黙示録講解

(第501回)


説教日:2022年8月7日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(254)


 本主日も、黙示録2章28節後半に記されている、

 勝利を得る者には、わたしは明けの明星を与える。

という、イエス・キリストの約束のみことばと関連することについてのお話を続けます。
 このイエス・キリストが与えてくださると約束してくださっている「明けの明星」は、基本的に、黙示録22章16節後半に記されている、

 わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。

というイエス・キリストのみことばとかかわっています。それで、これまで、22章16節で、イエス・キリストがご自身のことを「輝く明けの明星である」と言われたことに先立って、ご自身のことを「ダビデの根、また子孫」であると証ししておられることに注目して、「ダビデの根、また子孫」についてお話ししました。
 イエス・キリストが「ダビデの根」であられることは、イザヤ書11章1節ー10節に記されている預言のことばを受けています。
 この11章1節ー10節に記されている預言のことばは、イザヤが遣わされた南王国ユダの絶望的な状態を指し示しながら、なおも、「」がご自身の主権的で一方的な恵みによって「エッサイの根株」から生える「新芽」、「若枝」である方のことを約束してくださったものです。
 このことと関連して、イザヤ書の枠を越えてより広く、神である「」に対する「」の契約の民の不信仰がもたらした絶望的な状態にあって、なお、」の主権的で一方的な恵みが示されたことを歴史的にさかのぼっていくと、創世記3章15節に記されている「最初の福音」が与えられたことに行き着きます。それで、まず、「最初の福音」が与えられるようになった経緯についてお話ししました。
 そして、前回は、もう一つの事例として、出エジプト記32章ー34章に記されている、「」がご臨在されるシナイ山の麓に宿営していたイスラエルの民が、金の子牛を造ってこれを「」として礼拝した時のことについてのお話を始めました。
 今日は、前回のお話の最後に予告したこととは異なりますし、少し回り道になりますが、前回お話ししたことを補足するお話をしたいと思います。
 出エジプト記2章23節後半ー24節に、

イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。

と記されているように、神さまはエジプトの奴隷となってしまっているイスラエルの民のうめきと叫びをお聞きになって、アブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約を思い起こされました。これは、神さまがアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を忘れておられたけれど、この時に思い起こされたということではなく、神さまがその契約を実現される時がきたということを意味しています。
 その契約は、創世記15章に記されている、相続人としてのアブラハムの子孫に関する契約です。
 そこでは、まず、相続人としてのアブラハムの子孫は、アブラハム自身から生まれてくる者たちであり、彼らが天の星のように多くなるということが約束されています。そして、アブラハムがそのことを約束してくださった「」を信じたので、「」はアブラハムを義と認めてくださったことが記されています(4節ー6節)。
 そして、これに続いて、その相続人としてのアブラハムの子孫が、この時アブラハムが住んでいるカナンの地を所有するようになるということが約束されています。その時に「」がアブラハムに語られたことが13節ー16節に、

あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。あなた自身は、平安のうちに先祖のもとに行く。あなたは幸せな晩年を過ごして葬られる。そして、四代目の者たちがここに帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。

と記されています。
 この「」がアブラハムに語られたことについては後ほど取り上げますが、その前に注目したいのは、この時、「」が、その当時の契約締結の儀式にしたがって、アブラハムと契約を結んでくださったということです。
 9節ー10節に記されているとおり、アブラハムは、「」が言われたとおり「三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩のひなを」もってきて、雌牛と雌山羊と雄羊を「真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせに」しました。これは、その当時の契約締結の儀式において、契約を結んだ者たちが「真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせに」した生き物たちの間を通ることによって、もしその契約を破るなら、その契約ののろいが自分に及んで、この切り裂かれた生き物のようになるようにという意味での誓いをすることです。
 この契約は「」がアブラハムと結んでくださったものですから、「」とアブラハムが、切り裂かれた生き物の間を通ることが期待されます。しかし、この時は、17節に、

