黙示録講解

(第498回)


説教日:2022年7月3日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(251)


 本主日も、黙示録2章28節後半に記されている、

勝利を得る者には、わたしは明けの明星を与える。

という、イエス・キリストの約束のみことばについてのお話を続けます。
 まず、前回お話ししたことを振り返っておきます。
 ここで問題となるのは、イエス・キリストが与えてくださると約束してくださっている「明けの明星」は何かということです。一般に、これには二つのことがかかわっていると考えられています。
 最も基本的なことは、黙示録22章16節後半に記されている、

 わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。

というイエス・キリストのみことばです。
 ここで、イエス・キリストはご自身のことを、

 輝く明けの明星である。

と証ししておられます。それで、このイエス・キリストのみことばと、2章28節に記されている、

 また、勝利を得る者には、わたしは明けの明星を与える。

という約束とのつながりが考えられます。
 前回は、22章16節で、イエス・キリストがそれに先立って、ご自身のことを「ダビデの根、また子孫」であると証ししておられることに注目して、それについてお話ししました。今日は、さらにそれに関連することをお話ししたいと思います。
 前回お話ししたことですが、ここでイエス・キリストが、

  わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。

と言われているときの「ダビデの根、また子孫」と「輝く明けの明星」は、「同格」でつながっていて切り離すことができません。イエス・キリストは、「ダビデの根、また子孫」であられるという意味において「輝く明けの明星」なのです。
 また、この、

 わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。

というみことばは、強調形の、

 わたしは・・・・・である(エゴー・エイミ・・・・)。

という言い方で表されています。前回詳しくお話ししたので結論的なことだけをお話ししますと、このように、強調形の「エゴー・エイミ・・・・・」で表されている、

 わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。

というみことばは、イエス・キリストが契約の神である「」、ヤハウェであられることを表すとともに、このイエス・キリストが「ダビデの根、また子孫、輝く明けの明星」であられる方として、私たちご自身の契約の民にかかわっていてくださるということを示しています。
 イエス・キリストが「ダビデの根」であられることは、イザヤ書11章1節ー10節に記されている預言のことばを受けています。1節には、

 エッサイの根株から新芽が生え、
 その根から若枝が出て実を結ぶ。

と記されています。そして、これと対応している10節には、

 その日になると、
 エッサイの根はもろもろの民の旗として立ち、
 国々は彼を求め、
 彼のとどまるところは栄光に輝く。

と記されています。この10節に出てくる「エッサイの根」は1節に出てくる「エッサイの根株」から「生える」「新芽」を指していて、これが黙示録22章16節で、イエス・キリストがご自身のことを「ダビデの根、また子孫」であると証ししておられることの背景となっています。
 1節で「エッサイの根株」と言われているときの「エッサイ」はダビデの父です。この「エッサイの根株」という表象が表しているのは切り倒された木です。それで、これはイザヤが遣わされた南王国ユダの絶望的な状態を指し示していると考えられます。
 この11章1節ー10節に記されている「エッサイの根株」から生える「新芽」、「若枝」である方がここで突然のように預言されているのではありません。歴史的により近いこととしては、前回お話ししたように、南王国ユダがアハズ王の時代に、アラムと北王国イスラエルが連合して迫ってこようとしたときに、「」がイザヤを遣わしてくださってご自身を信じ、信頼するように求めたにもかかわらず、アハズは「」を信じないで、大国アッシリアを頼みとしました。まさに、そのような時に、「」がイザヤをとおしてアハズに語られたことの中心に、7章14節に記されている、

それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。

という、「インマヌエル預言」と呼ばれる約束のみことばが語られました。これは、「」がアハズの信仰にお応えになってということではなく、「それゆえ、主は自ら・・・与えられる」と言われているように、アハズの不信仰にもかかわらず、「」がご自身の主権的で一方的な恵みによって、与えてくださった約束のみことばでした。
 イザヤ書では、このときに与えられた「インマヌエル」(神は私たちとともにおられる)という御名の方の約束があって、この後に、さらに、この方についての預言のことばが示されていきます。
 その一つが前回取り上げた11章1節ー10節ですが、それより前に記されている代表的なみことばを二つ見てみましょう。


