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説教日:2022年3月27日 |
ここで、改めて心に留めておきたいのは、御子イエス・キリストが、実際に、父なる神さまに向かって「アバ、父よ」と呼びかけて祈られたことが記録されているのは、ゲツセマネにおけるイエス・キリストの祈りにおいてであったということです。 御子イエス・キリストは永遠に、父なる神さまと無限の愛によって結ばれています。その愛の交わりは決して変わることはありません。しかし、御子イエス・キリストは私たちを愛してくださった父なる神さまのみこころに従って、私たちご自身の民の契約の主となられるために、まことの人としての性質を取って来てくださいました。そして、このゲツセマネで祈られた時には、私たちの罪を贖ってくださるために、十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべてお受けになる時が来たことを悟っておられます。私たちには、それがイエス・キリストにとってどんなに悲しく、また、恐ろしいことであるかを想像することさえできません。しかし、イエス・キリストはそれを完全に理解しておられますし、現実のこととして知っておられます。実際に、マルコの福音書14章33節ー34節には、 そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。 と記されています[注] [注]マタイの福音書26章37節ー38節にも、 わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。 というイエス・キリストのことばが記されていますが、そこでは、マルコの福音書の「イエスは深く悩み、もだえ始め」が「イエスは悲しみもだえ始め」となっていて、イエス・キリストの悲しみの深さが強調されています。 そして、この時、イエス・キリストは父なる神さまに、三度、祈っておられます。 その祈りの中で、イエス・キリストは父なる神さまに「アバ、父よ」と呼びかけて祈っておられます。死ぬほどの悲しみに、「深く悩み、もだえ」て祈る時に、イエス・キリストは、なおも、ご自身が父なる神さまに愛されている子であられることを確信し、ご自身も父なる神さまを愛しておられるので、そのみこころに従うことができるようにと祈っておられるのです。 このゲツセマネにおけるイエス・キリストの祈りは、イエス・キリストの地上の生涯における祈りの典型的な現れであると考えられます。ヘブル人への手紙5章7節には、 キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。 と記されています。 ここで、「肉体をもって生きている間」と訳されているいる部分は、その意味を伝える訳で、文字通りには「ご自身の肉の日々において」です。これは、御子イエス・キリストがまことの人としての性質をお取りになって来てくださってからの生涯の間を意味しています。 自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ と言われていることは、ゲツセマネにおける祈りを思い起こさせますが、その時の祈りに限られているわけではなく、その生涯をとおしてのことであったことを示しています。また、 その敬虔のゆえに聞き入れられました。 と言われているときの「敬虔」ということば(エウラベイア)は、父なる神さまに対する敬虔な恐れで、ヘブル人への手紙の中では、この敬虔な恐れは、父なる神さまのみこころに従うことに現れてくると考えられます。この7節に記されていることに続いて、8節ー10節に、 キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、メルキゼデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれました。 と記されていることは、このようなことを示しています。 これらのことから分かりますが、イエス・キリストが地上の生涯において、「自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられ」たということは、「お受けになった様々な苦しみ」の中においてのことであり、その「お受けになった様々な苦しみ」の中で、常に、すなわち、その都度、父なる神さまのみこころに従いとおされたということを意味しています。それは、ピリピ人への手紙2章6節ー8節に、 キリストは、神の御姿であられるのに、 神としてのあり方を捨てられないとは考えず、 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、 人間と同じようになられました。 人としての姿をもって現れ、 自らを低くして、死にまで、 それも十字架の死にまで従われました。 と記されているイエス・キリストの姿を別の面から述べたものであると考えることができます。その従順の生涯のすべては、「ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源とな」られるためでした。 このように理解しますと、 キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。 と言われているときの「自分を死から救い出すことができる方に向かって」ということは、私たちが普通に考える、肉体的な死から救い出されることを願っておられたというより、その生涯の最後には十字架におかかりになって死んでくださるにいたるのですが、その時にも、父なる神さまのみこころから逸れてしまうことがないように生きることを意味していることが分かります。御子イエス・キリストにとっては、父なる神さまを愛して、父なる神さまのみこころに従うことがいのちであり、そのことから逸れてしまうことはいのちを失うことだったのです。 イエス・キリストがご自身が十字架におかかりになる時が近くなったことを悟られた時のことを記している、前回も引用しましたが、ヨハネの福音書12章23節ー24節には、 すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」 と記されています。 ここでは、「一粒の麦」が「地に落ちて」「死ぬ」ことによって「豊かな実を結」ぶようになることをたとえとして、イエス・キリストは、ご自身が十字架におかかりになって死なれて、私たちご自身の民を死からいのちへと導き入れてくださることによって栄光をお受けになるということを教えておられます。 