本主日も、黙示録2章28節後半に記されている、
勝利を得る者には、わたしは明けの明星を与える。
という、イエス・キリストの約束のみことばと関連することについてのお話を続けます。
今日も、これまでの経緯を省略して、神である「主」に対する「主」の契約の民の不信仰がもたらした絶望的な状態にあって、なお、「主」の主権的で一方的な恵みが示されたことについてのお話を続けます。
今は、出エジプト記32章ー34章に記されている、イスラエルの民が、「主」がご臨在されるシナイ山の麓において、金の子牛を造ってこれを「主」として礼拝した時のことについてお話ししています。
これまで、このことが起こるまでにイスラエルの民がどのようなことを経験してきたかについてお話ししました。いつものように、まずそれを振り返りつつ、必要な補足を加えます。
「主」は、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約に基づいて、モーセを召してくださり、イスラエルの民を奴隷としていた、強大な帝国であるエジプトの王ファラオの許にお遣わしになりました。そして、モーセをとおしてエジプトをおさばきになり、イスラエルの民を奴隷の状態から解放してくださいました。そして、昼は雲の柱に夜は火の柱にあってご臨在されてエジプトを出たイスラエルの民の前を進んでくださいました。
そのように「主」に導いていただいて進んで行ったイスラエルの民は、紅海において自分たちを追撃してきたファラオの軍隊を見て、自分たちをそこまで導いてこられた「主」を信じることなく、モーセに向かって、自分たちをエジプトから連れ出したことは「荒野で死なせるため」だったのかと叫びました。
しかし、「主」は、なおも、雲の柱にあってご臨在され、「エジプトの陣営」と「イスラエルの陣営」の間に入って、両陣営が近づくことがないようにしてくださるとともに、紅海の水を別けて、イスラエルの民を通らせてくださるとともに、自分たちを追撃してきたファラオの軍隊を滅ぼされました。それを見たイスラエルの民は「主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた」と言われています。
さらに、「主」に導かれて紅海を出立したイスラエルの民は、シュルの荒野に入ってから3日間、水が見つかりませんでした。そして、ようやくのことでマラで見つけた水は「苦くて」飲めませんでした。それで、イスラエルの民は、モーセに不平を言いました。この時も、紅海において「主」を信じたと言われていたイスラエルの民は、「主」を信じることはありませんでした。それでも「主」は、モーセをとおして、その水を飲むことができるようにしてくださいました。そして、イスラエルの民に、「主」を信頼して、「主」に聞き従うようにと諭してくださいました。
これに続いて、イスラエルの民がシンの荒野に入ったとき、彼らは、食べる物がないということで、モーセとアロンに「あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている」と不平を言いました。この時にも、イスラエルの民は「主」を信じることなく、出エジプトの贖いの御業が「主」の悪意から出ているとしました。
しかし、それでも「主」は、その日の夕方には「うずらが飛んで来て宿営を」おおうほどにしてくださり、朝になるとマナを降らせてくださっていました。しかも「主」は、この時からイスラエルの民が約束の地に入るまで、変わることなく、毎日、それぞれが一人分のマナにあずかるようにしてくださいました。
前回までお話しできませんでしたので、このマナについて少しお話ししたいと思います。
出エジプト記16章13節ー16節には、
すると、その夕方、うずらが飛んで来て宿営をおおった。また、朝になると、宿営の周り一面に露が降りた。その一面の露が消えると、見よ、荒野の面には薄く細かいもの、地に降りた霜のような細かいものがあった。イスラエルの子らはこれを見て、「これは何だろう」と言い合った。それが何なのかを知らなかったからであった。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として下さったパンだ。
と記されています。ここで、
イスラエルの子らはこれを見て、「これは何だろう」と言い合った。
と言われているときの「これは何だろう」、ヘブル語で「マーン・フー」の「何だろう」が「マーン」です。そして、31節には、
イスラエルの家は、それをマナと名づけた。
と記されていますが、この「マナ」がヘブル語では「マーン」です。つまり、「マナ」は「何だろう」という意味です。そしてその名は、イスラエルの民が「それが何なのかを知らなかったから」ということからつけられた呼び名でした。[注]
[注]この「マーン」が「マナ」と訳されているのは、ヘブル語聖書のギリシア語訳である七十人訳に(出エジプト記16章31節を除いて)「マンナ」と訳されていることによっています。英語ですと「マーン」は「man 」と訳すことになりますが、これでは「男」とか「人」と紛らわしくなるので、七十人訳にしたがって「manna」と訳したとも言われています。
このことを受けて、申命記8章2節ー4節には、
あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。この四十年の間、あなたの衣服はすり切れず、あなたの足は腫れなかった。
と記されています。
