黙示録講解

(第510回)


説教日:2022年12月18日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(263)


 本主日も、黙示録2章28節後半に記されている、

 勝利を得る者には、わたしは明けの明星を与える。

という、イエス・キリストの約束のみことばと関連することについてのお話を続けます。
 今日も、神である「」に対する「」の契約の民の不信仰がもたらした絶望的な状態にあって、なお、「」の主権的で一方的な恵みが示されたことについてのお話を続けます。
 今は、出エジプト記32章ー34章に記されている、イスラエルの民が、「」がご臨在されるシナイ山の麓において、金の子牛を造ってこれを「」として礼拝した時のことについてお話ししています。
 これまで、このことが起こるまでにイスラエルの民がどのようなことを経験してきたかについてお話ししました。
 まず、今日お話しすることとと関連することを振り返っておきましょう。
 出エジプト記2章の終わりの23節ー24節に、

それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。

と記されているように、神さまがイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出されたのは、「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約」に基づいています。
 この「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約」は、「」がアブラハムと結んでくださった契約で、アブラハムの子であるイサクとヤコブに受け継がせてくださったもので、一般的に「アブラハム契約」と呼ばれます。
 このアブラハム契約は創世記12章1節ー3節に、

 あなたは、あなたの土地、
 あなたの親族、あなたの父の家を離れて、
 わたしが示す地へ行きなさい。
 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
 あなたを祝福し、
 あなたの名を大いなるものとする。
 あなたは祝福となりなさい。
 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、
 あなたを呪う者をのろう。
 地のすべての部族は、
 あなたによって祝福される。

と記されている、「」がアブラハムを召してくださった時に与えてくださった約束が背景となって結ばれています。
 この約束では、「」がアブラハムを「大いなる国民」としてくださることとともに、アブラハムによって「地のすべての部族」が祝福されるということが約束されています。
 最初の約束の「」がアブラハムを「大いなる国民」としてくださるということには、大きな問題がありました。創世記11章30節に、

 サライは不妊の女で、彼女には子がいなかった。

と記されているように、アブラハムの妻であるサラは「不妊の女」でしたので、二人の間には子どもが生まれないということです。先ほど引用した12章1節ー3節に続く4節に、

アブラムは、が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。

と記されているように、75歳になっていたアブラハムには子どもがいませんでした。
 しかし、アブラハムの相続人についての「」とアブラハムのやり取りを記している創世記15章の4節に、

 ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。

と記されているように、「」は、アブラハムに相続人としての子が生まれることを約束してくださいました。その時、6節に、

 アブラムはを信じた。それで、それが彼の義と認められた。

と記されているように、アブラハムはこの約束を与えてくださった「」を信じて、義と認められました。
 16章3節に、自分が「不妊の女」であることを自覚してのことと思われますが、サラのことが、

アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷であるエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。

と記されていることから、アブラハムが「」を信じて義と認められたとき、アブラハムは85歳ほどになっていたと考えられます。
 この1年後に「エジプト人ハガル」から、イシュマエルが生まれました。イシュマエルは、アブラハムの子ですが、サラとアブラハムが自分たちの考えにしたがって生んだ子です。
 しかし、「」が約束してくださった相続人としてのアブラハムの子は「不妊の女」であった、サラから生まれた子でした。その「」の約束が成就したのは、「」がアブラハムにその約束を与えてくださってから、さらに15年ほど経ってからのことです。アブラハムが100歳、サラが90歳の時に、約束されていた相続人としての子、イサクが生まれました(創世記17章16節ー17節、21章5節)。
 この時のアブラハムの信仰について、ローマ人への手紙4章16節後半ー22節に、

