黙示録講解

(第488回)


説教日:2022年2月13日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(241)


 黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束と関連するみことばについてのお話を続けます。
 これまで、この栄光のキリストの約束と関連するみことばの一つとしてエペソ人への手紙2章1節ー10節に記されていることからお話してきて、その最後の10節に、

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

と記されているみことばについてお話ししました。
 この10節に記されていることは、その前に記されていることを踏まえていますが、これまで特に注目してきたのは、6節に、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されているみことばとのつながりです。
 この点については繰り返しお話ししてきましたので、今お話ししていることとかかわっていることの結論的なことをお話しします。
 この10節に記されている「良い行い」は、一般的な意味での「良い行い」ではなく、6節で、神さまが、御霊によって、私たちを「キリスト・イエス」と結び合わせてくださって、私たちを「キリスト・イエスにあって」、「キリスト・イエス」とともによみがえらせてくださり、「キリスト・イエス」とともに「天上に座らせて」くださったと言われていることとのかかわりで考えられる「良い行い」です。それで、この「良い行い」は、私たちが、今すでに、終わりの日に再臨される栄光のキリストによって再創造される、新しい天と新しい地に属している者として、「来たるべき時代」あるいは「新しい時代」の歴史と文化を造る使命を果たすことにおける「良い行い」です。
 この意味での「良い行い」は、10節で神さまが、

 その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

と言われているように、神さまが一方的な恵みによって備えてくださっているものです。それは、私たちが「来たるべき時代」を特徴づけ、動かしている御霊によって導いていただいて初めて行うことができるものです。
 この「来たるべき時代」を特徴づけ、動かしている御霊は、父なる神さまの右に着座された栄光のキリストが聖霊降臨節(ペンテコステ)の日に遣わしてくださった聖霊のことです。その時以来、栄光のキリストはこの御霊によって、あらゆる点において、ご自身の民を支えてくださり、神の子どもとして歩むことができるように導いてくださっています。
 この御霊は、御子イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊で、私たちをその贖いの御業にあずかる者としてくださいます。
 そのお働きの最初にあり、中心にあるのは、私たちを栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリスト、すなわち栄光のキリストと結び合わせてくださったことです。この御霊のお働きによって、私たちは新しく生まれ、イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められ、栄光のキリストを長子とする神の家族に養子として迎え入れられて、神の子どもとしていただいています。それで、ガラテヤ人への手紙4章6節では、この御霊のことが「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」と言われています。
 父なる神さまに個人的に、親しく「アバ、父よ」と呼ぶことは、本来的には、御子イエス・キリストお一人の特権です。私たちは御霊のお働きによって、御子イエス・キリストと結び合わされて神の子どもとしていただいているので、父なる神さまに個人的に、親しく「アバ、父よ」と呼ぶことができるのです。そしてこのことは、神の子どもとしていただいている私たちの祝福と特権の中心にあることです。私たちは、御子イエス・キリストにあって、御子の御霊」に導いていただいて「父なる神さまとの豊かな愛の交わり、すなわち、永遠のいのちに生きています。

          *
 前回は、その一部ですが、ローマ人への手紙8章1節ー4節に、

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。

と記されていることに基づいて、今、私たちがどのような状態にあるかということをお話ししました。
 ここに記されていることの根底にあるのは、「御霊」によって特徴づけられ、導かれている「来たるべき時代」と、「」によって特徴づけられ、支配されている「この時代」の対比です。
 御霊によって栄光のキリストと結ばれて、神の子どもとしていただいている私たちは、すでに、「御霊」によって特徴づけられ、導かれている「来たるべき時代」に属しています。それで、私たちはもはや「」によって特徴づけられ、支配されている「この時代」には属してはいません。
 父なる神さまが私たちを「キリスト・イエスにある者」としてくださったのは、3節後半に記されているように、父なる神さまが、十字架におかかりになった御子イエス・キリストに対して、私たちのすべての罪――私たちがすでに犯した罪だけでなく、これからなおも犯すであろう罪も含めたすべての罪――に対する聖なる御怒りによる刑罰を執行されて、私たちの罪を完全に贖ってくださったことによっています。
 それによって、1節に記されているように、私たちは「罪に定められることは決してありません」。私たちの罪に対する最終的なさばきは、今から2千年前に、御子イエス・キリストの十字架の死において終わっています。私たちはこの御子イエス・キリストが成し遂げてくださった罪の贖いの完全さのゆえに、罪をさばかれることは決してありません。
 それで、ローマ人への手紙8章14節ー15節に、