日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた

と記されているように、「」の栄光の顕現(セオファニー)である「煙の立つかまどと、燃えているたいまつ」だけが「切り裂かれた物の間を通り過ぎ」ました。アブラハムはこの切り裂かれた生き物の間を通らなかったのです。これは「」が主権的で一方的な愛と恵みによって、この契約の約束を、必ず実現してくださることを、ご自身にかけて誓ってくださったということを意味しています。
 それではアブラハムには何が求められていたのでしょうか。それは、ただ、この「」と「」がその一方的な愛と恵みによって与えてくださった、相続人としてのアブラハムの子孫に関する約束を信じることでした。実際に、アブラハムは、これに先立って、相続人としてのアブラハムの子孫に関する約束を与えてくださった「」を信じて、義と認めていただいていました。そして、アブラハムはその後も、ずっと、「」と「」の約束を信じ続けました。
 みことばに記されていることに基づいて、この約束にかかわるアブラハムの年代を見てみましょう。
 アブラハムが召命と約束を受けて、「」が示される地に旅立ったのは、アブラハムが75歳の時です(12章4節)。
 15章に記されている、相続人としてのアブラハムの子孫についての約束が与えられた時がいつであったかは正確には分かりませんが、推測することができます。アブラハムが、この約束が与えられたことを受けて、「不妊の女」であった(11章30節)妻サラの勧めにしたがって、サラの女奴隷であったハガルによって子を生もうとした時は「アブラムがカナンの地に住んでから十年後」(16章3節)でしたから、85歳の時でした。そして、イシュマエルが生まれた時、アブラハムは86歳(16章16節)でした。このことから、「」がアブラハムに相続人としての子孫の約束を与えてくださったのは、アブラハムが85歳の時であった可能性が高いと考えられます。
 そして、「」がアブラハムとサラに男の子を与えてくださると約束してくださったのは、アブラハムが99歳、サラが89歳の時でした(17章1節、24節)。ちなみに、このことは、17章1節ー14節に記されている「」がアブラハムとその子孫との契約を結んでくださったことに続いて、「」が語られたことです。
 そして、実際に、イサクが生まれた時、アブラハムは100歳(21章5節)でした。
 ですから、アブラハムが召命と約束を受けて、「」が示される地に旅立った時から、10年後に、「」がアブラハムに相続人としての子孫と約束の地を与えてくださると約束してくださいました。そして、それから15年経ってから、約束の子であるイサクが生まれています。その間、アブラハムは相続人としてのアブラハムの子孫についての約束を与えてくださった「」とその約束を信じ続けました。
 ローマ人への手紙4章19節ー22節には、

彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです。

と記されているとおりです。
 しかし、ここ、ローマ人への手紙4章19節ー22節に記されていることに関しては疑問もあります。
 まず、アブラハムはハガルによって自分の子を生もうとしましたし、実際に、イシュマエルを生みました。このことをどう考えたらいいのでしょうか。
 しかし、それもアブラハムとサラが「」の約束を自分たちなりに信じたことの現れです。「」のみこころが「不妊の女」であるサラから相続人としてのアブラハムの子孫が生まれることにあるということは、人の想像をはるかに越えたことでしたから、アブラハムやサラにも思いもよらないことでした。
 そのことはそのように考えられますが、さらなる疑問があります。
 アブラハムが99歳、サラが89歳の時に、神さまがサラから男の子が生まれることを告げられた時、アブラハムは、

百歳の者に子が生まれるだろうか。サラにしても、九十歳の女が子を産めるだろうか。

と考えて、神さまに、

 どうか、イシュマエルが御前で生きますように。

と言いました(17章17節ー18節)。このことをどう考えたらいいのでしょうか。
 このアブラハムには、もはや、15章に記されている、14年前のアブラハムの子孫についての約束を受けた時の信仰は見られないとする見方があります(e.g., Hmilton, p.478)。
 この時、神さまは、より明確に、アブラハムに、

いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼と、わたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。

と言われました。まだサラが身ごもる前に、「男の子」が生まれることと、その名をイサクと名づけるようにとまで言われたのです。
 これをアブラハムに対する叱責であるとする見方もあります(Wenham, vol.2, p.26)。
 しかし、この時には、サラは「不妊の女」であるだけでなく、「女の月のものがもう止まって」いました(18章11節)。神さまはこれらすべてのことをご存知です――このことが14年前よりはるかに人の想像を越えたことになっていることも、この時までの14年の経過が人にとってどれほどの重みをもっているかということも、また、アブラハムにも限界があり、アブラハムなりにしか理解できないことも、すべてご存知です。
 このようなことを踏まえると、これは、アブラハムの不信仰を示しているとか、アブラハムを叱責することばであるというより、アブラハムに信仰があるからこそ語られたことばであり、アブラハムの信仰をさらに支え、導くことばであったと考えられます。
 確かに、アブラハムは神さまに、

