黙示録講解

(第511回)


説教日:2023年1月1日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(264)


 本主日も、黙示録2章28節後半に記されている、

 勝利を得る者には、わたしは明けの明星を与える。

という、イエス・キリストの約束のみことばと関連することについてのお話を続けます。
 今日も、神である「」に対する「」の契約の民の不信仰がもたらした絶望的な状態にあって、なお、「」の主権的で一方的な恵みが示されたことについてのお話を続けます。
 今は、出エジプト記32章ー34章に記されている、イスラエルの民が、「」がご臨在されるシナイ山の麓において、金の子牛を造ってこれを「」として礼拝した時のことについてお話ししています。
 これまで、この時にどのようなことが起こったかについてお話ししてから、このことが起こるまでにイスラエルの民がどのようなことを経験してきたかについてお話ししました。
 出エジプト記2章23節ー24節に記されているように、エジプトの奴隷の状態にあったイスラエルの民が「重い労働にうめき、泣き叫んだ」時、神さまは彼らの叫びと嘆きをお聞きになり、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされました。そして、続く3章に記されているように、神さまは「神の山ホレブ」すなわちシナイ山においてご自身をモーセに現され、モーセを召して、イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出すために、エジプトの王ファラオの許にお遣わしになりました。
 その際に、モーセは、3章13節ー16節に記されているように、エジプトにいるイスラエルの民が神さまの御名が何であるかを聞く時に、何と答えたらよいかと尋ねました。
 そのことを受けて、14節には、

神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」

と記されています。
 ここで神さまが最初に言われた、

 わたしは「わたしはある」という者である。(エヒイェ・アシェル・エヒイェ)

全体が神さまの固有名詞としての御名です。この御名は旧約聖書のギリシア語訳である七十人訳では、

 わたしは在る者である。(エゴー・エイミ・ホ・オーン)

となっています。
 この御名がどのようなことを意味しているかということについてはいくつかの見方があって、決定的なことは言えません。
 この、
 わたしは「わたしはある」という者である。
という御名は、ヘブル語では未完了時制ですが、新改訳のように現在時制と訳すこともできますし、未来時制で訳すこともできます。また、詩文においては過去時制の意味で用いられることがあるとも言われています。私は、これらの可能性の意味合いを包括的に示すことができる、現在時制で理解することがいちばんいいのではないかと考えています。その上でのことですが、ここでは「わたしはある」(エヒイェ)が重ねられていて、強調されています。それは、七十人訳が示している意味合いにも沿っています。
 このようなことから、この御名は、基本的には、神さまが永遠にご自身で存在しておられ、この歴史的な世界とその中にあるすべてのものを(創造の御業によって)存在させ、(摂理の御業によって)支え、導いておられる方であることを意味している(のではないか)と考えています。
 そして、この14節では、この、

 わたしは「わたしはある」という者である。

という御名が、「わたしはある」(エヒイェ)に短縮されています。
 この「わたしはある」(エヒイェ)は1人称ですので、本来は、神さまだけが用いることができる御名です。それで、続く15節に、

神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。

と記されているように、この「わたしはある」(エヒイェ)が3人称化されて、「ヤハウェ」となっていると考えられます。新改訳はこれを「」と表記しています。これですと、称号のように感じられますが、先ほど言ったように「ヤハウェ」は固有名詞としての御名です。
 この15節では、

あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、

と言われています。これはヘブル語の順序では、「」が先に出てきて、それを説明する「あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神」が続いています(日本語では説明する部分は先に出てきますので、順序が逆になっています)。それで、これは「」ヤハウェのことを述べていて、神さまが、

 これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。

と言われたのは「」ヤハウェという御名のことです。
 この、

 あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、

ということばは、「」がアブラハムに契約を与えてくださり、その契約に基づいて、その契約をアブラハムの子であるイサクに受け継がせてくださり、さらにその子ヤコブに受け継がせてくださった神であられること、そして、この出エジプトの時代には、アブラハムの子孫であるイスラエルの民に受け継がせてくださっている神であることを意味しています。
 これらのことから、

 わたしは「わたしはある」という者である。

という御名の神であられ、この歴史的な世界とその中にあるすべてのものを存在させ、支え、導いておられる「」は、ご自身の契約に対して真実であられ、歴史の主として、どのようなことがあっても、ご自身が契約において約束されたことを必ず実現してくださる方であることが示されています。
 「」はこのような御名の方であられるので、また、このような御名の方として、これまでお話ししてきたように、エジプトの奴隷であったばかりか、あらゆる民のうちで最も数が少なかったイスラエルの民を愛してくださり、アブラハム契約に基づいて、エジプトの王ファラオの手から贖い出してくださいました。そして、エジプトを出てから、イスラエルの民がことあるごとに「」と「」がお遣わしになったモーセに対する不信を募らせたにもかかわらず、「」はなおも彼らに対して真実であられて、ご自身がご臨在されるシナイ山にまで導いてくださいました。
 さらには、「」はこのような御名の方として、アブラハムに与えてくださった、

