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説教日:2023年2月5日 |
この「主」がアブラハムに与えてくださった祝福の約束は、この後、創世記18章17節ー19節に、 主はこう考えられた。「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず、強く大いなる国民となり、地のすべての国民は彼によって祝福される。わたしがアブラハムを選び出したのは、彼がその子どもたちと後の家族に命じて、彼らが主の道を守り、正義と公正を行うようになるためであり、それによって、主がアブラハムについて約束したことを彼の上に成就するためだ。」 と記されている中にも出てきます。 ここでは「主」がアブラハムにご自分が「しようとしていることを」隠さないでお示しになることと、そのの根拠あるいは理由が示されています。その根拠あるいは理由を要約しますと、「主」がアブラハムをお選びになって、アブラハムにお与えになった約束を成就してくださることにありました。そして、ここでは「主」がアブラハムにお与えになった約束のことが、 アブラハムは必ず、強く大いなる国民となり、地のすべての国民は彼によって祝福される。 というように繰り返されているだけでなく、「強く」ということばを加えて強調されています。そして、それを受けて「地のすべての国民は彼によって祝福される。」という、12章3節に記されている、「主」がアブラハムに与えてくださった祝福の約束の目的が、改めて示されています。 お話を進めるために、この時の状況に触れておきましょう。 1節ー2節には、 主は、マムレの樫の木のところで、アブラハムに現れた。彼は、日の暑いころ、天幕の入り口に座っていた。彼が目を上げて見ると、なんと、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはそれを見るなり、彼らを迎えようと天幕の入り口から走って行き、地にひれ伏した。 と記されています。 このことから分かりますが、この時、「主」はご自身をアブラハムに現してくださいました。ここでアブラハムが出会ったと言われている「三人の人」のうちの中心人物は「主」でした。13節にも、 主はアブラハムに言われた。 と記されています。これは旧約聖書の中に何回か出てくる神の顕現(セオファニー)です。 この時には、10節に、 すると、そのうちの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには男の子が生まれています。」 と記されているように、「主」はサラに「男の子」が生まれるのが「来年の今ごろ」であると、イサクの誕生の時を具体的に示してくださいました。 このようなことがあってから、16節に、 その人たちは、そこから立ち上がって、ソドムの方を見下ろした。アブラハムは彼らを見送りに、彼らと一緒に行った。 と記されています。そして、これに続いて、先ほど引用しました17節ー19節が記されています。 そして、17節に記されている、「主」がアブラハムにお示しになる、ご自身が「しようとしていること」とは、ソドムとゴモラに対するさばきを執行されるということです。20節ー21節には、 主は言われた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおり、彼らが滅ぼし尽くされるべきかどうかを、見て確かめたい。」 と記されており、19章24節に、 そのとき、主は硫黄と火を、天から、主のもとからソドムとゴモラの上に降らせられた。 と記されているとおりです。 しかし、先ほど引用した16節に、 その人たちは、そこから立ち上がって、ソドムの方を見下ろした。アブラハムは彼らを見送りに、彼らと一緒に行った。 と記されており、22節に、 その人たちは、そこからソドムの方へ進んで行った。アブラハムは、まだ主の前に立っていた。 と記されているように、ここに記されていることの焦点はソドムに合わされています。 最初に引用した18章17節ー19節に記されていることから推察することができますが、「主」は、そのことをアブラハムにお示しになりました。ここで、注目したいことは、そのことを受けてアブラハムが、ソドムのためにとりなしをしているということです。23節ー33節には、 アブラハムは近づいて言った。「あなたは本当に、正しい者を悪い者とともに滅ぼし尽くされるのですか。もしかすると、その町の中に正しい者が五十人いるかもしれません。あなたは本当に彼らを滅ぼし尽くされるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにならないのですか。正しい者を悪い者とともに殺し、そのため正しい者と悪い者が同じようになる、というようなことを、あなたがなさることは絶対にありません。そんなことは絶対にあり得ないことです。全地をさばくお方は、公正を行うべきではありませんか。」主は言われた。