 どうか、イシュマエルが御前で生きますように。

と言いました。このことばは、アブラハムの不信仰の現れのようにも見えます。しかし、もしこのことばがアブラハムの不信仰の現れであるのであれば、神さまはそのことばを退けられたのではないでしょうか。けれども実際には、神さまはこのアブラハムの願いを受け入れてくださって、アブラハムに、

イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。必ず、わたしは彼を祝福し、子孫に富ませ、大いに増やす。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民とする。

とに告げておられます(20節)。
 そして、その上で、だめを押すかのように、

しかし、わたしがわたしの契約を立てるのは、サラが来年の今ごろあなたに産むイサクとの間にである。

と告げておられます(21節)。
 さらに、これらのより明確で具体的な神さまの約束のみことばを聞いた後、アブラハムは、神さまがアブラハムに告げられたとおり、アブラハムの家のすべての男子に契約のしるしとしての割礼を施しました。このことも、アブラハムが神さまの約束を信じたからこそのことであることを暗示しています。
 これらのことを踏まえますと、先ほど引用しましたローマ人への手紙4章19節ー22節に記されている、

彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです。

というみことばは、アブラハムの信仰は完璧なものであり、そこに何の揺れもなかったということを意味しているのではないことが分かります。むしろ、神さまがアブラハムを導いてくださり、その信仰を支えてくださって、より困難な状況においてさらに強くしてくださっていたからこそ、このように言われていると考えられます。
 14年前に、相続人としてのアブラハムの子孫についての約束を与えてくださった「」は、あの契約締結の儀式において、ご自身が引き裂かれた生き物たちの間を通り過ぎて行かれました。それによって、この契約の約束を必ず実現してくださることを、ご自身にかけて誓ってくださいました。その「」が、ご自身の契約に対して真実であられ、その後の14年の間、アブラハムの信仰を支え続けてくださり、より困難な状況になっていっても、かえってその信仰を強くしてくださっていたと考えられます。
 実際、ここでは、アブラハムについて、

かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。

と言われています。ここで「かえって信仰が強められ」と言われているときの受動態は、隠れている主語が神さまであることを示す、いわゆる神的受動態で、アブラハムの信仰を強めてくださった方が神さまであることを示しています。それで、アブラハムは自分の信仰を誇るのではなく、神さまに栄光を帰していました。
 このことは、私たちにも当てはまります。自らのうちになおも罪の性質を宿している私たちが、この世にあって、どうして、「」を信じ続けることができるのでしょうか。それは、ひとえに、「」がご自身の契約に真実であられて、私たちご自身の民に約束してくださったことを実現してくださっているからです。私たちは「」を信じています。それは、「」が私たちを御霊によって、御子イエス・キリストと一つに結び合わせてくださり、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずからせてくださって、新しく生まれさせてくださり、福音のみことばにあかしされているイエス・キリストを信じるようにしてくださったからですし、その私たちの信仰を支え続けてくださっているからです。コリント人への手紙第二・2章4節ー5節において、パウロは、

私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。

とあかししています。


 これらのこととともに、ここで、先ほど引用しました創世記15章13節ー16節に記されている、

あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。あなた自身は、平安のうちに先祖のもとに行く。あなたは幸せな晩年を過ごして葬られる。そして、四代目の者たちがここに帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。

という「」がアブラハムに語られたみことばとかかわることにも触れておきます。
 相続人としてのアブラハムの子孫がエジプトの地で奴隷となって苦しめられていたことは、神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまい、「背きと罪の中に死んで」いる(エペソ人への手紙2章1節)人が、「暗闇の力」(コロサイ人への手紙1章13節)[この場合の「」(エクスースィア)は「権威」、「権力」を意味しています]によって支配されていた状態を指し示している「地上的なひな型」としての意味をもっていました。
 「」はそのエジプトに対してさばきを執行され、相続人としてのアブラハムの子孫をエジプトから贖い出してくださいました。それは、すでに、私たちの間で実現しています。コロサイ人への手紙1章13節ー14節に、

御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

と記されているとおりです。一般には、ここに記されていることの背景に、出エジプトの贖いの御業があることが認められています。それとは別の見方もありますが、私はそれには問題があると考えています。
 また、創世記15章16節には、

