黙示録講解

(第516回)


説教日:2023年3月5日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(269)


 本主日も、黙示録2章28節後半に記されている、
 勝利を得る者には、わたしは明けの明星を与える。
という、イエス・キリストの約束のみことばと関連することとして、神である「」に対する「」の契約の民の不信仰がもたらした絶望的な状態にあって、なお、「」の主権的で一方的な恵みが示されたことについてのお話を続けます。
 今は、出エジプト記32章ー34章に記されている、イスラエルの民が、「」がご臨在されるシナイ山の麓において、金の子牛を造ってこれを「」として礼拝した時のことについてお話ししています。
 すでにお話ししたように、それは、シナイ山にご臨在された「」が御声をもって、直接的に、イスラエルの民に語られた十戒の第二戒を破ることでした。また、それは、前回お話ししたように、契約の神である「」の、
 わたしは「わたしはある」という者である。
という御名を汚すことでした。
 32章7節ー10節に記されているように、このような罪を犯したイスラエルの民に対して「」ヤハウェの聖なる御怒りが燃え上がりました。そして、「」はモーセに、この民を絶ち滅ぼして、モーセから新しい民を起こそうと言われました。
 けれども、モーセは、自分から新しい民が起こされ、自分の名が高くなることに心を動かされることなく、ひたすら、「」の御名の聖さが守られることを求めていました。今日は、そのことについてお話しします。
 7節ー10節に続く11節ー14節には、
しかしモーセは、自分の神、に嘆願して言った。「よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」するとは、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。
と記されています。
 11節では、まず、
 しかしモーセは、自分の神、に嘆願して言った。
と言われています。
 ここでは神さまのことが、一般的な「神である『』」ではなく「自分の神、」(直訳では「彼の神である『』」)と言われています。これは、契約の神である「」ヤハウェとモーセの関係の緊密さ、親しさを示しています。
 その緊密さ、親しさは、前回取り上げた、「」ヤハウェが、モーセにご自身を現してくださったことを記している3章に記されていることから汲み取ることができます。これにはいくつかのことがありますので、順次、それ見て行きましょう。
 まず、1節ー6節には、
モーセは、ミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来た。するとの使いが、柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼に現れた。彼が見ると、なんと、燃えているのに柴は燃え尽きていなかった。モーセは思った。「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。」は、彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の茂みの中から彼に「モーセ、モーセ」と呼びかけられた。彼は「はい、ここにおります」と答えた。神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。
と記されています。
 ここでは、神である「」がモーセにご自身をモーセに現してくださって、親しく「『モーセ、モーセ』と呼びかけられた」こと、さらに、
わたしは[「あなたがたの父祖の神」ではなく]あなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。
と言われてご自身を示されたことが記されています。
 このことから、神である「」がモーセをご自身との親しい緊密な交わりの中に入れてくださっていることを汲み取ることができます。
 さらに、続く7節ー9節には、
は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。
と記されています。
 ここでは、「」がエジプトの奴隷の状態にあって苦しんでいるご自身の民の痛みをつぶさにご覧になり、知っておられるということと、ご自身に向かって叫んでいるイスラエルの民の叫びをお聞きになり、イスラエルの民をエジプトの地から導き出して約束の地へと導き上ってくださるというご計画を、個人的に、モーセに示してくださっています。このことからも、「」がモーセをご自身との親しい緊密な交わりの中に入れてくださっていることを汲み取ることができます。
 今お話ししていることとのかかわりで注目したいことは、このことが2章の最後の部分である23節ー25節に、
それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。
と記されていることと符合しているということです。
 この2章23節ー25節に記されていることは、神さまご自身のことですが、3章7節ー9節に記されていることは、そのことを、モーセに、個人的にお示しくださったということです。そして、7節ー9節に、
わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。
と記されていることは、2章23節ー25節に記されているように、「」が「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約」に基づいてなしてくださることであるということです。
 そのことは、当然、モーセにも分かったはずです。というのは、「」がモーセに、ご自身のことを、
わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。
と言われてお示しになったからですし、「広く良い地、乳と蜜の流れる地」、「カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所」と言えば、それが「」が父祖アブラハムに約束してくださった地のことであることは、すぐに分かるからです。
 3章10節には、このようなことを受けて、「」がモーセに、
今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」
と言われたことが記されています。これも、「」がモーセをご自身との「わたし」と「あなた」という緊密で親しい交わりの中に入れてくださっていることの現れです。
 さらに、続く11節ー12節には、
モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。」
と記されています。
 ここでも「わたし」と「あなた」という緊密で親しい交わりがの関係が踏まえられていますが、特に注目したいのは、神さまの、
わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。
というみことばです。
 神さまは、
 わたしが、あなたとともにいる。
とモーセに言われました。これは、
 このわたしがあなたを遣わすのだ。
ということばと相まって、神さまがモーセをとおして、先ほどモーセに告げられたご自身がなそうとしておられること、すなわち、8節に記されている、
わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。
ということにかかわる、すべてのことを成し遂げてくださるということを意味しています。また、そのために、モーセを導いてくださり、助けてくださり、守ってくださるということを意味しています。さらに、そのすべてのことをとおして、モーセにご自身がどのような方であるかを示してくださるということを意味しています。その根底には、神である「」がモーセをご自身のしもべとしてくださっているということ、そして、モーセをご自身との交わりに入れていてくださっているということがあります。
 これらのことがあって、また、これらのことを踏まえて、14節に記されているように、神さまはモーセにご自身の御名が、
 わたしは「わたしはある」という者である。
であることをお示しになりました。。