「もしソドムで、わたしが正しい者を五十人、町の中に見つけたら、その人たちのゆえにその町のすべてを赦そう。」アブラハムは答えた。「ご覧ください。私はちりや灰にすぎませんが、あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町のすべてを滅ぼされるのでしょうか。」主は言われた。「いや、滅ぼしはしない。もし、そこに四十五人を見つけたら。」彼は再び尋ねて言った。「もしかすると、そこに見つかるのは四十人かもしれません。」すると言われた。「そうはしない。その四十人のゆえに。」また彼は言った。「わが主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。もしかすると、そこに見つかるのは三十人かもしれません。」すると言われた。「そうはしない。もし、そこに三十人を見つけたら。」彼は言った。「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、そこに見つかるのは二十人かもしれません。」すると言われた。「滅ぼしはしない。その二十人のゆえに。」また彼は言った。「わが主よ。どうかお怒りにならないで、もう一度だけ私に言わせてください。もしかすると、そこに見つかるのは十人かもしれません。」すると言われた。「滅ぼしはしない。その十人のゆえに。」主は、アブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の家へ帰って行った。 と記されているとおりです。 このアブラハムのとりなしの祈りを引用したのは、アブラハムが「主」の御前に限りなく身を低くして、丁寧に、また、思慮深く、自分ができると考えているぎりぎりのところまで踏みとどまって、ソドムのためにとりなしているということを汲み取るためです。 ソドムは、13章10節ー13節に記されていますが、アブラハムの甥であるロトが移り住んだ町です。このことを考えるとアブラハムはロトとその家族が守られることを考えているのではないかと思いたくなりますが、そうではありせん。というのは、アブラハムが最初の祈りにおいて、 その五人のために、あなたは町のすべてを滅ぼされるのでしょうか。 と「主」に問いかけているように、ソドムという「町のすべて」のことが取り上げられているからです。また、「主」もそのように受け止めて、 もしソドムで、わたしが正しい者を五十人、町の中に見つけたら、その人たちのゆえにその町のすべてを赦そう。 とお答えになっておられます。 とはいえ、アブラハムがロトとその家族のことをまったく考えていなかったとは言えません。ペテロの手紙第二・2章6節ー8節には、 また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、不敬虔な者たちに起こることの実例とされました。そして、不道徳な者たちの放縦なふるまいによって悩まされていた正しい人、ロトを救い出されました。この正しい人は彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたのです。 と記されています。甥のロトがこのように生きていたことをアブラハムが知らなかったと考えることはできません。 アブラハムは最後に、 もしかすると、そこに見つかるのは十人かもしれません。 と「主」に申し上げて、とりなしの祈りを終えています。このことから、ソドムにはロトの家族とそれ以外に何人かは「正しい者」がいるとアブラハムが考えていた可能性があります。 ロトがソドムの町のあり方に「日々その正しい心を痛めていた」のであれば、アブラハムも、折りに触れて、ロトが住んでいたソドムの町のことで「心を痛めていた」と考えられます。そうでなければ、アブラハムがソドムのために、「主」の御前に限りなく身を低くして、丁寧に、また、思慮深く、自分ができると考えているぎりぎりのところまで踏みとどまって、ソドムのためにとりなしていることの説明がつきません。 このようなことを踏まえて、さらに、二つのことに触れておきたいと思います。 まずお話ししたいことですが、先に引用した創世記18章17節ー18節には、 主はこう考えられた。「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず、強く大いなる国民となり、地のすべての国民は彼によって祝福される。 と記されています。 このことから、「主」がアブラハムに約束してくださっていた、 アブラハムは必ず、強く大いなる国民となり、地のすべての国民は彼によって祝福される ということの根本には、このアブラハムが「主」のさばきに値し、「主」のさばきを受けようとしているソドムの町のためにとりなしをしていることがあるということです。この世の価値観や規準においては、「強く大いなる国民」となることは、他の国民を屈服させて、支配することを意味しています。しかし、「主」の御前においてはそうではありません。