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説教日:2022年6月19日 |
まず、 わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。 というイエス・キリストの証しのみことばについてお話ししたいと思います。この、 わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。 というみことばは、ヨハネの福音書に7回出てくる、強調形の、 わたしは・・・・・である(エゴー・エイミ・・・・)。 という言い方で表されています。 すでに何回かお話ししたことがありますが、この言い方の原点とも言うべきことは、出エジプトの時代に、神さまがエジプトの奴隷となっていたイスラエルの民を、その奴隷の身分から贖い出してくださるためにモーセを召してくださったことを記している出エジプト記3章13節ー15節に記されています。 そこには、 モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。 と記されています。 ここでは神さまの固有名詞としての御名がモーセに啓示されたことが記されています。その御名は、14節に記されている、 わたしは「わたしはある」という者である。 というみことばによって示されています。このみことば全体が神さまの御名です。そして、この御名が次に出てくる、 わたしはある に短縮されています。そして、さらにこの一人称の「わたしはある」が呼び名として3人称化されて、「ヤハウェ」となっていると考えられます。 ですから、「ヤハウェ」という御名の意味は、 わたしは「わたしはある」という者である。 という御名に示されていると考えられます。そして、この、 わたしは「わたしはある」という者である。 という御名は、神さまが存在される方であることを強調するもので、これによって、神さまこそが真に存在される方であることが示されていると考えられます。神さまは何ものにも依存されず、ご自身で存在しておられ、初めもなく終わりもなく、永遠に存在しておられる方であるということです。 ヘブル語聖書のギリシア語訳である七十人訳では、 わたしは在る者である(エゴー・エイミ・ホ・オーン)。 となっています。「エゴー・エイミ」は強調形の現在時制一人称単数形で、これ自体でも、 わたしはある。 を表し、契約の神である「主」ヤハウェの御名を表しますが、ここでは、「ホ・オーン」が続いているので、 わたしはホ・オーンである。 となります。「オーン」はエイミ動詞(英語のbe動詞に当たる)の男性形現在分詞で、これが、冠詞(ギリシア語の冠詞は定冠詞)「ホ」によって実体化されて「在る者」となっています。 このように、 わたしは「わたしはある」という者である。 という御名そのものは、神さまが何ものにも依存されない独立自存の方であられ、永遠に存在される方であることを示しています。 同時に、私たちはこの御名が啓示された時の状況に照らして、この御名の意味合いを理解しなければなりません。この御名は、神さまがイスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から贖い出してくださるために、モーセを遣わしてくださるに当たって啓示してくださったものです。その際に、先ほどの引用より前の6節に記されているように、神さまは、まず、 わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。 と言われて、ご自身をモーセに示してくださいました。これは、神さまがアブラハムに契約を与えてくださり、その契約に基づいてアブラハムの神となってくださったこと、アブラハムとその子孫を通して地上のすべての国民が祝福を受けるようになることを約束してくださったこと、そして、その契約をその子イサク、さらにその子ヤコブへと受け継がせてくださり、その契約に基づいて、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるイスラエルの民をかえりみてくださっていることを示しています。 このように、ここでは、神さまが、 わたしは「わたしはある」という者である。 という御名の方として、アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた契約に基づいて、出エジプトの贖いの御業を遂行してくださるということを意味しています。それで、15節に記されているように、神さまはモーセに、 イスラエルの子らに、こう言え。「あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた」と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。 と言われました。ヘブル語聖書では、この、 なたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主 という神さまの御名の啓示において、「主」は「ヤハウェ」で、これが最初に出てきます。そして、これを説明する「あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」がこれに続いています。