黙示録講解

(第492回)


説教日:2022年4月3日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(245)


 本主日も、黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束と関連するみことばについてのお話を続けます。
 これまで、この栄光のキリストの約束と関連するみことばの一つとしてエペソ人への手紙2章1節ー10節に記されていることからお話してきて、今はその最後の10節に、

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

と記されている「良い行い」についてお話ししています。
 ここに記されている「良い行い」は、これより前の6節に、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されていることとのかかわりで考えられる「良い行い」です。
 この6節においては、神さまが私たちを「キリスト・イエスにあって」、キリスト・イエスと「ともによみがえらせ」てくださり、キリスト・イエスと「ともに天上に座らせて」くださっていることが示されています。
 そして、ここに記されていることは、1章20節ー22節前半に、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ(ました)。

と記されていることを受けています。
 改めて、心に刻んでおきたいことですが、黙示録2章28節前半で栄光のキリストが、

 わたしも父から支配する権威を受けた

と言っておられることは、このエペソ人への手紙1章20節ー22節前半に記されていることに当たります。
 そして、2章6節に、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されていることは、黙示録2章26節ー27節に、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。

と記されていることに当たります。
 1章20節では、父なる神さまが「キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて」くださったことが示されています。そして、このことが、黙示録で栄光のキリストが、

 わたしも父から支配する権威を受けた

と言われることの核心にあることです。
 しかし、ここでは、この「キリスト」が、父なる神さまのみこころに従って、私たちの罪を贖ってくださるために十字架におかかりになり、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を私たちに代わってすべて受けてくださったということが踏まえられてはいますが、そのことは記されてはいません。
 これまで繰り返しお話ししてきましたが、御子イエス・キリストが十字架におかかりになっていのちを捨ててくださったことは、栄光のキリストが父なる神さまから受けた「支配する権威」を理解するために決定的に重要なことです。それなのに、どうして、この大切なことが踏まえられてはいるけれども、記されていないのでしょうか。
 このことには理由があります。それは、ここに記されていることは、15節ー23節に記されている、パウロのこの手紙の読者たちのための感謝に満ちたとりなしの祈りの一部であるからです。さらに、このとりなしの祈りは、その前の3節ー14節に記されている、父なる神さまがイエス・キリストにあって、私たちを祝福してくださったことを受けているからです。
 今日は、この点に注目してお話ししたいと思います。


 エペソ人への手紙1章に記されている順序に従うと、父なる神さまがイエス・キリストにあって、私たちを祝福してくださった祝福は、3節に、

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

と記されていることによってまとめられています。
 そして、新改訳で4節が「すなわち」と始まっているように、ここには接続詞(カソース)があります。これは、(新約聖書と初期キリスト教文献のギリシア語のレキシコンであるBDAGによると)父なる神さまがほめ讃えられるべき「理由」、「根拠」を示していて、それが4節ー14節に具体的に記されていることになります。
 この4節ー14節に記されていることをどのように区分するかについては一定した見方があるわけではありませんが、これが父なる神さまがほめ讃えられるべき「理由」、「根拠」を示しているという点からは、6節に、

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

と記されていること、12節に、

それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。

と記されていること、そして、14節の後半に、

このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。

と記されていることで区切られると考えられます。
 4節ー6節には、

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

と記されています。
 ここでは、父なる神さまが永遠において、私たちを「キリストにあって」お選びくださり、「御前に聖なる、傷のない者にしようとされ」、「イエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられ」たことのゆえに、父なる神さまの栄光がほめ讃えられるべきことが示されています。
 また、7節ー12節には、

このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。

と記されています。
 ここでは、父なる神さまが贖いの御業の歴史において、キリストにあって、また、キリストによって成し遂げてくださったことが記されています。父なる神さまの「豊かな恵み」によって、私たちは「このキリストにあって」「その血による贖い、背きの罪の赦しを受けて」いるということ、そして、父なる神さまが、さらに、「この恵みを・・・私たちの上にあふれさせ」てくださって、「時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められること」という「みこころの奥義を私たちに知らせて」くださったということ、さらには、私たちが「キリストにあって」、「神の資産」(新改訳2017欄外別訳[本文の「御国を受け継ぐ者」の「御国を」は原文にありません])、神さまの所有の民にしていただいていることのゆえに、父なる神さまの栄光がほめ讃えられるべきことが示されています。
 そして、13節ー14節には、

このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。

と記されています。
 ここでは、父なる神さまが、キリストによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる聖霊を遣わしてくださったことが記されています。具体的には、「真理のことば」すなわち「救いの福音を聞いて」信じた私たちに「約束の聖霊によって証印を」押してくださり、この聖霊が、神さまの所有の民となっている「私たちが御国を受け継ぐことの保証」(ここでも「御国を」は原文にありませんので、ここでは、「救いの福音」に示されている祝福のことでしょう)となってくださっているということです。そして、ことのゆえに、父なる神さまの栄光がほめ讃えられるべきことが示されています。
 ですから、私たちが父なる神さまの豊かな恵みによって、御子イエス・キリストが十字架におかかりになって流された「血による贖い、背きの罪の赦しを受けて」いることは、20節には記されてはいませんが、すでに、7節に記されています。そして、特に注目しておきたいことですが、そこでは、これに続いて、父なる神さまがその豊かな恵みをさらに溢れさせてくださって、「時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められること」という「みこころの奥義を私たちに知らせて」くださったということが示されています。

 パウロは、このようなことを踏まえて、15節ー23節に、この手紙の読者たち――それには私たちも含まれています――のための、父なる神さまへの感謝に満ちた、とりなしの祈りを記しています。その祈りは、17節ー19節に、

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。

と記されています。[注]

[注]この祈りをどのように理解すべきかということについては、見方が別れています。問題は、「私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」という祈りの次の部分をどのように理解するかということです。新改訳2017年版で「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって」と訳されている部分は、原文では、完了時制時制の分詞の受動態で表されています。この受動態は神的受動態として、神さまがすでにしてくださっていることを表していると考えられます。そして、このような構文では、神さまがしてくださっていることが原因となっていることを示していると考えられています。それで、ウォーレス(Wallsce, Greek Grammar Beyond the Basics, p.631)は、この部分を、「あなたがたの心の目がはっきり見えるようにされているので、」と訳しています。
 そうであるとしますと、ここでパウロは、神さまがそのようにしてくださっているので、「あなたがたが」(1)「神の召しにより与えられる望みがどのようなものか」、(2)「聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか」、(3)「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」と祈っていることになります。

 いずれにしましても、ここでパウロが祈り求めていることは、基本的に、すでに、3節ー14節において記している豊かな祝福を、キリストにあって、与えてくださっている父なる神さまご自身を、私たちが知ることができるようになることと、父なる神さまが、イエス・キリストにあって、私たちのために成し遂げてくださり、なしていてくださることを、私たちが知ることができるようにということです。
 最初の、

私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

という祈りでは、父なる神さまのことが「私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父」と呼ばれています。最初の「私たちの主イエス・キリストの神」は、3節で、

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

と言われていることとつながっています。そして、先ほどお話ししたように、

神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

ということは、続く4節ー14節に記されている、父なる神さまが永遠において、また、贖いの御業の歴史において私たちのために成し遂げてくださったこと、また、なしてくださっていることのすべてをまとめています。17節に記されている、

