黙示録講解

(第491回)


説教日:2022年3月27日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(244)


 黙示録からのお話は、2回空いてしまいましたが、本主日も、黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束と関連するみことばについてのお話を続けます。
 これまで、この栄光のキリストの約束と関連するみことばの一つとしてエペソ人への手紙2章1節ー10節に記されていることからお話してきて、今はその最後の10節に、

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

と記されている「良い行い」についてお話ししています。
 今日は、これまでお話ししてきたことを、さらに補足することをお話しします。
 ここに記されている「良い行い」は、この世で考えられている一般的な意味での「良い行い」ではなく、これより前の6節に、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されていることとのかかわりで考えられる「良い行い」です。
 この6節においては、私たちが「キリスト・イエスにあって」、キリスト・イエスと「ともによみがえらせ、ともに天上に座らせて」いただいていることが示されています。これによって私たちは、すでに、終わりの日に再臨される栄光のキリストによって再創造される、新しい天と新しい地に属している者なっており、新しい天と新しい地に属する歴史と文化、すなわち、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たす者となっています。それで、この「良い行い」は、私たちが「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たしていることにおける「良い行い」です。
 そして、この「良い行い」は、私たちがかつてそうであった、「この時代」を特徴づけ、支配している「肉」に縛られていた状態から贖い出されている者として、「来たるべき時代」を特徴づけ、動かしている御霊によって導いていただいて初めて行うことができるものです。
 この御霊は、ローマ人への手紙8章9節ー10節に、

しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。

と記されている御霊です。
 この「もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら」ということばは、実際に「神の御霊」が私たちのうちに住んでおられることを踏まえて、そうであれば、もはや、私たちは「肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです」ということを示しています。これを先ほどのことばで言うと、私たちは「この時代」を特徴づけ、支配している「肉」に縛られていた状態から贖い出されている者として、「来たるべき時代」を特徴づけ、動かしている御霊によって導いていただいているということです。
 そして、この「神の御霊」が私たちのうちに住んでおられるということは、私たちが「キリストの御霊を持って」いるということであり、「キリストのもの」であるということを意味していますし、キリストが私たちの「うちにおられる」ということを意味しています。それで私たちは、前回取り上げましたが、ガラテヤ人への手紙2章19節後半ー20節前半に記されているように、

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

と言うことができるのです。
 また、ローマ人への手紙8章に戻りますが、このようなことを踏まえて14節ー15節には、

神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

と記されています。
 ここでは、「神の御霊」が「子とする御霊」と言われています。この「子とする御霊」は、文字通りには「養子とする御霊」です。とはいえ、その当時のギリシア、ローマの法では、養子も実子と同じ権利、特権をもつ者とされていました。それで、このことは、17節で、

子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。

と言われていることへとつながっています。
 このように、私たちを御子イエス・キリストを長子とする神の家族に養子として迎え入れてくださる方は父なる神さまです。それで、ここでは御霊が「神の御霊」と呼ばれていると考えられます。さらに、ここでは、

 この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

と記されています。これは、父なる神さまが御霊によって、私たちをご自身に向かって「アバ、父」と叫ばせてくださるということです。これによって、私たちが意識するようになるのは、「私たちは父なる神さまの子どもである」ということでもあるのですが、それよりは、「父なる神さまが私たちの父である」ということの方です。
 この「アバ」はアラム語の「」をギリシア語で音訳したものです。これは子どもがお父さんを呼ぶときのことばであると言われることがありますが、子どもに限られているわけではありません。大人となっても、父親を「アバ、父」と呼ぶことは自然のことです。いずれの場合でも、父から愛されている子どもとしての喜びとともに、親しくまた信頼をもって「アバ、父」と呼ぶのです。ここで、

 この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

と言われているときの「(『アバ、父』と)叫びます」ということばは、この父なる神さまの愛を受けている子どもとしての喜びとともに、親しさと信頼を表すものであると理解されています。
 これとともに、続く16節には、

