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説教日:2022年5月1日 |
私たちが、御霊によって導いていただいて神の子どもとして歩むことの中で、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて」いただき、やがて、終わりの日に「キリストに似た者」になって、「キリストをありのままに見る」ようになることは、神さまが天地創造の初めに人を神のかたちとしてお造りになったことに現されているみこころが実現することを意味しています。 このことにかかわるみこころについてだけお話ししますと、神さまのみこころは、神のかたちとして造られている人が、ご自身を礼拝することを中心として、ご自身との愛の交わりのうちを歩むことによって、お造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を果たしていったなら、そのことへの報いとして、人を最初に神のかたちとして造られたときの栄光より一段と高く豊かな栄光の状態に入れてくださることにありました。 しかし、実際には、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、その神さまのみこころは実現しなくなってしまったかのようになりました。 けれども、神さまは「最初の福音」において約束してくださった「女の子孫」としての贖い主として、ご自身の御子をお遣わしになりました。 ピリピ人への手紙2章6節ー9節に、 キリストは、神の御姿であられるのに、 神としてのあり方を捨てられないとは考えず、 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、 人間と同じようになられました。 人としての姿をもって現れ、 自らを低くして、死にまで、 それも十字架の死にまで従われました。 それゆえ神は、この方を高く上げて、 すべての名にまさる名を与えられました。 と記されているように、御子は父なる神さまのみこころに従って、罪を除いて私たちと同じ人としての性質、すなわち、創造の御業において神のかたちとして造られたときの人の性質をお取りになって来てくださり、私たちご自身の民の契約のかしらとなってくださいました。そして、私たちの罪を贖ってくださるために十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わってすべて受けてくださいました。そればかりでなく、御子イエス・キリストは「十字架の死にまで」父なる神さまのみこころに従われたことに対する報いとして、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられました。 御子は御父と等しい神であられ、無限、永遠、不変の栄光に満ちておられる主ですから、ご自身のために栄光を受ける必要はありません。このすべてのことは、御子イエス・キリストが私たちを愛してくださった父なる神さまのみこころに従って、私たちのために成し遂げてくださったことです。 御子が創造の御業において神のかたちとして造られたときの人としての性質を取って来てくださったのは、私たちご自身の民の契約のかしらとして、私たちと一つになってくださるためのことでした。それによって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を私たちに代わって受けてくださることができるようになったのです。そして、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおしたことに対する報いとしての栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたのも、その人としての性質においてのことであり、それによって、私たちご自身の民をご自身とともに栄光の状態によみがえらせてくださるためでした。 このことから、人が歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて神さまのみこころに従いとおしたなら、そのことに対する報いとして、最初に造られたときの神のかたちとしての栄光より、さらに豊かな栄光の状態に入れていただくようになるということが、神さまの初めからのみこころであったことが分かります。 さらに、このことは、引用はしませんが、ローマ人への手紙5章12節ー21節や、コリント人への手紙第一・15章20節ー22節に記されている、最初の人アダムとイエス・キリストとの対比からも汲み取ることができます。 神さまはこのようなご計画をもって、創造の御業を遂行され、人を神のかたちとしてお造りになりました。 繰り返しお話ししてきたことですので詳しい説明は省略しますが、ヨハネの福音書1章1節ー3節に、 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。 と記されていることから分かりますが、御父と御子は御霊によって無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにおられます。そして、御父は御子によって遂行された天地創造の御業においてご自身の愛をお造りになった世界に注がれました。そして、その神さまの愛を受け止め、愛をもって神さまに応答する存在として、人をご自身のかたち――愛を本質的な特質とする神のかたちとしてお造りになりました。 