 地のすべての部族は、
 あなたによって祝福される。

という祝福の約束(創世記12章3節)、またその発展的な継承である、

 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

という祝福の約束(創世記22章18節)を、イスラエルの民に受け継がせてくださって、イスラエルの民をご自身の「」としてくださり、「祭司の王国、聖なる国民」としてくださるために、シナイ山で契約を結んでくださったのです。
 そればかりではありません。「」はこのような御名の方であられるので、また、このような御名の方として、アブラハムから4千年ほど後の私たちをも、信仰によるアブラハムの子/子孫としてくださっていますし、ご自身の「」としてくださり、「祭司の王国、聖なる国民」としてくださっています。


 本主日は、2023年の最初の主の日ですので、この二つのことのうちの「」が私たちを信仰によるアブラハムの子/子孫としてくださっていることについてお話ししたいと思います。
 「」が私たちを信仰によるアブラハムの子/子孫としてくださっていることは、ガラテヤ人への手紙3章6節ー7節に、

「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。

と記されており、29節に、

あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

と記されていることに示されています。
 この二つのみことばは、創世記15章に記されていることを背景として記されています。そこに記されている時点でのアブラハムは、おそらく、85歳くらいになっていて、なお相続人としての子がいませんでした。それは、前回お話ししたように、サラが不妊の女性であったことによっています。しかし、3節ー5節に記されているように、「」はそのアブラハムに、アブラハムから生まれてくる子がアブラハムの相続人となるということと、アブラハムの子孫が天の星のようになるということを約束してくださいました。そして、6節には、

 アブラムはを信じた。それで、それが彼の義と認められた。

と記されています。
 私たちはアブラハムの子としてお生まれになって、私たちのために死んでよみがえられた御子イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められ、「キリストのもの」となった「アブラハムの子孫であり、約束による相続人」です。
 それでは、その私たちが受け継ぐ相続財産は何でしょうか。
 この相続財産は豊かなもので、いくつかのことが含まれていますが、ここでは、その中心にあるものを示していると考えられるガラテヤ人への手紙の文脈から考えられることに焦点を当ててお話しします。
 まず、注目したいのは、同じ3章26節に、

 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。

と記されていることです。私たちは「信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです」。そして、4章7節に、

 子であれば、神による相続人です。

と記されているように、私たちは「神の子ども」として相続人であるのです。このことが、この後の29節に記されている(先ほど引用した)、

あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

ということと、どのようにつながっているかを見てみましょう。
 ガラテヤ人への手紙でパウロは、旧約聖書に記されているアブラハム契約の祝福に基づいて、私たちがアブラハムの子であられるイエス・キリストにあって相続人としてのアブラハムの子孫であることを説明しています。このことが基本となっていて、私たちの場合は、古い契約の下にあって「地上的なひな型」としての意味をもっていたアブラハムの血肉の子孫(その中には信仰によるアブラハムの子孫もいました)とは違って、ご自身が十字架の上で流された血によって確立された新しい契約においてアブラハム契約の祝福を成就されたイエス・キリストにあって、「地上的なひな型」としてのアブラハムの子孫が指し示していた、神の子どもとしての相続人となっているということが示されています。
 ですから、ガラテヤ人への手紙3章では、まず、26節で、

 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。

と言われています。そして、そのことがアブラハム契約の祝福によることであることと、アブラハム契約の約束が「キリスト・イエスにあって」成就していて、私たちの現実となっているということを示すために、29節で、

あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

と言われています。
 そして、3章の終わりの29節に続く4章1節ー7節において、私たちが「信仰により、キリスト・イエスにあって神の子ども」としていただいており、「アブラハムの子孫であり、約束による相続人」としていただいていることの経緯を説明しています。
 この4章1節ー7節に記されていることを取り上げる前に踏まえておきたいみことばがあります。それは、やはりアブラハム契約の祝福にかかわることで、3章13節ー14節に、

キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。

と記されています。
 ここでは、イエス・キリストが十字架にかけられて「私たちのためにのろわれた者」となられたことによって、「私たちを律法ののろいから贖い出して」くださったことが示されています。ここに引用されている、

