黙示録講解

(第495回)


説教日:22年5月22日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(248)


 今日も、黙示録2章26節ー28節前半に記されている栄光のキリストの約束と関連するみことばであるエペソ人への手紙2章10節に記されている、

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

というみことばに出てくる「良い行い」についてのお話を続けます。
 いつものように、まず、これまでお話ししてきたことで、今日お話しすることとかかわることをまとめておきます。
 ここに記されている「良い行い」は、これより前の6節に示されている、神さまが私たちを「キリスト・イエスにあって」、すなわち、私たちを御霊によってキリスト・イエスと一つに結び合わせてくださって、キリスト・イエスと「ともによみがえらせ」てくださり、キリスト・イエスと「ともに天上に座らせて」くださっているということとのつながりで考えられる「良い行い」です。
 神さまが私たちをキリスト・イエスと「ともによみがえらせ」てくださり、キリスト・イエスと「ともに天上に座らせて」くだ さったことにより、私たちは終わりの日に再臨される栄光のキリストによって再創造される、新しい天と新しい地に属している者なっています。それで、私たち は、今すでに、新しい天と新しい地の特質をもつ歴史と文化、すなわち、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たしています。それで、この「良い行い」は、私たちが「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たしていることにおける「良い行い」です。
 この「来たるべき時代」を特徴づけ、動かしているのは、聖霊降臨節(ペンテコステ)の日に、栄光のキリストが父なる神さまの右から遣わしてくださった御霊です。その意味で、この御霊はガラテヤ人への手紙4章6節では「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」と呼ばれています。
 そして、ローマ人への手紙8章14節に、

 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。

と記されているように、私たちはこの「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」に導いていただいている神の子どもとして、父なる神さまと御子イエス・キリストとの親しい愛にある交わりに生きています。また、その父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛にある交わりのうちに生きる神の子どもとして、お互いの愛の交わりに生きています。
 このことが、私たちが、今すでに、御霊に導いていただいて「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たしていることの中心にあります。それで、エペソ人への手紙2章10節の「良い行い」の本質あるいは核心は、私たちが神の子どもとして、御霊に導いていただいて、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛にある交わりに生きることと、お互いの愛にある交わりに生きることにあります。
 私たちは、この愛の交わりのうちに生きることによって、コリント人への手紙第二・3章18節に記されているように、御霊によって「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます」。このことにおいて、エペソ人への手紙1章5節に、

神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

と記されており、ローマ人への手紙8章29節に、

神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。

と記されている、父なる神さまの永遠からのみこころが、今すでに私たちの間で実現しています。――もちろん、このことの完全な実現は、終わりの日に再臨される栄光のキリストによってもたらされます。
 神さまはこの永遠からのみこころに基づいて、創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになりました。
 神のかたちの本質は自由な意志をもつ人格的な存在であることにあります。そして、ヨハネの手紙第一・4章16節に「神は愛です。」と記されているように、神さまの本質的な特質は愛です。それで、神のかたちの本質的な特質も愛です。そして、愛は自由な意志をもつ人格的な存在から生まれてきます。
 私たちが神のかたちとして造られている人としての本質的な特質である愛に生きることは、人をご自身のかたちとしてお造りになった神さまの愛を映し出すこ とす。そして、そのことを通して、私たちは、愛である神さまの栄光を現わすようになります。また、それは、私たちが最も、本来の私たち――神のかたちとし て造られている私たちらしくなることでもあります。


 愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人は、愛に生きるときに自由な状態にあります。
 それで、ガラテヤ人への手紙5章13節には、

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。

と記されています。
 これは、同じ5章の1節に、

 キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。

と記されていることを受けていて、神さまが私たちに「自由を」与えてくださっていることを示しています。そして、ここ13節では、私たちに与えられている「自由」は神さまの召しに基づいているということが示されており、1節に記されていることとのつながりでは、イエス・キリストの贖いの御業によってもたらされた解放によっているということになります。
 それで、

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。

と記されていることは、「ただ、その自由を肉の働く機会としないで」と言われていることが示しているように、神のかたちとして造られている人が神である「」 に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことと、神さまが御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちの罪を完全に 贖ってくださり、私たちをイエス・キリストとともによみがえらせてくださって、神の子どもとしてくださっていることを踏まえています。
 ガラテヤ人への手紙では、これは5章13節に記されていますが、すでに4章6節に、

そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

と記されています。私たちはすでに神の子どもとしていただいて、「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」に導いていただいて、父なる神さまとの愛の交わりのうちに生きていますし、神の子どもとして、お互いの愛の交わりのうちに生きています。そこには、御霊による自由があります。
 しかし、その私たちのうちになおも罪の性質が残っていて、私たちの本性が罪によって腐敗しています。それで、5章13節では、「ただ、その自由を肉の働く機会としないで」と言われています。
 このこととのかかわりで注目したいのは、17節に、

肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。

と記されていることです。
 ここでは、「」と「御霊」の対比があって、互いに対立していることが示されています。このように「御霊」と対立する「」(サルクス)は、肉体/からだ(ソーマ)のことではありません。この「」は、御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる「御霊」、「御子の御霊」によって特徴づけられ、造り出される「来たるべき時代」に対立する、「この世」、「この時代」を特徴づけ、造り出すものです。
 罪によって堕落している人はこの「」に従って歩んで、「この世」、「この時代」の歴史と文化を造っています。
 それは、また、かつての私たちのあり方でした。私たちは、神の子どもとしていただいている今もなお、自分のうちに罪の本性を宿しているので「」の働きかけを受けています。それで、

肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。

と記されていることは、神の子どもである私たちに当てはまります。
 ここでは、

この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。

と記されています。確かにこれは私たちの現実です。
 けれども、このことは、この17節の前の16節に、

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。

と記されていることとのつながりで理解しなければなりません。
 17節に記されているように、「」と「御霊」は互いに対立しています。しかし、「」と「御霊」は同等の力をもって対立しているのではありません。そのことは、「御霊」ご自身がまことの神であられることを考えれば分かります。
 ここでは、その「御霊」のお働きのことが記されています。「御霊」は、御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、すでに成し遂げておられる贖いの御業に基づいてお働きになります。それで、御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業の確かさは、「御霊」のお働きの確かさとつながっています。この「御霊」は、御子イエス・キリストが私たちのために成し遂げてくださった贖いの御業に、私たちをあずからせてくださっています。それで、ここでは、もし私たちが「御霊によって」歩むなら、「肉の欲望を満たすことは決してありません」と言われて、その確かさが示されています。
 また、17節で、

肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。

と言われていることは、「」と「御霊」の対立/戦いであって、私たちと「」との対立/戦いではありません。もしこれが、私たちと「」との対立/戦いであれば、私たちは絶望する他はありません。
 私たちはかつて「」によって歩んでいました。その時には、それが生まれながらのあり方でしたので、自分がそのような状態にあることを自覚することはありませんでしたし、できませんでした。当然、その私たちが「」と戦うことはありませんでしたし、できませんでした。ですから、かつての私たちは、それと知らずに、「」に縛られて歩んでいたのです。
 私たちが、かつてそのような状態にあったことが分かるようになったのは、私たちが、私たちの罪を贖ってくださるために十字架にかかってくださり、私たち を永遠のいのちに生きるようにしてくださるために栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストを信じたことによっています。
 では、どうして、私たちはイエス・キリストを信じることができたのでしょうか。それは、「御霊」が私たちを死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストと一つに結び合わせてくださって、新しく生まれさせてくださり、福音のみことばを悟らせてくださったことによっています。それは、「」に縛られて歩んでいた状態にあった私たちには、決して、できないことでした。
 ですから、私たちはこのことにおいて、「」と「御霊」の対立/戦いがあることを見て取ることができます。そして、「御霊」のお働きの確かさを見て取ることができます。

 このことを踏まえて、さらに、ガラテヤ人への手紙5章24節を見てみましょう。そこには、

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。

と記されています。
 ここで「キリスト・イエスにつく者」と言われていることは、何となく、私たちが「キリスト・イエスに」味方していることのように感じられますが、少し意味合いが違います。これを直訳調に訳せば「キリスト・イエスのものたち」です。
 このことの根底にあるのは、コリント人への手紙第一・6章20節と7章23節に、

 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。

と記されていることです。同じことを別の観点から見ると、マルコの福音書10章45節に記されている、

人の子も、・・・多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。

というイエス・キリストのみことばや、テモテへの手紙第一・2章6節に記されている、

キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。

というみことばに示されていることです。
 イエス・キリストが私たちをご自身のものとしてくださるために十字架におかかりになっていのちを捨ててくださいました。これによって、私たちは「キリスト・イエスのもの」になっています。
 そして、このことに基づいて、「御霊」が私たちをイエス・キリストと一つに結び合わせてくださっています。それで、私たちが「キリスト・イエスのもの」になっていることは、御霊によって、私たちの現実になっています。
 このことを記しているローマ人への手紙8章9節ー10節には、

しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キ リストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでい ても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。

