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説教日:2023年3月5日 |
実際に、神である「主」は、モーセをとおして、エジプトの地において、イスラエルの民を奴隷としていたエジプトに対するさばきを執行され、イスラエルの民を奴隷の状態から解放してくださいました。また、紅海においては、その水を別けて、イスラエルの民を追撃してきたファラオの軍隊を滅ぼし、イスラエルの民には紅海を通らせてくださいました。 さらに、荒野においては、イスラエルの民が渇いた時には水を与えてくださり、飢えた時には天からマナを降らせてくださり(16章4節)、それ以後も、イスラエルの民が飢えることがないようにしてくださいました。 それによって、「主」はご自身が、(強大な帝国であるエジプトおさばきになったことに示されている)エジプトばかりでなく、この世界のすべての国を、また、(紅海の水を別けたことに示されている)自然界を、さらには、(天からマナを降らせてくださったことに示されている)、自然界をも越えた領域をもお造りになり、治めておられる方であること、すなわち、 わたしは「わたしはある」という者である。 という御名の神であられることをお示しになりました。 確かに、イスラエルの民はそれらの御業を目の当たりにして、一時的に「主」を信じることはあっても、次の試練がやって来ると「主」への不信を募らせました。 けれども、それだけであったのではありません。それらすべてのことにおいて、「主」がモーセに言われた、 わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。 というみことばが実現しています。 それによって、モーセは「主」が、確かに、 わたしは「わたしはある」という者である。 という御名の神であられるということとともに、「主」が自分とともにいてくださることを、また、それゆえに、イスラエルの民とともにいてくださることを経験し、「主」がどなたであるかを現実的、経験的に知るようになったと考えられます。 また、イスラエルの民はことあるごとに「主」への不信を募らせました。それにもかかわらず、「主」はイスラエルの民を顧みてくださいました。このことによって、「主」がイスラエルの民を顧みてくださったのは、イスラエルの民が優れた民であったからではないことが明らかになりました。 そのことをモーセは理解していました。モーセがそのことを理解していたことは、申命記7章6節ー8節に記されているように、荒野で「主」への不信を募らせ続けたイスラエルの民の第一世代が荒野で死んだ後、モーセが第二世代に対して、 あなたの神、主は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。主があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、主は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。 と語っていることから分かります。 ここでモーセが語っていることは、神である「主」の贖いの御業の歴史をとおして一貫していて、変わることがありません。 マルコの福音書2章17節には、 医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。 というイエス・キリストのみことばが記されています。また、テモテへの手紙第一・1章15節にも、 「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。 というパウロのことばが記されています。さらに、コリント人への手紙第一・1章26節ー28節には、 兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。 と記されています。 モーセが、「主」がご臨在されるシナイ山の麓において、金の子牛を造ってこれを「主」として礼拝したイスラエルの民のためにとりなしたとき、 モーセは、自分の神、主に嘆願して言った。 と言われていることには、このような背景があります。 この時、モーセは、 主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。 と祈っています。 このとりなしにおいてモーセは三つのことを祈っていますが、最初の二つは一つのこととして理解したほうがいいと思われます。というのは、最初の、 主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。 という祈りに対しては、「主」が「偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民」であるイスラエルの民が、こともあろうに、その「主」がご臨在されるシナイ山の麓において、金の子牛を作り、これを「主」ヤハウェであるとして礼拝して、「主」の御名を汚したのだから、「主」の聖なる御怒りによって絶ち滅ぼされるのは当然のことであるという答えが返ってくるからです。そのことは、すでに、「主」がモーセに、 わたしはこの民を見た。これは実に、うなじを固くする民だ。今は、わたしに任せよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がり、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ と言っておられることです。 それで、この最初の祈りは、これに続く、 どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。 というとりなしにつなげて理解したほうがよいと考えられます。 ここで、モーセは「主」に、 どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。 と訴えています。 その当時の強大な帝国であったエジプトは、至る所に情報網を張っていたはずです。当然、エジプトを出たイスラエルの民の動向も探っていたはずです。また、エジプトのあり方が自分たちに深くかかわっているために、常に、エジプトの情勢を探っていたであろう周辺の国々の民もエジプトを出たイスラエルの民の動向を注視していたはずです。事実、この時から40年後にイスラエルの民はモーセの後継者であるヨシュアに率いられてカナンの地に侵入します。それに先だってヨシュアは二人の者を「偵察」(スパイ)として遣わしてエリコの町を探らせました。ヨシュア記2章9節ー13節には、二人の「偵察」を受け入れたラハブのことばが記されています。その中でラハブは、 主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちがあなたがたに対する恐怖に襲われていること、そして、この地の住民がみな、あなたがたのために震えおののいていることを、私はよく知っています。