本主日も、黙示録2章28節後半に記されている、
勝利を得る者には、わたしは明けの明星を与える。
という、イエス・キリストの約束のみことばと関連することとして、神である「主」に対する「主」の契約の民の不信仰がもたらした絶望的な状態にあって、なお、「主」の主権的で一方的な恵みが示されたことについてのお話を続けます。
今は、出エジプト記32章ー34章に記されている、イスラエルの民が、「主」がご臨在されるシナイ山の麓において、金の子牛を造ってこれを「主」として礼拝した時のことについてお話ししています。
前回もお読みしましたが、出エジプト記32章1節ー6節には、
民はモーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」それでアロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪を外して、私のところに持って来なさい。」民はみな、その耳にある金の耳輪を外して、アロンのところに持って来た。彼はそれを彼らの手から受け取ると、のみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にした。彼らは言った。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼びかけて言った。「明日は主への祭りである。」彼らは翌朝早く全焼のささげ物を献げ、交わりのいけにえを供えた。そして民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた。
と記されています。
この時に起こったことについては、ちょうど半年前にお話ししました。また、前回は別の面から一つのことをお話ししましたが、これからお話しすることとかかわっていることをまとめておきます。
イスラエルの民が金の子牛を造ったことには文化的な背景がありました。古代オリエントの礼拝においては雄牛の像があり、イスラエルの民が奴隷とされていたエジプトにおいても雄牛の像があったと言われています。また、古代オリエントの文化の発想では、偶像そのものは神ではなく、神あるいは神の臨在―― そのうちに神の臨在があること―― を表示するものとされていたようです。
イスラエルの民が金の子牛を造ったことの中心にあったのは、「主」がモーセとともにファラオの許にお遣わしになったモーセの兄アロンでした。
32章4節後半ー5節には、
彼らは言った。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼びかけて言った。「明日は主への祭りである。」
と記されています。
アロンがイスラエルの民に呼びかけたときの「主」は契約の神である「ヤハウェ」です。ですから、この時イスラエルの民は自分たちの契約の神である「主」、ヤハウェを表す偶像を造ったのです。それで、イスラエルの民からすれば、自分たちの契約の神である「主」、ヤハウェを礼拝したのであって、ヤハウェ以外の神を礼拝したつもりはありません。
しかし、このことは、すでに「主」、ヤハウェがその御声をもってイスラエルの民に直接的に語っておられた、十戒の第2戒に反することです。第2戒は出エジプト記20章4節ー6節に、
あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
と記されています。
これは第2戒ですが、第1戒においては、
あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。
と戒められていて、「主」、ヤハウェだけを神とすべきことが示されています。つまり、第1戒において、他の神々は退けられています。それで、第2戒においては、他の神々の偶像を造ることではなく、ヤハウェを表す偶像を造って、それらに仕えたり、拝んではならないと戒められていると考えられます。
そのことは、いくつかのことから分かります。
一つは、先ほどお話ししたように、古代オリエントの文化の発想では、偶像そのものは神ではなく、神あるいは神の臨在を表示するものとされていたということです。
また、その第2戒では、
あなたは、自分のために偶像を造ってはならない。
と戒められていますが、そこに「自分のために」ということばが加えられていることが、このことを支持していると考えられます。
さらに、もう一つのことですが、申命記においては、十戒が与えられた時のことと十戒そのものは5章に記されています。しかし、それに先立って、4章11節ー19節には、
そこであなたがたは近づいて来て、山のふもとに立った。山は燃え上がって火が中天に達し、闇と雲と暗黒があった。主は火の中からあなたがたに語られた。あなたがたは語りかける声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった。主はご自分の契約をあなたがたに告げて、それを行うように命じられた。十のことばである。主はそれを二枚の石の板に書き記された。主はそのとき、あなたがたに掟と定めを教えるように私に命じられた。あなたがたが、渡って行って所有しようとしている地で、それらを行うためであった。あなたがたは自分自身に十分に気をつけなさい。主がホレブで火の中からあなたがたに語られた日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである。堕落して自分たちのために、どのような形の彫像も造らないようにしなさい。男の形も女の形も。地上のどのような動物の形も、空を飛ぶ、翼のあるどのような鳥の形も。地面を這うどのようなものの形も、地の下の水の中にいるどのような魚の形も。また、天に目を上げて、太陽、月、星など天の万象を見るとき、惑わされてそれらを拝み、それらに仕えることのないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、主が天下のあらゆる民に分け与えられたものである。
