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説教日:2022年9月4日 |
この時のことについてのモーセの回想が、申命記4章10節ー19節に、 あなたがホレブで、あなたの神、主の前に立った日に主は私に言われた。「民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしのことばを聞かせる。それによって、彼らが地上に生きている日の間わたしを恐れることを学び、また彼らがその子どもたちに教えることができるように。」そこであなたがたは近づいて来て、山のふもとに立った。山は燃え上がって火が中天に達し、闇と雲と暗黒があった。主は火の中からあなたがたに語られた。あなたがたは語りかける声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった。主はご自分の契約をあなたがたに告げて、それを行うように命じられた。十のことばである。主はそれを二枚の石の板に書き記された。主はそのとき、あなたがたに掟と定めを教えるように私に命じられた。あなたがたが、渡って行って所有しようとしている地で、それらを行うためであった。あなたがたは自分自身に十分に気をつけなさい。主がホレブで火の中からあなたがたに語られた日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである。堕落して自分たちのために、どのような形の彫像も造らないようにしなさい。男の形も女の形も。地上のどのような動物の形も、空を飛ぶ、翼のあるどのような鳥の形も。地面を這うどのようなものの形も、地の下の水の中にいるどのような魚の形も。また、天に目を上げて、太陽、月、星など天の万象を見るとき、惑わされてそれらを拝み、それらに仕えることのないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、主が天下のあらゆる民に分け与えられたものである。 と記されています。 申命記は荒野のイスラエルの第二世代が、約束の地であるカナンに入ろうとしているときに、「主」がシナイ(ホレブ)において第一世代と結んでくださった契約を更新してくださった時のことを記しています。実際、申命記は、基本的に、その当時の、古代オリエントの条約の形式に沿って記されています。 出エジプトの贖いの御業を経験した第一世代は、「主」がエジプトの奴隷となっていたイスラエルの民を贖い出してくださるためにエジプトの地と紅海においてなされた数々の御業とそれによって現されている「主」の栄光を見ながら、さらには、荒野においてイスラエルの民の渇きをいやし、天からのマナによって養い続けてくださっている「主」の恵みに触れながら、ことあるごとに、「主」への不信を募らせたばかりか、出エジプトの御業さえも、自分たちを荒野で死なせようとしていると言って「主」と「主」が遣わしてくださったモーセとアロンに逆らい続けました。 そして、それは、「主」がイスラエルの民を約束の地であるカナンに導き入れようとされたその時に頂点に達しました(民数記13章ー14章)。 その時、モーセは「主の命により」、カナンの地を偵察するために、イスラエルの12部族の「部族ごとに一人ずつ、族長を」遣わしました(13章1節ー20節)。その偵察を終えて帰って来た族長たちは、ヨシュアとカレブを除いて、 その地に住む民は力が強く、その町々は城壁があって非常に大きく、そのうえ、そこでアナクの子孫を見ました。 と報告し(28節)、 あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちより強い。 と言いました(31節)。 それを聞いたイスラエルの民のことが、14章1節ー4節に、 すると、全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。イスラエルの子らはみな、モーセとアロンに不平を言った。全会衆は彼らに言った。「われわれはエジプトの地で死んでいたらよかった。あるいは、この荒野で死んでいたらよかったのだ。なぜ主は、われわれをこの地に導いて来て、剣に倒れるようにされるのか。妻や子どもは、かすめ奪われてしまう。エジプトに帰るほうが、われわれにとって良くはないか。」そして互いに言った。「さあ、われわれは、かしらを一人立ててエジプトに帰ろう。」 と記されています。そればかりでなく、「主」がともにいてくださるのであるから、その地の民を恐れてはならないと説得したヨシュアとカレブを「石で打ち殺そうと言い出し」ました(6節ー10節)。 彼らは、繰り返し、出エジプトの贖いの御業を「主」の自分たちを荒野で殺そうとする悪意から出ているとしてきたばかりか、ここに至って、約束の地に入れてくださることも同じ悪意から出ているとしているのです。 そのために「主」は疫病によってイスラエルの民を滅ぼし、新しく、モーセから民を興そうとされましたが、この時も、モーセのとりなしを受け入れてくださいました(14章11節ー20節)。しかし、彼ら第一代の者たちは、「主」を信じたヨシュアとカレブ以外はみな、約束の地であるカナンに入ることはできず、40年の間荒野をさまよい、荒野で死に絶えなければならないとされました(21節ー38節)。 申命記2章14節には、 カデシュ・バルネアを出てからゼレデ川を渡るまでの期間は、三十八年であった。