それで、神のかたちとして造られている人のいのちの本質は、神さまの愛を受け止め、愛をもって神さまに応答すること、すなわち、神さまとの愛にある交わりに生きることにあります。 そのために、神さまは、最初に造り出された「地」のことを記している創世記1章2節に、 地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。 と記されているように、御霊によって、「地」にご臨在してくださいました。これによって、やがて人が住まうように整えていかれる「地」をご自身が特別な意味でご臨在される所として聖別してくださっていました。 この神さまの「地」への御臨在が特別な意味での御臨在であると言いましたが、そのことについて触れておきます。 イザヤ書66章1節ー2節前半には、 主はこう言われる。 「天はわたしの王座、地はわたしの足台。 あなたがたがわたしのために建てる家は、 いったいどこにあるのか。 わたしの安息の場は、 いったいどこにあるのか。 これらすべては、わたしの手が造った。 それで、これらすべては存在するのだ。 ――主のことば―― という「主」のみことばが記されています。このことは、「主」が天と地、すなわち、お造りになったこの世界全体にご臨在しておられ、すべてのものを真実に支え、導いてくださっていることを示しています。 それで、詩篇19篇1節に、 天は神の栄光を語り告げ 大空は御手のわざを告げ知らせる。 と記されており、ローマ人への手紙1章20節に、 神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められる と記されているように、この世界のすべてのもの、この壮大な宇宙のすべてのものが、それをお造りになった神さまの栄光を現しています。そして、その神さまの栄光に触れて、そこに現されている神さまの真実さといつくしみを汲み取って、神さまに栄光を帰して礼拝するのは神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人です。 神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、ただ、この世界のすべてのものが現している神さまの栄光に触れるだけではありません。この「地」にご臨在してくださっている神さまご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるという、この上ない祝福にあずかっているのです。そして、このことは、後ほどお話ししますが、神さまの天地創造の御業の目的の中心にあります。このような意味で、神さまがこの「地」にご臨在してくださっていることには特別な意味があります。 このことを踏まえて、創世記1章1節ー2章3節に記されている天地創造の御業の記事を見ますと、先ほど触れたように1章2節に、 地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。 と記されていることは、やがて人が住まうように整えていかれる「地」をご自身が特別な意味でご臨在される所として聖別してくださっていて、そこに神のかたちとしてお造りになった人を住まわせてくださったということを汲み取ることができます。 神さまはこの「地」を明るく澄んだ大気に包まれた暖かい世界、適度に乾き、適度に潤う世界としてお造りになり、多様な植物が芽生えて豊かな実を結び、それに包まれて多様な生き物が生息する豊かな世界としてお造りになりました。そのすべてが、神さまの御臨在に伴う豊かさの現れです。神さまは、そのように豊かな「地」を神のかたちとして造られている人が住まう所としてくださいました。神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、お造りになったすべてのものを真実に支え育んでおられる神さまの愛といつくしみに満ちた「主」の栄光の御臨在に囲まれており、どこにおいても神である「主」の御手を身近に感じ取ることができました。 また、それとともに、14節ー18節に、 神は仰せられた。「光る物が天の大空にあれ。昼と夜を分けよ。定められた時々のため、日と年のためのしるしとなれ。また天の大空で光る物となり、地の上を照らすようになれ。」すると、そのようになった。神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼を治めさせ、小さいほうの光る物には夜を治めさせた。また星も造られた。神はそれらを天の大空に置き、地の上を照らさせ、また昼と夜を治めさせ、光と闇を分けるようにされた。神はそれを良しと見られた。 と記されています。 ここには、天体が「地」に対してもつようにされている役割のことが記されています。このことから、神のかたちとして造られている人が、自分たちが置かれている「地」に満ちているものをとおして示されている神さまの御臨在のいつくしみとまことに満ちた栄光に触れるだけでなく、先ほどの、 天は神の栄光を語り告げ 大空は御手のわざを告げ知らせる。 というように天において示されている神さまの御臨在のいつくしみとまことに満ちた栄光に触れるようにしてくださっていることを、汲み取ることができます。 これらのことは、いわば、この造られた世界全体、この大宇宙のすべてが、神のかたちとして造られている人が、神さまから委ねられている歴史と文化を造る使命を果たす、「空間的な舞台」であることを意味しています。 