 まず、取り上げるのは8章5節ー10節に記されていることです。そこには、

 はさらに、続けて私に言われた。
 「この民は、
 ゆるやかに流れるシロアハの水を拒み、
 レツィンとレマルヤの子を喜んでいる。
 それゆえ、見よ。
 主は、強く水の豊かなあの大河の水、
 アッシリアの王とそのすべての栄光を
 彼らの上にあふれさせる。
 それはすべての運河にあふれ、
 すべての堤を越え、
 ユダに勢いよく流れ込み、
 あふれみなぎって首にまで達する。
 その広げた翼は、
 インマヌエルよ、あなたの地をおおい尽くす。」
 諸国の民よ、打ち砕かれよ。
 遠く離れたすべての国々よ、耳を傾けよ。
 腰に帯をして、わななけ。
 腰に帯をして、わななけ。
 はかりごとをめぐらせ。しかしそれは破られる。
 事を謀れ。しかしそれは成らない。
 神が私たちとともにおられるからだ。

と記されています。
 6節に出てくる「ゆるやかに流れるシロアハの水」はギホンの泉から湧き出る水でエルサレムの民を潤しているもので、神である「」が与えてくださっている水です。それを拒むということは、「」を信頼することを拒むことを表しています。
 そして、

 レツィンとレマルヤの子を喜んでいる。

と言われているときの「レツィン」はアラムの王であり、「レマルヤの子」は北王国イスラエルの王ペカです。この「レツィンとレマルヤの子」が連合してユダの王アハズに迫ってきた時に、アハズはアッシリアに頼りましたが、ユダには「レツィンとレマルヤの子」と連携しようとしていた人々がいたようです。この人々もアハズと同じように「」を信じ、「」に信頼しないで、この世の権力者に頼りました。
 これに対して「」は、「強く水の豊かなあの大河の水」――氾濫して被害を引き起こすことがあるユーフラレス川――にたとえられているアッシリア軍を襲来させて、

 ユダに勢いよく流れ込み、
 あふれみなぎって首にまで達する。

ようにさせると言われています。続く、

 その広げた翼は、
 インマヌエルよ、あなたの地をおおい尽くす。

と言われているときの「その広げた翼」は押し寄せてくるアッシリア軍を表す大水のことか、ここで大水の表象が変わって、アッシリア軍を表す獲物を狙う大きな猛禽のことです。ここでは「インマヌエルよ」は最後に出てきます。これは、この訳が示しているように、7章14節で約束されていた「インマヌエル」であると考えられますが、その場合には、「インマヌエルよ」「この悲惨な事態をご覧になってくださり、あわれんでください」というような、切実な祈りになっています。
 この時、北王国イスラエルの王「レマルヤの子」ペカは、「」を信じて信頼することなく、アラムの王「レツィン」と連合し、さらにアハズとも連合してアッシリアに対抗しようとしていました。アハズも「」を信じて信頼することなく、アッシリアを頼みとしていました。そのかぎりにおいて、どこにも「」への信仰による信頼は見られません。これに対して、さばきを執行するためにアッシリア軍を送られたのは「」です。これは、もう、絶望する他はないと言うべき状態です。
 しかし、その現実を預言しているイザヤは、なおも、「インマヌエル」という御名のお方に向かって、ユダの地は「あなたの地」ですと、切実な祈りとともに告白しています。その地は、もはや絶望する他はない状態であってもなお、「インマヌエル」という御名のお方がご臨在される地であることを信じているのです。
 これに続く、9節ー10節に記されている、

 諸国の民よ、打ち砕かれよ。
 遠く離れたすべての国々よ、耳を傾けよ。
 腰に帯をして、わななけ。
 腰に帯をして、わななけ。
 はかりごとをめぐらせ。しかしそれは破られる。
 事を謀れ。しかしそれは成らない。
 神が私たちとともにおられるからだ。

ということは、「諸国の民よ」、「遠く離れたすべての国々よ」と言われているように、「レツィンとレマルヤの子」やアッシリアに限らず、すべての国々が「はかりごとをめぐらせ」て押し寄せて来ても、「」の民を押し流してしまうことはできないことを示しています。その理由は、

 神が私たちとともにおられるからだ。

と言われています。
 この、

 神が私たちとともにおられるからだ。(キー[理由を表します]・インマーヌー・エール)

の「神が私たちとともにおられる」も「インマヌエル」である可能性があります。8節の終わりで、イザヤが切実な思いで「インマヌエルよ」と呼びかけたお方が、まさにその御名のとおり「私たちとともにおられる」からだということです。ここでは、あの絶望的な状態の中での切実な思いでの祈りが、「」が与えてくださっている「インマヌエル」という御名のお方にかかわる預言のみことばを語ることの中で、大胆な確信になっています。
 とはいえ、これは、イザヤが(預言的に)目にしている現実が良くなっているからではありません。ここでも、7章14節に記されている、

それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。

という、「インマヌエル預言」と呼ばれる約束のみことばが、アハズの不信仰にもかかわらず、「」がご自身の主権的で一方的な恵みによって、与えてくださった約束のみことばであったこととのつながりを見て取ることができます。

 もう一つ、9章1節ー7節に記されているみことばを見てみましょう。
 1節ー5節には、

 しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。
 先にはゼブルンの地と
 ナフタリの地は辱めを受けたが、
 後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、
 異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。
 闇の中を歩んでいた民は
 大きな光を見る。
 死の陰の地に住んでいた者たちの上に
 光が輝く。
 あなたはその国民を増やし、
 その喜びを増し加えられる。
 彼らは、刈り入れ時に喜ぶように、
 分捕り物を分けるときに楽しむように、
 あなたの御前で喜ぶ。
 あなたが、彼が負うくびきと
 肩の杖、彼を追い立てる者のむちを、
 ミディアンの日になされたように
 打ち砕かれるからだ。
 まことに、戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食となる。

と記されています。
 1節には、

 しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。
 先にはゼブルンの地と
 ナフタリの地は辱めを受けたが、

と言われています。
 これは、列王記第二・15章29節に、

イスラエルの王ペカの時代に、アッシリアの王ティグラト・ピレセルが来て、イヨン、アベル・ベテ・マアカ、ヤノアハ、ケデシュ、ハツォル、ギルアデ、ガリラヤ、ナフタリの全土を占領し、その住民をアッシリアへ捕らえ移した。

と記されていることを指していると考えられます。
 これは、北王国「イスラエルの王ペカの時代」であると言われています。この前の28節では、ペカは「の目に悪であることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪から離れなかった」と言われています。「ネバテの子ヤロブアム」は、ソロモンの死後イスラエルは南王国ユダと北王国イスラエルに分裂しましたが、北王国イスラエルの最初の王です。この「ネバテの子ヤロブアム」に続く北王国イスラエルの王たちのほとんどは、「イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪から離れなかった」と言われる王たちでした。
 イザヤ書9章1節で、

 しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。
 先にはゼブルンの地と
 ナフタリの地は辱めを受けたが、

と言われているときの「苦しみ」、「」、「辱め」は、アハズの要請を受けて北から侵攻してきた「アッシリアの王ティグラト・ピレセル」が「ギルアデ、ガリラヤ、ナフタリの全土を占領し、その住民をアッシリアへ捕らえ移した」ことによってもたらされた「苦しみ」、「」、「辱め」のことです。
 すでにお話ししたように、この「苦しみ」、「」、「辱め」はイスラエルの王たちが「」に背き続けてきた歴史の中で「」のさばきとしてもたらされたものです。
 1節では、これに続いて、

 後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、
 異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。

と言われています。ここに出てくる地域は北王国イスラエルにありました。そして2節では、

 闇の中を歩んでいた民は
 大きな光を見る。
 死の陰の地に住んでいた者たちの上に
 光が輝く。

と言われています。
 これは、やがて、北王国イスラエルの民がアッシリアによる捕囚から解放されるようになることを預言しています。
 続く3節ー5節には、

 あなたはその国民を増やし、
 その喜びを増し加えられる。
 彼らは、刈り入れ時に喜ぶように、
 分捕り物を分けるときに楽しむように、
 あなたの御前で喜ぶ。
 あなたが、彼が負うくびきと
 肩の杖、彼を追い立てる者のむちを、
 ミディアンの日になされたように
 打ち砕かれるからだ。
まことに、戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食となる。

と記されています。
 ここでは、1節ー2節に記されていることは、「あなた」と呼ばれている「」が、その主権的で一方的な恵みによって成し遂げてくださるものである、ということが示されています。
 最後の5節に記されている、

まことに、戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食となる。

ということは、「」がまったき平和をもたらしてくださり、もはや戦いはなくなるということが示されています。
 これまでのところで注目したいのは、これが、「イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪から離れなかった」と言われる王たちが治めてきて、「」のさばきを受けてアッシリアによって征服され、その民は捕囚となってしまう北王国イスラエルに対する、「」の主権的で一方的な恵みによる回復の預言であるということです。
 そして、その「」の主権的で一方的な恵みによる回復がどのようになされるかが、続く、6節ー7節に、

 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。
 ひとりの男の子が私たちに与えられる。
 主権はその肩にあり、
 その名は「不思議な助言者、力ある神、
 永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、
 ダビデの王座に就いて、その王国を治め、
 さばきと正義によってこれを堅く立て、
 これを支える。今よりとこしえまで。
 万軍のの熱心がこれを成し遂げる。