 木にかけられた者はみな、のろわれている

というみことばは申命記21章23節に記されています。
 すでにお話ししたように、ガラテヤ人への手紙3章はアブラハム契約の祝福がイエス・キリストによって成就し、私たちの間の現実になっていることを示しています。それで、ここ13節ー14節では、イエス・キリストが「私たちのためにのろわれた者」となられたことによって、「アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるように」なったことが示されています。
 このことによって、26節で、

 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。

と言われていることが私たちの現実となっています。というのは、ローマ人への手紙8章14節ー15節に、

神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

と記されているように、「神の御霊に導かれる人はみな、神の子ども」だからです。

 ガラテヤ人への手紙4章1節ー7節のうち、今お話ししていることとかかわっている4節ー7節を見てみましょう。そこには、

しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。

と記されています。
 ここに記されていることは、先ほど引用した3章13節に、

キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。

と記されていることと符合しています。
 また、4章では、続く6節ー7節に、

そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。

と記されています。
 ここに記されていることは、やはり先ほど引用した3章14節に、

それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。

と記されていることと符合しています。
 この3章14節に記されている「約束の御霊」は、聖霊降臨節(ペンテコステ)の日に、栄光のキリストが父なる神さまの右の座から遣わしてくださった御霊のことで、栄光のキリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊です。その意味で、この御霊はガラテヤ人への手紙4章6節では「御子の御霊」と呼ばれています。
 そして、この御霊は、私たちそれぞれを栄光のキリストと一つに結び合わせてくださり、栄光のキリストが成し遂げてくださった贖いの御業がもたらす救いの恵みにあずからせてくださいましたし、あずからせてくださっています。
 私たちを栄光のキリストと結び合わせてくださった御霊は、私たちを栄光のキリストの復活のいのちによって新しく生まれさせてくださいました。そして、新しく生まれた私たちが福音のみことばを聞いて理解し、造り主である神さまを神とすることなく歩んでいた自らの罪を悔い改めて、父なる神さまと父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストを信じるようにしてくださいました。
 私たちはこの信仰によって、父なる神さまの御前に義と認めていただいています。そればかりでなく、父なる神さまの子(養子)として御子を長子とする神の家族に迎え入れていただいています。
 私たちが義と認めていただいたことと、子として神の家族に迎え入れていただいたことは法的なことで、私たちの生涯において一度だけ起こったことで、繰り返されることなく、永遠に変わることはありません。
 これに対して、父なる神さまの子としていただいた私たちが神の子どもとして生きること/歩むことは、私たちの地上の生涯をとおして続くことです。そして、私たちが地上の生涯を神の子どもとして歩むことを導いてくださるのは「御子の御霊」です。先ほど引用した、ローマ人への手紙8章14節に、

 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。

と記されており、ガラテヤ人への手紙5章16節に、

私は言います。御霊によって歩みなさい。

と記されているとおりです。
 そのようにして、私たちが「御子の御霊」に導いていただいて神の子どもとして歩むことの核心にあることが、ヨハネの福音書4章24節に、

 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。

と記されているように、御霊と福音のみことばに示されている真理によって父なる神さまを礼拝することであり、父なる神さまを礼拝することを中心として、父なる神さまと神の家族の兄弟姉妹たちとの愛の交わりに生きることです。

 そして、このこととのかかわりで、ガラテヤ人への手紙4章6節に、

そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

と記されていることが意味をもっています。
 本来、父なる神さまに向かって個人的に親しく「アバ、父よ」と呼びかけることができるのは、ご自身がまことの神であられる御子の特権です。マルコの福音書14章32節ー42節には、イエス・キリストが十字架におかかりになる日の夜(当時のヘブル暦では、日没とともに一日が終わりました)に、ゲツセマネにおいて祈られたことが記されています。34節には、イエス・キリストが、

 わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。

と言われたことが記されています。そして、36節には、

アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。

と祈られたことが記されています。
 十字架刑は人類が考えついた処刑の方法のうちで最も残酷なものの一つに数えられているほど恐ろしいものです。しかし、それは人が加えることができる苦しみです。イエス・キリストが味わわれた死の苦しみは、それだけではありませんでした。イエス・キリストは本来私たちが受けなければならない私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰をすべて私たちに代わって受けてくださいました。父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにおられる御子が、人としての性質において、私たちの想像を絶する死の苦しみを受けられたのです。
 そのことをご存知であられた御子イエス・キリストは、その時、父なる神さまに向かって「アバ、父よ、」と呼びかけられ、父なる神さまへの愛を表され、父なる神さまのみこころが行われることを願われました。このことに照らして、ガラテヤ人への手紙4章6節に記されている、

そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

と記されていることを理解することができます。
 ここでは、御霊のことが「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」と言われており、父なる神さまがその「御子の御霊」を「私たちの心に遣わされ」たと言われています。
 これらのことから、「『アバ、父よ』と叫ぶ」ことは、父なる神さまと父なる神さまの愛を生きた現実として受け止めている者の心の底からの愛と信頼をもっての呼びかけであることが分かります。私たちがそのように父なる神さまの愛を生きた現実として受け止めることができるようにしてくださり、実際に、父なる神さまに向かって「アバ、父よ」と、心の底からの愛と信頼をもって呼びかけるように導いてくださるのは「御子の御霊」です。
 また、これに続いて、7節には、

 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。

と記されています。
 これは、これまでお話ししてきた、アブラハム契約の祝福にあずかっている私たちが、相続人としてのアブラハムの子孫となっていることを意味しています。けれども、次の8節では話題が変わっていて、相続人としてのアブラハムの子孫のことはこれ以上の説明がありません。それで、ここでは信仰によるアブラハムの子孫が受け継ぐ相続財産が何であるかが明示されてはいません。
 しかし、それが何であるかは、これまでお話ししてきたことから推し量ることができます。それは、「御子の御霊」によって、父なる神さまに向かって「アバ、父よ」と、心の底からの愛と信頼をもって呼びかけることができること、すなわち、父なる神さまとの愛の交わりです。そして、私たちの間でも、愛する人との交わりにおいて最も大切なのは愛している人自身です。私たちにとって、父なる神さまとの愛の交わりにおいて最も大切なのは、父なる神さまご自身です。ローマ人への手紙5章11節に、

 私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。

と記されているように、私たちは父なる神さまを喜びとしています。
 聖書には神である「」ご自身が私たちの相続財産であることを示す箇所がいくつかあります。私が知るかぎりでは、詩篇16篇5節、73篇25節ー26節、119篇57節、142篇5節、哀歌3章24節です。
 詩篇からは、代表的に、詩篇73篇25節ー26節を見てみましょう。そこには、

 あなたのほかに
 天では 私にだれがいるでしょう。
 地では 私はだれをも望みません。
 この身も心も尽き果てるでしょう。
 しかし 神は私の心の岩
 とこしえに私が受ける割り当ての地。

と記されています。
 この最後の部分において「とこしえに私が受ける割り当ての地」と言われているときの「割り当ての地」(ヘーレク)が「相続財産」に相当します。そして、その「とこしえに私が受ける」「相続財産」は天にもなく、地にもなく―― すなわち、どのような被造物でもなく、「」ご自身であると言われています。
 また、南王国ユダがバビロンの王ネブカドネツァルによって滅ぼされ、エルサレム神殿が破壊され、その民が捕囚となってしまったという悲惨で絶望的な状態を嘆いた歌と言われている哀歌3章23節ー24節にも、

 「あなたの真実は偉大です。
 こそ、私への割り当てです」と
 私のたましいは言う。
 それゆえ、私は主を待ち望む。

と記されています。
 ここで、

 主こそ、私への割り当てです

と言われているときの「割り当て」は、詩篇73篇26節の「割り当ての地」と同じことば(ヘーレク)で、「相続財産」に相当し、それは「」ご自身であると言われています。
 そして、ここでは、悲惨で絶望的な状態にあって、なお、「主を待ち望む」と言われています。「」が自分への「割り当て」であることにこそ、また、そのことだけに望みがあるというのです。
 それは、「」が、この歴史的な世界とその中にあるすべてのものを存在させ、支え、導いておられる方であられ、ご自身の契約に対して真実であられ、歴史の主として、どのようなことがあっても、ご自身が契約において約束されたことを必ず実現してくださる方であるからです。
 そして、このことは、終わりの日の近いことを思わせる困難な時代を生きる私たちに、そのまま当てはまります。「」こそが、私たちのとこしえの相続財産です。それで私たちは、哀歌の作者と同じように、この「」にあって望みを抱いています。
 この年においても、私たちは、父なる神さまが「私たちの心に」遣わしてくださった「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」によって導いていただいて、父なる神さまと神の家族の兄弟姉妹たちとの愛の交わりに生きる歩みを続けたいと思います。また、信仰によって、

 あなたのほかに
 天では 私にだれがいるでしょう。
 地では 私はだれをも望みません。
 この身も心も尽き果てるでしょう。
 しかし 神は私の心の岩
 とこしえに私が受ける割り当ての地。

また、

 「あなたの真実は偉大です。
 こそ、私への割り当てです」と
 私のたましいは言う。
 それゆえ、私は主を待ち望む。

と告白しつつ、望みのうちを歩み続けたいと思います。


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