私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

という祈りは、そのように、限りなく豊かな祝福をもって私たちを祝福してくださっている父なる神さまご自身を私たちが知ることができるようになるために、「知恵と啓示の御霊を・・・与えてくださいますように」ということです。
 それは、具体的には、繰り返しをいとわず言いますと、私たちが永遠において、キリストにあって、「私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされ」、「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられ」た父なる神さまご自身を知ることができるようになることですし、その永遠からの愛のみこころを実現してくださるために、ご自身の「豊かな恵み」によって、私たちが「キリストにあって・・・その血による贖い、背きの罪の赦しを受け」るようにしてくださった父なる神さまご自身を知ることです。また、そればかりでなく、その豊かな恵みを私たちの上にさらに溢れさせてくださって、「時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められること」という「みこころの奥義を私たちに知らせて」くださった父なる神さまご自身を知ることであり、「キリストにあって、私たち」をご自身の所有の民としてくださった父なる神さまご自身を知ることです。さらには、「救いの福音を聞いてそれを信じた」私たちに「約束の聖霊によって証印を」押してくださり、「私たちが御国を受け継ぐことの保証」をしてくださっている父なる神さまご自身を知ることです。
 父なる神さまは、キリストにあって、また、キリストによって、私たちにこれらすべてのことをなしてくださっています。かつて自分の罪に縛られていたときの私たちであれば、私たちの心の目は、もっぱら、父なる神さまが私たちのためにしてくださったことに向けられていたことでしょう。しかし、今は違います。これらすべての祝福にあずかっている私たちにとって、いちばん大切なことは、これらすべてのことをなしてくださった父なる神さまご自身であり、これらすべてのことに現されている父なる神さまの愛です。
 ですから、パウロがこの手紙の読者たちのためにとりなして祈るに当たって、まず、パウロ自身を含めて、自分たちにこれらすべてのことをなしてくださった父なる神さまに感謝し、父なる神さまが、「知恵と啓示の御霊」を私たちに与えてくださって、私たちが父なる神さまご自身を知ることができるようにしてくださることを祈り求めていることは、私たちにとって最も大切なことを祈り求めていることになります。
 私たちが父なる神さまご自身を知るということは、父なる神さまとの愛の交わりにあって、父なる神さまを現実的な方として知ることを意味しています。そして、父なる神さまが与えてくださる「知恵と啓示の御霊」は、私たちに御子イエス・キリストを知るように導いてくださいます。そして、私たちは御子イエス・キリストを知ることによって初めて、父なる神さまがどなたであるかを知ることができます。
 17節において、父なる神さまのことが「私たちの主イエス・キリストの神」と呼ばれていることに続いて「栄光の父」と呼ばれていることにも、これと切り離すことができない意味があります。それは、やはり、3節において、

 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。

と言われていることとのかかわりで、先ほど取り上げた三つの個所に記されていることを反映していると考えられます。
 それらは、6節に、

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

と記されていること、12節に、

それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。

と記されていること、そして、14節の後半に、

このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。

と記されていることです。
 父なる神さまが、キリストにあって、また、キリストによって、私たちのために、4節ー14節に記されているすべてのことをなしてくださり、なしてくださっていることにおいては、父なる神さまの私たちへの永遠からの愛が現されていますが、それによって、さらに、父なる神さまの栄光が現されているのです。
 そのことは、これら三つの個所の最初に出てくる、6節において、父なる神さまの栄光のことが「神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光」と言われていることに、明確に表されています。ここでは、父なる神さまの栄光が「恵みの栄光」(ドクサ・テース・カリトス[カリスの属格])と呼ばれています。それは、父なる神さまが「その愛する方にあって私たちに与えてくださった」と言われています。この場合の「与えてくださった」ということば(カリトオー)は「恵みの栄光」の「恵み」(カリス)の動詞形でこれ自体が「恵みを与える」、「恵む」ことを表すことができます。ここには、「カリトオー」・・・「カリトス」ということば合わせがあって、父なる神さまの恵みが強調されています。しかも、その恵みは、父なる神さまが「その愛する方にあって」私たちに与えてくださったと言われています。言うまでもなく、この「愛する方」は御子イエス・キリストに他なりません。それとともに、このことは、この6節の前の5節に、

神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

と記されていることとつながっていると考えられます。[注]

[注]ここでは「愛をもって」(エン・アガペー「愛にあって」)ということばは4節の最後に出てきます。それで、このことばが4節のその前の部分にかかって、神さまが私たちを「愛にあって」「御前に聖なる、傷のない者にしようとされた」というように理解するのか、新改訳のように理解するかの問題があります。これについては、すでに詳しくお話ししたことがありますので、結論的なことだけを言いますと、私もいくつかの理由によって、新改訳のように理解したほうがよいと考えています。

 私たちも、キリストにあって(=「その愛する方にあって」)、父なる神さまに愛していただいている父なる神さまの子どもです。これは父なる神さまの豊かな恵みによることです。5章1節には、

 ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。

と記されています。
 このように、3節ー14節に記されている、父なる神さまが「キリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福して」、私たちのために成し遂げてくださり、なしてくださっているすべてのことが、キリストにあって私たちに注がれている父なる神さまの愛を現しているので、その父なる神さまの愛を受け止め、父なる神さまとの愛の交わりに生きることにおいて、父なる神さまを知ることが私たちにとって最も大切なことになります。それとともに、父なる神さまが「キリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福して」、私たちのために成し遂げてくださり、なしてくださっているすべてのことは、父なる神さまの栄光が「その愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光」であることを表しています。それで、私たちが父なる神さまの「恵みの栄光」をほめ讃えることは、父なる神さまに愛されている子どもとして私たちがなすことの目的となっています。

 ここで、この、

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。

というパウロの祈りに関して、一つのことを考えてみましょう。
 先ほどお話ししたように、ここでパウロが祈り求めていることは、基本的に、すでに、3節ー14節において記している豊かな祝福を、キリストにあって、与えてくださっている父なる神さまご自身を、私たちが知ることができるようになることと、父なる神さまが、イエス・キリストにあって、私たちのために成し遂げてくださり、なしていてくださることを、私たちが知ることができるようにということです。
 父なる神さまが、キリストにあって、またキリストによって、私たちのために、すでに、これらすべてのことを成し遂げてくださり、今も、なしてくださっているのであれば、どうしてそれをさらに知るようにと祈っているのでしょうか。
 これについては、説明するまでもないことですが、父なる神さまがキリストにあって、またキリストによって、私たちのためにこれらすべてのことを成し遂げてくださり、今も、なしてくださっていることに現されている父なる神さまの愛は、私たちが地上の生涯をかけて受け止めたとしても、そればかりか、永遠に受け止め続けても、汲み尽くすことができないからです。それは、私たちにとって永遠に、また、常に、新しく私たちを包んでくださる愛です。
 そして、コリント人への手紙第二・3章18節に、

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と記されているように、私たちが御霊によって、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます」と、私たちは父なる神さまの愛をより豊かに受け止めることができるようになりますし、私たちも父なる神さまへの愛を深めるようになります。しかし、この父なる神さまとの愛の交わりは、永遠に深く豊かになっていきますが、どこかで停滞してしまうことはありません。それは、御子イエス・キリストにあって、私たちに注がれている父なる神さまの愛が無限に豊かであるからです。
 もちろん、神さまの無限の愛が、そのまま、直接的に、私たちに示されるわけではありません。そのような形で父なる神さまの愛を受け止めることがおできになるのは、ご自身が無限、永遠、不変の神であられる御子と御霊だけです。父なる神さまは私たちへの愛を、御子イエス・キリストにあって、また、御霊によって、私たちが受け止めることができるようにと、私たちの成長に合わせて示してくださいます。新しい天と新しい地も歴史的な世界ですので、終わりの日にからだのよみがえりとともに栄光化される私たちは、絶えず成長していきます。それとともに、私たちは神さまの愛をより深く豊かに受け止めていくようになります。そして、それがいつか終わるということ――もう神さまの愛をすべて受け止めてしまったというようになることは、決してありません。
 また、これらすべてのことに現されている父なる神さまが「その愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光」も無限の栄光です。それで、私たちが地上の生涯をかけて、この「恵みの栄光」を讃え続けたとしても、さらには、永遠に讃え続けても、十分讃え続けたと言えるようにはなりません。私たちが御霊によって、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます」と、私たちの父なる神さまの栄光を讃える父なる神さまへの讃美と礼拝は豊かになり高められていきます。さらに、新しい天と新しい地においては、永遠に豊かになり、高められていきますが、それはどこかの段階で止まってしまうことはありません。
 このようなことのゆえに、私たちはこのパウロのとりなしの祈りを自分たちの祈りとしていく必要がありますし、お互いのためにとりなし祈り続けていく必要があります。それは、永遠に私たちが祈り求め続けていくようになることですが、特に、今なお、自らのうちに罪の本性を宿している状態の私たちにとっては、より切実な祈りとなります。


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