と記されています。
 この6節は、理由を表す接続詞(キー)で導入されています。これによって、この前の部分で示されている「」の主権的で一方的な恵みによる回復が実現する理由・根拠が示されています。
 6節では、

 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。
 ひとりの男の子が私たちに与えられる。

と言われています。これによって、「」の主権的で一方的な恵みによる回復が実現するのは、「ひとりのみどりご」、「ひとりの男の子」が誕生することによっているということが示されています。ここでは、この子が生まれること、与えられることが、繰り返されて、強調されています。
 これらのことから、やはり、7章14節に記されている、

それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。

という、「インマヌエル預言」と呼ばれる約束のみことばとのつながりが考えられます。この預言のみことばは、アハズの不信仰にもかかわらず、「」がご自身の主権的で一方的な恵みによって、与えてくださった約束のみことばですが、ここでは、アハズが治めていた南王国ユダを越えて、さらに不信仰を深めていった北王国イスラエルの民の回復をもたらす「」の主権的で一方的な恵みが示されています。そして、それも、この「ひとりのみどりご」、「ひとりの男の子」が誕生することによっているというのです。

 ただ、この6節ー7節に記されていることは、7節に、

 ダビデの王座に就いて、その王国を治め、

と記されているように、ダビデ契約に基づいています。そうしますと、これは北王国イスラエルのことではなく、ダビデの子孫が治めた南王国ユダのことではないかという疑問が出てきます。
 しかし、前回取り上げましたイザヤ書11章1節ー10節に続く、11節ー13節、特に、12節ー13節を見ると、そこには、

 主は国々のために旗を揚げ、
 イスラエルの散らされた者を取り集め、
 ユダの追い散らされた者を
 地の四隅から集められる。
 エフライムのねたみは去り、
 ユダに敵する者は断ち切られる。
 エフライムはユダをねたまず、
 ユダもエフライムを敵としない。

と記されています。
 ここで、

 主は国々のために旗を揚げ、

と言われているときの「」は10節で、

 その日になると、
 エッサイの根はもろもろの民の旗として立ち、
 国々は彼を求め、
 彼のとどまるところは栄光に輝く。

と言われている「もろもろの民の旗として立」つ「エッサイの根」のことです。そして、

 イスラエルの散らされた者を取り集め、
 ユダの追い散らされた者を
 地の四隅から集められる。

と言われているように、「」は、この「もろもろの民の旗として立」つ「エッサイの根」の下に、北王国「イスラエルの散らされた者」と南王国「ユダの追い散らされた者」たちを集めてくださいます。
 これに続いて、

 エフライムのねたみは去り、
 ユダに敵する者は断ち切られる。
 エフライムはユダをねたまず、
 ユダもエフライムを敵としない。

と言われているときの「ユダ」は南王国ユダのことであり、「エフライム」は北王国イスラエルのことです。
 南王国ユダと北王国イスラエルが、ダビデ契約に約束された永遠の王座に着座されるまことのダビデの子の下で一つのものとして回復されるということは、エゼキエル書37章15節ー28節にも示されています。

 私たちは イエス・キリストが「ダビデの根」であられることが、イザヤ書11章1節で、

 エッサイの根株から新芽が生え、
 その根から若枝が出て実を結ぶ。

と記されている「エッサイの根株」から「生える」「新芽」を指している10節の「エッサイの根」を背景としていることの意味を考えてきました。
 その「エッサイの根株」という表象が表しているのは切り倒された木で、これはイザヤが遣わされた南王国ユダの絶望的な状態を指し示していると考えられます。そして、この南王国ユダの絶望的な状態の中で、なお、与えられている約束の贖い主の預言のみことばは、7章14節に記されている、

それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。

という「インマヌエル預言」と呼ばれる約束のみことばの上に、さらに積み上げるように与えられていました。
 そして、それは、南王国ユダの絶望的な状態をも越える北王国イスラエルの絶望的な状態をも包み込む、「」の主権的で一方的な恵みを証ししていました。そして、それは、「ひとりのみどりご」、「ひとりの男の子」としてお生まれになった「インマヌエル」という御名の方において現実になることが預言されていました。
 私自身が身にしみていることですが、私たちは、自分自身の罪深さに打たれて絶望的な状態に気がつくことがあります。そのような時にこそ、「ひとりのみどりご」、「ひとりの男の子」としてお生まれになった「インマヌエル」という御名の方、「ダビデの根」なるイエス・キリストにおいて、「」がイザヤをとおして、繰り返し預言された、ご自身の主権的で一方的な恵みが、私たちそれぞれの現実となっていることを思い起こしたいと思います。


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