黙示録講解

(第496回)


説教日:2022年6月5日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(249)


 これまで、黙示録2章26節ー28節前半に記されている栄光のキリストの約束と関連することとして、エペソ人への手紙2章10節に記されている、

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

というみことばに出てくる「良い行い」について、さまざまなことをお話ししてきました。
 今日は、それを締めくくることをお話しします。ただ、これは、前にもお話ししましたが、20年ほど前にお話ししたことを、かなり補足したり、削除したりするとともに、言い回しや説明の仕方を変えたものです。
 まず、いつものように、これまでお話ししてきたことで今日お話しすることとかかわることをまとめてから、お話を続けます。
 この「良い行い」は、6節に記されている、神さまが私たちを御霊によってキリスト・イエスと一つに結び合わせてくださって、キリスト・イエスと「ともによみがえらせ」てくださり、キリスト・イエスと「ともに天上に座らせて」くださっているということとのつながりで考えられる「良い行い」です。
 神さまが私たちをキリスト・イエスと「ともによみがえらせ」てくださり、キリスト・イエスと「ともに天上に座らせて」くださったことにより、私たちは終わりの日に再臨される栄光のキリストによって再創造される、新しい天と新しい地に属している者なっています。それで、私たちは、今すでに、新しい天と新しい地の特質をもつ歴史と文化、すなわち、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たしています。それで、この「良い行い」は、私たちが「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たしていることにおける「良い行い」です。
 この「来たるべき時代」を特徴づけ、動かしているのは、聖霊降臨節(ペンテコステ)の日に、栄光のキリストが父なる神さまの右から遣わしてくださった御霊です。それで、この御霊はガラテヤ人への手紙4章6節では「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」と呼ばれています。そして、ローマ人への手紙8章14節に、

 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。

と記されているように、私たちはこの「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」に導いていただいている神の子どもとして、父なる神さまと御子イエス・キリストとの親しい愛にある交わりに生きています。また、その父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛にある交わりのうちに生きる神の子どもとして、お互いの愛の交わりに生きています。
 このことが、私たちが、今すでに、御霊に導いていただいて「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たしていることの中心にあります。それで、エペソ人への手紙2章10節の「良い行い」の核心にあるのは、私たちが神の子どもとして、御霊に導いていただいて、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛にある交わりに生きることと、また、お互いに愛にある交わりに生きることにあります。
 私たちは、この愛の交わりのうちに生きることによって、コリント人への手紙第二・3章18節に、

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と記されているように、「御霊なる主」によって「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます」。


 神さまは創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになりました。神のかたちの本質は自由な意志をもつ人格的な存在であることにあります。そして、ヨハネの手紙第一・4章16節に「神は愛です。」と記されているように、神さまの本質的な特質は愛です。それで、神のかたちの本質的な特質も愛です。そして、愛は自由な意志をもつ人格的な存在から生まれてきます。
 私たちが神のかたちとして造られている人としての本質的な特質である愛に生きることは、人をご自身のかたちとしてお造りになった神さまの愛を映し出すことす。そして、そのことをとおして、私たちは、愛である神さまの栄光を現わすようになります。
 また、愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人は、愛に生きる時に自由な状態にあります。
 神さまは、神のかたちとして造られている人が、自由な意志をもつ人格的な存在としての特質を発揮するようになるために、人の心に愛の律法を記してくださいました。
 その愛の律法は、マタイの福音書22章37節ー39節に記されているように、

あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

という第一の戒めと、

 あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。

という第二の戒めに集約され、まとめられます。
 神のかたちとして造られている人の心に愛の律法が記されているというときの「心」は、私たちがイメージする感情を中心とする心ではありません。みことばが示している「心」は、人の内的なあり方の全体、すなわち、知的、感情的、意志的なすべてを含めた、人格の中心を意味しています。
 その心に愛の律法が記されているということは、愛の律法が外からの押しつけではなく、自分自身の律法となっているということを意味していますし、その愛の律法が自分の考えや感じ方や自由な意志を導いているということを意味しています。それで、神のかたちとして造られている人が考え、感じ、意志し、行うことは、自然と、愛の律法に沿っており、そのまま愛の律法の表現となります。
 もちろん、これらのことは、神さまが創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになったときの人のあり方です。それで、これは神のかたちとして造られている人の本来の状態です。
 このこととのかかわりで一つのことを考えてみましょう。
 自由というと、私たちはまず自由に何かを行うことができることを考えるかも知れません。しかし、私たちの行ないは、私たちの思いや考えや感じていることを表現しています。もちろん、私たちは、自分の思いや考えや感じていることを隠してしまうことがあります。しかし、その自分の思いや考えや感じていることを隠すという行ないも、(そのことは隠した方がいいという)私たちの考えによることですので、やはり、私たちの思いや考えや感じていることを表現しています。その意味では、人の自由の出発点は、自由に考えることや思うことや感じることにあります。
 これにはもう一つの面があります。私たちが何を、どのように考えるかということも、どのように感じるかということも、私たちが自分の意志で決定しています。それで、私たちはそのことに対して、造り主である神さまに責任を負っています。
 私たちが何を、どのように考えるかということも、私たちが自分の意志で決めることであるということを理解するためには、かつての私たちのあり方を考えると分かりやすいかと思います。
 かつての私たちは、詩篇14篇1節に、

 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。

と記されているように、造り主である神さまはいないとして、この世界と自分たちのことを理解していました。私たちが神さまとこの世界と自分たちについてそのような考え方をしていたことも、私たちが自分の自由な意志で選び取っていたことでした。それで、私たちはそのことについて造り主である神さまに対して責任を負っていますし、神さまはそのことをおさばきになります。――けれども、神さまはその私たちが受けなくてはならないさばきを、ご自身の御子イエス・キリストに対して執行されました。
 それとともに、その逆の関係もあります。もし私たちに思うことも考えることも、また感じることもなければ、いくら意志が自由であっても、私たちの意志は働きようがありません。私たちの自由な意志は、私たち自身の思いや考えや感じることに基づいて働きます。私たちは、自分の思いや考えや感じることに基づいて働く意志によって行動します。
 このように、私たちの自由な意志と、私たちの思いや考えや感じることは、いわば、相互に関係し合っています。そして、私たちの「心」――知的、感情的、意志的なすべてを含めた人格の中心――の働きを形造っています。このような、私たちの心の働きの自由を、私たちは「良心の自由」と呼んでいます。この「良心の自由」は、神のかたちとして造られており、自由な意志をもつ人格的な存在としての人の自由の出発点であり中心です。そして、私たちが属している長老教会は、この神のかたちの本質的な特質である愛が表現されるようになるための「良心の自由」を守ることを根本的に大切なこととしています。
 私たちは何を、どのように知るかということも、どのように感じるかということも。自分の意志で決めているということを、私たちの心に愛の律法が記されているということに当てはめるとどうなるでしょうか。
 それは、愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人としての本来のあり方においては、自分が何を、どのように知るか、どのように感じるかを自分の意志で選び取ることに、愛が表現されるようになるということです。今すでに、神の子どもとしての自由を与えられている私たちが何かを知ること、感じることには、いろいろな条件が重なりあっていますが、最も深いところでは、造り主である神さまを愛し、隣人を愛するということを根本的な動機として、知るべきことを選び取っていくということです。
 そのように、愛を根本的な動機としているときには、人は、造り主である神さまに対しても、隣人に対しても、真実であろうとします。それで、真理を知ろうとするようになります。また、神さまご自身と、神さまがお造りになった世界をより深く知ることを願うようになりますし、同じく神のかたちとして造られている人として、お互いをより深く理解し合いたいと願うようになります。
 このようにして、神のかたちとして造られている人の本来の姿においては、人の知的な活動を初めとする、さまざまな文化的な活動も、自らの心に記されている、

あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

という第一の戒めと、

 あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。

という第二の戒めに集約され、まとめられる、愛の律法に導かれたものとなります。
 したがって、天地創造の初めに神のかたちとして造られている人に委ねられた、

生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。

という歴史と文化を造る使命も、その本来の姿においては、人の心に記されている愛の律法に導かれて遂行されるものです。また、その歴史と文化を造る使命の遂行をとおして、神のかたちとして造られている人の本質的な特質である愛が表現されるのです。
 私たちは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いにあずかって、法的には、罪を完全に清算され、神さまの御前に義と認められ、神の子どもとしての身分を与えられています。そして、御霊のお働きによって、御子イエス・キリストと結び合わされ、そのいのちに生かされていることによって、神の子どもとしての実質が内側に造り出されています。これによって、私たちは、地上の生涯をとおして常に、神の子どもとしての自由をにおいて愛を現しつつ成長することができます。
 それは、御子イエス・キリストの贖いの御業にあずかって神の子どもとされている者たちにおいて、創造の御業において神のかたちとして造られている人に委ねられた歴史と文化を造る使命を遂行する、本来の姿が回復されているばかりか、実際に、「来たるべき時代」の歴史と文化を造っているということを意味しています。私たちも、御霊が私たちの心に回復してくださっている愛の律法に導かれて、ものの見方や考え方、感じ方から始まって、自らの意志によってさまざまなことを行なうように造り変えていただいています。それが、これまでお話ししてきましたエペソ人への手紙2章10節に記されている、「良い行い」の核心にあります。

 神のかたちとして造られている人は、自らの心に記されている愛の律法に導かれて、神のかたちの本質的な特質である愛のうちに生きるときに、自由であることができます。繰り返しになりますが、神のかたちとして造られている人として、自由な意志ばかりでなく、思うことや考えることや感じることも、愛の律法に導かれているときに、その人は自由な状態にあると言えます。
 すでにお話ししたように、私たちを愛してくださり、私たちのためにご自身の意志で十字架への道を歩まれて、実際に、十字架につけられた御子イエス・キリストがこそが、最も自由な状態にありました。
 改めて確認しますと、御子イエス・キリストは、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべてお受けになるために、十字架におかかりになりました。
 その時、イエス・キリストは、人が加える十字架刑の苦しみばかりでなく、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りを余すところなく注がれて、父なる神さまとの交わりがまったく絶たれてしまうという、私たちの想像をはるかに越える、霊的な苦しみを味わわなければなりませんでした。
 イエス・キリストは、そのような苦しみは何としても避けたいという、最も自然で当然の願いと、私たちを愛して、ご自身の御子を私たちの罪のための「宥めのささげ物として」お遣わしになった(ヨハネの手紙第一・4章10節)父なる神さまのみこころに従いたいという願いとの間に、引き裂かれていました。
 ゲツセマネにおける祈りにおいては、そのような、ご自身の内なる葛藤が父なる神さまに告白されました。そして、その祈りにおいてさらに力づけられて、父なる神さまのみこころをご自身のみこころとして、十字架におつきになる道をお選びになられました。
 このことから、自由な状態にあるからといって、自分自身の内側に何の葛藤もないわけではない、ということが分かります。また、神の子どもとしての自由を守るために内的な葛藤を経験することは、必ずしも罪であるわけではないことも分かります。
 罪に満ちたこの世にあり、私たち自身の中になおも罪の性質が残っている状態にあっては、私たちは、私たちに与えられている神の子どもとしての自由のうちに歩むためには、さまざまな葛藤を経験しなくてはなりません。
 もし、私たちがマインドコントロールによって、人格的な自由を失っているとしたら、内側の葛藤はなくなるか、少なくとも、ほとんどなくなることでしょう。ですから、内側に葛藤があることは、私たちが神の子どもとして自由であることのしるしでもあります。そして、そのような葛藤の中で、御霊に導いていただいて、私たちのうちに回復されている愛の律法に従って、神さまへの愛と隣人に対する愛を選び取ることに、神の子どもとしての自由の現われがあります。
 そのように、さまざまな葛藤の中で、なお、御霊に導いていただき、愛の律法に従って、神さまへの愛と、隣人への愛を選び取ることの典型的な現れは、愛による人格的な「応答」をすることです。それは、外側からの「刺激」に対する反射的な「反応」とは区別されます。
 マタイの福音書27章27節ー31節に記されているように、イエス・キリストが十字架刑に定められた時、総督ピラトの兵士たちはイエス・キリストの「周りに全部隊を集め」、イエス・キリストが「着ていた物を脱がせて、緋色のマントを着せ」、「茨で冠を編んでイエスの頭に置き、右手に葦の棒を持たせ」て、「『ユダヤ人の王様、万歳』と言って」あざけりました。そして、イエス・キリストにつばきをかけ、イエス・キリストの右手にあった「葦の棒」を取り上げ、それで頭を叩きました。
 また、イエス・キリストが十字架につけられた時、通りすがりの人々も、祭司長たち、律法学者たち、長老たちも、イエス・キリストに、さまざまなあざけりとののしりのことばを投げつけました。
 イエス・キリストは、そのような仕打ちを受けることの苦しみと悲しみを、十分すぎるほど味わっておられたはずです。
 しかし、それに対するイエス・キリストの「応答」は、基本的には、沈黙でした。
 預言者イザヤがイザヤ書53章7節で、