アブラハムは、私たちすべての者の父です。「わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです。

と記されています。
 これと関連して、ガラテヤ人への手紙3章29節には、

 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

と記されており、4章4節ー7節には、

しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。

と記されています。


 もう一つの約束は、アブラハムによって「地のすべての部族」が祝福されるということでした。このことから、アブラハム契約には「地のすべての部族」の祝福という広い意味があることが分かります。
 このアブラハムによって「地のすべての部族」が祝福されるという約束は、更新されました。その経緯を見てみましょう。
 それは、創世記22章に記されていますが、アブラハムは神さまの命令に従って、神さまが示された「モリヤの地」にある山で、イサクを「全焼のささげ物として」献げたときのことです。
 実際には、アブラハムがイサクを縛って、祭壇に置いて屠ろうとしましたが、「の使いが」それを止め、アブラハムは、神さまが備えてくださった「一匹の雄羊」をイサクの代わりに「全焼のささげ物として」献げました。
 それで、この時、アブラハムはイサクを献げなかったと思われるかも知れません。しかし、もしそうであったら、「の使いが」アブラハムを止めて、

今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。

と言ったただけでよかったはずです。けれども、神さまはイサクの代わりとなる雄羊を備えてくださり、アブラハムが「全焼のささげ物として」献げるようにしてくださいました。この時、アブラハムはイサクを「」に献げました。「」がアブラハムにイサクを「」に献げることを完遂させてくださったのです。ヘブル人への手紙11章17節ー19節に、

信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。約束を受けていた彼が、自分のただひとりの子を献げようとしたのです。神はアブラハムに「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」と言われましたが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。

と記されているとおりです。
 イサクは「」の約束によって、また、「」の御力によって生まれたましたが、なお、アブラハムの血肉の子でもありました。しかし、この時、アブラハムは「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」という「」のみことばを信じ、「神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考え」て、イサクを神さまに「全焼のささげ物として」献げました。このことによって、イサクはもはやアブラハムのものではなく、神さまのものとなりました。アブラハムはそのイサクを、新たに、神さまから与えられました。いわば、アブラハムは「新しいイサク」―― アブラハムとの血肉のつながりを越えた、新しいイサクを与えていただいたのです。ヘブル人への手紙では、アブラハムは「比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです」と言われています。
 「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」という「」のみことばは創世記21章12節に記されています。この創世記21章12節の流れでは、イシュマエルにあってアブラハムの「子孫が起こされる」のではなく、「イサクにあって」アブラハムの「子孫が起こされる」という対比があります。
 そして、このことに触れているガラテヤ人への手紙4章28節には、

 兄弟たち、あなたがたはイサクのように約束の子どもです。

と記されています。
 創世記22章に戻りますと、アブラハムが神さまにイサクを献げたこと、そして、新しいイサクを与えられたことを受けて、「」は、

 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

と約束してくださいました。
 アブラハムの「子孫によって」、「地のすべての国々は祝福を受けるようになる」という約束は、この時に初めて告げられたことです。
 「」が、

 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

と約束してくださったときの「あなたの子孫」は単数形ですが、集合名詞として、一つの集合体を意味していると考えられます。それは古い契約の下では、アブラハム、イサク、ヤコブを父祖とするイスラエルの民において実現するようになります。
 さらには、その集合体には「かしら」がいますが、それは、やがて、「」がダビデに与えてくださった契約において約束してくださったダビデの子において実現するようになります。古い契約の下では、ダビデの血肉の子孫としてイスラエルを治めた王たちですが、新しい契約の下では、まことのダビデの子として来てくださったイエス・キリストにおいて実現しています。
 先ほどいくつか引用しました新約聖書のみことばは、このまことのダビデの子として来てくださったイエス・キリストにおいて、私たちがアブラハムとアブラハムの子孫による祝福にあずかっていることを示しています。

 このようなことの中にあって、ここで注目したいのは、アブラハム、イサク、ヤコブを父祖とするイスラエルの民のことです。
 そのイスラエルの民は、「」の特別な摂理によって、強大な帝国であるエジプトの奴隷の状態にありました。「」はそのイスラエルの民を顧みてくださって、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約に基づいて、エジプトの奴隷の状態から贖い出してくださいました。
 そのために、「」はモーセにご自身を現してくださり、モーセをエジプトの王ファラオの許にお遣わしになりました。その時に「」がご自身をモーセに現してくださったのは「神の山ホレブ」においてでした。そのことを記している出エジプト記3章11節ー12節には、

モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。」

と記されています。
 今お話ししていることとのかかわりで注目したいのは、神さまがモーセに、

 あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。

と言われたことです。この、

 あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。

と言われていることは、出エジプトの贖いの御業の目的を示しています。それは、「神の山ホレブ」、シナイ山において、神さまを礼拝することです。それは、一回限りの礼拝というより、神である「」―― この御名はこの後、13節以下においてモーセに啓示されます―― を礼拝する契約共同体を形成することを意味していると考えられます。
 それで、4章22節ー23節に記されているように、「」はモーセに、

そのとき、あなたはファラオに言わなければならない。はこう言われる。「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もし去らせるのを拒むなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺す。」

と言われました。
 これが出エジプトの贖いの御業の目的ですが、このことは、「」が紅海の水を別けて、イスラエルの民を通らせてくださり、彼らを追撃してきたファラオの軍隊を滅ぼされた後に、モーセとイスラエルの民が「」に歌った歌においても表されています。その後半部分である15章13節には、

 あなたが贖われたこの民を、
 あなたは恵みをもって導き、
 御力をもって、
 あなたの聖なる住まいに伴われた。

と記されており、最後の部分である17節ー18節には、

 あなたは彼らを導き、
 あなたのゆずりの山に植えられる。
 主よ、御住まいのために、
 あなたがお造りになった場所に。
 主よ、あなたの御手が堅く建てた聖所に。
 はとこしえまでも統べ治められる。

と記されています。
 この「あなたのゆずりの山」がどの山であるかについては、見方が分かれています。結論的には、この15章に記されている歌のこの前の部分においては、「」が紅海においてファラオの軍隊を滅ぼされて、イスラエルの民を導いてくださったことが歌われているので、また、先ほど引用したように、「」がモーセをとおしてイスラエルの民をエジプトの地から贖い出してくださったら、シナイ山で「」を礼拝するようにと命じておられることから、第一義的には、シナイ山のことであると考えられます。それによって、「」を神として礼拝する契約共同体が形成されるようになった時から、イスラエルの民はその後の歩みを通して、常に、「」を神として礼拝するようになります。
 その「」を神として礼拝する契約共同体が形成されることの中心には、「」がご臨在してくださる聖所の建設があります。それは、出エジプト記24章1節ー11節に記されていますが、「」は、まず、ご自身がご臨在しておられるシナイ山の麓に宿営しているイスラエルの民と契約を結んでくだいました。そのことに基づいて、「」はモーセに、ご自身がご臨在しておられるシナイ山に登るように命じられました。それで、モーセはシナイ山に登って行き、そこに「四十日四十夜」留まりました(24章18節)。
 25章8節には、「」がモーセに、

彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。幕屋と幕屋のすべての備品は、わたしがあなたに示す型と全く同じように造らなければならない。

と語られたことが記されています。
 この聖所が造られることによって、「」はイスラエルの民の間に住まわれ、イスラエルの民は「」を神として礼拝することができるようになりました。また、この聖所はアブラハム契約に約束されている約束の地であるカナンへの旅を続けるイスラエルの民とともにあり、彼らを導いてくださる「」がご臨在してくださるために幕屋の型に造られています。そして、イスラエルの民は荒野を旅する間、この幕屋を中心として部族ごとに宿営しました。

 このようにして「」を神として礼拝する契約共同体となったイスラエルの民には使命が与えられていました。その使命は、これまでお話ししてきました、「」がアブラハムに約束してくださっていたことで、創世記12章3節に、

 地のすべての部族は、
 あなたによって祝福される。

と記されていることであり、22章18節に、

 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

と記されていることです。
 これまでお話ししたことから分かりますが、アブラハムの子孫として「地のすべての国々」への祝福をもたらすためには、なによりも、自分たち自身が、「」を神として礼拝する契約共同体でなければなりません。
 そのことは、「」が、ことあるごとに「」と「」が遣わされたモーセに対する不信を現したイスラエルの民を、なおも導き続けてくださって、シナイ山にまで連れて来てくださった時のことを記している出エジプト記19章3節ー6節に、

モーセが神のみもとに上って行くと、が山から彼を呼んで言われた。「あなたは、こうヤコブの家に言い、イスラエルの子らに告げよ。『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」

