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説教日:2022年3月6日 |
今は、すでに20年ほど前にお話ししたことのいくつかのことを補足しながら、この愛において現される神の子どもの自由は、私たちご自身のしもべを愛してくださって、十字架におかかりになった御子イエス・キリストにおいて最も豊かに、また、鮮明に現されたということをお話ししています。 父なる神さまは、ご自身に対して罪を犯し、ご自身に背きながら死と滅びへの道を歩んでいた私たちを、なおも愛してくださり「私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました」。 また、御子イエス・キリストは、このような、父なる神さまのみこころに従って、私たちのために十字架にかかって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わって、すべて受けてくださいました。これによって、私たちの罪を完全に贖ってくださり、私たちを死と滅びの中から救い出してくださいました。そればかりでなく、やはり、ご自身のためではなく私たちのために、十字架の死にいたるまで父なる神さまのみこころに従い通されたことへの報いとして、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。 そして、御霊は御子イエス・キリストが私たちのために成し遂げられた贖いの御業に基づいて、私たちを栄光のキリストと結び合わせてくださり、私たちを新しく生まれさせてくださって、栄光のキリストを長子とする神の子どもとしてくださいました。それによって、私たちを父なる神さまとの愛の交わりを本質とする永遠のいのちに生きる神の子どもとして導いてくださっています。 このように、私たちが御霊によって導いていただいて歩むときに、先ほど引用した、ガラテヤ人への手紙5章13節ー14節に、 兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。 と記されていることが私たちの間の現実となります。 このみことばでは「その自由を肉の働く機会としないで」と言われていますが、それは御霊に導かれて歩むことによって初めてできることです。この2節後の16節に、 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。 と記されているとおりです。 大切なことは、このことの根底には、24節に、 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。 と記されていることがあるということです。それで、今日は、少しお話が逸れる感じになりますが、このことについてお話ししたいと思います。 ここで、「キリスト・イエスにつく者」と訳されている部分は、文字通りには、「キリスト・イエスのもの」です。私たちに当てはめて言えば、「私たちは『キリスト・イエスのもの』です」とか、「『キリスト・イエスのもの』である私たち」というようになります。 また、 自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。 と言われているときの「自分の」ということばは原文のギリシア語にはありません。これを「自分の肉」というように訳しますと、「肉」が私たちの一部であるように受け止められる可能性があります。しかし、この「肉」は「この世」、「この時代」を特徴づけ、動かしているもので、「新しい世」、「来たるべき時代」を特徴づけ動かしている御霊と対立しているものです。 確かに、私たちがこの「肉」を十字架につけたということは、分かりにくいことです。これは、6章14節に、 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。 と記されていることに照らして理解するとよいのではないかと思われます。ここに出てくる「世」を特徴づけ動かしているのは「肉」です。それで、ここに出てくる「世」を「肉」に置き換えると、 この十字架につけられて、肉は私に対して死に、私も肉に対して死にました。 となります。 ことがらとしては、このようなことだと考えられますが、ここ5章24節では、この「キリスト・イエスのもの」である私たちが、「肉を、情欲や欲望とともに十字架につけた」と言われていて、私たちがこれに関与していることが示されています。けれども、私たちは自分の力で「肉を、情欲や欲望とともに十字架につけ」ることはできません。 このことは2章19節後半ー20節前半に、 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。 と記されていることとのつながりで理解することができます。つまり、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」から、私たちは「肉を、情欲や欲望とともに十字架につけ」ることができたということです。 ここで、「キリストが私のうちに生きておられる」ということは、その前に言われている、 私はキリストとともに十字架につけられました。 ということに基づいています。 私たちが「キリストとともに十字架につけられ」たのは、私たちが御霊によってキリストと結び合わされているからです。 そして、私たちのために十字架につけられて、死者の中からよみがえられたキリストは私たちの主であり、私たちは主である「キリスト・イエスのもの」です。ローマ人への手紙14章8節後半ー9節に、 私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。 と記されているとおりです。 今お話ししていることとのかかわりで、このローマ人への手紙14章8節後半ー9節に記されていることにもう少し注目したいと思います。 ここで、 私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。 と言われていることは、この世において、家臣が主君のために生き、主君のために死ぬということとは本質的に違います。というのは、キリストの御国においては、主であり、王であるキリストがしもべである私たちを愛してくださって、私たちのためにいのちを捨ててくださったからです。 そして、そのこと――主であり、王であるキリストがしもべである私たちを愛してくださって、私たちのためにいのちを捨ててくださったことは、私たちを愛してくださった父なる神さまのみこころによることでしたから、そのことによって、父なる神さまの愛と恵みに満ちた栄光が現されました。 そのことは、ヨハネの福音書12章27節ー28節に記されていることから分かります。