もちろん、このことはイエス・キリストを主として戴いている私たちにも当てはまります。 やはり前回も引用しました、ローマ人への手紙14章8節ー9節には、 私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。 と記されています。私たちは地上の生涯において、肉体的に死なないことを追い求めているのではありません。「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます」。 しかし、前回お話ししたように、このことは、この世において、家臣が主君のために生き、主君のために死ぬということとは本質的に違います。というのは、キリストの御国においては、主であり、王であるキリストがしもべである私たちを愛してくださって、地上の生涯をとおして、父なる神さまがどなたであるかを証ししてくださり、最後には、私たちを愛してくださっている父なる神さまのみこころに従って、私たちのためにいのちを捨ててくださったからです。そして、このようにして、主であり、王であるキリストがしもべである私たちを愛してくださって、私たちのためにいのちを捨ててくださったことによって、父なる神さまの愛と恵みに満ちた栄光が現されました。 このようにして、私たちの主であるイエス・キリストは、ご自身のしもべである私たちの罪を贖ってくださるために十字架にかかって死んでくださったり、私たちを永遠のいのちに生きるようにしてくださるために栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。それで、私たちが「生きるにしても、死ぬにしても」、私たちにとっていちばん大切なことは、「私たちは主のものです」ということです。言い換えますと、私たちが「生きるにしても、死ぬにしても」、いちばん大切なことは、主であられるイエス・キリストの愛に包まれていることを信じて、その愛を受け止めることにあります。私たちは御霊によって、その主であられるイエス・キリストの愛に包まれていることを信じて、その愛を受け止めることによって初めて、主のものとして生きることができるようになり、主のために生きることができるようになります。 そのことは、父なる神さまが私たちの心に遣わしてくださった「御子の御霊」によって、父なる神さまに、愛されている子どもとしての喜びとともに、親しく、また信頼をもって「アバ、父よ」と呼びかけて、父なる神さまとの愛の交わりに生きることによって私たちの現実になります。この父なる神さまとの愛の交わりこそが永遠のいのちの本質ですし、父なる神さまとの愛の交わりに生きることに、神の子どもとしての自由の本質があります。 それと同時に、心に刻んでおかなければならないことがあります。 先ほど引用したローマ人への手紙14章8節ー9節には、 私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。 と記されていました。 実は、これは、信仰の家族の兄弟・姉妹をさばくことに対する戒めの中で語られていることなのです。1節ー4節には、 信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。 と記されており、先ほど引用した8節ー9節に続く10節ー12節には、 それなのに、あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。次のように書かれています。 「わたしは生きている――主のことば――。 すべての膝は、わたしに向かってかがめられ、 すべての舌は、神に告白する。」 ですから、私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。 と記されています。また、数節後の15節には、 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。 と記されています。 ここでは食べ物のことが取り上げられていますが、それはその当時の教会において問題となっていたことの典型的な事例でした。同じような事例はコリント人への手紙第一・8章や10章にも取り上げられています。 これと同じようなことは、すでに繰り返し引用してきました、ガラテヤ人への手紙5章にも見られます。 13節ー14節には、 兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。 という、神の子どもとしての自由にあって「愛をもって互いに仕え合いなさい」という教えが記されています。しかし、それに続く15節には、 気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。 と記されているのです。 キリストのからだである教会は、神の家族として父なる神さまと御子イエス・キリストの愛に包まれています。 しかし、その私たちには、知らないうちに身につけてしまっているこの世の発想が残っています。そして、それぞれの生まれ育った環境の違い、年齢の違い、社会的な立場の違いなどがあって、それらから生まれてくる考え方や、感じ方の違いもあります。それらの違いがさまざまな軋轢を生み出すことがあります。 その一方で、それらの違いがあるにもかかわらず、というか、その違いが活かされて、主にある一致が生み出されることもあります。その核心にあるのは、 私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。 という教えであり、 兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。 という教えです。 そして、それを根底から支えているのは、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」(ローマ人への手紙5章5節)と言われている、私たちのためにご自身の御子をも宥めのささげ物として遣わしてくださった父なる神さまの愛であり、私たちのためにいのちをお捨てになった、私たちの主イエス・キリストの愛です。 ですから、この点においても、先ほどお話ししたように、私たちが「生きるにしても、死ぬにしても」、いちばん大切なことは、主であられるイエス・キリストの愛に包まれていることを信じて、その愛を受け止めることにあります。 |
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