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説教日:2023年1月1日 |
本主日は、2023年の最初の主の日ですので、この二つのことのうちの「主」が私たちを信仰によるアブラハムの子/子孫としてくださっていることについてお話ししたいと思います。 「主」が私たちを信仰によるアブラハムの子/子孫としてくださっていることは、ガラテヤ人への手紙3章6節ー7節に、 「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。 と記されており、29節に、 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。 と記されていることに示されています。 この二つのみことばは、創世記15章に記されていることを背景として記されています。そこに記されている時点でのアブラハムは、おそらく、85歳くらいになっていて、なお相続人としての子がいませんでした。それは、前回お話ししたように、サラが不妊の女性であったことによっています。しかし、3節ー5節に記されているように、「主」はそのアブラハムに、アブラハムから生まれてくる子がアブラハムの相続人となるということと、アブラハムの子孫が天の星のようになるということを約束してくださいました。そして、6節には、 アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。 と記されています。 私たちはアブラハムの子としてお生まれになって、私たちのために死んでよみがえられた御子イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められ、「キリストのもの」となった「アブラハムの子孫であり、約束による相続人」です。 それでは、その私たちが受け継ぐ相続財産は何でしょうか。 この相続財産は豊かなもので、いくつかのことが含まれていますが、ここでは、その中心にあるものを示していると考えられるガラテヤ人への手紙の文脈から考えられることに焦点を当ててお話しします。 まず、注目したいのは、同じ3章26節に、 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。 と記されていることです。私たちは「信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです」。そして、4章7節に、 子であれば、神による相続人です。 と記されているように、私たちは「神の子ども」として相続人であるのです。このことが、この後の29節に記されている(先ほど引用した)、 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。 ということと、どのようにつながっているかを見てみましょう。 ガラテヤ人への手紙でパウロは、旧約聖書に記されているアブラハム契約の祝福に基づいて、私たちがアブラハムの子であられるイエス・キリストにあって相続人としてのアブラハムの子孫であることを説明しています。このことが基本となっていて、私たちの場合は、古い契約の下にあって「地上的なひな型」としての意味をもっていたアブラハムの血肉の子孫(その中には信仰によるアブラハムの子孫もいました)とは違って、ご自身が十字架の上で流された血によって確立された新しい契約においてアブラハム契約の祝福を成就されたイエス・キリストにあって、「地上的なひな型」としてのアブラハムの子孫が指し示していた、神の子どもとしての相続人となっているということが示されています。 ですから、ガラテヤ人への手紙3章では、まず、26節で、 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。 と言われています。そして、そのことがアブラハム契約の祝福によることであることと、アブラハム契約の約束が「キリスト・イエスにあって」成就していて、私たちの現実となっているということを示すために、29節で、 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。 と言われています。 そして、3章の終わりの29節に続く4章1節ー7節において、私たちが「信仰により、キリスト・イエスにあって神の子ども」としていただいており、「アブラハムの子孫であり、約束による相続人」としていただいていることの経緯を説明しています。 この4章1節ー7節に記されていることを取り上げる前に踏まえておきたいみことばがあります。それは、やはりアブラハム契約の祝福にかかわることで、3章13節ー14節に、 キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。 と記されています。 ここでは、イエス・キリストが十字架にかけられて「私たちのためにのろわれた者」となられたことによって、「私たちを律法ののろいから贖い出して」くださったことが示されています。ここに引用されている、 木にかけられた者はみな、のろわれている というみことばは申命記21章23節に記されています。 すでにお話ししたように、ガラテヤ人への手紙3章はアブラハム契約の祝福がイエス・キリストによって成就し、私たちの間の現実になっていることを示しています。それで、ここ13節ー14節では、イエス・キリストが「私たちのためにのろわれた者」となられたことによって、「アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるように」なったことが示されています。 このことによって、26節で、 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。 