日本語では説明に当たる部分が前にくるので、新改訳の順序になっています。このことから、「ヤハウェは契約の神であられる」という意味を汲み取ることができます。 このようなことをが根底にあって、強調形の「エゴー・エイミ・・・・・」で表されている、 わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。 というみことばは、イエス・キリストが契約の神である「主」、ヤハウェであられることを表すとともに、このイエス・キリストが「ダビデの根、また子孫、輝く明けの明星」であられる方として、私たちご自身の契約の民にかかわっていてくださるということを示しています。 イエス・キリストがダビデの子孫であられることは、イエス・キリストがダビデ契約に約束されている、「主」がとこしえに堅く立ててくださる王座、すなわち父なる神さまの右の座に着座されたメシアであられることを意味しています。 そして、イエス・キリストが「ダビデの根」であられることは、イザヤ書11章1節ー10節に記されている預言のことばを受けています。そこには、 エッサイの根株から新芽が生え、 その根から若枝が出て実を結ぶ。 その上に主の霊がとどまる。 それは知恵と悟りの霊、 思慮と力の霊、 主を恐れる、知識の霊である。 この方は主を恐れることを喜びとし、 その目の見るところによってさばかず、 その耳の聞くところによって判決を下さず、 正義をもって弱い者をさばき、 公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。 口のむちで地を打ち、 唇の息で悪しき者を殺す。 正義がその腰の帯となり、 真実がその胴の帯となる。 狼は子羊とともに宿り、 豹は子やぎとともに伏し、 子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、 小さな子どもがこれを追って行く。 雌牛と熊は草をはみ、 その子たちはともに伏し、 獅子も牛のように藁を食う。 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、 乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。 わたしの聖なる山のどこにおいても、 これらは害を加えず、滅ぼさない。 主を知ることが、 海をおおう水のように地に満ちるからである。 その日になると、 エッサイの根はもろもろの民の旗として立ち、 国々は彼を求め、 彼のとどまるところは栄光に輝く。 と記されています。 このイザヤの預言では、「エッサイの根」ということばは最後の10節に出てきますが、これは、1節に出てくる「エッサイの根株」から「生える」「新芽」に対応し、それを指していて、この二つの同じことを表していることばによって(「インクルーシオー」と呼ばれる)初めめと終わりが対応している表現形式をなしていると考えられます。 イザヤ書1章1節に、 アモツの子イザヤの幻。これは彼がユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである。 と記されているように、イザヤは、ほぼ紀元前8世紀後半に[New Bible Dictionary, 3rd. p.189は約740年ー700年としています]預言者としての活動をしました。それでイザヤがこの預言を記した時にはダビデ[その治世は1011/1010年ー971/970年(年の数え方によって違っています)]はすでに世になく、ダビデ王朝の王たち、すなわち、ダビデの血肉の子孫たちがユダ王国を治めていました。 これらのことを踏まえて、イザヤ書11章1節ー10節に記されていることで、今お話ししていることと関連することを見てみましょう。 1節で、 エッサイの根株から新芽が生え と言われているときの「エッサイ」は、ダビデの父です。 この預言のことばが記された時は、確定することはできませんが、最も早くて前717年であるとされていますので、ダビデの子孫で、715年に亡くなったとされている「アハズ」の最晩年か、その子「ヒゼキヤ」の治世であると考えられます。 その時代におけることとして注目したいことをお話しするためにアハズのことを取り上げます。 アハズについては列王記第二・16章2節ー4節に、 アハズは二十歳で王となり、エルサレムで十六年間、王であった。彼はその父祖ダビデとは違って、彼の神、主の目にかなうことを行わず、イスラエルの王たちの道に歩み、主がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の、忌み嫌うべき慣わしをまねて、自分の子どもに火の中を通らせることまでした。彼は高き所、丘の上、青々と茂るあらゆる木の下でいけにえを献げ、犠牲を供えた。 と記されています。 この時代は、それまで内政問題を抱えていたアッシリアが、内政問題が落ち着いたために、その支配権をパレスチナにまで拡大してきている時代で、北王国イスラエルも南王国ユダも、また周辺の国々もアッシリアとの関係で思惑が交錯していました。そのような中で、アラムとイスラエルがユダと連合してアッシリアから独立しようとしましたが、ユダの王アハズはこれを拒否しました。それで、アラムとイスラエルはアハズを退位に追い込んで、ユダに自分たちの意に適う王を立てようとしました。