と記されています。
ここには、やはり、十戒が与えられたときのことが記されています。
13節には、
主はご自分の契約をあなたがたに告げて、それを行うように命じられた。十のことばである。主はそれを二枚の石の板に書き記された。
と記されていて、十戒の戒めが書き記されている「二枚の石の板」のことが出てきます。この「二枚の石の板」は「主」が書き記されてモーセに与えてくださったものです。
けれども、ここで取り上げられているのは、特に、第2戒にかかわることだけです。
そして、その第2戒の戒めを守るべきこととのかかわりで強調されているのは、12節に、
主は火の中からあなたがたに語られた。あなたがたは語りかける声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった。
と記されていることと、15節に、
主がホレブで火の中からあなたがたに語られた日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである。
と記されていることです。
そして、このことを受けて16節に、
堕落して自分たちのために、どのような形の彫像も造らないようにしなさい
と記されています。
「主」がシナイ山にご臨在したとき、「主」の御臨在にともなう「中天に達し」ていた「火」や「闇と雲と暗黒」―― 出エジプト記19章16節では「雷鳴と稲妻と厚い雲」、「非常に高く鳴り響いた」「角笛の音」―― は、イスラエルの民を震え上がらせるものでしたが、イスラエルの民は「火の中にあって、山の上に降りて来られた」(同18節)「主」が「火の中から」語られた御声を聞きました。しかし、イスラエルの民は「主」の御姿を見ることができませんでした。
それは、「主」がいかなる被造物にもなぞらえることができない方であるからです。
イザヤ書40章21節ー26節には、
あなたがたは知らないのか。
聞いていないのか。
初めから、告げられていなかったのか。
悟っていなかったのか。地の基のことを。
主は、地をおおう天蓋の上に住む方。
地の住民はバッタのようだ。
主は、天を薄絹のように延べ広げ、
これを天幕のように張って住まわれる。
君主たちを無に帰し、
地をさばく者たちを空しいものとされる。
彼らが植えられ、蒔かれ、
いよいよ地に根を張ろうとするとき、
主はそれに風を吹きつけ、彼らは枯れる。
暴風がそれを藁のように散らす。
「それなのに、あなたがたは、
わたしをだれになぞらえ、
だれと比べようとするのか」と
聖なる方は言われる。
あなたがたは目を高く上げて、
だれがこれらを創造したかを見よ。
この方はその万象を数えて呼び出し、
一つ一つ、その名をもって呼ばれる。
この方は精力に満ち、その力は強い。
一つも漏れるものはない。
と記されています。
また、テモテへの手紙第一・6章15節後半ー16節には、神さまのことが、
祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできない方。この方に誉れと永遠の支配がありますように。アーメン。
と記されています。
契約の神である「主」がこのような方なので、どのような被造物によっても「主」を表示する偶像を造ってはならないと戒められています。これが十戒の第2戒の主旨です。
このこととともに、申命記4章12節に、
主は火の中からあなたがたに語られた。あなたがたは語りかける声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった。
と記されており、15節ー16節に、
主がホレブで火の中からあなたがたに語られた日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである。堕落して自分たちのために、どのような形の彫像も造らないようにしなさい。
と記されていることは、大切なことを示しています。
それは、イスラエルの民が「主」の御声を聞いたということです。それも、意味のない声ではなく、十戒の戒めを直接的に語ってくださっている「主」の御声です。すでに、お話ししたように、その「主」の御声を聞いたイスラエルの民は、震え上がることをさらに越えて、自分たちが滅ぼされてしまうことを直感しました。このことは、「主」の御声こそが、「火」によって代表的に示されている、「主」の御臨在にともなう「雷鳴と稲妻と厚い雲」、「非常に高く鳴り響いた」「角笛の音」などの現象にまさって、「主」の御臨在を鮮明に現すものであったということを意味しています。
さらに注目したいのは、先ほど簡単に触れた、12節ー13節に、
主は火の中からあなたがたに語られた。あなたがたは語りかける声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった。主はご自分の契約をあなたがたに告げて、それを行うように命じられた。十のことばである。主はそれを二枚の石の板に書き記された。
と記されていることです。
「主」が「火の中から」御声をもって語られたのは「十のことば」と言われている十戒です。ここでは「主」が「火の中から」御声をもって「十のことば」すなわち十戒の十の戒めを語られたことは、「主」が「ご自分の契約」をイスラエルの民に「告げ」たことであると言われています。
