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説教日:2023年2月19日 |
神さまはこのような御名の方、すなわち契約の神である「主」、ヤハウェとして、贖いの御業において、イスラエルの民の父祖であるアブラハムを召してくださいました。それは、創世記12章3節に記されていますが、「主」がアブラハムに、 地のすべての部族は、 あなたによって祝福される。 と約束されたように、アブラハムによって「地のすべての部族」が祝福されるようになるためでした。 そして、「主」はアブラハムと契約を結んでくださいました。創世記17章7節ー8節には、 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。わたしは、あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。わたしは彼らの神となる と記されています。 この契約において、「主」はアブラハムとその子孫の神となってくださること、そして、カナンの地をアブラハムとその子孫の「永遠の所有として」与えてくださることを約束してくださいました。 このこととの関わりで忘れてはならないのは、この契約の根底には、「主」がアブラハムを召してくださった時に与えられた、アブラハムによって「地のすべての部族」を祝福してくださるという約束があるということです。 「主」はこの契約をアブラハムの子であるイサクとヤコブに受け継がせてくださいましたが、創世記22章1節ー19節に記されているように、アブラハムが「主」の御声に従って、その子イサクを「主」に献げた時に、「主」は あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。 という約束を与えてくださいました。 この約束は、アブラハムからイサク、ヤコブ、さらにはアブラハムの子孫としてのイスラエルの民へと受け継がれていきました。 「主」がエジプトの奴隷の状態にあったイスラエルの民を力強い御手をもって、エジプトから贖い出してくださったことの根底には、このような、アブラハムの子孫による「地のすべての国々」への祝福という意味をもった「主」の契約がありました。そのために、「主」はイスラエルの民をご自身がご臨在されるシナイ山の麓まで導いてくださり、そこで、イスラエルの民と契約を結んでくださったのです。 そのことは、すでに取り上げたことがありますが、イスラエルの民がシナイ山の麓で宿営した時に「主」がモーセをとおしてイスラエルの民に語られたことから汲み取ることができます。出エジプト記19章4節ー6節には、 4あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。5今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。6あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。 と記されています。 注目したいのは5節と6節に記されていることです。 ここには、「主」がイスラエルの民と契約を結んでくださることの目的が二つ記されています。 一つは、「主」はすべてのものの造り主として「全世界はわたしのものである」と言われます。当然、「あらゆる民族」は「主」がお造りになったものであり、支え、導いてくださっているものです。その中にあって、「主」がご自身の契約の民としてくださるイスラエルの民は、「主」の「宝」、「大切な所有」となると言われました。「主」はイスラエルの民を愛してくださっており、彼らがご自身との愛の交わりに生きることを求めておられます。そのことは、 もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら と言われているときの、「主」の契約の戒めは、この後与えられる十戒(十の戒め)に集約されますが、それはさらに、 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 という「重要な第一の戒め」(申命記6章5節、マタイの福音書22章37節ー38節)と、 あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。 という「第二の戒め」(レビ記19章18節、マタイの福音書22章39節)に要約されるからです。 「主」がイスラエルの民と契約を結んでくださることのもう一つの目的は、 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。 というみことばに示されています。「主」の愛を受けてご自身の「宝」とされるイスラエルの民は、また、「祭司の王国、聖なる国民」として、「主」が彼らの父祖であるアブラハムにお与えになった、 地のすべての部族は、 あなたによって祝福される。 という祝福の約束を受け継いでいるものとして、その約束を実現するために召されています。「主」がお造りになって、支え、導いておられる「あらゆる民族」を「主」の御許に導く使命を委ねられているのです。 「主」がイスラエルの民と契約を結んでくださることの二つの目的の関係を踏まえておくことは大切なことです。イスラエルの民が「主」の一方的な愛と恵みによって、ご自身の「「宝」」としてくださっていることは、イスラエルの民が「主」の愛を受け止め、「主」を神として礼拝することを中心として、「主」との愛にあるいのちの交わりに生きるようになるためのことでした。また、「主」の愛を受けている民として、お互いに愛し合うようになるためでした。このことを欠いては、イスラエルの民は、「祭司の王国、聖なる国民」として、「主」が彼らの父祖であるアブラハムにお与えになった、 地のすべての部族は、 あなたによって祝福される。 という祝福の約束を実現する使命を果たすことはできません。その使命は、なによりも、「主」の愛と恵みを写し出すものであるからです。 繰り返しの引用になりますが、申命記7章6節ー8節には、 あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。主があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、主は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。 と記されています。 「主」は「あらゆる民のうちで最も数が少なかった」イスラエルの民、しかも、エジプトの奴隷の状態にあるイスラエルの民を愛してくださって「ご自分の宝の民」としてくださいました。イスラエルの民は、この「主」の愛を受け止め、映し出すことにおいて、「主」が父祖アブラハムに与えてくださった祝福を実現する使命を果たすよう召されています。 また、「主」が「あらゆる民のうちで最も数が少なかった」イスラエルの民を「ご自分の宝の民」としてくださったのは、「主」がアブラハム、イサク、ヤコブに「誓った誓いを守られたから」、すなわち、彼らに与えられた契約を守られたからでした。 このこととの関わりで時間的なことを考えますと、「主」がシナイ山の麓に宿営しているイスラエルの民と契約を結んでくださったのは、「主」がアブラハムに、 地のすべての部族は、 あなたによって祝福される。 という祝福の約束を与えてくださってから、おおよそ650年ほど後のことです。その間に、イスラエルの民は約「四百年の間」エジプトの奴隷となっていました(創世記15章13節)。それでもなお、「主」はイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださり、アブラハムにお与えになった祝福の約束を委ねてくださいました。それは、「主」が、 わたしは「わたしはある」という者である。 という御名の神であられるからに他なりません。 そればかりではありません。「主」がアブラハムに与えてくださった、 地のすべての部族は、 あなたによって祝福される。 という祝福の約束は、最終的には、アブラハムの子として来てくださったイエス・キリスト(マタイの福音書1章1節)によって成就することになります。それは、出エジプトの贖いの御業がなされた年代の早期説と後期説によって計算が変わるのですが、アブラハムに祝福が与えられてから、おおよそ2120年ー1955年ほど後のことです。そして、それからさらに2千年ほど後の私たちにまで、その祝福がもたらされています。それは、まさに、「主」が、 わたしは「わたしはある」という者である。 という御名の神であられるからに他なりません。 そのことを、新約聖書のみことばから見てみましょう。 ガラテヤ人への手紙3章6節ー9節には、 6「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。7ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。8聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。9ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。 と記されています。 6節で引用されている、 アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた。 というみことばは、創世記15章6節からの引用です。その時、アブラハムは75歳を過ぎていましたし、サラが不妊の女性であったために、子どもがありませんでした。それでアブラハムは自分の相続人としての子について「主」に問いかけて、「主」から、天の星を数えるようにと言われ、さらに、 あなたの子孫は、このようになる。 という約束を与えられました。これを受けて、6節に、 アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。 と記されています。 このように、アブラハムは「主」を信じて義と認められましたので、ガラテヤ人への手紙3章7節では、 ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。 と言われています。また、創世記15章では、「主」がアブラハムの相続人としての子に関する約束を与えてくださって、アブラハムはその「主」を信じています。それで、ガラテヤ人への手紙では、この後、3章29節で、 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。 と言われており、4章7節で、 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。 と言われています。 ガラテヤ人への手紙3章では、先ほどの7節に続く8節で、 聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。 と言われています。ここで引用されている、 すべての異邦人が、あなたによって祝福される。 というみことばが、「主」がアブラハムに与えてくださった祝福の約束です。 この「主」がアブラハムに与えてくださった祝福の約束がどのように、私たち異邦人の間で成就するのかということについて、13節ー14節には、 キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。 と記されています。 さらに、このことを受けて、4章4節ー7節に、 しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。 と記されています。 イエス・キリストは十字架におかかりになって「私たちのためにのろわれた者」となってくださり、「私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」。それによって、「アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって」私たち「異邦人に及び」、「私たちが信仰によって約束の御霊を受けるように」なりました。 