そのような危機の中で、「主」はイザヤをとおしてアハズにご自身を信じ信頼するように告げられましたが、アハズはそれに聞くことはなく、アッシリアを頼るようになりました。 その時に、「主」がイザヤをとおしてアハズに語られたことの中心に、7章14節に記されている、 それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。 という、「インマヌエル預言」と呼ばれる約束のみことばが語られました。これは、「主」がアハズの信仰にお応えになってではなく、アハズの不信仰にもかかわらず、「主は自ら・・・与えられる」と言われているように、「主」がご自身の主権的で一方的な恵みによって、与えてくださった約束のみことばでした。 このことはとても大切なことです。後ほど、簡単にですが、具体的なことに触れますが、ユダ王国の歴史においては、アハズの後に続くユダの王たちのほとんどが「主」に背く罪を犯して、「主」の聖なる御怒りによるさばきをもたらし、バビロンの手によってエルサレムと「主」の神殿は破壊され、民は捕囚になるに至ってしまいます。それにもかかわらず、この「主」がご自身の主権的で一方的な恵みによって、与えてくださった約束のみことばは取り消されることなく、ついには、まことのダビデの子として来てくださった御子イエス・キリストにおいて最終的に成就しています。イエス・キリストの誕生の次第を記しているマタイの福音書1章22節ー23節に、 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。 と記されているとおりです。 アハズの時代のことに戻りますと、やがて、アラムもイスラエルもアハズの要請によってやって来たアッシリアによって撃退されます。このことで、アッシリアを信頼するようになったアハズは、ますます「主」から離れていきます。実際、アハズは「アッシリアの王ティグラト・ピレセルに会うためダマスコに行ったとき」に見た祭壇と同じ祭壇を造らせ、「主」の神殿の祭壇を定位置から移動して、そこに据えて、それにささげ物をささげるようになりましたし、その他の「主」の神殿の用具も取り外しました(列王記第二・16章7節ー18節)。 その結果、「主」はそのアッシリアを用いてユダに災いを下されることになります。しかし、その試練はアハズの時代ではなく、その子ヒゼキヤの時代にもたらされました。 アッシリアによって撃退された北王国イスラエルでは王の交代があり、アッシリアに従うようになりましたが、約10年後に背くようになりました。その結果、アッシリアはイスラエルに侵攻し、イスラエルの首都サマリアは3年間の包囲の後、722年に、陥落しました。 その約20年後(701年)に、アッシリアはユダに侵攻し、ユダの町々を占領しました。このとき、ヒゼキヤはアッシリアに恭順の意を示しました。しかし、アッシリアは、さらに、エルサレムを包囲し征服しようとしました。しかし、「主」は、ヒゼキヤがイザヤをとおして語られた「主」のみことばを信じて「主」に祈ったことにお応えになって、一夜にしてアッシリア軍を滅ぼされました。 しかし、その南王国ユダにおいては、ヒゼキヤの子であり、ユダ王国で最も長い55年の間、王として治めたマナセにおいて、「主」に対する背信は頂点に達しました。マナセについては、列王記第二・21章2節ー6節に、 彼は、主がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の忌み嫌うべき慣わしをまねて、主の目に悪であることを行った。彼は父ヒゼキヤが打ち壊した高き所を築き直し、イスラエルの王アハブがしたように、バアルのためにいくつもの祭壇を築き、アシェラ像を造り、天の万象を拝んでこれに仕えた。こうして彼は、主がかつて「エルサレムにわたしの名を置く」と言われた主の宮に、いくつもの祭壇を築いた。主の宮の二つの庭には、天の万象のために祭壇を築いた。また、自分の子どもに火の中を通らせ、卜占[ぼくせん]をし、まじないをし、霊媒や口寄せをし、主の目に悪であることを行って、いつも主の怒りを引き起こしていた。 と記されています。 マナセの2代後にヨシヤが王になり、モーセ律法に従って改革を行いましたが、マナセの行った悪が引き起こした「主」の御怒りを鎮めることはできませんでした。ヨシヤの後に立てられた四人の王たちも、「主の目に悪であること」を行いました。その結果、586年にエルサレムと「主」の神殿はバビロンによって破壊され、残されたユダの民は「その地の貧しい民の一部」を除いて、バビロンへと捕らえ移されました(列王記第二・25章8節ー12節)。 繰り返しになりますが、このような事態になっても、アハズの時代に、「主」が主権的で一方的な恵みによって与えてくださった「インマヌエル」という御名の方の約束は取り消されてはいませんでした。 このような、歴史的な流れの中で、「ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に」「主」の預言者として働いたイザヤは、バビロンの捕囚に関する預言をしただけでなく、おもに40章以後においてですが、捕囚からの帰還の預言もしています。 今取り上げている11章1節ー10節に記されていることは、これらの歴史を越えた、まったく新しい時代が来ることを預言として記しています。