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説教日:2022年7月17日 |
神さまに対する人の不信仰がもたらした絶望的な状態にあって、なお、これらの預言としての約束が与えられたことは「歴史的により近いこととして」取り上げたことです。今日は、そのことの、歴史的により遠いことについてお話ししたいと思います。 これを歴史的にさかのぼっていきますと、創世記3章15節に記されている、 わたしは敵意を、おまえと女の間に、 おまえの子孫と女の子孫の間に置く。 彼はおまえの頭を打ち、 おまえは彼のかかとを打つ。 という「最初の福音」が与えられたことに行き着きます。 「最初の福音」についてはこれまで繰り返しお話ししてきましたが、今日は、この「最初の福音」が示されるに至った経緯に注目したいと思います。 創世記2章7節には、 神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。 と記されています。 ここに出てくる「神である主」(ヤハウェ・エローヒーム)という御名は、固有名詞としての神さまの御名である「ヤハウェ」(新改訳では太字の「主」で表されています)と総称的な御名(属名)である「エローヒーム」(「神」)の組み合わせです。 「ヤハウェ」という御名は、出エジプト記3章14節ー15節に、 神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。 と記されているように、神さまがモーセに啓示してくださったものです。 ここで神さまは、まず、 わたしは「わたしはある。」という者である。 と言われましたが、これが神さまの御名です。これは、存在を強調する御名で、神さまが永遠にまたご自身で存在しておられる方であられること、さらに、お造りになったすべてのものを存在させておられる方として、すべてのものの存在の根拠であり、支えであられることを示していると考えられます。 14節後半では、この御名が「わたしはある」に短縮されています。ここで「『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた」と言われているときの「『わたしはある』という方」は、文字通りには「わたしはある」で「という方」は新改訳の補足です。 そして、15節で、 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた と言われていることでは、「わたしはある」が3人称化されて「主」(ヤハウェ)となっています。そして、神である「主」が、 これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。 と言われたのは、この「主」(ヤハウェ)のことです。 ここで、 あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主 と言われていることは、ヘブル語の順序では「主」が先に出てきます。そして、これに、「主」を説明する「あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」が続いています。 このことから、「主」はアブラハムと契約を結んでくださって「アブラハムの神」となってくださり、さらにその契約をイサクとヤコブに受け継がせてくださって、「イサクの神、ヤコブの神」となってくださった神、すなわち、契約の神であられること、さらには、ご自身の契約に約束されたことを必ず実現してくださる方であるということが示されています。 また、「ヤハウェ・エローヒーム」という御名の「エローヒーム」は、先ほど触れたように、総称的な御名ですが、これは1章1節ー2章3節に記されている創造の御業の記事に用いられている御名です。 そして、「ヤハウェ・エローヒーム」という順序から、この「ヤハウェ・エローヒーム」は「ヤハウェはエローヒームである」ということを意味していると考えられます。新改訳の「神である主」という訳は、このことを反映しています。 これを、創世記2章に記されている記事に当てはめますと、ご自身の契約に基づいてこの「地」にご臨在してくださり、人と親しく向き合って、人の鼻に「いのちの息」を吹き込んでくださったヤハウェ、また、人をご自身の御前に住まわせてくださり、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生かしてくださっておられるヤハウェは、天地創造の御業を遂行されたエローヒームである、ということを意味していることになります。 この世界のすべてのものの創造者であられ、無限、永遠、不変の栄光の神であられる「主」が、無限に身を低くしてこの「地」にご臨在してくださって、「大地のちりで人を形造」られ、その人と親しく向き合ってくださって「その鼻にいのちの息を吹き込まれ」ました。それによって「人は生きるものとなった」のです。 このことは、人にとっての最初の事実は、自分が神である「主」の御臨在の御前にあるということ、神である「主」が自分とともにいてくださるということであったということを意味しています。 このすべては、神さまの主権的で、一方的な愛と恵みによることです。