あなたがたがエジプトから出て来たとき、主があなたがたのために葦の海の水を涸らされたこと、そして、あなたがたが、ヨルダンの川向こうにいたアモリ人の二人の王シホンとオグにしたこと、二人を聖絶したことを私たちは聞いたからです。私たちは、それを聞いたとき心が萎えて、あなたがたのために、だれもが気力を失ってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天において、下は地において、神であられるからです。 と言っています。出エジプトの際に「主」ヤハウェがなさった御業については、40年後のカナンの地の民の間においても鮮明に記憶されていました。 エジプト人は「主」ヤハウェがイスラエルの民をエジプトから連れ出されたことを身にしみて知っていました。それによって、出エジプト記7章5節に、 わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエルの子らを彼らのただ中から導き出すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。 と記されていることが実現しています(そのほか、7章17節、14章4節、18節も見てください)。 けれども、もしこの時、シナイ山の麓でイスラエルの民が絶ち滅ぼされてしまったなら、エジプト人たちは、 神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ と考えるようになるということ、そして、そのようなことになれば、エジプト人の間で「主」の御名が汚されるようになってしまうということが、モーセのとりなしの主旨です。 ですから、モーセは、そのようなエジプト人の「主」へのあなどりを封じるために、「主」ご自身が始められた出エジプトの贖いの御業を成し遂げていただきたい、そのために、 どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。 と嘆願しているのです。 また、モーセはこのように考えていたので、まず最初に、 主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。 と祈ったのだと考えられます。 さらにモーセは、 あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。 というように、「主」ヤハウェがアブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約に訴えています。 このことは、先ほどお話ししたように、「主」がイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から解放してくださったのは、「主」がイスラエルの民の苦しみをご覧になり、叫びをお聞きになってアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされ、その契約において約束されたことを実現してくださるためであったことを、モーセにお示しになっていたことを受けています。 「主」がアブラハムに与えてくださり、イサク、ヤコブと受け継がせてくださった契約は、「主」が一方的な恵みによって与えてくださったものです。ここでモーセが触れている契約の約束は、基本的には、創世記15章に記されている「主」がアブラハムに与えてくださった子孫に関する約束を受けていると考えられます。15章1節ー7節には、 これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。 「アブラムよ、恐れるな。 わたしはあなたの盾である。 あなたへの報いは非常に大きい。」 アブラムは言った。「神、主よ、あなたは私に何を下さるのですか。私は子がないままで死のうとしています。私の家の相続人は、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか。」さらに、アブラムは言った。「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう。」すると見よ、主のことばが彼に臨んだ。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。主は彼に言われた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデア人のウルからあなたを導き出した主である。」 と記されています。 そして、続く8節ー21節には、「主」がその当時の契約締結の儀式に従ってアブラハムと契約を結んでくださったことが記されています。その際に、アブラハムは「主」に命じられて「三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊」を「真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせに」しました。そして、17節には、 日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた。 と記されています。これは、もし契約を破ったなら、この「切り裂かれた物」のようになるようにという誓いをすることに当たります。しかし、アブラハムは「切り裂かれた物の間を通り過ぎ」ることはありませんでした。このことは、「主」がご自身の一方的な恵みによって契約を守ってくださり、約束を実現してくださることを意味しています。 モーセはこのような「主」の契約に基づいて、「主」にとりなしの祈りをしています。それは、すでにお話ししたように、 わたしは「わたしはある」という者である。 という御名の神さまは、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主」であり、アブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約に対して真実な神であられるからです。 実際、出エジプト記32章14節には、 すると主は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。 と記されています。 このように、モーセは自分から新しい民が起こされるということ、自分の名が高められるであろうことに心を動かされることなく、「主」が親しく自分に示してくださった、当初のみこころが実現することをとおして、契約の神である「主」の真実さが示されるとともに、エジプト人が「主」を侮るであろうことの芽を摘み取り、「主」の御名の聖さが守られることを願い求めていました。 |
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