これは、荒野のイスラエルの第二世代が約束の地に入るに当たって「主」が契約を更新してくださったときのことを記しています
まず、ここで「あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかった」と言われていることに注目したいと思います。
申命記においては「あなた」は、通常、荒野のイスラエルの民の第二世代だけでなく第一世代をも含みます。それで、この「あなた」は、最初に「主」がマナを与えてくださったときに「これは何だろう」と言った人々も含みます。それで、「あなたの父祖たち」はアブラハム、イサク、ヤコブから連綿と続く人々を意味しています。つまり、このマナは、それまでの歴史の中で誰も知らなかったものであったということです。
これに対して、マナについては、『旧約・新約聖書大事典』(1124頁)に、
マナに関する疑問はF.S.Bodenheimerによって研究され、彼は次のような結論に達した。マナ・タマリクス(Tamarix mannifera)に2種類のカイガラ虫が寄生する。・・・(二種類のカイガラ虫の説明省略)・・・これらのカイガラ虫は春に、幼虫にとって必要な窒素を十分に摂取するために、タマリクスの枝から多量の樹液を吸い、余分な樹液を排出する。これらは丸い露の形で、樹脂化(硬化)した白くて黄ばんだ小さな玉になって地に落ち、その甘味を蟻が求めて集まってくる。化学的分析によると、その成分は葡萄糖、果糖、ペクチンから成っている。これを集める時期は5月末から7月にまで及び、収穫量は雨量によって決まり、雨の多い時期にはシナイ全域で600kgにも達する。・・・マナは昼の暑さで溶けるために朝のうちに集めなければならない。ベドウィンはこの産物をマン(マヌン)と呼び、蜜の代用物として用いている。
という記述があります。このカイガラムシが排出するタマリクスの樹液のことは注解書などにも取り上げられています。
ここに記されている、タマリクスの樹液が硬化したものは、聖書に記されているマナ(ヘブル語・マーン)に似たところがあります。
けれども、違いもいくつかあります。タマリクスの樹液はそれが得られる季節が限られています。けれども、マナはイスラエルの民が荒野を旅する40年の間、季節を問わず、毎日、ずっと与えられました。また、安息日の前の日には次の日(安息日)のために2倍の量が与えられ、安息日には何も与えられませんでした。また、民数記11章7節ー8節には、
マナはコエンドロの種のようで、一見、ベドラハのようであった。民は歩き回ってそれを集め、ひき臼でひくか臼でつき、これを鍋で煮てパン菓子を作った。その味は、油で揚げた菓子のような味であった。
と記されています。マナはこのように臼で挽いたり、ついたりすることができ、鍋で煮て「パン菓子」を作る材料となりますが、タマリクスの樹液が硬化したものはこのようなものではありません。
ですから、「主」がイスラエルの民に与えてくださったマナは、「主」の創造的なお働きによってもたらされたものです。その際に、「主」は奇想天外な物をお与えになったのではなく、すでに自然界に存在していて―― もちろん、それも「主」が創造の御業において造り出されたものです―― 人々が食用にしていた物に似た物で、それよりさらに、イスラエルの民を養ってくださるために必要な栄養素などを含んだものを与えてくださったと考えられます。
先ほど引用した申命記8章2節ー4節では、エジプトを出たイスラエルの民が飢えたことは「主」のみこころによることであったこと、そして、それは「主」が「あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかった」と言われている「マナを食べさせてくださった」ことによって、
人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを
イスラエルの民に「分からせるため」であったことが示されています。
そして、そのことは、イスラエルの父祖たちを初めとして、誰も知らなかった食べ物であるマナを、いわば奇跡的に―― しかし、一時的なものではなく、40年の間1日も欠かすことなく、その意味では、いわば日常的であるかのように―― 備えてくださっていることにおいて最も鮮明に示されていましたが、
あなたの衣服はすり切れず、あなたの足は腫れなかった
と言われているように、ごく日常の必要をも備えてくださっていることに示されています。ですから、
人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということ
は、奇跡的なことが起こるということに限られているのではなく、私たちのごく日常的なことのすべてにおいて当てはまることなのです。
このことを踏まえた上でのことですが、ここに記されていることの中心にあるのは、2節に、
それは、あなたを苦しめて、あなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。
と記されていることとかかわっています。
結論的なことをお話ししますが、私たちが御霊に導いていただいて、みことばに示されている「主」のみこころに従うとき、「主」はそのために必要な力、必要なものを備えてくださるということです。また、たとえそこに私たちの目から見て越えられないと思える困難があっても、このマナのことが示しているように、私たちの思いを越えた備えがあるということです。