御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。

と記されています。ここでは、「御霊ご自身が」(アウト・ト・プネウマ)というように、「御霊」が強調されています。これは、その前の14節ー15節において示されている「父なる神さまが御霊によって」という意味合いではなく、「御霊ご自身が」ということを示しています。[注]

[注]これに続く「私たちの霊とともに・・・証ししてくださいます」については見方が別れています。
 ここに出てくる動詞(シュンマルテュレオー)は、基本的には「ともに証しする」を意味していますが、「ともに」(シュン)という意味合いが失われている用例が、紀元前1世紀から見られるということが指摘されています(新約聖書では、ここのほか、ローマ人への手紙2章15節、9章1節に出てくるだけです)。もし、その用例のように理解するのであれば、この部分は「私たちの霊に証ししてくださいます」となります。
 これが一つの見方ですが、ここの見方は、さらに、ここでは、「御霊ご自身が」というように、御霊が強調されていることに注目します。そして、この御霊の証しは決定的なもので、この御霊の証しによって初めて、私たちの霊は「神の子どもであることを」信じることができるということから、この部分を「私たちの霊に証ししてくださいます」というように理解します。
 もう一つの見方は、「ともに」(シュン)という意味合い保たれている用例が2世紀のパピルス文書に見られるということと、二つの「霊」(プネウマ)が出てきて、際立っているという文脈の上から、さらには、パウロは、モーセ律法では二人以上の証人によって確かめられるということが規定されている(申命記19章15節)ということと、ローマ法では養子であることを法的に確定するためには複数の証人が必要であるということを念頭に老いていたのではないかということから、この部分を「私たちの霊とともに証ししてくださいます」というように理解します。
 私は、文脈の上から、この部分を「私たちの霊とともに証ししてくださいます」と理解したほうがよいという説明に納得できないものを感じています。というのは、ここでは「御霊ご自身」が主語であり主体であることが強調されていますし、この前の15節で、私たちが父なる神さまに向かって「アバ、父」と叫ばせてくださるのは御霊であることが示されていて、すべてが御霊のお働きであることが示されていると考えられるからです。
 また、複数の証人によって確かめられるべきという規定は、人間の証言の不確かさを前提としているもので、それを御霊の証しにも適用することはできない(のではないか)と考えています。
 そのようなわけで、この部分は、「御霊ご自身が、私たちの霊に、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。」と理解したほうがよいと考えています。

 これと同様のことが、ガラテヤ人への手紙4章6節には、

あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

と記されています。
 本来、また、固有の意味で、父なる神さまに愛されている子としての喜びとともに、個人的に、親しく、また信頼をもって「アバ、父よ」と呼びかることができるのは、永遠に神の御子であられるイエス・キリストです。実際、ゲツセマネにおけるイエス・キリストの祈りを記しているマルコの福音書14章35節ー36節には、

それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」

と記されています。
 ガラテヤ人への手紙4章6節では、私たちに与えられた御霊が、実際に、このように父なる神さまに祈られた「御子の御霊」と呼ばれています。


 ここで、改めて心に留めておきたいのは、御子イエス・キリストが、実際に、父なる神さまに向かって「アバ、父よ」と呼びかけて祈られたことが記録されているのは、ゲツセマネにおけるイエス・キリストの祈りにおいてであったということです。
 御子イエス・キリストは永遠に、父なる神さまと無限の愛によって結ばれています。その愛の交わりは決して変わることはありません。しかし、御子イエス・キリストは私たちを愛してくださった父なる神さまのみこころに従って、私たちご自身の民の契約の主となられるために、まことの人としての性質を取って来てくださいました。そして、このゲツセマネで祈られた時には、私たちの罪を贖ってくださるために、十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべてお受けになる時が来たことを悟っておられます。私たちには、それがイエス・キリストにとってどんなに悲しく、また、恐ろしいことであるかを想像することさえできません。しかし、イエス・キリストはそれを完全に理解しておられますし、現実のこととして知っておられます。実際に、マルコの福音書14章33節ー34節には、

そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。

と記されています[注]

