これを「主」ヤハウェであるとして礼拝して、「主」の御名を汚したイスラエルの民に対して、「主」が「御怒りを燃やされる」ことに対して抗議しているのではありません。繰り返しになりますが、モーセは、
主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。
と祈っています。しかも、これに続けて、
どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。
と祈っています。
このつながりを踏まえますと、このときのモーセのとりなしの祈りの意味が見えてきます。これについては、前回お話ししたことの結論を少し補足しながらお話しします。
「主」ヤハウェが「偉大な力と力強い御手をもって」ご自身の民であるイスラエルを奴隷として苦しめていたエジプトをおさばきになり、イスラエルの民を奴隷の状態からから連れ出されたことについて「主」が語られたみことばが、7章5節に、
わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエルの子らを彼らのただ中から導き出すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。
と記されており、9章29節には、モーセがファラオに、
私が町を出たら、すぐに主に向かって手を伸べ広げましょう。雷はやみ、雹はもう降らなくなります。この地が主のものであることをあなたが知るためです。
と語ったことが記されています。また、紅海の水を別けてファラオの軍隊を滅ぼされることについて記している14章18節にも、
ファラオとその戦車とその騎兵によって、わたしが栄光を現すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。
という「主」のみことばが記されています。
これは、5章1節ー2節に、
その後、モーセとアロンはファラオのところに行き、そして言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられます。『わたしの民を去らせ、荒野でわたしのために祭りを行えるようにせよ。』」ファラオは答えた。「主とは何者だ。私がその声を聞いて、イスラエルを去らせなければならないとは。私は主を知らない。イスラエルは去らせない。」
と記されていることとかかわっています。
ファラオを初めとして、エジプト人たちは、「主」ヤハウェがまことの神であり、国々の主であり、歴史の主であられることを知りません。出エジプトの贖いの御業は、「主」がこのような方であるこをファラオを初めとして、エジプト人にお示しになる御業でした。
ただし、それはまた、イスラエルの民にも当てはまることでした。
16章には、エジプトの地を出たイスラエルの民が、シンの荒野で飢えたときに、「モーセとアロンに向かって」、
エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。
と不平を言ったことを受けて、「主」がうずらとマナを与えてくださったことが記されています。その11節ー12節には、
主はモーセに告げられた。「わたしはイスラエルの子らの不平を聞いた。彼らに告げよ。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りる。こうしてあなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であることを知る。』」
と記されています。
「主」はエジプトの地において、また、紅海において、ご自身がどなたであるかをお示しになりました。それに触れたエジプト人は、それ以上、イスラエルの民を追撃することはなくなりました。その意味では、彼らなりにではあるでしょうが、「主」がどなたであるかを思い知らされたと言うことができます。しかし、この時に、シンの荒野において、「主」が語られた、
こうしてあなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であることを知る。
というみことばは、エジプトの地において、また、紅海においてなされた「主」の御業を目の当たりにしていたイスラエルの民が、「主」は自分たちの神であることを、真の意味で知っていないということを意味しています。そして、実際に、その状態が続いていって、ついには、「主」がご臨在されるシナイ山の麓において、金の子牛を作り、これを「主」ヤハウェであるとして礼拝して、「主」の御名を汚してしまうようになってしまいました。
いずれにしましても、これらのことから分かることは、「主」の贖いの御業は、突き詰めていくと、「主」がご自身がどなたであるかを、すべての人にお示しになる御業であるということです。
そして、そのことは、新しい契約の下で、父なる神さまがお遣わしになった御子イエス・キリストが、その十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業において、最も豊かに、また、最も鮮明に示されています。ピリピ人への手紙2章6節ー11節には、
キリストは、神の御姿であられるのに、
神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
人間と同じようになられました。
人としての姿をもって現れ、
自らを低くして、死にまで、
それも十字架の死にまで従われました。
それゆえ神は、この方を高く上げて、
すべての名にまさる名を与えられました。
それは、イエスの名によって、
天にあるもの、地にあるもの、
地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
すべての舌が
「イエス・キリストは主です」と告白して、
父なる神に栄光を帰するためです。
と記されています。
モーセのとりなしの祈りに戻りますが、モーセが「主」に嘆願して訴えていることは、もしこの時、「主」がご臨在されるシナイ山の麓において、金の子牛を作り、これを「主」ヤハウェであるとして礼拝して、「主」の御名を汚したイスラエルの民が絶ち滅ぼされてしまったなら、エジプト人たちは、
神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ
と考えるようになるということ、そして、そのようなことになれば、エジプト人の間で「主」の御名が汚されるようになってしまうということでした。
ですから、モーセが、
主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。
と祈ったことは、そのように、エジプト人が「主」を侮って、「主」の御名を汚すようにならないために、「主」ご自身が始められた出エジプトの贖いの御業を成し遂げていただきたいとの思いを表す祈りでした。そして、そのために、
どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。
と嘆願したのです。
このように、モーセは出エジプトの贖いの御業をとおして、「主」が侮られて「主」の御名が汚されることがないように、より積極的には、「主」が国々の主であられ、歴史の主であられることが示されることを願って、「主」がご臨在されるシナイ山の麓において、金の子牛を作り、これを「主」ヤハウェであるとして礼拝して、「主」の御名を汚したイスラエルの民のためにとりなしています。