「主」はただ私たちにみこころを示して従うように命じられるだけではありません。ご自身がそのみこころを実現してくださるようにと、様々な弱さをもっている私たちのために必要な備えをしてくださいます。
詩篇50篇15節には、
苦難の日に
わたしを呼び求めよ。
わたしはあなたを助け出し
あなたはわたしをあがめる。
と記されています。
このみことばとのかかわりで思い起こすのは、「主」がマナを備えてくださったときのことです。出エジプト記16章11節ー12節には、
主はモーセに告げられた。「わたしはイスラエルの子らの不平を聞いた。彼らに告げよ。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りる。こうしてあなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であることを知る。』」
と記されています。イスラエルの民は「主」への不信を不平をもって表しました。「主」を信じ、信頼して「主」を呼び求めたわけではありません。しかし、そうではあっても、「主」は真実な方であられて、「わたしはイスラエルの子らの不平を聞いた」と記されているように、その不平をも聞いてくださって、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約に基づくご自身の約束―― イスラエルの民を約束の地であるカナンに導き入れてくださること―― を実現してくださるための備えをしてくださいました。
マタイの福音書6章31節ー33節には、
ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
というイエス・キリストの教えが記されていますし、ヨハネの手紙第一・5章14節には、
何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。
と記されています。
また、ピリピ人への手紙2章13節には、
神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。
と記されていますし、1章6節には、
あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。
と記されています。さらに、パウロはテサロニケ人への手紙第二・1章11節において、
どうか私たちの神が、あなたがたを召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現してくださいますように。
と祈っています。
このようにして、真実な「主」は、昼は雲の柱に夜は火の柱にあってご臨在されて、イスラエルの民の前を進んでくださっていることによって、ご自身がイスラエルの民とともにおられて、導いてくださっていることを示してくださるとともに、マナを与えてくださることによって、ご自身が絶えずイスラエルの民を顧みてくださっていることを示してくださっていました。
しかし、これらのことにもかかわらずイスラエルの民の不信はさらに深くなってしまいました。それが、前回取り上げた17章1節ー7節に記されている「レフィディム」において起こったことです。
この「レフィディム」にはイスラエルの民が飲む水がありませんでした。それは、すでにイスラエルの民がシュルの荒野において水が見つからなくて渇いたときに、マラにおいて経験していたことでした。それで、イスラエルの民は、「主」が、マラにおいて、飲むことができなかった水を飲むことができる水に変えてくださったこと、さらには、シンの荒野において、食べるものがなくて飢えたときに。マナを与えてくださったことを思い起こして、「主」に信頼して「主」を呼び求めることができたはずです。
しかし、2節に、
民はモーセと争い、「われわれに飲む水を与えよ」と言った。モーセは彼らに「あなたがたはなぜ私と争うのか。なぜ主を試みるのか」と言った。
と記されているように、イスラエルの民はモーセと「争い」ました。前回お話ししたように、
あなたがたはなぜ私と争うのか。なぜ主を試みるのか
ということばは、イスラエルの民が契約の神である「主」の真実さを疑い、「主」のしもべとしてイスラエルの民の前に立っているモーセを告発していることを意味していると考えられます。
その具体的な告発は、3節に、
いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。
と記されています。そして4節で、モーセが「主」に、
私はこの民をどうすればよいのでしょう。今にも、彼らは私を石で打ち殺そうとしています。
と訴えているように、イスラエルの民は自分たちを「渇きで死なせ」ようとしているとして、モーセに石打ちの刑を執行しようとしているのです。
けれども、真にさばかれるべきなのは不信仰からモーセを告発し、「主」を試みているイスラエルの民です。しかし、5節ー6節には、
主はモーセに言われた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを何人か連れて、あなたがナイル川を打ったあの杖を手に取り、そして行け。さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。」モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりに行った。
