黙示録講解

(第489回)


説教日:2022年2月20日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(242)


 黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束と関連するみことばについてのお話を続けます。
 これまで、この栄光のキリストの約束と関連するみことばの一つとしてエペソ人への手紙2章1節ー10節に記されていることからお話してきて、今はその最後の10節に、

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

と記されている「良い行い」についてお話ししています。
 今お話ししていることとかかわっていることの結論的なことをお話ししますと、この10節に記されている「良い行い」は、それに先立って6節に、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されていることとのかかわりで考えられる「良い行い」です。
 この6節に記されていることは、私たちが「キリスト・イエスにあって」、すでに、終わりの日に再臨される栄光のキリストによって再創造される、新しい天と新しい地に属している者なっており、新しい天と新しい地に属する歴史と文化、すなわち、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たす者となっているということを示しています。
 それで、この「良い行い」は、私たちが、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たすことにおける「良い行い」です。そして、この「良い行い」は、私たちが「この時代」を特徴づけ、支配している「肉」によってではなく、「来たるべき時代」を特徴づけ、動かしている御霊によって導いていただいて初めて行うことができるものです。
 この御霊は、御子イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊です。私たちは、この御霊によって、栄光のキリストと結び合わせていただき、新しく生まれ、イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められ、神の子どもとしていただいて、御子イエス・キリストを長子とする神の家族に迎え入れていただいています。
 それで、ガラテヤ人への手紙4章6節に、

あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

と記されているように、私たちは、この「御子の御霊」によって、父なる神さまを個人的に、また、心から「アバ、父よ」呼びかけて、父なる神さまとの愛の交わりに生きています。この父なる神さまとの愛の交わりこそが永遠のいのちの本質ですし、父なる神さまとの愛の交わりに生きることに、神の子どもとしての自由の本質があります。
 また、当然のことながら、父なる神さまとの愛の交わりに生きることは、御子イエス・キリストを長子とする神の家族の兄弟姉妹たちとの愛の交わりに生きることを意味しています。
 このようなことを踏まえてのことですが、ガラテヤ人への手紙5章13節ー14節には、

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。

と記されています。
 このことから、神さまが私たちに与えてくださった神の子どもとしての自由は、御霊に導いていただいて、愛のうちを歩む自由であり、私たちが「愛をもって互いに仕え合」うことにおいて、私たちの現実になる自由であることが分かります。
 そして、ここでは、私たちが神の子どもとしての自由にあって「愛をもって互いに仕え合」うことによって、私たちのうちに、また、私たちの間に愛の「律法全体」が全うされるということが示されています。ヨハネの手紙第一・5章1節ー2節には、

イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。

と記されています。


 前回は、この愛において現される神の子どもの自由は、私たちご自身のしもべを愛してくださって、十字架におかかりになった御子イエス・キリストにおいて最も豊かに、また、鮮明に現されたということをお話ししました。今日も、このことにかかわることを、すでに20年ほど前にお話ししたことのいくつかのことを補足したり、省略しながらお話しします。
 先主日お話ししたように、父なる神さまは、ご自身によって造られたものであるのに、ご自身に対して罪を犯し、ご自身に背きながら死と滅びへの道を歩んでいた私たちを、なおも愛してくださり「私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました」(ヨハネの手紙第一・4章10節)。
 また、御子イエス・キリストは、このような、父なる神さまのみこころに従って、私たちご自身の民と一つとなってくださるために、人としての性質を取って来てくださいました。そして、十字架にかかって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わって、すべて受けてくださいました。これによって、私たちを死と滅びの中から贖い出してくださいました。そして、このような、私たちの思いをはるかに越えた十字架の死にいたるまで父なる神さまのみこころに従い通されたことへの報いとして、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。それによって、私たちを父なる神さまとの愛の交わりを本質とする永遠のいのちに生きる者としてくださいました。
 御子イエス・キリストは、私たち罪人を愛してくださった父なる神さまのみこころをご自身のみこころとされました。それで、十字架の死によって、ご自身の民の罪の贖いを成し遂げてくださることを目指して、地上の生涯を歩まれました。そのために、十字架を回避するようにと迫る、いかなる誘惑も断固と退けられました。
 しかも、その死は、人が加えることができる最も残酷な処刑の仕方の一つである十字架刑がもたらす肉体的、また、精神的な苦しみにとどまるものではありませんでした。申命記21章23節に、

 木にかけられた者は神にのろわれた者である

と記されている、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるのろいを極みまで受けるという、霊的な――すなわち、神さまとの関係における――苦しみをもたらすものでした。
 確かに、イエス・キリストはご自身の意志で、真っすぐに十字架に向かって進まれました。マルコの福音書10章32節ー34節に、