それは、先ほどお話ししたように、「主」のみことばを信じようとしなかったアハズに、「主」が主権的で一方的な恵みによって与えてくださった約束に示されている、その名を「インマヌエル」と呼ばれる方によってもたらされる時代です。それで、ここでは、その御名自体は出てきませんが、「インマヌエル」という御名の方のことが預言的に示されています。 1節では、「エッサイの根株」と言われていて、切り倒された木の表象が用いられています。通常、切り倒された木は打ち捨てられて枯れていきます。これは、まさに、バビロンの捕囚にまで至ってしまったユダ王国に当てはまることです。ここでは、そのような絶望的な状態にある木の「根株」から、なお「新芽が生え」、しかも「実を結ぶ」ようになると言われています。 先ほどお話ししたように、10節で「エッサイの根」と言われているのは、1節で「エッサイの根株から」生えた「新芽」と言われているダビデのことです。これに従うと、黙示録22章16節に出てくる「ダビデの根」は、「エッサイの根株」から生えた「新芽」としての「ダビデの子」ということになります。 ただ、イザヤはダビデやその子ソロモンより二百数十年後の人です。それで、このイザヤの預言は、ダビデやソロモンが「地上的なひな型」として指し示していた方、ダビデ契約に約束されていた「主」が永遠に堅く立ててくださるダビデの王座に着座されるダビデの子のことを預言していることになります。繰り返しになりますが、イザヤ書のこの部分の流れの中では、この方が「インマヌエル」という御名の方です。 この方は、2節に、 その上に主の霊がとどまる。 それは知恵と悟りの霊、 思慮と力の霊、 主を恐れる、知識の霊である。 と記されているように、御霊に満たされておられ、御霊による知恵と力によって、「主」のみこころにしたがって、正義と真実をもって弱く貧しい者たちのためにさばき、武力などの血肉の力によってではなく、 口のむちで地を打ち、 唇の息で悪しき者を殺す 王として治めるようになります。 「狼は子羊とともに宿り」から始まる6節ー9節に記されているように、この方の支配は、人の世界だけでなく、生き物たちの間にも、まったき平和をもたらします。それは、ローマ人への手紙8章20節ー21節に、 被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。 と記されているように、「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人との一体において、虚無に服するようになった被造物が「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずか」るようになること、すなわち、全被造物の回復と栄光化を指し示しています。 そして、その時には、 その日になると、 エッサイの根はもろもろの民の旗として立ち、 国々は彼を求め、 彼のとどまるところは栄光に輝く。 と言われていることも実現することになります。 この最後に、 彼のとどまるところは栄光に輝く。 と言われているときの「とどまる」と訳されていることば(メヌーハー)は、「休息」、「平安」などをも意味していて、創世記49章15節では「休息の地」民数記10章33節では「休息する場所」、申命記12章9節では「安住の地」と訳されています。そこは、「主」の契約の民が帰るべき真の意味での「安住の地」であり、栄光の「主」の御臨在のあるところです。 ユダヤ人だけでなく、異邦人たちもこの方の御臨在の御許、すなわち「安住の地」に集められます。そして、そこには栄光が満ちるようになります このことは、イエス・キリストの十字架の死によって真の意味で実現することになります。ヨハネの福音書12章32節には、 わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。 というイエス・キリストの教えが記されています。これを受けて、33節には、 これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して、言われたのである。 と記されています。 この32節ー33節に記されていることを20節からの流れの中で見ると、23節ー24節には、 人の子が栄光を受ける時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。 というイエス・キリストの教えが記されています。さらに、27節ー28節には、イエス・キリストが十字架の死を念頭に置いて、 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。父よ、御名の栄光を現してください。 とお祈りになったときに、父なる神さまが、 わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。 とお答えになったことが記されています。 これらのことから、ここでは、イエス・キリストが私たちご自身の民のために十字架におかかりになっていのちをお捨てになったことにおいてこそ、イエス・キリストと父なる神さまの栄光が現されているということが分かります。 |
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