黙示録講解

(第494回)


説教日:2022年5月8日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(247)


 今日も、黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という栄光のキリストの約束と関連するみことばであるエペソ人への手紙2章10節に記されている、

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

というみことばに出てくる「良い行い」についてのお話を続けます。
 まず、これまでお話ししてきたことで、今日お話しすることとかかわることをまとめておきます。
 ここに記されている「良い行い」は、これより前の6節に示されている、神さまが私たちを「キリスト・イエスにあって」、すなわち、私たちを御霊によってキリスト・イエスと一つに結び合わせてくださって、キリスト・イエス「ともによみがえらせ」てくださり、キリスト・イエスと「ともに天上に座らせて」くださっているということとのつながりで考えられる「良い行い」です。
 神さまが私たちをキリスト・イエスと「ともによみがえらせ」てくださり、キリスト・イエスと「ともに天上に座らせて」くださったことにより、私たちは、終わりの日に再臨される栄光のキリストによって再創造される、新しい天と新しい地に属している者なっています。それで、私たちは、今、新しい天と新しい地の特質をもつ歴史と文化、すなわち、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たしています。それで、この「良い行い」は、私たちが「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たしていることにおける「良い行い」です。
 この「来たるべき時代」を特徴づけ、動かしているのは、聖霊降臨節(ペンテコステ)の日に、栄光のキリストが父なる神さまの右から遣わしてくださった御霊です。その意味で、この御霊はガラテヤ人への手紙4章6節では「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」と呼ばれています。また、ローマ人への手紙8章15節では「子とする御霊」と呼ばれており、

 この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

と言われています。。
 私たちはこの「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」に導いていただいて、父なる神さまと御子イエス・キリストとの親しい愛にある交わりに生きています。また、その父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛にある交わりのうちに生きる神の子どもとして、お互いの愛の交わりに生きています。そして、この愛の交わりのうちにあって、私たちはコリント人への手紙第二・3章18節に記されているように、御霊によって「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます」。
 このことが、私たちが御霊に導いていただいて「来たるべき時代」、「新しい時代」の歴史と文化を造る使命を果たすことの中心にあります。それで、エペソ人への手紙2章10節の「良い行い」の本質は、私たちが神の子どもとして、御霊に導いていただいて、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛にある交わりに生きることと、お互いの愛にある交わりに生きることにあります。
 前回お話ししたことの結論的なことだけですが、このことは、神さまの天地創造の御業の目的に沿ったことです。
 ヨハネの福音書1章1節ー3節に記されているように、無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにおられる神さまは、天地創造の御業においてご自身の愛をお造りになった世界に注がれました。そして、その神さまの愛を受け止め、愛をもって神さまに応答する存在として、人を愛を本質的な特質とする神のかたちとしてお造りになりました。
 創世記2章7節に、

神であるは、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。

と記されているように、神である「」は人と親しく向き合うようにして、人を神のかたちとしてお造りになりました。人は、初めから、神である「」ご自身との愛にある親しい交わりに生きる者として造られています。それは、神さまの一方的な愛と恵みによっています。神さまはご自身の愛を注いでくださるために、そして、人がご自身との愛の交わりに生きるようになるために、人を神のかたちとしてお造りになりました。
 神さまが初めから限りなく豊かな愛をもって私たちを愛してくださっていることは、神さまの永遠からのみこころを記しているエペソ人への手紙1章4節ー5節に、

神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

と記されていることから汲み取ることができます。
 神さまは永遠のみこころにおいて、ご自身に対して罪を犯して、汚れたものとなる私たちをキリストにあってお選びになり「御前に聖なる、傷のない者にしようとされた」ばかりでなく、「キリストによってご自分の子にしようと」されるほどに愛してくださっていました。
 そのことは、またローマ人への手紙8章29節に、

神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。

と記されていることにも示されています。
 このように、神さまは永遠から限りなく豊かな愛をもって私たちを愛してくださっています。創造の御業はその永遠からの神さまの愛に満ちたみこころによって遂行されたのです。