そして、四代目の者たちがここに帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。

と記されています。
 エジプトから贖い出された相続人としてのアブラハムの子孫がカナンの地に帰ってくるのは、「」がアブラハムに約束してくださったカナンの地を相続財産として受け継ぐようになるためですが、それにはもう一つの面がありました。それは、「」が「その時までに満ちる」ようになる「アモリ人の咎」を、イスラエルの民をとおしておさばきになるということです。この場合の「アモリ人」は、カナンの地の民を代表的に表しています。
 この約束の地としてのカナンの地は、やがて、「」の契約の民が受け継ぐようになる新しい天と新しい地を指し示す「地上的なひな型」でした。そのことは、ヘブル人への手紙11章8節ー16節に、

信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都の設計者、また建設者は神です。アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。こういうわけで、一人の、しかも死んだも同然の人から、天の星のように、また海辺の数えきれない砂のように数多くの子孫が生まれたのです。
 これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。

と記されていることから分かります。
 アブラハムは「信仰によって」「約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活を」したと言われています。それは、アブラハムが人の手によって建てられた都ではなく、神さまが設計者であり建設者である「堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたから」であると言われています。そして、その都は「天の故郷」にあると言われています。
 これらのことを踏まえた上で、さらに一つのことに触れておきます。
 「」がエジプトに対してさばきを執行され、イスラエルの民をエジプトから贖い出されたことと、エジプトから贖い出されたイスラエルの民をとおして、カナンの地の民へのさばきを執行されることは、ともに、創世記3章15節に、

 わたしは敵意を、おまえと女の間に、
 おまえの子孫と女の子孫の間に置く。
 彼はおまえの頭を打ち、
 おまえは彼のかかとを打つ。

と記されている「最初の福音」に示されていることにつながっています。
 「最初の福音」は、暗闇の主権者であるサタンに対する神である「」のさばきの宣告です。そして、「女」と「女の子孫」は、霊的な戦いにおいて、神である「」が置いてくださった「敵意」によって、神である「」の側に立ようになることによって救われることが示されています。
 このことが「最初の福音」において示されているということは、神である「」が約束の贖い主をとおして遂行される贖いの御業には、一貫して、人の罪に対するさばきが伴っているということを意味しています。そのことは、最終的には、終わりの日に栄光のキリストが再臨されて、すべての人の罪をおさばきになって、罪を清算してから、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、新しい天と新しい地を再創造されることにおいて実現します。
 それは終わりの日において最終的に実現することですが、同時に、それはすでに私たちの間で、原理的・実質的に実現しています。なぜなら、私たちの罪に対する最終的なさばきは、すでに、御子イエス・キリストが十字架において私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わってすべて受けてくださったことにおいて執行されていて終わっているからです。そればかりでなく、私たちは十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことへの報いとして、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたイエス・キリストと、御霊によって一つに結び合わせていただいて、新しく生まれているからです。
 コリント人への手紙第二・5章17節に、

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

と記されているとおり、私たちは「新しく造られた者です」。
 これを「」がアブラハムに与えてくださった契約の約束とのかかわりで見ると、ガラテヤ人への手紙3章29節に、

あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

と記されているとおり、私たちは相続人としてのアブラハムの子孫です。そして、私たちが受け継ぐようになる相続財産は、先ほどお話しした、アブラハムが信仰によって、待ち望んでいた「天の故郷」にある、神さまが設計者であり建設者である「堅い基礎の上に建てられた都」です。
 しかし、私たち「」の契約の民が受け継ぐ相続財産の中心は、その「堅い基礎の上に建てられた都」にご臨在される「」ご自身です。みことばは、一貫して、神である「」こそが「割り当ての地」すなわち相続財産であることを示しています。代表的なみことばである詩篇73篇25節ー26節には、

 あなたのほかに
 天では 私にだれがいるでしょう。
 地では 私はだれをも望みません。
 この身も心も尽き果てるでしょう。
 しかし 神は私の心の岩
 とこしえに私が受ける割り当ての地。

と記されています。そして、それは、私たちの間では、ガラテヤ人への手紙4章6節に、

あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

と記されている、「御子の御霊」による、父なる神さまとの親しい愛の交わりにおいて、すでに、私たちの間での実質的な現実となっています。


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