さて、一行はエルサレムに上る途上にあった。イエスは弟子たちの先に立って行かれた。弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二人をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを話し始められた。「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」

と記されているとおりです。
 しかし、その一方で、先主日、お話ししたように、イエス・キリストはゲツセマネでの祈りにおいて、そのことがもたらす苦しみと悲しみを父なる神さまに告げておられます。
 マタイの福音書26章38節に記されているように、イエス・キリストは祈りに先立って、ペテロとヤコブとヨハネに、

 わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。

と言っておられます。そして、続く39節に記されているように、その祈りの中で、イエス・キリストは、まず、

わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。

とお祈りになりました。
 そして、42節と44節に記されているように、2度目と、3度目には、

わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように

とお祈りになりました。
 ここでイエス・キリストは、ご自身が十字架につけられること、すなわち、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきの執行が、ご自身にとって、どれほど恐ろしいことであるかを、父なる神さまに告げておられますし、そのさばきの執行によって父なる神さまとの愛の交わりを絶たれてしまうことが、どれほど悲しいことであったかを、父なる神さまに告げておられます。
 このように、

 わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。

とお祈りになったことは、無限、永遠、不変の愛において父なる神さまと結ばれている御子イエス・キリストにとっては最も自然であり、当然の願いです。
 しかし、イエス・キリストは、続けて、

しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。

とお祈りになられ、その後、さらに、

わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように

と、繰り返しお祈りになりました。
 ここで、イエス・キリストは、神さまの聖なる御怒りに触れて、父なる神さまとの愛の交わりがまったく絶たれてしまうことは何としても避けたいという、ご自身にとって当然の思いをお捨てになり、それを越えて、父なる神さまのみこころが実現することを祈り求めておられます。そのために、イエス・キリストは、この祈りを繰り返し祈っておられます。
 また、先主日、お話ししたことを繰り返しますが、人間的な言い方をしますと、無限、永遠、不変の愛において御子を愛しておられる父なる神さまにとって、御子イエス・キリストに人の手によって加えられる十字架刑の死の苦しみを味わわせること、さらには、ご自身が、私たちの罪に対する聖なる御怒りを御子イエス・キリストにお注ぎになって、さばきを執行されること自体は、決して、なさりたくないことです。しかし、それにもかかわらず、父なる神さまは、「私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を」遣わされました。
 御子イエス・キリストは、このような、父なる神さまの私たちに対する愛から出ているみこころをご自身の思いとし、また、願いとして、地上の歩みを歩んでこられました。
 すべては、神さまの愛を受けるに価しないばかりか、聖なる御怒りに価する罪を犯している私たちを、あえて、しかも一方的に、愛してくださった神さまの愛によっています。その愛は、何かによって触発されて生まれたのではなく、神さまご自身の主権的なご意志から出ています。そのことに、人間的な言い方をしますが、私たちは、ヨハネの手紙第一・4章8節と16節に、

 神は愛です。

と記されているように、愛を本質的な特質とする神さまの愛にある自由を、また、主権的で自由なご遺志による愛を汲み取ることができます。そして、この神さまの主権的で一方的な愛は、私たちのために十字架におかかりになった、御子イエス・キリストにおいて、最も豊かに、また、鮮明に現されています。
 ローマ人への手紙5章8節には、

私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

と記されています。ここ「明らかにしておられます」と言われていることばは現在時制で表されています。しかも、冒頭に出てきて強調されています。これによって、今から2千年前に御子イエス・キリストが「私たちのために死なれたことによって」現された「私たちに対する」父なる神さまの愛が、今も変わることなく、私たちに対して現されていることが示されています。それは、実際に、その父なる神さまの愛が私たちに注がれていることを意味しています。
 そして、私たちにこの父なる神さまの愛と御子イエス・キリストの愛を悟らせてくださったのは御霊です。そればかりでなく、実際に、私たちを父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛の交わりに生きるように導いてくださっているのは、父なる神さまが「私たちの心に」遣わしてくださった「「アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」です。
 先ほど引用したローマ人への手紙5章8節の数節前の5節には、地上にあって苦難を味わっている私たちが、なおも希望のうちにあることと、その希望が失望に終わることはないことの根拠として、

 私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

と記されています。この「私たちに与えられた聖霊によって」「私たちの心に注がれている」父なる神さまの愛は、8節に記されている、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって」現されている「私たちに対する」父なる神さまの愛です。
 私たちは、このように私たちを愛してくださり、愛してくださっている父なる神さまの子どもとしていただいています。それで、私たちも父なる神さまの愛と同じ特質の愛もつ神の子どもとしていただいています。
 また私たちは、このように私たちを愛してくださった御子イエス・キリスト長子とする神の家族に迎え入れていただいています。そして、コリント人への手紙第二・3章18節に記されていますが、御霊によって、栄光から栄光へと御子イエス・キリストのかたちに似た者として造り変えていただいています。
 エペソ人への手紙5章1節ー2節には、

ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを献げてくださいました。

と記されています。

 このように、イエス・キリストがご自身にとって当然の思いと願いをお捨てになり、それを越えて、父なる神さまのみこころが実現することを祈り求めて、実際に、十字架の死の苦しみをお受けになったことに、愛にある自由が最も豊かに、また鮮明に現されています。
 このことは、また、別の角度から見ることもできます。
 御子イエス・キリストは、私たちを愛してくださり、ご自身の意志で十字架にとどまられ、いのちを捨ててくださいました。そこに、「神のかたち」に造られている人の自由が最も深く、また、豊かに表わされています。その自由は、ゲツセマネにおけるイエス・キリストの祈りに見られるように、内側の葛藤による悲しみと苦しみの中でも表わされます。
 イエス・キリストは、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りにより、父なる神さまとの愛の交わりがまったく絶たれてしまうことは何としても避けたいという、ご自身にとって当然の思いと、私たちの罪のための宥めのささげ物となるという父なる神さまのみこころに従いたいという願いの間で、いわば、引き裂かれてしまっています。それが、内側の葛藤でした。
 ご自身のうちにそのような葛藤があったからといって、イエス・キリストが父なる神さまに不従順であったわけではありません。また、そのような内的な葛藤があったからといって、イエス・キリストが不自由であったわけでもありません。むしろ、そのような内的な葛藤とそれによる苦しみと悲しみがあることは、堕落後の世界に住んでいる神の子どもとしての自由の特徴であると言わなくてはなりません。ただし、説明するまでもないことですが、御子イエス・キリストはご自身のうちに罪があるために内的な葛藤があったわけではありません 。あくまでも、堕落してしまっていた私たちの罪を贖ってくださるためのことです。
 もし、人の愛が、自由な意志に基づく人格的な愛でなかったとしたら、どうなるでしょうか。言い換えますと、人の愛が単なる本能的なものでしかないとしたら、 それは、もう愛とは言えません。その場合には、人は本能の赴くままに行動するだけでしょうし、そこには内的な葛藤はないでしょう。あるいは、人の心がマインド・コントロールのような外側からの操作によって操作されているとしたら、どうでしょうか。そのような状態にある人はロボット化していますから、内的な葛藤はほとんどありません。
 イエス・キリストは、そのような状態にはありませんでした。また、大群衆の熱狂的な支持に後押しされて、その勢いで十字架への道を進んで行かれたのでもありません。また、我を忘れるような陶酔状態になられて、何かに憑かれたかのように、十字架への道を突き進んで行かれたのでもありません。あるいは、ご自分にむち打って、葛藤の中での苦しみや悲しみを押し殺して、ご自身にとっての当然の思いや願いをお捨てになったのでもありません。
 イエス・キリストは、ご自身の内なる悲しみや葛藤をしっかりと受け止めておられました。そして、父なる神さまとの祈りによる交わりにおいて、それを十分に表されました。そして、その上で、父なる神さまのご自身に対する愛によって支えられ、力づけられて、ご自身の確かな意志で、十字架の死の苦しみをお受けになる道を踏み出されました。ヨハネの福音書10章17節ー18節には、

わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 このようなことを考えますと、ゲツセマネにおけるイエス・キリストの祈りは、私たちに対するイエス・キリストの愛が、ご自身の自由な意志による、人格的な愛であったことを物語るものであることが分かります。イエス・キリストのうちには、深い苦悩と悲しみを伴う葛藤があったのです。その中で、私たちを死と滅びの中から贖い出して、新しいいのちに生かしてくださり、神さまとの愛にある交わりの中にに生かしてくださるために、ご自身の確かな意志で十字架の死への道を進んでくださいました。
 罪がなかったイエス・キリストであっても、このような、深い苦悩と悲しみを伴う葛藤の中で、父なる神さまのみこころに従う道を選び取っておられました。まして、私たちは、自らのうちになおも、罪の本性を残している者です。法的には、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、罪をまったく贖っていただいており、神の子どもとしての身分を与えられていながら、自らのうちに罪の本性を残しています。
 このこと自体が、私たちのうちにさまざまな葛藤と苦悩と悲しみを生み出します。私たちが、神の子どもとして愛にある自由にあって、自らの意志で、愛をもって互いに仕え合うためには、さまざまな葛藤と苦しみと悲しみを通らなくてならないということは、当然のことなのです。
 もちろん、私たちの苦しみや悲しみや葛藤は、十字架の死の苦しみを前にしてのイエス・キリストの悲しみと苦しみと葛藤の深さに比べられるものではありません。しかし、私たちなりの葛藤と苦悩と悲しみの中で、イエス・キリストの贖いの恵みによって私たちのうちに回復していただいている愛をもって互いに仕え合うことには、御子イエス・キリストご自身がそうであったように、父なる神さまが「私たちの心に」遣わしてくださった「「アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」に導いていただいて、祈りによる父なる神さまとの愛の交わりをとおしての支えと、導きが必要です。しかも、この父なる神さまとの愛の交わりこそが、永遠のいのち、すなわち、神の子どもとしてのいのちの本質です。
 このことは、私たちの神の子どもとしての特質を示しています。私たちは、地上にあっては、さまざまな、葛藤の中での苦しみや悲しみを通って、なおも、御霊に導いていただいて、愛にある自由を与えていただいている神の子どもとして歩む者です。その私たちを支えてくださっているのは、先ほど取り上げたローマ人への手紙5章5節に記されている、

