黙示録講解

(第503回)


説教日:2022年9月18日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(256)


 本主日も、黙示録2章28節後半に記されている、

 勝利を得る者には、わたしは明けの明星を与える。

という、イエス・キリストの約束のみことばと関連することについてのお話を続けます。
 今日は、これまでの経緯を省略して、神である「」に対する「」の契約の民の不信仰がもたらした絶望的な状態にあって、なお、「」の主権的で一方的な恵みが示されたことについてのお話を続けます。
 今は、出エジプト記32章ー34章に記されている、イスラエルの民が、こともあろうに、「」がご臨在されるシナイ山の麓において、金の子牛を造ってこれを「」として礼拝した時のことについてお話ししています。これまで3回にわたって、それがどのようなことで、どのような意味をもっていたかについてお話ししました。
 前回は、その時に起こったことをまとめるようにして記されている詩篇106篇19節ー23節を引用しました。そこには、

 彼らはホレブで子牛を造り
 鋳物の像を拝んだ。
 こうして彼らは 自分たちの神の栄光を
 草を食らう雄牛の像と取り替えた。
 彼らは 自分たちの救い主である神を忘れた。
 エジプトで大いなることをなさった方を。
 ハムの地で奇しいみわざを
 葦の海のほとりで恐るべきみわざを行われた方を。
 それで神は
 「彼らを根絶やしにする」と言われた。
 もし 神に選ばれた人モーセが
 滅ぼそうとする激しい憤りを収めていただくために
 御前の破れに立たなかったなら
 どうなっていたことか。

と記されています。
 この詩篇106篇は今お話ししていることと同じようなことを記していますので、今日は、これもまた回り道になりますが、詩篇106篇に記されていることについてお話しします。
 今引用した箇所は、イスラエルの民の「」への不信仰と罪を糾弾しています。それは、この箇所だけのことではありません。この箇所(19節ー23節)の前の13節ー18節にも、またこれに続く24節ー39節にも、イスラエルの民が「」を信じ、信頼することなく、繰り返し「」に背き続けた事例がこれほどまでにと思うほど記されています。
 そのことは7節に記されている、

 私たちの先祖はエジプトで
 あなたの奇しいみわざを悟らず
 あなたの豊かな恵みを思い出さず
 かえって海のほとり葦の海で逆らいました。

ということから始まっています。
 イスラエルの民は、「」がエジプトにおいて、イスラエルの民を奴隷としていたエジプトに対するさばきとして行われた数々の「奇しいみわざ」を目の当たりにしていましたが、そのことの意味を悟らず、「」の「豊かな恵み」[「恵み」(ヘセド)の複数形、「数々の恵み」]を思い出すことがありませんでした。それで、ファラオの軍隊が「葦の海」すなわち紅海のほとりにいたイスラエルの民を追いかけてきた時に、大いに恐れて「」にむかって叫び、モーセに、

エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。エジプトであなたに「われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ」と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。

と言いました。
 「」がエジプトにおいてなされた数々の「奇しいみわざ」から、「」がどのような方であるかを理解し、その「奇しいみわざ」に示されていた「豊かな恵み」を思い出していたなら、イスラエルの民は、この危急な時にも、「」に信頼して、「」を待ち望んでいたことでしょう。しかし、イスラエルの民は、そのすべてのことは自分たちを「荒野で死なせるため」のことであったと言いました。それは、それは「豊かな恵み」によることではなく、自分たちを滅ぼそうとする悪意によることだとしているのです。
 ところが、8節には、

 しかし主は 御名のゆえに 彼らを救われた。
 ご自分の力を知らせるために。

と記されています。
 イスラエルの民の不信仰と背きにもかかわらす、「主は 御名のゆえに 彼らを救われた」と言われています。この「御名のゆえに」ということは、出エジプトの贖いの御業にかかわっていると考えられます。
 このこととの意味を考えるために注目したいのは、神さまが出エジプトの贖いの御業を遂行されるようになったときのことです。ここでは二つのことに注目したいと思います。


 第一に注目したいのは、出エジプトの贖いの御業にかかわる神さまの契約のことです。
 出エジプト記2章23節ー24節には、

それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。

と記されています。
 神さまはエジプトで苦役に服しているイスラエルの民のうめきと嘆きと叫びをお聞きになって、「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされ」ました。これは、神さまがそれまで「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を」忘れておられたということではなく、この時、その契約において約束してくださっていたことを実現しようとしておられることを意味しています。
 その契約は、アブラハムのことが記されている創世記12章以下に記されていますが、この場合は、特に、15章に記されていることがかかわっています。
 創世記15章4節ー5節には、「」がそれまで子どもがいなかったアブラハムに、相続人となる子を与えてくださり、アブラハムの子孫が天の星のようになると約束してくださったことが記されています。そして続く6節には、