また、ここでは、「主」が「この「十のことば」を「二枚の石の板に書き記された」と言われています。
かつては、これは、第1の板と第2の板があり、第1の板には神である「主」との関係にかかわる第1戒から第4戒までが記されており、第2の板には隣人との関係にかかわる第5戒から第10戒が記されていたと考えられていました。
しかし、申命記は古代オリエントの宗主権条約の形式に準じて記されていることが認められています。その古代オリエントの条約においては、同じ条約文書が二つ作成されて、宗主である大王と従属者である王のそれぞれの神殿の聖所に納められていました。このことから、「主」が「この「十のことば」を「二枚の石の板に書き記された」のは、同じ「十のことば」が「二枚の石の板に書き記された」ことを意味していると考えられるようになりました。そして、「主」の聖所とイスラエルの民の聖所は同じですので、「十のことば」が書き記された「二枚の石の板」が聖所に納められたと考えられます。
その時のことを記している出エジプト記では、引用はしませんが、24章1節ー11節に「主」がイスラエルの民と契約を結んでくださったことが記されています。そして、続く12節には、
主はモーセに言われた。「山のわたしのところに上り、そこにとどまれ。わたしはあなたに石の板を授ける。それは、彼らを教えるために、わたしが書き記したおしえと命令である。」
と記されています。ここで「わたしはあなたに石の板を授ける」と言われているときの「石の板」は複数形です。13節ー18節には、この「主」のみことばに従ってモーセが、「主」がご臨在されるシナイ山に登って行ったことが記されています。
続く25章ー31章には、「主」がモーセに語ってくださったことが記されています。―― これに続く32章から、イスラエルの民が金の子牛を作ったときのことが記されています―― 。そして、「主」が最初に造るように命じられたものは聖所でした。25章8節ー9節には、
彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。幕屋と幕屋のすべての備品は、わたしがあなたに示す型と全く同じように造らなければならない。
と記されています。
さらに、その聖所を造る上で最初に造るように示されたのは、続く10節ー22節に記されている「契約の箱」でした。10節ー11節には、
アカシヤ材の箱を作り、その長さを二キュビト半、幅を一キュビト半、高さを一キュビト半とする。それに純金をかぶせる。その内側と外側にかぶせ、その周りに金の飾り縁を作る。
と記されています。続く12節ー15節には、契約の箱を運ぶために必要なものを造ることが示されています。
そして、16節ー22節には、
その箱に、わたしが与えるさとしの板を納める。また、純金で『宥めの蓋』を作り、その長さを二キュビト半、幅を一キュビト半とする。二つの金のケルビムを作る。槌で打って、『宥めの蓋』の両端に作る。一つを一方の端に、もう一つを他方の端に作る。『宥めの蓋』の一部として、ケルビムをその両端に作る。ケルビムは両翼を上の方に広げ、その翼で『宥めの蓋』をおおうようにする。互いに向かい合って、ケルビムの顔が『宥めの蓋』の方を向くようにする。その『宥めの蓋』を箱の上に載せる。箱の中には、わたしが与えるさとしの板を納める。わたしはそこであなたと会見し、イスラエルの子らに向けてあなたに与える命令を、その『宥めの蓋』の上から、あかしの箱の上の二つのケルビムの間から、ことごとくあなたに語る。
と記されています。
16節には、
その箱に、わたしが与えるさとしの板を納める。
と記されています。これが、「主」が記された二つの契約文書を「主」とイスラエルの民の聖所に納めることに当たります。[注]
[注]ここで「さとしの板」と訳されていることば(エードゥート)は、文字通りには「さとし」で「板」はありません。21節も同様です。しかし、「さとし」は具体的なものではありませんし、実際には、31章18節に、「こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えたとき、さとしの板を二枚、すなわち神の指で書き記された石の板をモーセにお授けになった。」と記されている「二枚」の「さとしの板」を「あかしの箱」すなわち契約の箱に納めましたので、「さとしの板」と訳していると思われます。
この契約の箱には「宥めの蓋」と呼ばれている上蓋がありました。そして、この「宥めの蓋」の「両端に」、「『宥めの蓋』の一部として」「金のケルビム」が造られました。20節には、
ケルビムは両翼を上の方に広げ、その翼で『宥めの蓋』をおおうようにする。互いに向かい合って、ケルビムの顔が『宥めの蓋』の方を向くようにする。
と記されています。この「ケルビム」(ケルビーム)は「ケルブ」(ケルーブ)の複数形ですが、そこに栄光の「主」の御臨在があることを表示しつつ、その聖さを守っている生き物です。
そして、22節には、「主」がモーセに、
わたしはそこであなたと会見し、イスラエルの子らに向けてあなたに与える命令を、その『宥めの蓋』の上から、あかしの箱の上の二つのケルビムの間から、ことごとくあなたに語る。
と言われたことが記されています。
このことから、「あかしの箱の上の二つのケルビムの間」に「主」の御臨在があること、そして、その御臨在は「主」の契約に基づく御臨在であることを汲み取ることができます。出エジプト記の最後の40章38節には、