[注]マタイの福音書26章37節ー38節にも、
  わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。
というイエス・キリストのことばが記されていますが、そこでは、マルコの福音書の「イエスは深く悩み、もだえ始め」が「イエスは悲しみもだえ始め」となっていて、イエス・キリストの悲しみの深さが強調されています。

 そして、この時、イエス・キリストは父なる神さまに、三度、祈っておられます。
 その祈りの中で、イエス・キリストは父なる神さまに「アバ、父よ」と呼びかけて祈っておられます。死ぬほどの悲しみに、「深く悩み、もだえ」て祈る時に、イエス・キリストは、なおも、ご自身が父なる神さまに愛されている子であられることを確信し、ご自身も父なる神さまを愛しておられるので、そのみこころに従うことができるようにと祈っておられるのです。
 このゲツセマネにおけるイエス・キリストの祈りは、イエス・キリストの地上の生涯における祈りの典型的な現れであると考えられます。ヘブル人への手紙5章7節には、

キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。

と記されています。
 ここで、「肉体をもって生きている間」と訳されているいる部分は、その意味を伝える訳で、文字通りには「ご自身の肉の日々において」です。これは、御子イエス・キリストがまことの人としての性質をお取りになって来てくださってからの生涯の間を意味しています。

自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ

と言われていることは、ゲツセマネにおける祈りを思い起こさせますが、その時の祈りに限られているわけではなく、その生涯をとおしてのことであったことを示しています。また、

 その敬虔のゆえに聞き入れられました。

と言われているときの「敬虔」ということば(エウラベイア)は、父なる神さまに対する敬虔な恐れで、ヘブル人への手紙の中では、この敬虔な恐れは、父なる神さまのみこころに従うことに現れてくると考えられます。この7節に記されていることに続いて、8節ー10節に、

キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、メルキゼデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれました。

と記されていることは、このようなことを示しています。
 これらのことから分かりますが、イエス・キリストが地上の生涯において、「自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられ」たということは、「お受けになった様々な苦しみ」の中においてのことであり、その「お受けになった様々な苦しみ」の中で、常に、すなわち、その都度、父なる神さまのみこころに従いとおされたということを意味しています。それは、ピリピ人への手紙2章6節ー8節に、

 キリストは、神の御姿であられるのに、
 神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
 人間と同じようになられました。
 人としての姿をもって現れ、
 自らを低くして、死にまで、
 それも十字架の死にまで従われました。

と記されているイエス・キリストの姿を別の面から述べたものであると考えることができます。その従順の生涯のすべては、「ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源とな」られるためでした。
 このように理解しますと、

キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。

と言われているときの「自分を死から救い出すことができる方に向かって」ということは、私たちが普通に考える、肉体的な死から救い出されることを願っておられたというより、その生涯の最後には十字架におかかりになって死んでくださるにいたるのですが、その時にも、父なる神さまのみこころから逸れてしまうことがないように生きることを意味していることが分かります。御子イエス・キリストにとっては、父なる神さまを愛して、父なる神さまのみこころに従うことがいのちであり、そのことから逸れてしまうことはいのちを失うことだったのです。
 イエス・キリストがご自身が十字架におかかりになる時が近くなったことを悟られた時のことを記している、前回も引用しましたが、ヨハネの福音書12章23節ー24節には、

すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」

と記されています。
 ここでは、「一粒の麦」が「地に落ちて」「死ぬ」ことによって「豊かな実を結」ぶようになることをたとえとして、イエス・キリストは、ご自身が十字架におかかりになって死なれて、私たちご自身の民を死からいのちへと導き入れてくださることによって栄光をお受けになるということを教えておられます。

