![]() |
説教日:2023年1月15日 |
イスラエルの民は「主」がどなたであるかを悟ることがなく、「主」の自分たちへの愛と、父祖であるアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を守ってくださって自分たちをエジプトの奴隷の身分から解放してくださったことに現されている「主」の真実を受け止めることがなかったということは、前回お話しした、神さまがモーセに示してくださった御名が示していることを悟らなかったということでもあります。 神さま」がモーセにご自身の御名を示してくださった時のことは、出エジプト記3章13節ー15節に記されています。 13節ー14節に記されているように、モーセは神さまに、 今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。 と問いかけました。神さまは、それにお答えになって、 「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」 と言われました。 このことからわかりますように、ここで神さまがご自身の御名を示してくださったことは、モーセのためでもありますが、それ以上に、モーセが遣わされるエジプトの地にいるイスラエルの民のためでした。 そして、神さまは、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 というご自身の御名を啓示してくださいました。これは神さまの固有名詞としての御名です。 この御名については、結論的なことをまとめますと、私は、この御名は、基本的には、神さまが永遠にご自身で存在しておられ、この歴史的な世界とその中にあるすべてのものを存在させ、支え、導いておられる方であることを意味していると考えています。 そして、このとき「主」は、この、 わたしは「わたしはある」という者である。 という御名を、「わたしはある」に短縮して示しておられます。さらに、この「わたしはある」は1人称で、神さまだけが用いることができる御名でので、神さまは、この「わたしはある」を3人称化されて、「ヤハウェ」としてお示しになっています。新改訳はこの「ヤハウェ」を「主」と表記しています。 神さまはこのことを示してくださるに当たって、モーセに、 イスラエルの子らに、こう言え。「あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた」と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。 と言われました。 当然、モーセは、この神さまのみことばに従って、イスラエルの民に神さまの御名を伝え、その御名の意味を丁寧に教えたはずです。 ここで、 これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である と言われている、神さまの御名は、 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主 と言われているときの、「主」ヤハウェという御名のことです。 そして、この、 あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主 ということばは、「主」がアブラハムに契約を与えてくださり、その契約に基づいて、その契約をアブラハムの子であるイサクに受け継がせてくださり、さらにその子ヤコブに受け継がせてくださった神であられること、そして、この出エジプトの時代には、アブラハムの子孫であるイスラエルの民に受け継がせてくださっている神であることを意味しています。 どうして、神さまがアブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約を守ってくださって、イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出すことがおできになるのかというと、それは神さまが、 わたしは「わたしはある」という者である。 という御名の神であられ、この歴史的な世界とその中にあるすべてのものを存在させ、支え、導いておられる「主」であられるからです。 ですから、イスラエルの民が目の当たりにし、自分たちのこととして経験していた、出エジプトにかかわる神である「主」の数々の御業は、神さまが、モーセをとおして示してくださった、 わたしは「わたしはある」という者である。 という御名の神であられるということを「あかし」する御業でした。イスラエルの民はそれらの御業による「あかし」に絶えることなく接していたのです。 それにもかかわらず、イスラエルの民は、こともあろうに、この「主」がご臨在されるシナイ山の麓において、金の子牛を造って、これを「主」ヤハウェと呼んで、礼拝してしまいました。 私たちは、「主の祈り」の第一の祈りにおいて、 御名が聖なるものとされますように。 と祈っています。しかし、この時のイスラエルの民は「主」の御名を汚してしまっていました。 これらのことを踏まえて、もう一つのことに触れておきます。 「主」が御声を発して、十戒の戒めを語られた後、ご自身が直接的に御声を発することはなさらないで、モーセをとおして、20章22節ー23章(の終わりの)33節に記されている戒めを語られました。 そして、続く、24章1節ー11節に、 主はモーセに言われた。「あなたとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は、主のもとへ上って来て、遠く離れて伏し拝め。モーセだけが主のもとに近づけ。ほかの者は近づいてはならない。民はモーセと一緒に上って来てはならない。」モーセは来て、主のすべてのことばと、すべての定めをことごとく民に告げた。すると、民はみな声を一つにして答えた。「主の言われたことはすべて行います。」モーセは主のすべてのことばを書き記した。モーセは翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、また、イスラエルの十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。それから彼はイスラエルの若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のささげ物を献げ、また、交わりのいけにえとして雄牛を主に献げた。モーセはその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけた。そして契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。「主の言われたことはすべて行います。聞き従います。」モーセはその血を取って、民に振りかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である。」それからモーセとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は登って行った。彼らはイスラエルの神を見た。御足の下にはサファイアの敷石のようなものがあり、透き通っていて大空そのもののようであった。神はイスラエルの子らのおもだった者たちに、手を下されなかった。彼らは神ご自身を見て、食べたり飲んだりした。 と記されているように、「主」はイスラエルの民と契約を結んでくださいました。これが一般に、「シナイ契約」と呼ばれている契約です。 ここで注意したいのは、1節ー2節に、 主はモーセに言われた。「あなたとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は、主のもとへ上って来て、遠く離れて伏し拝め。モーセだけが主のもとに近づけ。ほかの者は近づいてはならない。民はモーセと一緒に上って来てはならない。」 と記されていることです。 モーセと「アロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人」は、イスラエルの民を代表して「主のもとへ上って来て」「主」を礼拝するように命じられています。 