 実際に、神である「」は、モーセをとおして、エジプトの地において、イスラエルの民を奴隷としていたエジプトに対するさばきを執行され、イスラエルの民を奴隷の状態から解放してくださいました。また、紅海においては、その水を別けて、イスラエルの民を追撃してきたファラオの軍隊を滅ぼし、イスラエルの民には紅海を通らせてくださいました。
 さらに、荒野においては、イスラエルの民が渇いた時には水を与えてくださり、飢えた時には天からマナを降らせてくださり(16章4節)、それ以後も、イスラエルの民が飢えることがないようにしてくださいました。
 それによって、「」はご自身が、(強大な帝国であるエジプトおさばきになったことに示されている)エジプトばかりでなく、この世界のすべての国を、また、(紅海の水を別けたことに示されている)自然界を、さらには、(天からマナを降らせてくださったことに示されている)、自然界をも越えた領域をもお造りになり、治めておられる方であること、すなわち、
 わたしは「わたしはある」という者である。
という御名の神であられることをお示しになりました。
 確かに、イスラエルの民はそれらの御業を目の当たりにして、一時的に「」を信じることはあっても、次の試練がやって来ると「」への不信を募らせました。
 けれども、それだけであったのではありません。それらすべてのことにおいて、「」がモーセに言われた、
わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。
というみことばが実現しています。
 それによって、モーセは「」が、確かに、
 わたしは「わたしはある」という者である。
という御名の神であられるということとともに、「」が自分とともにいてくださることを、また、それゆえに、イスラエルの民とともにいてくださることを経験し、「」がどなたであるかを現実的、経験的に知るようになったと考えられます。
 また、イスラエルの民はことあるごとに「」への不信を募らせました。それにもかかわらず、「」はイスラエルの民を顧みてくださいました。このことによって、「」がイスラエルの民を顧みてくださったのは、イスラエルの民が優れた民であったからではないことが明らかになりました。
 そのことをモーセは理解していました。モーセがそのことを理解していたことは、申命記7章6節ー8節に記されているように、荒野で「」への不信を募らせ続けたイスラエルの民の第一世代が荒野で死んだ後、モーセが第二世代に対して、
あなたの神、は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。しかし、があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。
と語っていることから分かります。
 ここでモーセが語っていることは、神である「」の贖いの御業の歴史をとおして一貫していて、変わることがありません。
 マルコの福音書2章17節には、
医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。
というイエス・キリストのみことばが記されています。また、テモテへの手紙第一・1章15節にも、
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
というパウロのことばが記されています。さらに、コリント人への手紙第一・1章26節ー28節には、
兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。
と記されています。
 モーセが、「」がご臨在されるシナイ山の麓において、金の子牛を造ってこれを「」として礼拝したイスラエルの民のためにとりなしたとき、
 モーセは、自分の神、に嘆願して言った。
と言われていることには、このような背景があります。
 この時、モーセは、
よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。
と祈っています。
 このとりなしにおいてモーセは三つのことを祈っていますが、最初の二つは一つのこととして理解したほうがいいと思われます。というのは、最初の、
よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。
という祈りに対しては、「」が「偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民」であるイスラエルの民が、こともあろうに、その「」がご臨在されるシナイ山の麓において、金の子牛を作り、これを「」ヤハウェであるとして礼拝して、「」の御名を汚したのだから、「」の聖なる御怒りによって絶ち滅ぼされるのは当然のことであるという答えが返ってくるからです。そのことは、すでに、「」がモーセに、
わたしはこの民を見た。これは実に、うなじを固くする民だ。今は、わたしに任せよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がり、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ
と言っておられることです。
 それで、この最初の祈りは、これに続く、
どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。
というとりなしにつなげて理解したほうがよいと考えられます。
 ここで、モーセは「」に、
どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。
と訴えています。
 その当時の強大な帝国であったエジプトは、至る所に情報網を張っていたはずです。当然、エジプトを出たイスラエルの民の動向も探っていたはずです。また、エジプトのあり方が自分たちに深くかかわっているために、常に、エジプトの情勢を探っていたであろう周辺の国々の民もエジプトを出たイスラエルの民の動向を注視していたはずです。事実、この時から40年後にイスラエルの民はモーセの後継者であるヨシュアに率いられてカナンの地に侵入します。それに先だってヨシュアは二人の者を「偵察」(スパイ)として遣わしてエリコの町を探らせました。ヨシュア記2章9節ー13節には、二人の「偵察」を受け入れたラハブのことばが記されています。その中でラハブは、
がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちがあなたがたに対する恐怖に襲われていること、そして、この地の住民がみな、あなたがたのために震えおののいていることを、私はよく知っています。あなたがたがエジプトから出て来たとき、があなたがたのために葦の海の水を涸らされたこと、そして、あなたがたが、ヨルダンの川向こうにいたアモリ人の二人の王シホンとオグにしたこと、二人を聖絶したことを私たちは聞いたからです。私たちは、それを聞いたとき心が萎えて、あなたがたのために、だれもが気力を失ってしまいました。あなたがたの神、は、上は天において、下は地において、神であられるからです。