旅路にある間、イスラエルの全家の前には、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があった。
と記されています。エジプトを出てきたイスラエルの民を導いてくださった「主」の御臨在を現している雲の柱は幕屋の上にありましたが、おそらく、この「あかしの箱の上の二つのケルビムの間」の上に当たる所にあったのではないかと思われます。
いずれにしましても、22節において、「主」がモーセに、
わたしはそこであなたと会見し、イスラエルの子らに向けてあなたに与える命令を、その『宥めの蓋』の上から、あかしの箱の上の二つのケルビムの間から、ことごとくあなたに語る。
と言われたことは、栄光の「主」の御臨在があるシナイ山の麓で、「主」が十戒の戒めを語られた御声を聞いたイスラエルの民がモーセに、
あなたが私たちに語ってください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお語りになりませんように。さもないと、私たちは死んでしまいます。
と願ったことを反映しています。
さらに、このことから、私たちは、「主」が御臨在の御許から語ってくださること、また、それで、「主」のみことばが語られる所には、「主」の御臨在があることを汲み取ることができます。私たちの間でも、たとえば、扉の向こうから声が聞こえたら、そこのその声の主がいることが分かります。
このことは、今日の私たちにとっても大切なことです。
このことの根本にあることは、エペソ人への手紙1章23節に、
教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。
と記されていることです。ここで、
すべてのものをすべてのもので満たす方
と言われているのは栄光のキリストのことです。栄光のキリストは御霊によって、ご自身のからだである教会にご臨在してくださっています。このことが先にあり、根本にあります。このことの上に立って、「主」のみことばが語られます。
これと同様のことは、同じエペソ人への手紙2章19節ー22節に、
こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。
と記されています。
ここで、私たちが、
使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。
と言われているときの「使徒たちや預言者たち」は、一つの冠詞によって結ばれていますので、「預言者たち」は旧約の下で預言をした預言者たちではなく、「使徒たち」とともに、御子イエス・キリストがその十字架の上で流された贖いの血によって結ばれた新しい契約の下にあって、啓示を受けた人々のことです。今日の私たちにとっては、聖書に記されている福音のみことばがこれに当たります。
また、ここでは、「土台」と「要の石」は切り離すことができません。それで、この「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられて」いるときにのみ「キリスト・イエスご自身がその要の石」であることが示されています。
私たちは「キリスト・イエスご自身がその要の石」である「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられて」いて、「このキリストにあって」―― すなわち、御霊によって栄光のキリストと一つの結ばれていて、「建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります」。
この「主にある聖なる宮」の「宮」(ナオス)は「聖所」を表ことばで、そこに、御霊による栄光の「主」の御臨在があります。
また、この「ナオス」ということばは、ヨハネの福音書2章13節ー22節に記されている、イエス・キリストによる「宮きよめ」として知られている記事において、19節で、イエス・キリストが、
この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。
と言われたときの「神殿」と訳されていることばであり、21節ー22節に、
しかし、イエスはご自分のからだという神殿について語られたのであった。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた。
と記されているときの「神殿」と訳されていることばです。
私たちは、栄光のキリストがご臨在してくださっているキリストのからだである教会として、御霊に導いていただき、聖書に記されている福音のみことばに基づいて、父なる神さまを礼拝しています。ヨハネの福音書4章24節に記されている、
神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。
というイエス・キリストの教えに示されているとおりです。そして、この礼拝において、福音のみことばが朗読され、語られるときには、教会にご臨在してくださっている栄光のキリストが、御霊によってそれを悟らせてくださり、みことばに示されている父なる神さまと御子イエス・キリストの愛と恵みを受け止めることができるようにしてくださいます。また、それによって、私たちも御霊によって導いていただいて、父なる神さまと御子イエス・キリストを愛することができるようにしてくださり、お互いの愛のうちに歩むようにしてくださいます。
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