十字架におかかりになって死なれることを現実のこととして覚えられたイエス・キリストは、27節ー28節前半に記されているように、 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。「父よ、この時からわたしをお救いください」と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。父よ、御名の栄光を現してください。 と祈られました。これに続いて、28節後半には、 すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」 と記されています。 父なる神さまが言われた、 わたしはすでに栄光を現した。 ということは、無限、永遠、不変の栄光の神の御子であられるイエス・キリストが、人としての性質を取って来てくださったことから始まる、この時までの地上の生涯、特に、メシアとしてのお働きを指していると考えられます。 そして、 わたしは再び栄光を現そう。 ということは、これに先立つ、先ほどのイエス・キリストの祈りばかりでなく、ここに記されていることが、21節からの流れの中で記されていること、特に、23節ー24節に記されている、 人の子が栄光を受ける時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます というイエス・キリストのみことば――御自身が死なれることにおいて、栄光をお受けになるということ――とのつながりから理解されるべきことです。さらに、この、 わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。 という父なる神さまのみことばの後の32節に記されている、 わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。 というイエス・キリストの教えを受けて、33節に、 これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して、言われたのである。 と記されている、この福音書の著者であるヨハネの説明とのつながりから理解されるべきことです。 これらすべてのことが、イエス・キリストが私たちご自身の民のために十字架におかかりになって死なれることによって、父なる神さまは御自身の栄光を現されるということへとつながっていきます。 このことから、御子イエス・キリストが私たちご自身の民を愛してくださって、私たちのためにいのちを捨ててくださったことによって、父なる神さまの愛と恵みに満ちた栄光が現されたということが分かります。 そして、それと同じように、 私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。 と言われている私たちが、しもべである私たちを愛して、私たちのためにいのちを捨ててくださった主のために生きることも、主のために死ぬことも、主の愛と恵みに満ちた栄光を現すためのことであり、ひいては、主を遣わしてくださった父なる神さまの栄光を現すためのことです[実は、このことについて、注解者たちは「神を喜ばせるためのこと」あるいは、「神を喜ばせるためのことと神の栄光を現すためのこと」であるとしています]。 ここでは、続いて、 ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。 と言われています。 ここで、 私たちは主のものです。 と言われていることは、「主」の契約の祝福を意味しています。 「主」の契約の祝福には二つの面があります。それを同時に表しているみことばは、レビ記26章11節ー12節です。そこには、 わたしは、あなたがたのただ中にわたしの住まいを建てる。わたしの心は、あなたがたを嫌って退けたりはしない。わたしはあなたがたの間を歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。 と記されています。「主」の契約の祝福の一つの面は、 わたしは、あなたがたのただ中にわたしの住まいを建てる。 と言われていることであり、 わたしはあなたがたの間を歩む と言われていることです。「主」が私たちご自身の民の間にご臨在してくださって、ともに歩んでくださるということです。このことは、古い契約の下では、「主」がご臨在されること頃である幕屋や神殿の聖所がイスラエルの民の間にあることによって示されていました。 「主」の契約の祝福のもう一つの面は、 わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。 ということです[残念なことに、新改訳2017年版では最初の主語「わたしは」が省略されてしまっていますが、「わたしはあなたがたの神となり、彼らあなたがたはわたしの民となる。」というみことばは、神である「主」の契約の祝福を表すための「決まり文句」で、「あなたがた」が「彼ら」となる場合もありますが、聖書の中に繰り返し出てきます]。 この「主」の契約の祝福の二つの面は、一つのことの裏表の関係にあり、切り離すことができません。それで、どちらか一方があれば、必ず、他方もあります。そのために、どちらか一方だけで、「主」の契約の祝福の二つの面を表すことができます。「主」が私たちの神となってくださったのであれば、「主」は、必ず、私たちの間にご臨在してくださっています。「主」が私たちの間にご臨在してくださっているのであれば、必ず、「主」は私たちの神となってくださっています さらには、「主」の契約の一つの面である、 わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。 と言われているときの、「わたしはあなたがたの神となる」と言われていることと、「あなたがたはわたしの民となる」と言われていることも一つのことの裏表の関係にあり、切り離すことができません。「主」が私たちの神となってくださっているなら、必ず、私たちは「主」の民となっています。それで、「わたしはあなたがたの神となる」と言われていれば、そこには、必ず、「あなたがたはわたしの民となる」ということもあります。 このようなことを踏まえると、 ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。 と言われていることは、また、私たちが「生きるにしても、死ぬにしても」、「主は私たちの主です」ということをも意味しています。そして、このことは、また、「主」の契約の祝福のもう一つの面である、主は私たちの間に住まわれ、私たちとともに歩んでくださということをも意味しています。「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のもの」ですし、主は私たちの主として、私たちとともに住まわれ、私たちとともに歩んでくださいます。