それまでに、その世代の戦士たちはみな宿営のうちから絶えてしまっていた。主が彼らについて誓われたとおりであった。 と記されています。「ゼレデ川」は死海の東南東から死海の南端に注ぎ込む川であるとされていて、それを渡るとモアブの平原に入ることになります。「主」はこのモアブの平原でイスラエルの第二世代と契約を結んでくださいました。 年代の上では、民数記10章11節ー12節には、 二年目の第二の月の二十日に、雲があかしの幕屋の上から離れて上った。それでイスラエルの子らはシナイの荒野を旅立った。雲はパランの荒野でとどまった。 と記されており、モーセはその「パランの荒野のカデシュ」から偵察隊を遣わしてカナンの地を探らせました(13章3節、26節)。この「カデシュ」は先ほどの「カデシュ・バルネア」のことです。それは「パランの荒野」にありました。ですから、イスラエルの第二世代の者たちが「ゼレデ川を」渡ったのは、イスラエルがエジプトを出てから40年後のことです。 先ほどの申命記4章10節ー19節に記されているモーセの回想のことばに戻りますが、そこには、注目したいことばがあります。それは、12節に、 主は火の中からあなたがたに語られた。あなたがたは語りかける声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった。 と記されていることです。同じことは、15節に、 あなたがたは自分自身に十分に気をつけなさい。主がホレブで火の中からあなたがたに語られた日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである。 と記されています。このように、ここでは、「主がホレブで火の中から」イスラエルの民に語られた時に、イスラエルの民が「主」の御声を聞いたけれども「御姿は見なかった」ということが繰り返し出てきて強調されています。[注] [注]ここで一つの疑問について触れておきます。 ここでは、「主」は「火の中から」語られたと言われています。これに対して、同じ時のことを記している出エジプト20章22節には、「主」がモーセをとおして、イスラエルの民に、「あなたがた自身、わたしが天からあなたがたに語ったのを見た。」と語っておられます。ここでは、「主」は「天から」語られたと言われています。この違いをどのように考えたらいいのでしょうか。 これについては、このことを「現象」として捉えるか、あるいは、このこのとの「意味」を中心として捉えるかの違いによっていると考えられます。 申命記4章12節では、「主は火の中からあなたがたに語られた。あなたがたは語りかける声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった。」と記されているように、イスラエルの民が「見たこと」と「聞いたこと」が大切なことになっています。ですから、これはその時に起こったことの「現象」に注目しています。この12節に先立って11節には、「そこであなたがたは近づいて来て、山のふもとに立った。山は燃え上がって火が中天に達し、闇と雲と暗黒があった。」と記されています。その「火」は「中天」に達するほどの恐るべき「火」であり、「主」はその「火の中から」語られました。これがどれほど恐るべきことであったかは、同じ申命記5章25節に記されている、「この大きい火は私たちを焼き尽くそうとしています。」というイスラエルの部族のかしらと長老たちのことばから汲み取ることができます。 この時、現象的にはこのようなことが起こっていました。そして、この4章12節と15節に記されていることの論点は、イスラエルの民が「主」の御声を聞いたけれども御姿は見なかったということです。 これに対して、出エジプト20章22節で、「主」は「天から」語られたと言われてことでは、このことの「意味」の方に力点が置かれていると考えられます。どういうことかと言いますと、ここでは、シナイ山にご臨在されてイスラエルの民に語られた「主」は、ただ単に、シナイ山に住む神ではなく、その時に語られた十戒の安息日に関わる第四戒において、「それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。」と言われたように、「天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造」られた方です。その「主」は「天の御座に着いておられる方」(詩篇2篇4節、参照11篇4節、123篇1節)です。ですから、「主」が語られるということは、まさに「天から」語られるということです。そのことが現象的には、申命記4章11節に記されているように、「主」が「中天に」達するほどの火の中から語られたということに示されていたと考えられます。 (申命記4章で)さらに注目したいのは、そのことを受けて続いて語られていることです。 最初の12節に続く13節には、 主はご自分の契約をあなたがたに告げて、それを行うように命じられた。十のことばである。主はそれを二枚の石の板に書き記された。 と記されています。 ここでは、「主」がイスラエルの民に語られたのは「十のことば」であると言われてます。この「十のことば」は十戒のことです。そして、ここでは、十戒が「主」の契約と同一視されています。実際、古代オリエントの条約においては、条約文書と条約は同一視されていました。条約文書を破棄することは、条約を破棄することを意味していました。