それとともに注目したいことは、神さまが歴史的な世界を創造されたということです。 創世記1章1節に、 はじめに神が天と地を創造された。 と記されていることは、独立した文で、1章1節ー2章3節に記されていることの「見出し文」になっています。そして、ここでは「はじめに」ということばが冒頭に出てきて時間的な面が強調されています。しかも、ヘブル語では「はじめに」(ベレーシート)と「創造された」(バーラー)が[ベレーシートの最初の三つの子音字とバーラーの子音字が同じで]頭韻法によって結ばれています。このように、天地創造の御業の記事全体の「見出し文」が創造の御業の歴史性を、二重に、強調しています。 また、創造の御業自体が天地創造の御業の6つの日にわたって展開されていって、第七日の神さまの安息に至るという目的に向かっている歴史的な御業でした。さらに、神さまがご自身の安息の日として祝福して聖別された第七日は、いまだ閉じていなくて、終わりの日(神がそれまでの歴史に区切りをつける日)に至るまで続きます。このように、創造の御業は歴史的な世界を造り出す御業でした。そして、この神さまがご自身の安息の日として祝福して聖別された第七日が、神のかたちとして造られている人が、神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たす「時間的な舞台」となっています。 この天地創造の御業の第七日が、神さまが創造の御業においてお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を神のかたちとして造られている人が造る日であることと、神さまがこの日をご自身の安息の日として祝福して聖別されたことの意味を確認しておきましょう。 創世記2章7節には、 神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。 と記されています。 ここで、神である「主」は、人間的な言い方をしますと、限りなく身を低くされて、人と親しく向き合うようにして、人を神のかたちとしてお造りになりました。神のかたちとして造られている人は、初めから、真実な神さまのいつくしみに満ちた御臨在の現れに囲まれていただけではありません。初めから、そこにご臨在される神である「主」ご自身との愛にある親しい交わりに生きる者として造られています。 これまで繰り返しお話ししてきたように、愛は自由な意志をもつ人格的な存在から生まれてきます。しかも、愛の目的は愛する相手自身にあります。神さまは人がご自身の役に立つからということで人を神のかたちとしてお造りになったのではありません。神さまは永遠に無限の豊かさに満ちておられて、欠けるものは何もありません。神さまはご自身の愛を注いでくださるために、そして、人がご自身との愛の交わりに生きるようになるために、人を神のかたちとしてお造りになりました。 一見すると、神さまが神のかたちとして造られている人に、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことは、神さまが人をご自身の役に立てようとしておられるように見えます。しかし、それは、堕落後の人が自分たちの間でしていること――賃金を支払って自分たちのために働いてもらうという、正当なことから、弱い立場の人々を搾取してしまうことなどまで――を神さまに当てはめて見るために、そのように見えてしまうだけのことです。 神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことによって、見えない神さまの御臨在に伴う豊かさに触れることになります。それによって、そこにご臨在されて、お造りなったすべてのものの一つ一つを、特に、自分たちを、真実に支え、導き、育み育ててくださっている「主」と、その御手を身近に感じ取ることができるようになります。それによって、神である「主」に一切の栄光を帰して礼拝することを中心として、「主」との愛にある交わりに生きるようになるのです。 神さまは人がご自身の役に立つからということで人を神のかたちとしてお造りになったのではないということは、人がご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったにもかかわらず、神さまがご自身の御子をもお遣わしになって、その十字架の死をもって私たちの罪を贖ってくださって、私たちをご自身との愛の交わりに生きるようにしてくださったたことに、この上なく鮮明を現されています。ヨハネの手紙第一・4章9節ー10節に、 神はそのひとり子を世に遣わし、 その方によって 私たちにいのちを得させてくださいました。 それによって 神の愛が私たちに示されたのです。 私たちが神を愛したのではなく、 神が私たちを愛し、 私たちの罪のために、 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。 ここに愛があるのです。 と記されているとおりです。 ここに記されていることについても、注意しておきたいことがあります。 私たちは、人が神さまに対して罪を犯したから、神さまの人に対する愛が深くなったと考えるかも知れません。しかし、そうではなく、神さまの愛は初めからそのように深く豊かな愛であり、人の堕落の後には、その愛がより鮮明に現されるようになったということです。 