と言われていることが私たちの現実となっています。というのは、ローマ人への手紙8章14節ー15節に、 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。 と記されているように、「神の御霊に導かれる人はみな、神の子ども」だからです。 ガラテヤ人への手紙4章1節ー7節のうち、今お話ししていることとかかわっている4節ー7節を見てみましょう。そこには、 しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。 と記されています。 ここに記されていることは、先ほど引用した3章13節に、 キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。 と記されていることと符合しています。 また、4章では、続く6節ー7節に、 そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。 と記されています。 ここに記されていることは、やはり先ほど引用した3章14節に、 それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。 と記されていることと符合しています。 この3章14節に記されている「約束の御霊」は、聖霊降臨節(ペンテコステ)の日に、栄光のキリストが父なる神さまの右の座から遣わしてくださった御霊のことで、栄光のキリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊です。その意味で、この御霊はガラテヤ人への手紙4章6節では「御子の御霊」と呼ばれています。 そして、この御霊は、私たちそれぞれを栄光のキリストと一つに結び合わせてくださり、栄光のキリストが成し遂げてくださった贖いの御業がもたらす救いの恵みにあずからせてくださいましたし、あずからせてくださっています。 私たちを栄光のキリストと結び合わせてくださった御霊は、私たちを栄光のキリストの復活のいのちによって新しく生まれさせてくださいました。そして、新しく生まれた私たちが福音のみことばを聞いて理解し、造り主である神さまを神とすることなく歩んでいた自らの罪を悔い改めて、父なる神さまと父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストを信じるようにしてくださいました。 私たちはこの信仰によって、父なる神さまの御前に義と認めていただいています。そればかりでなく、父なる神さまの子(養子)として御子を長子とする神の家族に迎え入れていただいています。 私たちが義と認めていただいたことと、子として神の家族に迎え入れていただいたことは法的なことで、私たちの生涯において一度だけ起こったことで、繰り返されることなく、永遠に変わることはありません。 これに対して、父なる神さまの子としていただいた私たちが神の子どもとして生きること/歩むことは、私たちの地上の生涯をとおして続くことです。そして、私たちが地上の生涯を神の子どもとして歩むことを導いてくださるのは「御子の御霊」です。先ほど引用した、ローマ人への手紙8章14節に、 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。 と記されており、ガラテヤ人への手紙5章16節に、 私は言います。御霊によって歩みなさい。 と記されているとおりです。 そのようにして、私たちが「御子の御霊」に導いていただいて神の子どもとして歩むことの核心にあることが、ヨハネの福音書4章24節に、 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。 と記されているように、御霊と福音のみことばに示されている真理によって父なる神さまを礼拝することであり、父なる神さまを礼拝することを中心として、父なる神さまと神の家族の兄弟姉妹たちとの愛の交わりに生きることです。 そして、このこととのかかわりで、ガラテヤ人への手紙4章6節に、 そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。 と記されていることが意味をもっています。 本来、父なる神さまに向かって個人的に親しく「アバ、父よ」と呼びかけることができるのは、ご自身がまことの神であられる御子の特権です。マルコの福音書14章32節ー42節には、イエス・キリストが十字架におかかりになる日の夜(当時のヘブル暦では、日没とともに一日が終わりました)に、ゲツセマネにおいて祈られたことが記されています。34節には、イエス・キリストが、 わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。 と言われたことが記されています。そして、36節には、 アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。 と祈られたことが記されています。 十字架刑は人類が考えついた処刑の方法のうちで最も残酷なものの一つに数えられているほど恐ろしいものです。しかし、それは人が加えることができる苦しみです。イエス・キリストが味わわれた死の苦しみは、それだけではありませんでした。イエス・キリストは本来私たちが受けなければならない私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰をすべて私たちに代わって受けてくださいました。父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにおられる御子が、人としての性質において、私たちの想像を絶する死の苦しみを受けられたのです。 