 私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている

ということです。

 このようなことを踏まえて、改めて、私たちに与えられている神の子どもとしての愛にある自由は人格的なものであって、反射的なものではない、ということを確認しておきたいと思います。というのは、私たちのうちから出てくる反射的な反応は、神の子どもとしての自由を損なうことが多いかららです。
 御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかっている私たちのうちには、なおも、罪による本性の腐敗が残っています。そのために、私たちの中から反射的に出てくる反応には、しばしば、罪による本性の腐敗が影を落としています。
 たとえば、私たちが誰かのことばや、行ないによって傷ついたとしましょう。その「傷ついた」という感じ方は、私たちのうちから出てきた「反射的な反応」です。そのような反射的な反応には、しばしば、私たち自身の罪による本性の腐敗が深く影を落としています。そして、そのような罪の本性による反射的な反応は、私たちの神の子どもとしての愛にある自由を、知らない間に破壊してしまいます。
 私たちが誰かのことばに傷つけられたと感じることを、考えてみましょう。私たちが傷つけられたと感じることの多くは、私たちが、その人に期待していたことが裏切られたと感じることからきています。もともと、何の期待も信頼もしていない人のひどいことばには、腹は立っても、傷つけられたと感じることはありません。とても微妙なことですが、それは、私たちがその人にはその人の自由があり、その人なりの事情や理由があることを忘れて、常に、自分の期待通りであって欲しいと期待していることや、自分の尺度でその人のことを測ることなどによっています。それは、どこかで、その人を支配することにつながっており、その根底には自分自身のうちにある罪の自己中心性があり、私たちは自らの罪の自己中心性に縛られ、支配されてしまっています。
 このような関係にあっては、愛にある神の子どもの自由は育つことはありません。お互いが、常に相手の期待に背かないようにという気遣いで自分を縛ってしまいます。その息苦しさで、窒息してしまうことさえあります。
 これにはもっと重大な問題があります。相手のことばや行ないに対して、私たちのうちから出てくる反射的な反応は、そのままでは「相手次第」ということになります。その人が自分の気に入ることをしてくれたり、言ってくれれば、嬉しくなります。しかし、その人が自分の願っていることとまったく違うことをしたり、言ったりすると、傷ついてしまいます。そのような状態にあっては、私たちは、「相手次第」で浮いたり沈んだりしてしまいます。
 20年ほど前にお話ししたときには、このことについて「相手に自分を支配させている」と説明して終わってしまいました。それは、一般的な心理学的な説明です。しかし、もっと突き詰めていきますと、そのような時に、私たちは、やはり、自分自身のうちにある罪の自己中心性に縛られ、支配されてしまっています。 もちろん、そうなっている人自身は、自分が嬉しくなるにしろ、傷ついて落ち込むにしろ、正当な感じ方をしていると思っていますから、自分自身のうちにある罪の自己中心性に縛られ、支配されていると感じることはありません。
 このような「相手次第」の関係においては、神の子どもとしての愛にある自由が育つことはありません。むしろ、それが見える形で現れてくるにしろ、心ひそかに繰り広げられるかの違いはあっても、ガラテヤ人への手紙5章15節に記されている「互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしている」状態になってしまいがちです。
 しかし私たちは、外からの働きかけに対してだけでなく、そのような、自分のうちにある罪の本性による自己中心性がが生み出す反射的な反応に対しても、御霊に導かれ、

 私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている

ということに支えられて、愛をもって受け止めて、愛をもって応える、神の子どもとしての自由を与えられています。このことについては、日を改めて、もう少しお話しします。


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