まさに、アブラハムが「主」のさばきに値し、「主」のさばきを受けようとしているソドムの町のためにとりなしをしていることにおいて、 アブラハムは必ず、強く大いなる国民となり、地のすべての国民は彼によって祝福される という「主」が約束してくださっていることがどのようなことであるかが示されているのです。 イザヤ書52章13節ー53章12節には「主のしもべの第四の歌」として知られている預言が記されています。長い引用になりますが、そこには、 「見よ、わたしのしもべは栄える。 彼は高められて上げられ、きわめて高くなる。 多くの者があなたを見て驚き恐れたように、 その顔だちは損なわれて人のようではなく、 その姿も人の子らとは違っていた。 そのように、彼は多くの国々に血を振りまく。 王たちは彼の前で口をつぐむ。 彼らが告げられていないことを見、 聞いたこともないことを悟るからだ。」 私たちが聞いたことを、だれが信じたか。 主の御腕はだれに現れたか。 彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。 砂漠の地から出た根のように。 彼には見るべき姿も輝きもなく、 私たちが慕うような見栄えもない。 彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、 悲しみの人で、病を知っていた。 人が顔を背けるほど蔑まれ、 私たちも彼を尊ばなかった。 まことに、彼は私たちの病を負い、 私たちの痛みを担った。 それなのに、私たちは思った。 神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、 私たちの咎のために砕かれたのだ。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、 それぞれ自分勝手な道に向かって行った。 しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。 彼は痛めつけられ、苦しんだ。 だが、口を開かない。 屠り場に引かれて行く羊のように、 毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、 彼は口を開かない。 虐げとさばきによって、彼は取り去られた。 彼の時代の者で、だれが思ったことか。 彼が私の民の背きのゆえに打たれ、 生ける者の地から絶たれたのだと。 彼の墓は、悪者どもとともに、 富む者とともに、その死の時に設けられた。 彼は不法を働かず、 その口に欺きはなかったが。 しかし、彼を砕いて病を負わせることは 主のみこころであった。 彼が自分のいのちを 代償のささげ物とするなら、 末長く子孫を見ることができ、 主のみこころは彼によって成し遂げられる。 「彼は自分のたましいの 激しい苦しみのあとを見て、満足する。 わたしの正しいしもべは、 その知識によって多くの人を義とし、 彼らの咎を負う。 それゆえ、 わたしは多くの人を彼に分け与え、 彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。 彼が自分のいのちを死に明け渡し、 背いた者たちとともに数えられたからである。 彼は多くの人の罪を負い、 背いた者たちのために、とりなしをする。」 と記されています。 ここに記されているのは「主」が、ご自身の民のために苦難を受けることであると言われています。それはそのとおりです。しかし、それ以上に、ここに記されていることは、この預言が、 見よ、わたしのしもべは栄える。 彼は高められて上げられ、きわめて高くなる。 ということばから始まっており、 それゆえ、 わたしは多くの人を彼に分け与え、 彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。 彼が自分のいのちを死に明け渡し、 背いた者たちとともに数えられたからである。 彼は多くの人の罪を負い、 背いた者たちのために、とりなしをする。 ということばで終わっていることから分かりますが、「主のしもべ」の栄光です。その栄光は「主のしもべ」がご自身の民のために苦難を受けられたこと、「自分のいのちを死に明け渡し」、「背いた者たちとともに数えられた」ことにあります。 そして、いまお話ししていることとのかかわりでは、そのようにして「高められて上げられ、きわめて高く」なった「主のしもべ」が、その後ずっとなしておられることが、 背いた者たちのために、とりなしをする ことだと言われています。 創世記18章に記されているアブラハムのことからもう一つお話ししたいことですが、すでにお話ししたように、アブラハムは「主」からご自身が「しようとしていること」、すなわち、「主」がソドムに対するさばきを執行されることを告げられた時に、ソドムのためにとりなしました。このことは、アブラハムに限られたことではなく、今お話ししているモーセにも見られることです。