と記されています。
民の前を通り、イスラエルの長老たちを何人か連れて、あなたがナイル川を打ったあの杖を手に取り、そして行け。
と言われているときの「ナイル川を打ったあの杖」は、「主」がモーセをとおしてエジプトに対するさばきを執行されたときの最初のさばきに用いられた杖です。モーセがその「杖」でナイルを打つとエジプト中の水が血に変わって、人々は水が飲めなくなりました。ですから、ここでは「主」のさばきが執行されようとしています。「イスラエルの長老たち」はその証人として立てられています。
このとき「主」は、
さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。
と言われました。なんと、「主」ご自身が、「ホレブの岩の上」にお立ちになって、「主」のさばきを執行するモーセの前に立たれるというのです。
実際に、モーセが「主」のさばきを執行するための「杖」で「ホレブの岩」を打ったとき、打たれたのは、その「岩」の上に立っておられた「主」ご自身でした。「主」が、本来は、イスラエルの民が受けなければならないさばきを、ご自身の身に負ってくださったのです。それによって、その「岩」から水が出て、イスラエルの民はそれを飲みました。
このことを受けて、コリント人への手紙第一・10章4節には、このときのイスラエルの民のことが、
みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。
と記されています。
先ほどのことばで言いますと、このとき不信仰からモーセを告発し、「主」を試みているイスラエルの民の「主」に対する不真実は極まりました。しかし、まさにそのときに、「主」の真実が鮮明に示されました。
振り返ってみれば、イスラエルの民はエジプトを出てから、ずっと、「主」に対して不真実でした。これに対して、「主」は常に真実でした。
このことは、また、テモテへの手紙第二・2章13節に記されている、
私たちが真実でなくても、
キリストは常に真実である。
ご自分を否むことができないからである。
というみことばを思い起こさせます。
私たちはしばしば、「主」に対して不真実になることがあります。そうではあっても、「主」は私たちのためにご自身の契約において約束してくださったことを実現してくださいます。テサロニケ人への手紙第一・5章23節ー24節には、
平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。
と記されています。
このように、イスラエルの民はエジプトを出てから、ずっと、「主」に対して不真実でした。これに対して、「主」は常に真実でした。そして、「主」はイスラエルの民をご自身がご臨在されるシナイ山へと導いてくださり、イスラエルの民と契約を結んでくださいました。
そのときのことを記している19章3節ー6節を見てみましょう。そこには、
モーセが神のみもとに上って行くと、主が山から彼を呼んで言われた。「あなたは、こうヤコブの家に言い、イスラエルの子らに告げよ。『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」
と記されています
ここで注目したいのは、ここに記されていることの中心から少し外れますが、「主」がイスラエルの民に語られた、
あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。
というみことばです。
「主」は強大な帝国であったエジプトの奴隷であって、自分たちの力では何もできなかったイスラエルの民を、エジプトから贖い出してくださいました。そのときイスラエルの民は、「主」が自分たちのためになされた数々の力ある御業を目の当たりにしました。しかし、先ほどお話ししましたように、そのイスラエルの民はエジプトを出てから、ずっと、「主」に対して不真実でした。これに対して、「主」は常に真実でした。ところが「主」は、そのことをイスラエルの民に、
あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来た
と言っておられます。
私たちはこのみことばに示されている、真実な「主」がイスラエルの民―― ご自身に対する不信を繰り返し、その不信を極まらせてしまったイスラエルの民――に対して、絶えることなく示された愛と恵みに満ちた御思いの深さに心を揺さぶられます。
その真実な「主」の愛と恵みは、この後の王国の時代になっても、不真実なイスラエルの民に示され続けています。イザヤ書46章3節ー4節には、
ヤコブの家よ、わたしに聞け。
イスラエルの家のすべての残りの者よ。
胎内にいたときから担がれ、
生まれる前から運ばれた者よ。
あなたがたが年をとっても、
わたしは同じようにする。
あなたがたが白髪になっても、
わたしは背負う。
わたしはそうしてきたのだ。
わたしは運ぶ。
背負って救い出す。
と記されています。
さらに、この真実な「主」の愛と恵みは、御子イエス・キリストにあって、この上なく深く豊かに、私たちに示されています。
最後に、先ほど引用しましたテサロニケ人への手紙第一・5章23節ー24節に記されているみことばを、お読みいたします。
平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。
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