 アブラムはを信じた。それで、それが彼の義と認められた。

と記されています。
 その後、「」は、その当時の条約を結ぶための儀式に沿って、アブラハムと契約を結んでくださいました。
 その当時の条約は、宗主権条約と呼ばれる条約で、基本的に、宗主国の大王と従属国の王の間で結ばれています。そして、その条約は、その「大王の条約」と呼ばれました。聖書においても、契約は「神の契約」、「『』の契約」と呼ばれており、神さまあるいは神である「」は「わたしの契約」と呼んでおられます。また、条約文の作者も大王でした。そして、その条約は、当然のことですが、基本的には、その大王の益のために結ばれています。それで、その条約を守るための誓い、すなわち忠誠の誓いをするのは従属国の王でした。
 ところが、この時には、13節ー16節に記されているように、「」がアブラハムに、

あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。あなた自身は、平安のうちに先祖のもとに行く。あなたは幸せな晩年を過ごして葬られる。そして、四代目の者たちがここに帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである

と言われて、アブラハムの子孫が異国の地で「四百年の間、奴隷となって苦しめられる」けれども、「」がその国をおさばきになり、「四代目の者たち」(一代が百年を意味しています)が、この時アブラハムが住んでいるカナンの地に帰ってくるということをお示しになり、約束してくださいました。
 さらに、そのことを受けて、続く17節に、

日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた。

と記されています。
 この「切り裂かれた物」は、9節ー10節に記されていることから分かりますが、神である「」がアブラハムに、持ってくるように命じられたものの中の「三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊」のことで、これらをアブラハムが「真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした」ものです。「煙の立つかまどと、燃えているたいまつ」は「」の栄光の顕現(セオファニー)で、そこに「」がご臨在しておられることを示しています。この場合は、「」が「切り裂かれた物の間を通り過ぎ」ましたが、アブラハムはそうしていません。
 そして、続く18節には、

 その日、はアブラムと契約を結んで言われた。

と記されています。この場合の、「契約を結んだ」の「結んだ」ということば(カーラト)は文字通りには「切った」です。
 これは「」がご自身の契約に約束してくださったことを必ず実現してくださることを、いわば、この契約を結ぶ際の儀式において、誓ってくださったことを意味しています。その当時の条約/契約を結ぶ際の儀式においては、切り裂かれた生き物の間を通ることは、その条約に違反した場合には、その条約に規定されているのろいが及ぶようにということを自らが表明することを意味していました。このことは、エレミヤ書34章18節には、

また、わたしの前で結んだ契約のことばを守らず、わたしの契約を破った者たちを、彼らが二つに断ち切ってその二つの間を通った、あの子牛のようにする。

と記されていることにも示されています。また、このことを背景として、あの「契約を切った」という表現が生まれてきたと考えられています。
 先ほどお話ししたように、「大王の条約」は、基本的に、条約の主権者である大王の益のために結ばれています。そして、その契約に従うことを誓うのは従属者です。しかし、この場合の、神である「」の契約は、契約の主権者である「」の益のためではなく、しもべであるアブラハムの祝福のための契約であり、アブラハムではなく、「」が誓っておられます。このことは、その当時の文化の中では、通常、考えられないことです。
 これについては、神である「」が、このように、自らにのろいが及ぶことを懸けて誓うことはありえないのではないかという疑問が出されています。また、その疑問について、ここでは「」が約束してくださったことの確かさを誓っておられるのであって、違反した場合にご自身にのろいが及ぶということを示しているとしなくてもよいという理解もあります。私はここで「」は、それがどんなに、通常、考えられる神である「」にふさわしくないと言えることであるとしても、あえて、その時代の契約を結ぶ際の儀式をお用いになって、アブラハムにご自身が結ばれた契約の約束の確かさを示してくださったと考えています。
 先ほどお話ししたように、そもそも、契約の主権者である「」がそのしもべのために契約を結ぶことも、その約束の確かさを保障してくださるために契約を結んでくださり、「切り裂かれた物の間を通り過ぎた」ということが、通常では、ありえないことでした。
 また、実際、神である「」は私たちご自身の民のために、通常、考えられる神である「」にふさわしくないこと、人や御使いたちの思いをはるかに越えたことをなさいました。神さまは、私たちご自身の民の罪を贖い、「暗闇の力から救い出して」(コロサイ人への手紙1章13節ー14節)くださるために、ご自身の御子をもお遣わしになりました。また、ガラテヤ人への手紙3章13節に、

キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。

と記されているように、御子は私たちのために、ご自身がのろわれた者となられました。ご自身が契約を破ったのではなく、契約を破って、契約ののろいの下にあった私たちのために、私たちに代わって「のろわれた者」となられたのです。これほど、通常、考えられる神である「」にふさわしくないことはありません。
 しかし、これは神である「」が変わってしまったということではありません。これまでも繰り返しお話ししてきましたが、父なる神さまの栄光は、私たちご自身のしもべのために、しかも、ご自身に対して罪を犯して、敵対して歩んでいた者たちのために、十字架におかかりになって、神にのろわれた者となられた御子イエス・キリストにおいてこそ、最も豊かに現されています。その御子イエス・キリストが治めておられるメシアの国としての神の国は、王であり、主であられるメシアが、しもべのためにいのちをお捨てになる国です。そして、このことにおいて、神である「」の栄光が最も豊かに現されているということが、主のみことばが示していることです。
 また、それこそが神である「」の栄光であるということは、初めから変わっていないのです。変わってしまったのは、私たち人間の方です。愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人が、神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、人が考える栄光が、罪が生み出す自己中心性によって、根本的に変質してしまっているのです。

 このことを念頭に置いて、神さまが出エジプトの贖いの御業を遂行されるようになったときのことのことについて、もう一つのことに注目したいと思います。
 神さまがエジプトで苦役に服しているイスラエルの民のうめきと嘆きと叫びをお聞きになって、「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされ」たことは、出エジプト記2章の最後に記されています。これに続く3章には、神さまが「「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約」の約束を実現してくださるために、出エジプトの贖いの御業を遂行されるに当たって、モーセを召してくださって、ご自身の御名をモーセに啓示してくださったことが記されています。
 1節ー10節に記されているように、モーセが羊の群れを導いて「神の山ホレブやって来た」時、「の使い」が燃えている柴の「炎の中で」モーセに現れました(2節)。この「の使い」は、この後は、4節と7節で「」と言い換えられています[注]。

[注]「の使い」という言い方は、文法的には、「」が同格を示す属格で、「使いすなわち」を意味していると考えられます。この「使い」には冠詞(ヘブル語の冠詞は定冠詞)がついています。

 その時、「」は、モーセに、

 わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。

と言われました(6節)。そして、さらに、

わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。

と告げられました。これは、先ほどお話ししました創世記15章において、「」がアブラハムと契約を結んでくださった時に約束してくださったことを実現してくださること意味しています。
 そして、「」はモーセに、

今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。
と仰せになって、モーセをエジプトにお遣わしになりました(10節)。
 そのことを受けて、13節ー15節に記されているように、モーセは神さまに、エジプトにいるイスラエルの民から、神さまの御名は何かと聞かれたときに「何と答えればよいのでしょう」と問いかけました。そのことを受けて、14節ー15節には、

神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。

と記されています。
 ここに記されていることは、すでに何回かお話ししたことですので、結論的なことだけをお話しします。ここには、まず、神さまの御名は、

 わたしは「わたしはある」という者である。

であることが示されています。そして、その後で、この御名が、「わたしはある」に短縮されています、さらに、この「わたしはある」は1人称ですので、厳密に言うと、神さまだけがご自身の御名として使うことができる御名です。それで、ここでは、この「わたしはある」が3人称化されて「」(ヤハウェ)となっています。神さまが「これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。」と言われたのはこの「」(ヤハウェ)という御名のことです。
 ここでは、この「」が先に出てきて、「あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」が同格で続いていて、「」が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であられることが示されています。聖書の中では、「」の契約の祝福は、  わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。
という、「」のみことばに示されています。ですから、「」が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であることは、「」がアブラハムにご自身の契約を結んでくださり、その契約をイサクに、さらにヤコブに受け継がせてくださった神であることを意味しています。そして、このこととの関わりで「」が、