また、古代オリエントの条約においては、条約文書を2通作成して、条約の当事者双方がそれぞれの神殿の聖所に納めていました。それで、ここでは「主」が「十のことば」すなわち十戒を「二枚の石の板に書き記された」と言われています。言うまでもなく、「主」とイスラエルの場合には、聖所は一つですので、十戒を記した2枚の石の板は、至聖所にあった契約の箱に納めました(出エジプト記25章21節)。 このことを踏まえて、12節に、 主は火の中からあなたがたに語られた。あなたがたは語りかける声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった。 と記されていることを考えますと、これは、先ほど取り上げました、出エジプト記20章1節ー17節に記されている、「主」ご自身がイスラエルの民に十戒のことばを語られた時のことと符合しています。 その時、イスラエルの民は非常に恐れ、それ以上「主」ご自身が語られるなら自分たちは死んでしまうと、モーセに言いました。そのことを受けて「主」はモーセに、 あなたはイスラエルの子らにこう言わなければならない。あなたがた自身、わたしが天からあなたがたに語ったのを見た。あなたがたは、わたしと並べて銀の神々を造ってはならない。また自分のために、金の神々も造ってはならない。 と言われました。ここでは、「主」ご自身が語られたことを受けて、十戒の第一戒と第二戒を守るべきことが示されていました。 申命記4章12節ー13節にも、これと実質的に同じことが記されています。12節には、 主は火の中からあなたがたに語られた。あなたがたは語りかける声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった。 と記されていました。 私たちは誰かの声を聞くと、その人が部屋の外にいて見えないとしても、そこにその人がいることが分かります。同じように、「主」の御声を聞いたイスラエルの民には、そこに「主」がご臨在しておられることが分かりました。しかも、その「主」の御声は、それを聞いたイスラエルの民にとって、自分たちが死んでしまうと直感したほどリアル(現実的)なものでした。そのようにして示された「主」の御臨在は、イスラエルの民にとって死を直感させるほど恐ろしい現実でした。しかし、「主」の御姿は見えませんでした。このことが、「主」の御姿を表す像を造ってはならないという戒め――これが十戒の第二戒の主旨です――につながっています。 そのことをより明確に示しているのは、もう一つの、15節に、 あなたがたは自分自身に十分に気をつけなさい。主がホレブで火の中からあなたがたに語られた日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである。 と記されていることに続いて16節ー19節に、 堕落して自分たちのために、どのような形の彫像も造らないようにしなさい。男の形も女の形も。地上のどのような動物の形も、空を飛ぶ、翼のあるどのような鳥の形も。地面を這うどのようなものの形も、地の下の水の中にいるどのような魚の形も。また、天に目を上げて、太陽、月、星など天の万象を見るとき、惑わされてそれらを拝み、それらに仕えることのないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、主が天下のあらゆる民に分け与えられたものである。 と記されていることです。 古代オリエントの文化の中では、ここに挙げられているものの像が神々の姿として造られていました(ただし、魚は、通常、神々を表すものとして造られてはいなかったという見方もあります)。 特に、最後に上げられている「太陽、月、星など天の万象」は神々として礼拝の対象となっていました。それで、申命記4章16節ー19節では、「男と女」、「動物」、「鳥」、「這うもの」、「魚」については、その「形の彫像」を造ってはならないとされているのに対して、「太陽、月、星など天の万象」については、それを見るときに惑わされて、それらを拝んだり、仕えたりしてはならないと戒められています。 これは、荒野の第二世代に対する戒めです。民数記14章29節には、 この荒野におまえたちは、屍をさらす。わたしに不平を言った者で、二十歳以上の、登録され数えられた者たち全員である。 と記されています。第二世代の人々は、最も年上でも、エジプトを出た時、20歳そこそこの人々です。その人々でも荒野を40年もの間さまよっています。幼い時エジプトを出た人々は荒野で育ちました。さらに、荒野で生まれて育った人々もいました。ヨシュア記5章5節には、 エジプトを出てから途中で荒野で生まれた民はみな、割礼を受けていなかった。 と記されています。荒野で死に絶えた第一世代の人々は、「主」がアブラハムに与えてくださった契約――それは約束の地に関する契約です――をないがしろにしていました。それでヨシュアは、この時、彼らに割礼を受けさせています。 40年近く荒野をさまよっていた人々が、カナンの地に定住して文化・文明を発展させている民と接するようになる時、その文化・文明の中核にある神々に引きつけられる危険は大きかったのです。実際、ダビデによってイスラエルの統一王国が建設された後のダビデの子たちでも、知恵ある者として知られ、最も栄えたダビデの子ソロモンでさえも、晩年になって、外国からめとった多くの妻たちが持ち込んできた偶像の神々に心を向けるようになりました。