そして、愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人のいのちの本質は、この契約の神である「主」、ヤハウェとの愛の交わりに生きることにあります。 また、無限、永遠、不変の栄光の神であられる「主」が、無限に身を低くしてこの「地」にご臨在してくださること、特に、神のかたちとして造られている人の間にご臨在してくださり、人がご自身との愛の交わりに生きることができるようにしてくださっていることは、「主」ご自身の契約に基づいています。 2章7節に続いて、8節には、 神である主は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。 と記されています。この「エデンの園」は、神である「主」が「設け」(直訳「植え」)てくださったもので、聖書の他の箇所では「主の園」(創世記13章10節、イザヤ書51章3節)や、「神の園」(エゼキエル書28章13節、31章8節ー9節)と呼ばれています。 このことは、「エデンの園」は、神である「主」がそこに人を置かれるために設けられたものですが、それ以上に、神である「主」がそこにご臨在されるためのものであることを意味しています。そして、神である「主」がそこにご臨在されるのは、ひとえにご自身の愛を神のかたちとして造られている人に注いでくださるためでした。そのことは、これまでいろいろな機会にお話ししてきましたが、神である「主」が人にご自身の愛を注いでくださることをご自身の喜びとしてくださり、人がご自身の愛に愛をもって応えることを喜びとしてくださるということを意味しています。 このことは、神さまが創造の御業の第七日をご自身の安息の日として祝福し聖別されたこととかかわっています。神である「主」の安息の中心には、人にご自身の愛を注いでくださることと、人がご自身の愛に愛をもって応えることがあります。 それで、エデンの園は神である「主」がそこにご臨在される所として聖別されていたと言うことができます。そのことは、人が神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、神である「主」が「人をエデンの園から追い出」されたことと、「いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた」こと(3章23節ー24節)からも分かります。――とはいえ、神である「主」が「人をエデンの園から追い出」されたのは、人を守るためでした。というのは、人が罪あるままで神である「主」の御臨在の御前に立つなら、神である「主」の聖さを冒す者として滅ぼされてしまうからです。 イザヤ書51章3節には、 まことに、主はシオンを慰め、 そのすべての廃墟を慰めて、 その荒野をエデンのようにし、 その砂漠を主の園のようにする。 そこには楽しみと喜びがあり、 感謝と歌声がある。 と記されています。 ここには「エデン」と「主の園」が出てきます。そして、それぞれが「荒野」と「砂漠」と対比されており、「楽しみと喜び」、「感謝と歌声」と結びつけられています。エデンの園は、まさに、そのような所であったと考えられますが、その「楽しみと喜び」、「感謝と歌声」は、そこにご臨在される神である「主」との愛の交わりによってもたらされるものです。 詩篇36篇8節には、 彼らは あなたの家の豊かさに満たされ あなたは 楽しみの流れで潤してくださいます。 と記されています。ここで、 彼らは あなたの家の豊かさに満たされ と言われているときの「あなたの家」は 「主」がご臨在される神殿のことで、その「豊かさ」は「主」の御臨在にともなう豊かさであり、人はそこにご臨在しておられる「主」との愛の交わりによってそれにあずかります。その歴史的な原点は、エデンの園における神である「主」との愛の交わりです。 そして、 あなたは 楽しみの流れで潤してくださいます。 と言われているときの「楽しみの流れ」は、文字通りには「あなたの楽しみの流れ」です。また、「楽しみの流れ」の「楽しみ」(エーデン)は、ことばとしては(子音字も読み方を示す母音記号も)「エデン」と同じです。一般的には、これは場所を表す「エデン」とは区別されていますが、ここでは、手元にある四つの注解書のすべてがこれとエデンの園との結びつきを――一つは可能性が高いとしてですが――示しています。この「楽しみの流れ」は、この8節に続く9節に、 いのちの泉はあなたとともにあり、 あなたの光のうちに 私たちは光を見るからです。 と言われていることから、いのちをもたらし、いのちを支える流れであると考えられます。それが、エデンの園を彷彿とさせる「楽しみの流れ」であることは、やはり、これがそこにご臨在しておられる「主」との愛の交わりによってもたらされるいのちであることを示しています また、創世記2章では、10節に、 一つの川がエデンから湧き出て、園を潤していた。それは園から分かれて、四つの源流となっていた。 と記されています。そして、続く11節ー14節には、そのエデンから湧き出た川を源流とする四つの川――そのうちの「ティグリス」と「ユーフラテス」は今日も知られていますが、「ピション」と「ギホン」は、おそらくノアの時代の大洪水によってと思われますが、分からなくなっています――が広大な地域を潤していたことが記されています。