と記されています。
 今お話ししていることとかかわっていることの結論的なことをお話ししますが、ここで、

 もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら

と言われていることは、文法の上での可能性と文脈から、これが私たちの現実であることを示していると考えられます。この、

 もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら

と訳されている部分は、

 神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるのですから

と訳すこともできます。それで、これに続いて、

 あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。

と言われていることは、私たちの現実であると理解することができます。
 そして、このこととのかかわりで、次に、

キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。

と記されていることを見ますと、これは、私たちが、栄光のキリストが遣わしてくださった御霊、すなわち「キリストの御霊を持って」いるということを踏まえて記されています。それで、私たちは「キリストのもの」であるということになりす。
 このことも、私たちが「キリスト・イエスのもの」になっていることは、御霊によって、私たちの現実になっている――「キリストの御霊を持って」いる私たちの現実になっているということを示しています。
 また、ここでは、これに続いて10節に、

 キリストがあなたがたのうちにおられるなら

と記されています。これは、先ほどと同じように、「キリストの御霊を持って」いて「キリストのもの」である私たちのうちに「キリストが」おられるということを示しています。
 これと実質的に同じことが、ガラテヤ人への手紙2章19節後半ー20節前半に、

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

と記されています。ここでパウロが自分のこととして述べていることは、私たちすべてに当てはまります。
 このようにして私たちが「キリスト・イエスのもの」になっていることは、御霊によって、私たちの現実になっています。そして、「キリスト・イエスのもの」になっている私たちは「キリストとともに十字架につけられ」ており、「キリストが」私たちの「うちに生きておられ」ます。

 このように、「キリストとともに十字架につけられ」ている私たちのことが、ガラテヤ人への手紙5章24節では、

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。

と言われています。
 ここで「自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです」と言われているときの「十字架につけた」ということは(不定過去時制で表されていて)、すでに、一度限り決定的になされたことを示しています。
 また、「自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけた」と言われているときの「情欲や欲望」はどちらも複数形で(それぞれに冠詞がついているので)「」の働きとしてのさまざまな「情欲や欲望」です。
 この場合、この「情欲や欲望」は「」の働きですから、「自分の肉を十字架につけた」のであれば、当然、その「」の働きである「情欲や欲望」はなくなってしまいます。それなのに、わざわざ、「情欲や欲望とともに」と言われていることには意味があると考えられます。
 一つには、先ほど触れたように、「自分の肉を十字架につけた」ことが、一度限り決定的になされているということとから、「」も、その働きとしての「情欲や欲望」もというように、それが一度限り、決定的かつ徹底的になされていることを示しているということです。
 もう一つのことは、この24節に、

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。

と記されていることは、それより前の19節ー21節に、

肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねた み、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を 相続できません。

と記されていることを受けているということです。これらの「肉のわざ」は「」の「情欲や欲望」の具体的な現れであると考えられます。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を」、これらの「肉のわざ」を生み出す「」の「情欲や欲望とともに十字架につけた」ということです。

 ここでは、「キリスト・イエスのもの」になっている私たちが「自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけた」と言われています。これは、私たちがそのことを自分のこととしてなしたことを意味しています。
 しかし、忘れてはならないことがあります。
 一つは、すでにお話ししたように、私たちを「キリスト・イエスのもの」としてくださるためにイエス・キリストが私たちのためになしてくだ さったこと、すなわち、私たちのために十字架にかかって贖いの代価としていのちを与えてくださったこと、私たちが永遠のいのちに生きるようになるために栄 光を受けて死者の中からよみがえってくださったということです。
 もう一つは、このイエス・キリストの御業に基づいてお働きになる御霊が、私たちを、私たちのために死んでくださりよみがえってくださった栄光のキリスト と一つに結び合わせてくださっているということです。この御霊のお働きによって、私たちはイエス・キリストにあって新しく生まれ、福音のみことばにあかし されているイエス・キリストを信じることができるようになりました。
 このすべてのことは、栄光のキリストが、父なる神さまの右から遣わしてくださった御霊、「御子の御霊」によって私たちを導いてくださったことによって私たちの現実になっています。そして、このことの中で、私たちは御霊によって導いていただいて、「自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです」。
 これらのことをみことばに基づいて理解し、踏まえた上でのことですが、私たちが自分のこととして「自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけた」ということは大切なことです。というのは、そのことをしっかりと心に刻むことがあって、私たちは、24節で、

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。

と言われていることを受けて、続く25節に記されている、

私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。

ということを自分のこととして、生きることができるからです。
 神の子どもである私たちに与えられている、

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。

という戒めは、御子イエス・キリストが私たちを愛して成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる「御子の御霊」に支えていただき、導いていただくことによって私たちの間で実現するものです。そして、それが私たちの間で実現することは、ひとえに、御子イエス・キリストの贖いの御業の確かさと、それに基づく御霊のお働きの確かさによることです。


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