神さまが初めから限りなく豊かな愛をもって私たちを愛してくださっていることは、神さまの永遠からのみこころを記しているエペソ人への手紙1章4節ー5節に、 神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。 と記されていることから汲み取ることができます。 ここでは、まず、神さまは永遠のみこころにおいて、キリストにあって「私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされた」と言われています。「御前に聖なる、傷のない者にしようとされた」というは、私たちがご自身に対して罪を犯して、汚れたものとなることを踏まえています。そして、神さまはそのような私たちをキリストにあってお選びになり「御前に聖なる、傷のない者にしようとされた」ばかりでなく、「キリストによってご自分の子にしようと」されるほどに愛してくださっていました。 このように、神さまは初めから、というより、永遠から限りなく豊かな愛をもって私たちを愛してくださっています。しかし、私たちには被造物としての限界がありますので、その愛をすべて受け止め切ることはできません。それで、神さまはその愛を私たちの成長に合わせて、私たちが受け止めることができるように示してくださいます。それを、私たちの側から見ると、神さまの愛が深くなったように見えるわけです。 ヨハネの手紙第一・3章2節には、 愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。 と記されています。 終わりの日には、栄光のキリストが再臨されて、私たちを栄光のからだによみがえらせてくださいます。その日には、私たちは「キリストに似た者」になって、「キリストをありのままに見る」ようになります。それは、私たちがより豊かな栄光にあって、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛の交わりに生きるようになることを意味しています。それによって、神さまの私たちへの愛が変わるのではなく、初めから私たちに豊かに注がれている神さまの愛を、私たちがより豊かに受け止めることができるようになるということです。 終わりの日に再臨される栄光のキリストは、私たちの救いを完全に実現してくださり、私たちを御霊によって栄光のからだによみがえらせてくださいます。――その日まで地上で生きている「主」の契約の民であれば、栄光のからだをもつ者に造り変えてくださいます。 それとともに、栄光のキリストは新しい天と新しい地を再創造されます。そこには最初に創造された世界にご臨在しておられた神である「主」の栄光の御臨在より一段と高く豊かな栄光の御臨在があります。キリストにあって栄光化される私たち「主」の民は、その一段と高く豊かな栄光の御臨在の御許に近づいて、より豊かな栄光にあって、「主」との愛の交わりに生きるようになります。 その新しい天と新しい地も歴史的な世界ですので、私たち「主」の民もさらに栄光のキリストのかたちに似た者として成長していきます。それに伴って、「主」との愛の交わりもより深く豊かになっていきます。それが永遠に続いていっても、神さまが初めから私たちを愛してくださっている限りなく豊かな愛を、私たちが汲み尽くしてしまうことはできません。新しい天と新しい地にあっても、神さまの愛は、永遠に、私たち「主」の民にとって、常に新しく、常に豊かな愛であり続けます。 このように、神さまがご自身の愛を限りなく豊かに注いでくださり、その愛を私たち「主」の民が受け止めて、愛をもって応答することができるようになることよって、創造の御業において、第七日をご自身の安息の日として祝福して聖別された神さまの安息はまったきものとなります。 アウグスティヌスはその『告白』の1巻1章1において、 あなたは私たちを、ご自身に向けてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることはできないのです。 と述べています。確かに、そのとおりです。このアウグスティヌスの告白のことばに触れた時の深い納得をともなう、しみじみとした感動を忘れることはできません。 同時に、私たちは、本当に驚くべきことですが、神さまはご自身の愛を私たちご自身の民に限りなく豊かに注がれて、私たちがその愛を汲み取って、愛をもって神さまに応答するようになるまでは、ご自身の安息はまったきものとならないとしておられました。それゆえに、神さまはご自身の御子をもお遣わしになって、私たちをご自分の子としてくださり、御子の御霊によって、ご自身に向かって「アバ、父よ」と親しく呼びかけることができるようにしてくださっているほどに御許に近づけてくださって、豊かな愛を注いでくださっています。その意味において、すでに、御子イエス・キリストにあって、父なる神さまの安息は実現しています。 それとともに、父なる神さまは、いまだ、ご自身の安息が完全には実現していないとしておられます。それゆえに、必ず、終わりの日に、栄光のキリストをお遣わしになって、私たちご自身の民を一段と高い栄光の状態によみがえらせてくださって、ご自身との愛の交わりをこの上なく豊かなものとしてくださいます。それによって、ご自身の安息を完全に実現されます。 私たちは父なる神さまの私たちに対するこのような愛のみこころを、常に、心に刻み続けたいと思います。 |
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