さらに言いますと、このことは「主」からご自身のさばきが執行されることの預言的なみことばを授かった預言者たちにも当てはまることです。 そのことは、アモス書7章1節ー6節に、 神である主は私に示された。見よ。王が刈り取った後の二番草が生え始めたころ、主はいなごを備えられた。そのいなごが地の青草を食い尽くそうとしたとき、私は言った。「神、主よ。どうかお赦しください。ヤコブはどうして生き残れるでしょう。彼は小さいのです。」主はこれを思い直された。そして「そのことは起こらない」と主は言われた。神である主は私に示された。見よ、神である主は、責める火を呼ばれた。火は大いなる淵を呑み込み、割り当て地を焼き尽くそうとしていた。私は言った。「神、主よ。どうかおやめください。ヤコブはどうして生き残れるでしょう。彼は小さいのです。」主はこれを思い直された。そして「そのことも起こらない」と神である主は言われた。 と記されていることに見られます。[注] [注]新改訳には太字の「神」が出てきます。これは、この「神」のヘブル語本文の子音字が「主」(ヤハウェ)を表示するテトラグラマトン(ヨッド・へー・ワウ・へー)であることをを示しています。 ヘブル語本文とその読み方を保存してきたマソラ学者は、このテトラグラマトン(子音字)に、「私の主」あるいは「主」を意味する「アドーナーイ」(新改訳では「アドナイ」)の母音に相当する母音(最初のシェワが変わります)をつけて「アドーナーイ」と読むように指示しています。ところが、ここで「神である主」あるいは「神、主よ」と訳されているときの「主」は「アドーナーイ」です。そうすると、ここでは「アドーナーイ・アドーナーイ」と読まなければならなくなります。それで、マソラ学者はこのテトラグラマトンに「神」を表す「エローヒーム」の母音に相当する母音をつけて、これを「エローヒーム」と読むように指示しています。これを新改訳は太字の「神」で表して、この子音字がテトラグラマトンであることを示しています。 アモス書3章7節ー8節には、 まことに、神である主は、 ご自分の計画を、 そのしもべである預言者たちに示さずには、 何事もなさらない。 獅子が吼える。 だれが恐れないでいられよう。 神である主が語られる。 だれが預言しないでいられよう。 と記されています。 ここでアモスは「主」から「ご自分の計画を」示されましたが、それは「獅子が吼える」と言われているように、アモスにとっても、恐ろしいさばきにかかわることでした。そのアモスは、そのような預言を伝えますが、それとともにとりなしの祈りをもしています。 また、エレミヤ書11章14節には、「主」のユダ王国へのさばきが決定的になった時に預言者として立てられたエレミヤに「主」が、 あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。彼らがわざわいにあって、わたしを呼び求めても、わたしは聞かないからだ。 と言われたことが記されています。 このことは、エレミヤがとりなしの祈りをしていたことを踏まえています。実際、エレミヤは嘆きとともに預言をしています。たとえば、8章18節には、 私の悲しみは癒やされず、 私の心は弱り果てている。 と記されています。 神である「主」は私たちにも終わりの日のさばきがどのようなものであるかを啓示のみことばによって示しておられます。また、その日が来る前に、どのようなことが起こるかも示しておられます。代表的にマタイの福音書24章4節ー14節を見てみましょう。そこには、 そこでイエスは彼らに答えられた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。そのとき、人々はあなたがたを苦しみにあわせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。そのとき多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。 と記されています。 私たちはこれらのことが私たちの間の現実になってきていることをひしひしと感じ取っています。 このような中で、私たちは、「主」がそのみことばによって示してくださっていること、すなわち、父なる神さまが御子イエス・キリストの十字架の死によって私たちの罪をまったく贖ってくださっていること、そして、私たちをイエス・キリストとともによみがえらせてくださって、ご自身との愛の交わりに生きる神の子どもとしてくださっていることを信じつつ、御子の御霊に導いていただいて、終わりの日の完成に向かって望みのうちを歩みたいと思います。 そればかりでなく、私たちは、そのように歩みつつ、御子イエス・キリストを大祭司としていただく御国の祭司として、「主」の御前に近づいて、時代をともにする人々、特に、試練の中にある「主」の民のためにとりなし祈るように召されています。 |
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