 その創造の御業自体が、天地創造の御業の六つの日にわたって展開されていって、第七日の神さまの安息に至るという目的に向かっている歴史的な御業でした。さらに、神さまがご自身の安息の日として祝福して聖別された第七日は、いまだ閉じていなくて、終わりの日、すなわち、神さまがそれまでの歴史に区切りをつける日に至るまで続きます。このように、創造の御業は歴史的な世界を造り出す御業でした。そして、この神さまがご自身の安息の日として祝福して聖別された第七日が、神のかたちとして造られている人が、神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たす時となっています。
 神さまが創造の御業の第七日をご自身の安息の日として祝福して聖別されたのは、この日に、ご自身の永遠からの愛を神のかたちとして造られている人に注いでくださり、人がその愛を受け止め、愛をもって神さまに応答するようにしてくださるためでした。その神さまとの愛の交わりの中心に礼拝があります。そのために神である「」は神のかたちとして造られている人の間にご臨在してくださり、人に愛を注いでくださり、人がその愛を受け止めて、「」への愛をもって礼拝することができるようにしてくださいました。
 このことは、神さまが創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人にお委ねになった歴史と文化を造る使命は、人が自分たちの間にご臨在してくださる神である「」の愛を受け止め、「」の愛に応答して「」を愛して、神として礼拝することを中心とし、目的とする歴史と文化を造る使命であるということを意味しています。
 このこととのかかわりで注目したいのは、ヘブル人への手紙2章6節ー8節aに記されているみことばです。そこには、

ある箇所で、ある人がこう証ししています。
 「人とは何ものなのでしょう。
 あなたがこれを心に留められるとは。
 人の子とはいったい何ものなのでしょう。
 あなたがこれを顧みてくださるとは。
 あなたは、人を御使いよりも
 わずかの間低いものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。」

と記されています。
 ここでは、詩篇8篇4節ー6節の七十人訳が(ヘブル語本文の6節の「あなたの御手のわざを人に治めさせ」に当たる「あなたは人をあなたの御手のわざの上に置かれ」を除いて)引用されています。
 今お話ししていることとかかわっていることだけに触れますが、ここには、神さまが創造の御業において、人を神のかたちとしてお造りになったことと、人に歴史と文化を造る使命を委ねられたことが記されています。
 まず、注目したいのは、ここでは、神のかたちとして造られている人は「御使いよりもわずかの間低いもの」として造られたと言われているということです。
 すでにお話ししたことがありますが、御使いたちは神さまに向かって、親しく「アバ、父」と呼びかけることはできません。それは、本来、神の御子であられるイエス・キリストだけにできることです(参照・マルコの福音書14章36節)。まして、「御使いよりもわずかの間低いもの」として造られた人は、神さまに向かって、親しく「アバ、父」と呼びかけることはできません。
 しかし、先ほど触れたように、私たちは、今すでに、聖霊降臨節(ペンテコステ)の日に、栄光のキリストが父なる神さまの右から遣わしてくださった「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」によって、父なる神さまに向かって、親しく「アバ、父」と呼びかけて、父なる神さまと御子イエス・キリストとの親しい愛にある交わりに生きています。また、その父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛にある交わりのうちに生きる神の子どもとして、お互いの愛の交わりに生きています。そして、この愛の交わりのうちにあって、私たちは、この御霊によって「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます」。
 このことを踏まえて、改めて、ヘブル人への手紙2章8節bー10節に記されていることを見てみましょう。そこには、

神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。

と記されています。
 8節bでは、

神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。

と言われていて、神さまが創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになって、人にお委ねになった歴史と文化を造る使命は、まだ完全には実現していないということが記されています。
 実際には、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまって、罪とその結果である死の力に捕らえられてしまっていますし、暗闇の主権者であるサタンの支配の下にあります。
 しかし、続く、9節aには、

ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。

と記されています。
 ここでは、イエス・キリストのことが「御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエス」と言われています。これは御子イエス・キリストが、創造の御業において神のかたちとして造られた時の状態の人の性質を取って来てくださったということを意味しています。これによって、御子イエス・キリストが、私たちご自身の民と一つになってくださいました。
 そして、9節b、cには、

イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

と記されています。
 このイエス・キリストの「死の苦しみ」は、

 その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

と言われていることから分かりますが、私たちご自身の民の罪を贖うための十字架の死のことです。それと同時に、ここでは、イエス・キリストは、

 死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました

と言われています。これは、ピリピ人への手紙2章8節ー9節に、

 自らを低くして、死にまで、
 それも十字架の死にまで従われました。
 それゆえ神は、この方を高く上げて、
 すべての名にまさる名を与えられました。

と記されていることに当たります。

 注目したいのは、ヘブル人への手紙2章9節bでは、そのことが、

 イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。

と言われていることです。
 ここ9節に出てくる「栄光と誉れの冠」は、ことばとしては7節に引用されている詩篇8篇5節の、

 あなたは、人を御使いよりも
 わずかの間低いものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

というみことばに出てくる「栄光と誉れの冠」と同じことばです。[注]

[注]この「栄光と誉れの冠をかぶらせ」と訳されている部分は、直訳調に訳すと「栄光と誉れをもって冠をかぶらせ」という感じになります。ここには「栄光と誉れ」という二つの名詞と、「冠をかぶらせる」という動詞があります。
 この場合は、「冠をかぶらせる」ということに大切な意味があります。それは、最後の部分で、
  これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、
  万物を彼の足の下に置かれました。
と言われているように、神さまが神のかたちとして造られている人に歴史と文化を造る使命という「王的な」使命をお委ねになったことを表しているからです。それで、この意味を汲み取って、以下でこのことに触れるときには、「栄光と誉れの冠」として、取り上げていきます。

 5節に出てくる「栄光と誉れの冠」は、神さまが創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになって歴史と文化を造る使命をお委ねになったときの「栄光と誉れの冠」です。
 しかし、9節で、

 イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。

と言われているときの「栄光と誉れの冠」は、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことへの報いとしてお受けになった「栄光と誉れの冠」です。それは、人が神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられたときの「栄光と誉れの冠」より、さらに、一段と高い「栄光と誉れの冠」です。
 このように、イエス・キリストが「死の苦しみのゆえに」お受けになった「栄光と誉れの冠」が、神さまが創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人にお与えになった「栄光と誉れの冠」と同じことばで表されていることには二つの意味があります。
 一つは、イエス・キリストが、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおしたことによってお受けになった「栄光と誉れの冠」は、あくまでも、イエス・キリストがお取りになった人としての性質における「栄光と誉れの冠」であるということを示しているということです。
 そうであるからこそ、9節cにおいて、イエス・キリストの十字架の死について、

 その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

と記されています。さらには、続く10節では、それは「多くの子たちを栄光に導くため」の死であったことが示されていますし、イエス・キリストのことが「彼ら[多くの子たち]の救いの創始者」と呼ばれています。
 もう一つ(の意味)は、繰り返しになりますが、5節に出てくる「栄光と誉れの冠」が、神さまが創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになって歴史と文化を造るという、王的な使命をお委ねになったときの「栄光と誉れの冠」であるということにかかわっています。
 このつながりの光の下で見ますと、9節に記されている、イエス・キリストが十字架の死に至るまでの従順に対する報いとしてお受けになった「栄光と誉れの冠」は、神さまが創造の御業において神のかたちとしての「栄光と誉れの冠」をもつものとしてお造りになった人にお委ねになった歴史と文化を造る使命を成就しておられるイエス・キリストにお与えになった「栄光と誉れの冠」であるということが分かります。
 このことは、また、2章5節ー10節に記されていることが、5節に、

というのも、神は、私たちが語っている来たるべき世を、御使いたちに従わせたのではないからです。

と記されていることによって導入されていることからも分かります。 この5節ー10節には、神さまが「来たるべき世」を「御使いたちに従わせたのではない」ということを示すために記されています。そして、この「来たるべき世」は、9節で、

 イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました

と言われている「イエス」、すなわち、ダビデ契約に約束されていた永遠の王座である父なる神さまの右の座に着座された栄光のキリスト・イエスが支配する「」ですし、「救いの創始者」であるイエス・キリストによって栄光に導かれた「多くの子たち」が栄光のキリストとともに支配する「」です。
 このことは、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という栄光のキリストの約束のみことばが示していることとと、実質的に同じことです。
 栄光のキリストが父なる神さまから受けた権威は、ダビデ契約に約束されていた永遠の王座である神さまの右の座に着座された栄光のキリストの権威です。そして、この方が御霊によって治めておられるのは「来たるべき世」であり「来たるべき時代」です。
 そして、この栄光のキリストは、すでに、王として治めておられますが、その王権は「死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられ」たことによって確立された王権です。また「その死は、神の恵みによって、すべての人[私たち「主」の民すべて]のために味わわれたものです」し、「多くの子たちを栄光に」導いてくださるための死でした。
 このことに、父なる神さまが栄光のキリストにお与えになった権威がどのような権威であるかが如実に示されています、「来たるべき世」であり「来たるべき時代」を支配しておられる王は、私たちご自身の民を愛してくださって、私たちご自身の民を栄光に導いてくださるために「「死の苦しみ」を味わわれました。それで、この方が、私たちに与えてくださると約束してくださった「諸国の民を支配する権威」もこれと同じ特質をもった権威です。

 これらのことから分かりますが、9節で、

 イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

と言われていることは、栄光のキリストが、神さまが創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人に委ねてくださった歴史と文化を造る使命を、原理的・実質的に、成就しておられるということを意味しています。
 先ほど触れたように、創造の御業において神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまって、罪とその結果である死の力に捕らえられてしまいましたし、暗闇の主権者であるサタンの支配の下に置かれてしまいました。
 これは、サタンが創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになり、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに現されている神さまのみこころの実現を阻止しようとしたことによっています。
 こには創造の御業において現されている神さまのみこころの実現をめぐる霊的な戦いがあります。
 そのことを踏まえると、9節で、

イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

と言われていることは、栄光のキリストが創造の御業において現されている神さまのみこころを原理的・実質的に実現しており、すでに霊的な戦いにおける勝利は決しているということを意味していることが分かります。
 最後に注目したいのは、11節ー13節に、

聖とする方も、聖とされる者たちも、みな一人の方から出ています。それゆえ、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせずに、こう言われます。
 「わたしは、あなたの御名を兄弟たちに語り告げ、
 会衆の中であなたを賛美しよう。」
また、
 「わたしはこの方に信頼を置く」
と言い、さらに、
 「見よ。わたしと、神がわたしに下さった子たち」
と言われます。

と記されていることです。
 見方が別れていますが、結論的なことを言いますと、

 聖とする方も、聖とされる者たちも、みな一人の方から出ています。

ということは「聖とする方」であるイエス・キリストも、「聖とされる者たち」である私たちも、「一人の方」、すなわち父なる神さまから出ているということを意味しています。
 そしてこれに続いて、イエス・キリストが私たちを「兄弟と呼」ばれ、私たちのことを「神がわたしに下さった子たち」、すなわち、神の子どもたちと呼んでおられることが示されています。
 私たちはイエス・キリストを長子とする神の子どもです。それで、私たちは「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」に導いていただいて、父なる神さまと御子イエス・キリストとの親しい愛にある交わりに生きていますし、お互いに愛の交わりに生きています。
 そして、繰り返しになりますが、私たちが、このように、「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」に導いていただいて、父なる神さまと御子イエス・キリストとの親しい愛にある交わりに生きること、また、お互いに愛の交わりに生きることは、神さまがご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださった創造の御業の第七日において、私たちが「来たるべき世」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たすことの中心にあることです。
 また、私たちが父なる神さまの愛を受け止めて、「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」に導いていただいて、父なる神さまと御子イエス・キリストとの親しい愛にある交わりに生きること、また、お互いに愛の交わりに生きることにおいて、創造の御業の第七日をご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださった神さまの安息が実現しています。この神さまの安息は、終わりの日に再臨される栄光のキリストが再創造される新しい天と新しい地において、まったき安息となります。


【メッセージ】のリストに戻る

「黙示録講解」
(第493回)へ戻る

「黙示録講解」
(第495回)へ進む
-->

(c) Tamagawa Josui Christ Church