前回お話ししたように、
あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、「わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ」と言われました。
という3番目の祈りにも、同じことが言えます。
繰り返しお話ししてきたように、神さまは、モーセにご自身の御名が、
わたしは「わたしはある」という者である。
ということを示してくださいました。そして、その御名は、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主」であり、アブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約に対して真実な神であられることを意味していることも示してくださっています。
そして、父祖アブラハム、イサク、ヤコブに約束してくださったことに基づいて始められた出エジプトの贖いの御業は、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるイスラエルの民を約束の地に導き入れてくださることなくしては、成し遂げられたとは言えません。それで、「主」がアブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約に対して真実な神であられることは、アブラハム、イサク、ヤコブに約束してくださったことに基づいて始められた出エジプトの贖いの御業を最後まで成し遂げてくださって、イスラエルの民を約束の地にまで導き入れてくださることにおいて示されます。
このように、モーセは出エジプトの贖いの御業をとおして「主」がどなたであられるかが示されることを願いつつ、「主」に対する不信を募らせ続けるイスラエルの民のためにとりなしています。
このモーセのとりなしは、イスラエルの民の価値や何らかのよさに基づいたものではありません。ひたすら「主」の御名が証しされ、「主」が、
わたしは「わたしはある」という者である。
という御名の神であられることが現されること、そして、その御名の栄光が現され、御名が讃えられるようになることを願ってのことでした。それこそが、「主」のみこころに沿った祈りの根底にあることです。
けれども、イスラエルの民は、モーセが自分たちのために、そのようなとりなしの祈りをしていたことを知っていたわけではありません。また、当然、イスラエルの民も「主」に祈っていたはずですが、ことあるごとに「主」に対する不信を募らせ、モーセやアロンに向かって不平を言い続けたことからすると、その祈りの根底には「主」に対する不信があったのではないかと思われます。
とはいえ、そのように言っている、この私自身にも、同じ問題があります。どう祈ったらよいのか分からなくこともあります。そのような時に、モーセのように「主」のみこころに沿った祈りをもってとりなしてくださる方がいればいいのにと思わされます。
しかし、私たちにはモーセ以上に、「主」のみこころに沿った祈りをもって、私たちそれぞれのために、とりなしてくださっている方がいます。
ローマ人への手紙8章26節ー27節には、
同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。
と記されています。
私たちは神さまがみことばをとおしてお示しになっているみこころがなされることを願って祈ります。しかし、「弱い私たち」は、具体的な状況において、何が神さまのみこころに沿っているのか分からなくなってしまうことがあります。そのために、具体的に「何をどう祈ったらよいか」分からなくなってしまいます。
ここには、
同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からない・・・、
と記されています。ローマ人への手紙を記しているパウロ自身がこれに当てはまり、御霊の助けが必要であることを示しています。
この場合の、御霊は同じ8章の9節に、
しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。
と記されている御霊です。ここでの仮定法は、「神の御霊があなたがたのうちに住んでおられる」ことが私たちの現実となっていること踏まえた上で、そうであるなら「あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいる」ということを示しています。この御霊は、また、14節ー16節に、
神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。
と記されている御霊です。私たちはこの御霊に導かれている「神の子どもです」。それで、
この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。
と言われています。ですから、私たちはこの御霊に導かれている「神の子ども」として、父なる神さまにむかって、親しく「アバ、父」と呼びかけて祈ります。これは「神の子ども」の特権であり、祝福です。
その私たちはなおも「弱い私たち」であり、「何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださる」と言われています。しかも、「御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださる」と言われています。
これは、今なおこの地にあってうめいている私たちのことです。御霊は、この私たちのうちに住んでくださって、父なる神さまのみこころに従って、私たちのためにとりなしてくださっています。
これとともに、天において私たちのためにとりなしてくださっている方がおられます。同じ8章の34節には、
だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
と記されています。
ここでは、まず、
だれが、私たちを罪ありとするのですか。
と言われています。まず考えられるのは、黙示録12章10節で「私たちの兄弟たちの告発者、昼も夜も私たちの神の御前で訴える者」と言われているサタンです。それとともに、罪に打ちひしがれている私たち自身の良心であることもあります(参照・ヨハネの手紙第一・3章20節)。
しかし、その私たちのために「死んでくださった方」がいます。この方はその死によって私たちの罪をすべて完全に贖ってくださって、その告発を無効にしてくださいました。その方はまた、私たちを栄光あるいのち、永遠のいのちに生きる者としてくださるために死者の中から「よみがえられた方」です。ここでは、この「キリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです」と言われています。
このように、私たちには、天においても、地にあっても、私たちのために神さまのみこころに従ってとりなしてくださっている方がおられます。
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