と記されていることに示されています。
 ここでは、

 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら

と言われています。確かに、

 あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる

ということと、

 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。

ということの条件を示しています。
 このことから、「」がシナイ山でイスラエルと結んでくださった契約(シナイ契約)は、律法を守ることを条件としていて、「」が約束を与えてくださったアブラハム契約とは別の種類の契約であると言われることがあります。それには当たっている面があります。確かに、アブラハムとシナイ契約には違いがあります。けれども、そのことから、シナイ契約は律法主義的であると言われることがありますが、それには問題があります。
 どういうことかと言いますと、このことが示されたイスラエルの民は、すでに、「」がアブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約に基づいて「」の契約の民としていただいています。さらに、「」がご自身の一方的な愛と恵みによってエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださり、「鷲の翼に乗せて」ご自身がご臨在されるシナイ山の麓まで導いてくださっています。これによって、「」はご自身がモーセに、

あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。

と言われたことを実現しようとしておられます。
 ですから、

 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら

と言われているのは、そうしたらイスラエルの民がエジプトの奴隷の状態から救い出される―― それが律法主義です―― という意味ではありません。
 さらに、イスラエルの民が「」の御声に聞き従い、「」の契約を守ることの中心にあるのは、申命記6章5節に記されている、

 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、を愛しなさい。

という戒めと、レビ記19章18節に記されている、

 あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。

という戒めに示されていることです。つまり、すでに「」の一方的な愛と恵みによって「」の民としていただいている者として、「」を礼拝することを中心として、「」との愛の交わりのうちに生きることであり、お互いとの愛の交わりに生きることです。そして、そのように、「」との愛の交わりに生きることこそが、愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人のいのちの本質なのです。
 ですから、

 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら

と言われているときの、「」の御声に聞き従うことと、「」の契約を守ることは、愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人がいのちの道を歩むことを意味してしています。
 ここで、

 あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる

と言われているときの「わたしの宝」の「」ということば(セグッラー)は、前回取り上げた、申命記7章6節ー8節に記されている、

あなたは、あなたの神、の聖なる民だからである。あなたの神、は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。しかし、があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。

というみことばに出てきた「ご自分の宝の民」の「」ということば(セグッラー)です。
 「」がご自身の一方的な愛によってイスラエルの民を「ご自分の宝の民」としてくださったことが先にあります。それでイスラエルの民は、この「」の愛を受けている者として「」を神として礼拝することを中心として、「」を愛し、お互いを愛するように招かれ、召されているのです。
 出エジプト記19章6節に記されているように、イスラエルの民はそのように「」と隣人との愛のうちを歩むことによって、「祭司の王国、聖なる国民」となります。そして、そのことによって、
」がアブラハムに、

 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

と約束してくださったことが、イスラエルの民の現実になります。
 これらのことから、イスラエルの民にとって、「」を愛して、神として礼拝することがいかに大切なことであるかが分かります。しかし、実際には、イスラエルの民は、「」がこのことを実現してくださるためにシナイ山においてモーセと語っておられる間に、金の子牛を造って、これを「」ヤハウェであるとして、礼拝しました。このイスラエルの民の不信と背信の深刻さが痛切に感じられます。
 けれども、なんと、そのような時に、神である「」の愛と恵みとまことに満ちた栄光が示されることになりました。このことについては、改めてお話しします。

 最後に、出エジプト記19章5節ー6節に記されている、

今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。

ということが、イエス・キリストにあって私たちの現実になっていることを示しているみことばとして、ペテロの手紙第一・2章9節ー10節をお読みします。

あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。

 私たちは、先ほど引用したガラテヤ人への手紙三章二九節に、

 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

と記されているように、イエス・キリストにあって、アブラハム契約の祝福にあずかって「アブラハムの子孫」としていただいていますし、「アブラハムの子孫」として、このペテロの手紙第一・二章九節ー一〇節に記されているように、アブラハム契約の祝福を担う者として召されています。


【メッセージ】のリストに戻る

「黙示録講解」
(第509回)へ戻る

「黙示録講解」
(第511回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church