列王記第一・11章5節には、 ソロモンは、シドン人の女神アシュタロテと、アンモン人の、あの忌むべき神ミルコムに従った。 と記されており、7節には、 当時ソロモンは、モアブの忌むべきケモシュのために、エルサレムの東にある山の上に高き所を築いた。アンモン人の、忌むべきモレクのためにも、そうした。 と記されています。そのため、「主」の御怒りによって、イスラエルはソロモンの死後、北王国イスラエルと南王国ユダに分裂することになってしまいました。 知恵ある者として知られ、最も栄えた王国を建設したソロモンでさえこうでした。まして、長いこと荒野での生活をしてきた荒野のイスラエル第二世代の人々にとってどうであったかは容易に想像できます。 申命記4章16節ー19節に記されていることをもう一度引用しますと、 堕落して自分たちのために、どのような形の彫像も造らないようにしなさい。男の形も女の形も。地上のどのような動物の形も、空を飛ぶ、翼のあるどのような鳥の形も。地面を這うどのようなものの形も、地の下の水の中にいるどのような魚の形も。また、天に目を上げて、太陽、月、星など天の万象を見るとき、惑わされてそれらを拝み、それらに仕えることのないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、主が天下のあらゆる民に分け与えられたものである。 となっています。 ここに記されていることは、創世記1章14節ー27節に記されている天地創造の御業を背景としています。 まず、注目したいのは、取り上げられているものの順序です。創世記1章に記されている創造の御業の記事においては、14節ー19節に「太陽、月、星などの天体」のこと、20節ー23節に「水に群がる生き物と鳥」のこと、24節ー25節に「地の獣、家畜、這うもの」のこと、そして、26節ー27節には「男と女に造られた人」のことが記されています。申命記4章16節ー19節に記されていることでは、この順序が逆になっています。その理由は、先ほど触れたように、「太陽、月、星など天の万象」は、特に、礼拝の対象となっていたので、最後に、最も由々しきこととして戒めるためのことであると考えられます。 さらに、このように、神さまの天地創造の御業に触れながら、この戒めを与えてくださることによって、荒野の第二世代の人々に大切なことを教えてくださっています。それは、やがて、荒野の第二世代の人々が接するようになるカナンの地の文化・文明の中核にあって神々として祀られ、拝まれているものは、すべて、自分たちを最強の帝国の一つであるエジプトから贖い出してくださった契約の神である「主」、ヤハウェが創造の御業によってお造りになったものであるということを教えてくださっているということです。 この戒めの最後には、 また、天に目を上げて、太陽、月、星など天の万象を見るとき、惑わされてそれらを拝み、それらに仕えることのないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、主が天下のあらゆる民に分け与えられたものである。 と記されています。 最後に、 それらのものは、あなたの神、主が天下のあらゆる民に分け与えられたものである。 と言われていることは、「主」が人々に「太陽、月、星など」を拝むように与えられたという意味ではありません。古代オリエントの文化・文明の中で、人々が「男と女」、「動物」、「鳥」、「這うもの」、「魚」などの形の偶像を造っていたのも、「太陽、月、星など天の万象」を神々として拝み、仕えていたのも、それらがすべて、人の知恵と力を無限に越えた神である「主」、ヤハウェの御手の作品であるので、この上なくすばらしいものであるからです。神である「主」はこれらのものを「天下のあらゆる民に分け与えられ」、すべての人がご自身の御手の作品に触れることができるようにしてくださっています。 人はその壮大さにも、微細さにも、また、いのちの営みの多様性と不思議さにも、引きつけられてしまいます。そして、それらは、すべて「主」の御手の作品ですので、当然のことです。 ただ、神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人々は、古代オリエントに限らず、いつの時代でも、どの文化・文明にあっても、これらのものになぞらえて神々のことを考えてしまったり、それらを神として拝んだり、仕えたりしてしまいます。 私たちもかつてはそのような者でした。ただ、私たちは、神である「主」が一方的な愛と恵みによって遣わしてくださった御子イエス・キリストによって罪を贖っていただいて、神である「主」との愛にあるいのちの交わりに生きる者としていただいています。それによって、私たちは、詩篇19篇1節に、 天は神の栄光を語り告げ 大空は御手のわざを告げ知らせる。 と記されていこと、また、104篇24節に、 主よ あなたのみわざはなんと多いことでしょう。 あなたは知恵をもってそれらをみな造られました。 地は あなたのもので満ちています。 と記されていることを私たち自身の告白としています。そして、これらすべてをお造りになった神である「主」の優れた知恵と御力に驚くとともに、御子をも賜った愛と恵みの豊かさに身を低くして、その愛と恵みにお応えしつつ、「主」を神として礼拝することができるようになりました。 |
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