その「約束の御霊」は、栄光を受けて死者の中からよみがえられて、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが、聖霊降臨節(ペンテコステ)の日に注いでくださった御霊です。 その日、ユダヤ人たちに語ったペテロことばが使徒の働き2章33節に、 ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。 と記されています。 この「約束の御霊」は父なる神さまが「私たちの心に遣わされ」た「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」です。私たちはこの「御子の御霊」によって、父なる神さまに向かって心から「アバ、父よ」と呼びかける神の子どもとしていただいています。ローマ人への手紙8章14節ー15節に、 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。 と記されているとおりです。 私たちは「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」に導いていただいて、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりに生きている神の子どもです。 それで、ガラテヤ人への手紙では、5章13節ー14節に、 兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。 と記されています。そして、16節に、 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。 と記されています。 このことは、先ほどお話しした出エジプト記19章5節ー6節に、 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。 と記されている「主」がイスラエルの民に語られたことの、 あなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら ということが、私たちが、御霊に導いていただいて歩む神の子どもとしての自由にあって「愛をもって互いに仕え合」うことにおいて実現するということを意味しています。 そのようにして、私たちは御子イエス・キリストにあって「主」の「宝の民」であることを越えて、神の子どもとしての祝福のうちにあります。 さらに、私たちは御子イエス・キリストの血によって結ばれた新しい契約の下での「祭司の王国、聖なる国民」となっています。 ペテロの手紙第一・2章3節ー5節には、 あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。 と記されています。また、9節ー10節にも、 あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。 と記されています。 ここで、 選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。 と言われているとおり、私たちは「王である祭司、聖なる国民」として、私たちを「闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を」「告げ知らせる」使命を委ねられています。 このことと関連して心に刻んでおきたいことですが、ペテロの手紙第一では、これに先立って、1章18節ー22節に、 ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。キリストは、世界の基が据えられる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために現れてくださいました。あなたがたは、キリストを死者の中からよみがえらせて栄光を与えられた神を、キリストによって信じる者です。ですから、あなたがたの信仰と希望は神にかかっています。あなたがたは真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、きよい心で互いに熱く愛し合いなさい。 と記されています。 ここで、 あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。 と言われていることは、出エジプトの贖いの御業が私たちの間で成就していることを示しています。 そのようにして「先祖伝来のむなしい生き方から贖い出された」私たちは、 真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、きよい心で互いに熱く愛し合いなさい。 と戒められています。そのように、「きよい心で互いに熱く愛し合」うことの中で、また、その愛の中にあってのみ、私たちを「闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を・・・告げ知らせる」という「王である祭司、聖なる国民」としての使命を果たすことができます。 繰り返しになりますが、今からおおよそ4千年ほど前に「主」がアブラハムに与えてくださった、 地のすべての部族は、 あなたによって祝福される。 という祝福の約束が私たちのうちに実現して、私たちは「御子の御霊」に導いていただいて、父なる神さまを親しく「アバ、父よ」と呼ぶことのできる神の子どもとして歩んでいます。 それは、ひとえに、神さまが、 わたしは「わたしはある」という者である。 という御名の神であられることによっています。 また、それゆえに、 わたしは「わたしはある」という者である。 という御名の神さまは終わりの日に、私たちご自身の民の救いを完成してくださいます。 これらのことを考えますと、イスラエルの民が、「主」がご臨在されるシナイ山の麓において、金の子牛を造ってこれを「主」として礼拝したことが、どれほど「主」の御名を汚すことであったかと思わされます。 |
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