 彼は痛めつけられ、苦しんだ。
 だが、口を開かない。
 屠り場に引かれて行く羊のように、
 毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、
 彼は口を開かない。

と預言していたとおりです。
 また、ペテロの手紙第一・2章23節には、

 ののしられても、ののしり返さず、
 苦しめられても、脅すことをせず、
 正しくさばかれる方にお任せになった。

と記されています。
 しかし、イエス・キリストは沈黙しておられただけではありませんでした。ルカの福音書23章34節には、

そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」

と記されています。イエス・キリストは十字架の上で、ご自身を十字架につけ、あざけり、ののしる者たちのためにとりなし祈られました。
 このことから、先ほどのペテロの、

 ののしられても、ののしり返さず、
 苦しめられても、脅すことをせず、
 正しくさばかれる方にお任せになった。

ということばの中で、

 正しくさばかれる方にお任せになった。

と言われていることは、個人的な恨みを神さまに晴らしていただこうとすることではないことが分かります。イエス・キリストは「正しくさばかれる方にお任せに」なるに当たって、自分に不当な仕打ちを加えている人々のためにとりなし祈っておられます。
 このように沈黙を守りとおされたことも、とりなし祈られたことも、外側からの「刺激」に対する単なる「反応」を越えた、神のかたちとして造られている人としての本来の自由にあっての愛による人格的な「応答」です。自由な意志が愛の律法に導かれて生み出す、愛による人格的な「応答」です。

 私たちの場合を考えてみますと、私たちにとって、単なる反応は、反射的なものであり、習慣的なものです。それには、私たちのうちに残っている罪の性質――罪の自己中心性が深く影を落としています。
 私たちは、御子イエス・キリストの贖いの恵みによって、神の子どもとしての自由を回復していただいています。それで、外側からの「刺激」に対してただ「反応」するだけの状態を越えて、神の子どもとしての自由に基づいて、愛による「応答」をすることへと招かれています。
 このようなことを踏まえると、ガラテヤ人への手紙5章13節ー14節記されている、

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。

という戒めが、神の子どもとしての自由に基づく愛による「応答」を求めるものであることが分かります。
 これまで繰り返しお話ししてきましたように、ここで、私たちが「自由を与えられるために召された」と言われているときの「自由」は、御霊に導かれている神の子どもとしての自由であり、愛による人格的な「応答」をする自由です。
 これに対して、続く15節に記されている、

気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。

ということは、外側からの「刺激」に反射的、習慣的に「反応」しているだけのことです。
 私たちのうちから出てくる反射的、習慣的な「反応」には、私たちの罪の自己中心性が深く影を落としていますから、外側からの「刺激」のうち、自分より優れたものに対してはねたみ、ことばなどの行き違いや思いどおりにならないことに対しては憤りや恨み、といった「反応」が出てきてしまいます。また、その逆に、ほめことばやお世辞に有頂天になることも外側からの「刺激」に「反応」することでしかありません。そこから「互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしている」と言われている状況が生まれてきます。