このことは、この時にもなお、先ほど引用した、19章16節ー18節に、 三日目の朝、雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上にあって、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。モーセは、神に会わせようと、民を宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山が煙っていた。主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。煙は、かまどの煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。 と記されている状態が続いていること、そのためにシナイ山は「主」の御臨在によって聖別されていることを意味しています。 先ほどは引用しませんでしたが、19章では、この後、23節ー24節に、 主はモーセに言われた。「下って行って、民に警告せよ。彼らが見ようとして主の方に押し破って来て、多くの者が滅びることのないように。主に近づく祭司たちも自分自身を聖別しなければならない。主が彼らに怒りを発することのないように。」モーセは主に言った。「民はシナイ山に登ることができません。あなたご自身が私たちに警告して、『山の周りに境を設け、それを聖なるものとせよ』と言われたからです。」主は彼に言われた。「下りて行け。そして、あなた自身はアロンと一緒に上れ。しかし、祭司たちと民は、主のところに上ろうとして押し破ってはならない。主が彼らに怒りを発することのないように。」 と記されています。 ですから、「主」がイスラエルの民と契約を結んでくださった時のことを記している24章1節に、 主はモーセに言われた。「あなたとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は、主のもとへ上って来て、遠く離れて伏し拝め。 と記されていることは、先ほどの19章22節に、 主に近づく祭司たちも自分自身を聖別しなければならない。 ということがなされた上でのことです。そのようにして、「主」の栄光の御臨在の聖さが守られているのです。 このようにして、モーセと「アロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は、主のもとへ上って来て」「主」を礼拝するように命じられています。 しかし、それと同時に、 遠く離れて伏し拝め。モーセだけが主のもとに近づけ。ほかの者は近づいてはならない。民はモーセと一緒に上って来てはならない。 とも言われています。「アロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人」にとっては、「主のもとへ上って来て」ということも、「主」の御臨在の御許の至近にまで近づくという意味ではありませんでした。それは、古い契約の仲保者であったモーセだけに許されていることでした。 とはいえ、先ほど引用したヘブル人への手紙12章21節に、 また、その光景があまりに恐ろしかったので、モーセは「私は怖くて震える」と言いました。 と記されているように、「主」の栄光の御臨在に伴う現象はモーセにとっても恐ろしいものでした。罪ある者はすべて、神である「主」の聖さを冒しています。その「生ける神」である「主」のさばきの恐ろしさは、「主」の栄光の御臨在に接した人が自らの滅びを実感したほどのものでした。 その恐ろしさは、すでに、「主」が栄光の御臨在にともなう現象に「みな震え上がった」と言われているイスラエルの民が、「主」が栄光の御臨在の御許から語られた御声を聞いた時には、自分たちの死を実感して、モーセに、 神が私たちにお語りになりませんように。さもないと、私たちは死んでしまいます。 と言ったことからうかがえます。 ヘブル人への手紙12章21節に、 また、その光景があまりに恐ろしかったので、モーセは「私は怖くて震える」と言いました。 と記されていること自体は出エジプト記にも申命記にも記されていません。だからと言って、モーセが何の恐れも感じなかったとしたら、モーセには罪の自覚がなかったということになってしまい、それこそ問題です。 もう一つの証しをみて見ましょう。使徒の働き7章2節ー53節には、最高法院において審問を受けたステパノが語ったことが記されています。その中の30節ー32節に、ステパノが、 四十年たったとき、シナイ山の荒野において、柴の茂みの燃える炎の中で、御使いがモーセに現れました。その光景を見たモーセは驚き、それをよく見ようとして近寄ったところ、主の御声が聞こえました。『わたしは、あなたの父祖たちの神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である。』モーセは震え上がり、あえて見ようとはしませんでした。 と語ったことが記されています。「柴の茂みの燃える炎」は「主」の栄光の顕現ですが、それを見てもモーセは恐れませんでした。しかし、 わたしは、あなたの父祖たちの神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である。 という「主の御声」を聞いた「モーセは震え上がり、あえて見ようとは」しなかったと言われています これらのことから、モーセといえども、何の恐れもなく、「主」の栄光の御臨在の御許に近づいて、「主」を礼拝することができたわけではないことが分かります。 このことから、私たちは「主」を礼拝するときには、「主」がどなたであるかをわきまえて、ふさわしい恐れをもって御許に近づかなければならないことを自覚させられます。 しかし、それとともに、私たちは古い契約の下にあって、モーセさえもが「私は怖くて震える」と言ったような恐れをもって「主」の栄光の御臨在の御許に近づいて、「主」を礼拝するようにと戒められてはいません。 ヘブル人への手紙10章19節ー22節には、 こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。 と記されています。ここで、 私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。 と言われている「聖所」は、9章24節に、 キリストは、本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして今、私たちのために神の御前に現れてくださいます。 と言われている、天にあるまことの聖所である「天そのもの」のことです。 私たちはいま地上にあって礼拝していますが、御霊に導いていただいて、私たちの大祭司が仕えておられる父なる神さまの御臨在の御許に近づいて、父なる神さまを礼拝しているのです。 何が違うのでしょうか。 人としては、モーセは古い契約の下で、出エジプトの贖いの御業のために用いられた人です。そして、イスラエルの国家としての基礎を築き、王、祭司、預言者の基盤を築いた人です。まれに見る才能に恵まれていただけでなく、民数記12章3節には、 モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和であった。 とも記されています。 しかし、ヘブル人への手紙で、この10章19節ー22節に先立つ部分に記されているように、古い契約の下で、モーセが地上で仕えていた幕屋も、そこで献げられていた動物のささげ物も「地上的なひな型」に過ぎず、儀式的なきよめしかもたらすことがなく、真に人の罪を贖うことができまなかったからです。10章11節に、 祭司がみな、毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえを繰り返し献げても、それらは決して罪を除き去ることができません と記されているとおりです。 これに対して、それに続く12節ー14節には、 キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。 と記されています。 私たちが「大胆に[天にあるまことの]聖所に入る」ことができるのは、客観的には、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いの完全さによっていますし、個人的には、そのイエス・キリストを信じる信仰によっています。 |
![]() |
||