このことの中心はエデンの園にあり、エデンの園が豊かに潤っていたことが示されています。そして、そのエデンの園の豊かな潤いは、神である「主」の御臨在にともなう豊かさであったと考えられます。 9節には、 神である主は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。 と記されています。それらの木々は、豊かに潤っているエデンの園において豊かな実を実らせていたと考えられますが、それらも神である「主」の御臨在にともなう豊かさであったと考えられます。 さらに、15節には、 神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。 と記されています。 人はエデンの園を耕し、守る役割を与えられていました。 エデンの園を耕すということは、堕落後の世界によくある、潤いがない地や草木の実りを妨げる雑草がはびこる地を労苦して耕すということではなく、豊かに潤っているエデンの園においてのことです。園の中に生えてくる草木はそれ自体で秩序を保って増え広がることができません。それで、園を耕す人が、それぞれの特徴を生かしつつ、秩序と調和のある状態にするようにしなければなりません。エデンの園を守るということも、このことにかかわっていると考えられます。 また、それは、動物たちが食い荒らすことから守るというようなことではなく、人がエデンの園を耕すことによって、それぞれの木や草が豊かな実りをもたらし、それが生き物たちをも豊かに養うことになるということでしょう。1章29節ー30節には、 神は仰せられた。「見よ。わたしは、地の全面にある、種のできるすべての草と、種の入った実のあるすべての木を、今あなたがたに与える。あなたがたにとってそれは食物となる。また、生きるいのちのある、地のすべての獣、空のすべての鳥、地の上を這うすべてのもののために、すべての緑の草を食物として与える。」すると、そのようになった。 と記されています。これは、これに先立って28節に、 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」 と記されていること、すなわち、神さまが神のかたちとして造られている人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことを受けています。 神さまは、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人に、ご自身がすべての生き物たちに「すべての緑の草を食物として与える」ことを示しておられます。人はこの神さまのみこころに従って、エデンの園を耕していましたから、生き物たちをエデンの園から追い出したというようなことは考えられません。また、生き物たちがエデンの園にいたであろうことは、「ふさわしい助け手」の創造のことを記している2章18節ー25節の19節ー20節に、 神である主は、その土地の土で、あらゆる野の獣とあらゆる空の鳥を形造って、人のところに連れて来られた。人がそれを何と呼ぶかをご覧になるためであった。人がそれを呼ぶと、何であれ、それがその生き物の名となった。人はすべての家畜、空の鳥、すべての野の獣に名をつけた。しかし、アダムには、ふさわしい助け手が見つからなかった。 と記されていることから推測することができます。人が生き物たちに名をつけたことは権威を発揮することですが、それは、生き物たちと親しく交わる関係を確立することでもありました。 人は、エデンの園を耕し、守ることにおいて、そこにご臨在しておられる神である「主」が、そこに生えさせてくださったあらゆる植物を生長させてくださって実を結ばせてくださっていること、あらゆる生き物たちのいのちを育み育ててくださっていることを汲み取ることができるようにしていただいています。それによって、人はいつも、また、あらゆることにおいて、目で見ることができない神である「主」の御臨在を身近に覚えることができたと考えられます。 そして、最初に触れました、7節に、 神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。 と記されていることに示されている、そこにご臨在してくださっている神である「主」との、より直接的な愛の交わりという、この上ない豊かな祝福にあずかっていました。 また、神である「主」がふさわしい助け手としての女性をお造りになって人の許に連れてきてくださったときに、人は、自分の愛を受け止めて、同じ愛をもって応えてくれる人と出会うことができた喜びを、2章23節で、 これこそ、ついに私の骨からの骨、 私の肉からの肉。 これを女と名づけよう。 男から取られたのだから。 と言い表しています。 これらすべてのことは、神である「主」の主権的で一方的な愛と恵みによることでした。 