 私たちが神の子どもとしての自由に基づいて、愛による人格的な「応答」をすることができるためには、まず、自分が、御霊によって栄光のキリストと一つに結ばれて、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、罪を贖っていただいて、さばきへの恐怖から解放されているばかりか、新しく生まれて、神の子どもとしていただいており、神の子どもとしてのの自由を与えられていること信じることが大切です。ヨハネの手紙第一・4章18節には、

 恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。

と記されています。愛さないとさばかれるからという恐怖に縛られて、人を愛することは自分を守ろうとすることで、本当にその人を愛することではありません。
 それとともに、このガラテヤ人への手紙5章では、先ほどの13節ー15節の戒めに続いて、16節で、

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。

と言われています。
 前回お話ししたように、この「肉の欲望」の「」(サルクス)は、肉体(ソーマ)のことではありません。この「御霊」と対比されている「」は、罪によって堕落している人類全体を動かしている動因です。これは、御子イエス・キリストの贖いに基づいて働かれる御霊によって生み出され、導かれる「来たるべき時代」に対する、「この世」、「この時代」を特徴づけ、生み出す動因です。
 自分のうちに罪の本性を宿している人はみな「」の働きかけを受けています。それで、私たち神の子どもも、

 ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。

と戒められているのです。
 「その自由を肉の働く機会と」してしまえば、神の子どもとしての自由は失われ、外側からの「刺激」に「反応」して「互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしている」と言われている状況が生まれてきます。
 これに対して、16節では、

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。

と言われていて、御霊によって歩むことによって、神の子どもとしての「自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え」合うようになることが示されています。そのことの中で、私たちは神の子どもとしての自由にあって、愛による人格的な「応答」をすることができるようになります。
 御霊は、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いを私たちに当てはめてくださいます。そして、実際に、私たちのうちに、神の子どもとしての自由にある、愛を本質的な特質とする神のかたちとしての本来の栄光と尊厳性をに回復してくださったばかりか、イエス・キリストのよみがえりにあずからせてくださって、より豊かな栄光の状態に入れてくださいました。また、ローマ人への手紙8章16節に、

御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。

と記されているように、御霊は、私たちが愛において自由な神の子どもであることを確信することができるように導いてくださっています。
 このように、御霊は、私たちのうちに神の子どもとしての実質を生み出してくださり、神の子どもとしての確信を与え、神の子どもとしての歩みを導いてくださっています。
 このように導いてくださる中で、御霊は、私たちのうちに神の子どもの自由に基づく愛による人格的な「応答」を生み出してくださいます。なぜなら、ガラテヤ人への手紙5章22節ー23節に、

 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。

と記されているように、「御霊の実」は単数で、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という人格的な徳をもつ人格ですが、その9つの徳は、その第一に挙げられている愛によってまとめられるものだからです。
 御霊が生み出してくださる神の子どもの自由に基づく愛による人格的な「応答」は、私たちが自らの本性に、なおも、罪の性質を宿しているために生まれてくる、私たちお互いの間のさまざまな行き違いや葛藤の中であったとしても、なお、「寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という「御霊の実」の特質を現して「応答」し合うものです。それは、外側からの「刺激」に対して「反応」し合う関係から離れて、外側からの「刺激」に対してさえも、神の子どもの自由に基づく愛による人格的な「応答」をする関係を生み出すことを意味しています。
 そして、この関係の中で、神の子どもとしての自由と愛に基づく交わりや対話や話し合いが生み出されます。さらに、その神の子どもとして自由と愛に基づく交わりや対話や話し合い中で、私たちは「愛をもって互いに仕え合う」ようになります。
 私たちがそのように歩むときに、私たちは「御霊なる主」によって「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます」。また、これは個人的なことですが、私たちがそのように歩むときに、同時に、教会がキリストのからだとして「かしらであるキリストに向かって」成長していきます。エペソ人への手紙4章13節ー16節に、

私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

と記されているとおりです。


【メッセージ】のリストに戻る

「黙示録講解」
(第495回)へ戻る

「黙示録講解」
(第497回)へ進む
-->

(c) Tamagawa Josui Christ Church