と言っています。出エジプトの際に「」ヤハウェがなさった御業については、40年後のカナンの地の民の間においても鮮明に記憶されていました。
 エジプト人は「」ヤハウェがイスラエルの民をエジプトから連れ出されたことを身にしみて知っていました。それによって、出エジプト記7章5節に、
わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエルの子らを彼らのただ中から導き出すとき、エジプトは、わたしがであることを知る。
と記されていることが実現しています(そのほか、7章17節、14章4節、18節も見てください)。
 けれども、もしこの時、シナイ山の麓でイスラエルの民が絶ち滅ぼされてしまったなら、エジプト人たちは、
神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ
と考えるようになるということ、そして、そのようなことになれば、エジプト人の間で「」の御名が汚されるようになってしまうということが、モーセのとりなしの主旨です。
 ですから、モーセは、そのようなエジプト人の「」へのあなどりを封じるために、「」ご自身が始められた出エジプトの贖いの御業を成し遂げていただきたい、そのために、
 どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。
と嘆願しているのです。
 また、モーセはこのように考えていたので、まず最初に、
よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。
と祈ったのだと考えられます。
 さらにモーセは、
あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。
というように、「」ヤハウェがアブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約に訴えています。
 このことは、先ほどお話ししたように、「」がイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から解放してくださったのは、「」がイスラエルの民の苦しみをご覧になり、叫びをお聞きになってアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされ、その契約において約束されたことを実現してくださるためであったことを、モーセにお示しになっていたことを受けています。
 「」がアブラハムに与えてくださり、イサク、ヤコブと受け継がせてくださった契約は、「」が一方的な恵みによって与えてくださったものです。ここでモーセが触れている契約の約束は、基本的には、創世記15章に記されている「」がアブラハムに与えてくださった子孫に関する約束を受けていると考えられます。15章1節ー7節には、
 これらの出来事の後、のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。
 「アブラムよ、恐れるな。
 わたしはあなたの盾である。
 あなたへの報いは非常に大きい。」
アブラムは言った。「、主よ、あなたは私に何を下さるのですか。私は子がないままで死のうとしています。私の家の相続人は、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか。」さらに、アブラムは言った。「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう。」すると見よ、のことばが彼に臨んだ。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」アブラムはを信じた。それで、それが彼の義と認められた。主は彼に言われた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデア人のウルからあなたを導き出したである。」
と記されています。
 そして、続く8節ー21節には、「」がその当時の契約締結の儀式に従ってアブラハムと契約を結んでくださったことが記されています。その際に、アブラハムは「」に命じられて「三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊」を「真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせに」しました。そして、17節には、
日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた。
と記されています。これは、もし契約を破ったなら、この「切り裂かれた物」のようになるようにという誓いをすることに当たります。しかし、アブラハムは「切り裂かれた物の間を通り過ぎ」ることはありませんでした。このことは、「」がご自身の一方的な恵みによって契約を守ってくださり、約束を実現してくださることを意味しています。
 モーセはこのような「」の契約に基づいて、「」にとりなしの祈りをしています。それは、すでにお話ししたように、
 わたしは「わたしはある」という者である。
という御名の神さまは、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、」であり、アブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約に対して真実な神であられるからです。
 実際、出エジプト記32章14節には、
 するとは、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。
と記されています。
 このように、モーセは自分から新しい民が起こされるということ、自分の名が高められるであろうことに心を動かされることなく、「」が親しく自分に示してくださった、当初のみこころが実現することをとおして、契約の神である「」の真実さが示されるとともに、エジプト人が「」を侮るであろうことの芽を摘み取り、「」の御名の聖さが守られることを願い求めていました。


【メッセージ】のリストに戻る

「黙示録講解」
(第515回)へ戻る

「黙示録講解」
(第517回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church