このように、愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られ、神である「主」の御臨在にともなう豊かさに潤っているエデンの園において、神である「主」との豊かな愛にあるいのちの交わりに生きていた人とその妻、さらに、神である「主」によって、また、神である「主」にあって、お互いの愛の交わりに生きていた人とその妻が、神である「主」に背いて、罪を犯して、御前に堕落してしまいました。 それは、人間的な言い方をしますが、私たちの思いをはるかに越えた愛をもって人とその妻を愛してくださった神である「主」の愛を無にすることであり、神である「主」をこの上なく悲しませること、痛ませることでした。 その後のことを記している3章8節ー10節には、 そよ風の吹くころ、彼らは、神である主が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」彼は言った。「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。」 と記されています。 「そよ風の吹くころ」とは、それまで神である「主」が特別な意味でご臨在してくださって人との直接的な愛の交わりをしてくださっていた時のことであると考えられます。私たちのことばで言えば、「いつもの時に」という感じです。それは、人にとってはこの上ない喜びの時であったのですが、この時には、それが、恐怖の時になってしまいました。 これも人間的な言い方ですが、神である「主」は何も知らないかのように、エデンの園にご臨在してくださったのです。そして、愛する人を探し求めるように、 あなたはどこにいるのか。 と呼びかけました。それは、広く認められているように、人とその妻、アダムとエバが罪を認めて悔い改める機会を与えてくださるためのことでした。 しかし、アダムとエバは、それぞれ、自分は被害者であるとして、アダムはあの愛のことばとともに喜び迎えたエバを告発しました。12節に記されている、 私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。 というアダムのことばは、エバを告発することばですが、同時に、遠回しに神である「主」をも告発しています。また、エバは、 蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました。 と言って「蛇」を告発しました。 これが、あの神である「主」との豊かな愛の交わりに生きていたアダムとエバのことであることを思いますと、二人が罪がもたらす死の力に捉えられてしまい、闇に閉ざされてしまっていることが痛切に感じられます。とはいえ、私たちの感じ方はなおも自らのうちに罪の性質を宿している者としての感じ方でしかありません。限りない愛をもって人とその妻を愛してくださっていた神である「主」にとっては、どれほどの痛みであり悲しみであったことでしょうか。 これによって、罪の力に捉えられてしまっている人は、決して、自らの罪を認め、悔い改めて、神である「主」の御許に立ち返ることがないし、立ち返ることができないということが明らかになりました。 しかも、これは、人類の堕落後の生まれながらに罪の本性を宿している者が罪を犯した、ということではありません。神のかたちとしての人の本来の状態にあって、神である「主」との愛の交わりに生きるいのちの豊かさを現実のこととして常に経験している人とその妻が、神である「主」に対して罪を犯したということです。 このようなことを踏まえますと、人とその妻は不信仰の極みに陥り、全く絶望的な状態にあることが分かります。しかし、神である「主」は、それにもかかわらず、「最初の福音」を約束のことばとして示してくださいました。そして、結論的なことだけを言いますが、御霊によって二人の心を開いてくださって、「最初の福音」に示されている神である「主」の約束を信じることができるようにしてくださいました(3章20節[注]、4章1節、25節)。 [注]3章20節には「人は妻の名をエバと呼んだ。彼女が、生きるものすべての母だからであった」と記されています。 アダムとエバは罪を犯す前の人のいのちの本質が神である「主」との愛の交わりにあり、神である「主」の愛を受け止め、神である「主」を愛するることがどれほど豊かな喜びに満ちたものであるかを現実のこととして知っていました。 それで、その喜びが恐怖に変わってしまった時、自分たちは死んでしまったことを現実のこととして思い知らされたはずです。そのアダムにとって「生きるもの」とは、神である「主」との愛の交わりを回復されてそのうちに生きる者のことです。アダムは、それは自分からではなく「エバ」から生まれてくる者、すなわち「女の子孫」であるということを、このことにおいて告白しています。 「最初の福音」に示されている神である「主」の約束を信じたアダムとエバは、自分たちが決して罪を認めることができなかったばかりか、神である「主」をも告発してしまったことを心痛く思い起こしてその罪を告白したことでしょう。それとともに、それにもかかわらず、神である「主」は、なおも、そんな自分たちに「最初の福音」をお示しくださり、それを信じるようにしてくださったということに、大きな驚きを感じつつ、神である「主」に感謝したことでしょう。 |
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