そのことをご存知であられた御子イエス・キリストは、その時、父なる神さまに向かって「アバ、父よ、」と呼びかけられ、父なる神さまへの愛を表され、父なる神さまのみこころが行われることを願われました。このことに照らして、ガラテヤ人への手紙4章6節に記されている、 そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。 と記されていることを理解することができます。 ここでは、御霊のことが「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」と言われており、父なる神さまがその「御子の御霊」を「私たちの心に遣わされ」たと言われています。 これらのことから、「『アバ、父よ』と叫ぶ」ことは、父なる神さまと父なる神さまの愛を生きた現実として受け止めている者の心の底からの愛と信頼をもっての呼びかけであることが分かります。私たちがそのように父なる神さまの愛を生きた現実として受け止めることができるようにしてくださり、実際に、父なる神さまに向かって「アバ、父よ」と、心の底からの愛と信頼をもって呼びかけるように導いてくださるのは「御子の御霊」です。 また、これに続いて、7節には、 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。 と記されています。 これは、これまでお話ししてきた、アブラハム契約の祝福にあずかっている私たちが、相続人としてのアブラハムの子孫となっていることを意味しています。けれども、次の8節では話題が変わっていて、相続人としてのアブラハムの子孫のことはこれ以上の説明がありません。それで、ここでは信仰によるアブラハムの子孫が受け継ぐ相続財産が何であるかが明示されてはいません。 しかし、それが何であるかは、これまでお話ししてきたことから推し量ることができます。それは、「御子の御霊」によって、父なる神さまに向かって「アバ、父よ」と、心の底からの愛と信頼をもって呼びかけることができること、すなわち、父なる神さまとの愛の交わりです。そして、私たちの間でも、愛する人との交わりにおいて最も大切なのは愛している人自身です。私たちにとって、父なる神さまとの愛の交わりにおいて最も大切なのは、父なる神さまご自身です。ローマ人への手紙5章11節に、 私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。 と記されているように、私たちは父なる神さまを喜びとしています。 聖書には神である「主」ご自身が私たちの相続財産であることを示す箇所がいくつかあります。私が知るかぎりでは、詩篇16篇5節、73篇25節ー26節、119篇57節、142篇5節、哀歌3章24節です。 詩篇からは、代表的に、詩篇73篇25節ー26節を見てみましょう。そこには、 あなたのほかに 天では 私にだれがいるでしょう。 地では 私はだれをも望みません。 この身も心も尽き果てるでしょう。 しかし 神は私の心の岩 とこしえに私が受ける割り当ての地。 と記されています。 この最後の部分において「とこしえに私が受ける割り当ての地」と言われているときの「割り当ての地」(ヘーレク)が「相続財産」に相当します。そして、その「とこしえに私が受ける」「相続財産」は天にもなく、地にもなく―― すなわち、どのような被造物でもなく、「神」ご自身であると言われています。 また、南王国ユダがバビロンの王ネブカドネツァルによって滅ぼされ、エルサレム神殿が破壊され、その民が捕囚となってしまったという悲惨で絶望的な状態を嘆いた歌と言われている哀歌3章23節ー24節にも、 「あなたの真実は偉大です。 主こそ、私への割り当てです」と 私のたましいは言う。 それゆえ、私は主を待ち望む。 と記されています。 ここで、 主こそ、私への割り当てです と言われているときの「割り当て」は、詩篇73篇26節の「割り当ての地」と同じことば(ヘーレク)で、「相続財産」に相当し、それは「主」ご自身であると言われています。 そして、ここでは、悲惨で絶望的な状態にあって、なお、「主を待ち望む」と言われています。「主」が自分への「割り当て」であることにこそ、また、そのことだけに望みがあるというのです。 それは、「主」が、この歴史的な世界とその中にあるすべてのものを存在させ、支え、導いておられる方であられ、ご自身の契約に対して真実であられ、歴史の主として、どのようなことがあっても、ご自身が契約において約束されたことを必ず実現してくださる方であるからです。 そして、このことは、終わりの日の近いことを思わせる困難な時代を生きる私たちに、そのまま当てはまります。「主」こそが、私たちのとこしえの相続財産です。それで私たちは、哀歌の作者と同じように、この「主」にあって望みを抱いています。 この年においても、私たちは、父なる神さまが「私たちの心に」遣わしてくださった「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」によって導いていただいて、父なる神さまと神の家族の兄弟姉妹たちとの愛の交わりに生きる歩みを続けたいと思います。また、信仰によって、 あなたのほかに 天では 私にだれがいるでしょう。 地では 私はだれをも望みません。 この身も心も尽き果てるでしょう。 しかし 神は私の心の岩 とこしえに私が受ける割り当ての地。 また、 「あなたの真実は偉大です。 主こそ、私への割り当てです」と 私のたましいは言う。 それゆえ、私は主を待ち望む。 と告白しつつ、望みのうちを歩み続けたいと思います。 |
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