そのことは、私たちの地上の生涯が終わっても、変わることはありませんし、絶えることもありません。私たちが肉体的に死んで地上を去っても、主は私たちの主であられ、私たちとともにおられ、私たちとともに歩んでくださいます。 この「主」の契約の祝福は、御子イエス・キリストが十字架において流された血による新しい契約の下では、御子イエス・キリストが、御霊によって、私たちの間にご臨在してくださっているということだけでなく、私たちそれぞれのうちに住んでくださっているということになります。これは、地上の構造物としての幕屋や神殿の聖所がイスラエルの民の間にあっても、イスラエルの民との間に距離があり、隔たりがあったこととは違います。これを、ガラテヤ人への手紙2章20節のことばで言えば、 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。 ということになります。これはキリストが御霊によって私たちのうちに住んでくださるとともに、私たちを導いてくださっているということで、神である「主」の契約の祝福の究極的な現れです。 このように、私たちを愛してくださって、私たちのために十字架にかかって死んでくださり、私たちのためによみがえってくださったキリストは、私たちの主であられますし、それゆえに、私たちの王であられます。そして私たちは、この「キリストとともに十字架につけられました」し、このキリストは、御霊によって「私のうちに生きておられ」ます。このようなことがあって、「キリスト・イエスのもの」となっている私たちは「肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです」。 しかし、このことは、私たちが「肉」の「情欲や欲望」を感じなくなるということを意味してはいません。そして、このことに私たちのうちなる悩みと苦しみがあります。 ガラテヤ人への手紙1章4節には、 キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。私たちの父である神のみこころにしたがったのです。 と記されています。 私たちは、すでに、私たちのために十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストによって、「今の悪の時代から」救い出されています。また、御霊によって、このイエス・キリストと結び合わされて、新しく生まれて、神の子どもとしていただいて、「新しい時代」、「来たるべき時代」に属する者としていただいています。さらに、御霊によって導いていただいて、「新しい時代」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命に生きています。 そうではあっても、「今の悪の時代、」は、まだ過ぎ去ってはいません。それで、私たちは「今の悪の時代」に属してはいませんが、地上にあっては、かつて私たちがその中にあって馴染んでいた、「今の悪の時代」の流れの中に身を置いています。そのために、さまざまな誘惑にさらされています。 また、私たちはイエス・キリストにあって、新しく生まれ、信仰によって義と認められ、神の子どもとしていただいていますが、私たちのうちには、なおも、罪の性質が残っており、実際に、罪を犯してしまいます。 5章13節に、 兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。 と記されていることにおいても、わざわざ「その自由を肉の働く機会としないで」と言われているのは、私たちが「その自由を肉の働く機会と」してしまうことがあるからです。 また、16節には、 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。 と記されています。ここでは、 御霊によって歩みなさい と命令形で言われています。そして、私たちが御霊によって歩むなら、「肉の欲望を満たすことは決して」ないと約束されています。しかし、私たちはしばしば御霊を悲しませてしまう者です(参照・エペソ人への手紙4章30節「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです」)。 さらに、17節には、 肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。 と記されています。私たちはすでに「来たるべき時代」に属しており、御霊に導いていただいている神の子どもとして、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりの祝福にあずかっています。しかし、その私たちにとって、「この世」、「この時代」を特徴づけ動かしている「肉」との戦いは続いています。 しかし、この戦いは、際限なく続くものではありません。というより、この戦いの勝敗はすでに決しています。というのは、すでにお話ししたように、私たちは、私たちを愛して、私たちのために十字架におかかりになって私たちの罪を完全に贖ってくださり、私たちのために栄光を受けて死者の中からよみがえってくださった栄光のキリストと、御霊によって、一つに結び合わされて、栄光のキリストのものとなっているからです。 ガラテヤ人への手紙5章24節に、 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。 と記されていることは、すでにお話ししたことがあるたとえで言いますと、第二次世界大戦における「Dデイ」の戦いがすでに終わっていて、御霊によって栄光のキリストと結び合わせていただいて「キリスト・イエスのもの」となっている者たちの勝利は確定しているということを示しています。 言うまでもなく、その最終的な勝利は、「Vデイ」にたとえられる、終わりの日に再臨される栄光のキリストが、ピリピ人への手紙3章21節に記されているように、「万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えて」くださる時のことであり、そのことを中心として、新しい天と新しい地を再創造してくださる時のことです。 栄光のキリストは、御自身の契約に基づいて、その日に至るまで、御霊によって、私たちの間に御臨在くださり、私たちのうちに住んでくださって、私たちを御霊によって導き続けてくださいます。そして、必ず、新しい天と新しい地の栄光にあるいのちの祝福、すなわち、より豊かな栄光にある、父なる神さまと御自身との愛の交わりに導き入れてくださいます。 |
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