 わたしは「わたしはある」という者である。

という御名の方であられるということは、「」がご自身の契約を守られる方であり、その契約において約束してくださったことを必ず実現してくださることを意味しています。

 神さまの御名である「」、ヤハウェがこのようなことを意味していることを踏まえますと、詩篇106篇8節に、

 しかし主は 御名のゆえに 彼らを救われた。
 ご自分の力を知らせるために。

と記されていることの意味が理解できます。
 繰り返しになりますが、これは、イスラエルの民が、「」がエジプト後でなされた数々の「奇しいみわざを悟らず」、そのことによって示された「豊かな恵みを思い出さ」なかっただけでなく、彼らが出エジプトの贖いの御業が「」の悪意から出ているとするようになったほどの不信仰と背きにもかかわらす、「主は 御名のゆえに 彼らを救われた」ということです。
 「」はアブラハムにご自身の契約を結んでくださり、その契約をイサクに、さらにヤコブに受け継がせてくださった神であられます。その「」はアブラハムと契約を結んでくださったとき、ご自身が「切り裂かれた物の間を通り過ぎ」て、その契約を必ず守られて、約束を実現してくださることを誓われましたが、アブラハムにもそうするように求められませんでした。これによって、そのすべては契約の主権者であられる「」の主権的で一方的な恵みによることを示してくださったのです。
 このように、「」という御名は、神さまが、

 わたしは「わたしはある」という者である。

という御名の方として、変わることなく、ご自身の契約を守られる方であられることを示しています。それで、神である「」が、ご自身の契約を守って、約束を実現してくださることがないとしたら、その御名が汚されることになります。しかし、神である「」はご自身の契約を守られ、たとえ、イスラエルの民が不真実であったとしても、必ず、その約束を実現してくださいます。これが、詩篇106篇8節で、

 主は 御名のゆえに 彼らを救われた

と言われていることです。
 先ほどお話ししましたように、詩篇106篇では、イスラエルの民の不信仰と背きの事例がこれほどまでにと思うほど取り上げられています。中には、37節ー38節に記されている、

 彼らは自分たちの息子と娘を
 悪霊へのいけにえとして献げ
 咎なき者の血を流した。
 彼らの息子や娘たちの血
 それをカナンの偶像のいけにえとした。

というようなことさえあります。
 それらのことが、43節に、

 主は幾たびとなく彼らを救い出されたが
 彼らは相謀って逆らい
 自分たちの不義の中におぼれた。

と言われてまとめられています。しかし、続く44節ー45節には、

 それでも 彼らの叫びを聞いたとき
 主は彼らの苦しみに目を留められた。
 主は彼らのためにご自分の契約を思い起こし
 豊かな恵みにしたがって 彼らをあわれまれた。

と記されています。
 このすべては、「」がご自身の「御名のゆえに」なしてくださったことです。

 詩篇106篇に記されていることでさらに注目したいことがあります。この詩篇は1節に記されている、

 ハレルヤ。
 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。
 その恵みはとこしえまで。

という讃美で始まっており、48節に記されている、

 ほむべきかな イスラエルの神 
 とこしえから とこしえまで。
 民はみな「アーメン」と言え。
 ハレルヤ。

という讃美で結ばれています。
 この讃美は、イスラエルの民の不信仰と背きがこれでもかというほど繰り返されて、そのために、彼らが苦しみを刈り取った中で、なおも、「」が「彼らのためにご自分の契約を思い起こし、豊かな恵みにしたがって 彼らをあわれまれた」ことに現されている「」の「いつくしみ」と「あわれみ」と「恵み」に感謝し、「」を讃えるものです。
 その中で、この詩篇の作者は、6節で、

 私たちは 先祖と同じように罪を犯し
 不義を行い悪を行ってきました。

と告白して、これでもかというほど繰り返されてきたイスラエルの民の不信仰と背きは、また、自分たちの罪でもあることを告白しています。それで、1節と48節に記されている讃美は、この詩篇の作者自身の感謝に満ちた讃美なのです。
 さらに、この詩篇の作者は、イスラエルの民の不信仰と背きがこれでもかというほど繰り返されてきたのに、その都度、「」が「彼らのためにご自分の契約を思い起こし、豊かな恵みにしたがって 彼らをあわれまれた」ことに現されている「」の「いつくしみ」と「あわれみ」と「恵み」を心に刻んで、それを一般的なこととして終わらせないで、4節に記されているように、

 よ あなたが御民を受け入れてくださるときに
 私を心に留め
 あなたの御救いのときに
 私を顧みてください。

と、個人的に、自分自身のこととして祈っています。
 私たちも、聖書のみことばに記されている「」の契約の真実さと確かさの現れとして、「」の民の罪が極まってしまったその時にもなお、「」がご自身の契約によって、「いつくしみ」と「あわれみ」と「恵み」をもって顧みてくださったという証しに触れるとき、それが、彼らと同じように罪深い自分自身に対する「」の主権的で一方的な愛による「いつくしみ」と「あわれみ」と「恵み」でもあることを信じたいと思います。


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