 もちろん、このことはイエス・キリストを主として戴いている私たちにも当てはまります。
 やはり前回も引用しました、ローマ人への手紙14章8節ー9節には、

私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。

と記されています。私たちは地上の生涯において、肉体的に死なないことを追い求めているのではありません。「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます」。
 しかし、前回お話ししたように、このことは、この世において、家臣が主君のために生き、主君のために死ぬということとは本質的に違います。というのは、キリストの御国においては、主であり、王であるキリストがしもべである私たちを愛してくださって、地上の生涯をとおして、父なる神さまがどなたであるかを証ししてくださり、最後には、私たちを愛してくださっている父なる神さまのみこころに従って、私たちのためにいのちを捨ててくださったからです。そして、このようにして、主であり、王であるキリストがしもべである私たちを愛してくださって、私たちのためにいのちを捨ててくださったことによって、父なる神さまの愛と恵みに満ちた栄光が現されました。
 このようにして、私たちの主であるイエス・キリストは、ご自身のしもべである私たちの罪を贖ってくださるために十字架にかかって死んでくださったり、私たちを永遠のいのちに生きるようにしてくださるために栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。それで、私たちが「生きるにしても、死ぬにしても」、私たちにとっていちばん大切なことは、「私たちは主のものです」ということです。言い換えますと、私たちが「生きるにしても、死ぬにしても」、いちばん大切なことは、主であられるイエス・キリストの愛に包まれていることを信じて、その愛を受け止めることにあります。私たちは御霊によって、その主であられるイエス・キリストの愛に包まれていることを信じて、その愛を受け止めることによって初めて、主のものとして生きることができるようになり、主のために生きることができるようになります。
 そのことは、父なる神さまが私たちの心に遣わしてくださった「御子の御霊」によって、父なる神さまに、愛されている子どもとしての喜びとともに、親しく、また信頼をもって「アバ、父よ」と呼びかけて、父なる神さまとの愛の交わりに生きることによって私たちの現実になります。この父なる神さまとの愛の交わりこそが永遠のいのちの本質ですし、父なる神さまとの愛の交わりに生きることに、神の子どもとしての自由の本質があります。

 それと同時に、心に刻んでおかなければならないことがあります。
 先ほど引用したローマ人への手紙14章8節ー9節には、

私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。

と記されていました。
 実は、これは、信仰の家族の兄弟・姉妹をさばくことに対する戒めの中で語られていることなのです。1節ー4節には、

信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。

と記されており、先ほど引用した8節ー9節に続く10節ー12節には、

それなのに、あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。次のように書かれています。
「わたしは生きている――主のことば――。
すべての膝は、わたしに向かってかがめられ、
すべての舌は、神に告白する。」
ですから、私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。

と記されています。また、数節後の15節には、

もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。

と記されています。
 ここでは食べ物のことが取り上げられていますが、それはその当時の教会において問題となっていたことの典型的な事例でした。同じような事例はコリント人への手紙第一・8章や10章にも取り上げられています。
 これと同じようなことは、すでに繰り返し引用してきました、ガラテヤ人への手紙5章にも見られます。
 13節ー14節には、

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。

という、神の子どもとしての自由にあって「愛をもって互いに仕え合いなさい」という教えが記されています。しかし、それに続く15節には、

気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。

と記されているのです。
 キリストのからだである教会は、神の家族として父なる神さまと御子イエス・キリストの愛に包まれています。
 しかし、その私たちには、知らないうちに身につけてしまっているこの世の発想が残っています。そして、それぞれの生まれ育った環境の違い、年齢の違い、社会的な立場の違いなどがあって、それらから生まれてくる考え方や、感じ方の違いもあります。それらの違いがさまざまな軋轢を生み出すことがあります。
 その一方で、それらの違いがあるにもかかわらず、というか、その違いが活かされて、主にある一致が生み出されることもあります。その核心にあるのは、

私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。

という教えであり、

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。

という教えです。
 そして、それを根底から支えているのは、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」(ローマ人への手紙5章5節)と言われている、私たちのためにご自身の御子をも宥めのささげ物として遣わしてくださった父なる神さまの愛であり、私たちのためにいのちをお捨てになった、私たちの主イエス・キリストの愛です。
 ですから、この点においても、先ほどお話ししたように、私たちが「生きるにしても、死ぬにしても」、いちばん大切なことは、主であられるイエス・キリストの愛に包まれていることを信じて、その愛を受け止めることにあります。


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