神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。

と記されているように、「神の御霊に導かれる」「神の子ども」である私たちは、私たちの罪に対する神さまのさばきへの恐怖から解放していただいています。私たちが受けている御霊は、私たちを恐怖によって縛って従わせることは決してありません。御霊によって導かれている私たちは「神の子ども」としての自由を与えられているのです。
 このこととのかかわりで二つのことに触れておきます。
 一つは、4節に、

それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。

と記されているように、父なる神さまが御子イエス・キリストによって私たちに神の子どもとしての自由を与えてくださって、御霊によって導いてくださっているのは、「御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるため」です。
 これに関連することは、ガラテヤ人への手紙5章13節ー14節に、

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。

と記されています。
 このことは、神さまが私たちに与えてくださった神の子どもとしての自由は「愛をもって互いに仕え合」うことにおいて、私たちの現実になる自由であることを意味しています。神の子どもとしての自由は、愛のうちにある自由、愛のうちを歩む自由です。そして、ここでは、私たちが神の子どもとしての自由にあって「愛をもって互いに仕え合」うことによって、私たちのうちに、また、私たちの間に愛の「律法全体」が全うされるということを意味しています。そして、このことは「肉に従わず御霊に従って歩む私たち」の間で、すなわち、御霊のお働きによって、御霊の力によって現実になります。
 もう一つのことは、この裏側にあることと言ったらいいでしょうか、言わば消極的なことです。
 ヨハネの手紙第一・4章18節には、

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。

と記されています。
 神さまからの「」を恐れて――兄弟姉妹を愛さないと神さまにさばかれるという恐れから――兄弟姉妹を愛することは、突き詰めていくと、自分を守ろうとすることであって、真の意味で、兄弟姉妹を愛することではありません。
 また、ガラテヤ人への手紙5章では、13節ー14節に続く15節に、

気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。

と記されています。
 これはガラテヤにある教会の実情を踏まえての警告ですが、獣が「かみつき合ったり、食い合ったりしている」ことを表すことばを使っています。とはいえ、ガラテヤにある教会の信徒たちも、福音のみことばを聞いて、イエス・キリストを信じた方々です。その方々が、ユダヤ主義者たちの誤った教えに惑わされてしまったために、このような現実が生まれてしまっています。
 罪が生み出す自己中心性はとても巧妙なものです。「互いに、かみつき合ったり、食い合ったり」することも自分を守ろうとすることが動機となっています。その一方で、神さまのさばきから自分を守ろうとして、兄弟姉妹を愛そうとすることもありえます。救われた後の私たちのうちになおも残っている罪の本性から、このような現実が生み出される可能性があるのです。
 ガラテヤ人への手紙5章でも、このような現実にあって、「肉に従わず御霊に従って歩む」ようにと戒められています。15節に続く16節に、

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。

と記されているとおりです。
 そして、私たちが「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たすことの中心は、私たちが神の子どもとしての自由にあって、御霊に導いていただいて、「愛をもって互いに仕え合」うことにあります。

          *
 今日は、これらのことを踏まえて、20年ほど前にお話ししたことですが、この愛において現される神の子どもの自由は、私たちご自身のしもべを愛してくださって、十字架におかかりになった御子イエス・キリストにおいて最も豊かに、また、鮮明に現されたということを、改めてお話しします。[注]

[注]このお話は、『私たちに現された神のみこころ』という本に掲載していただいていますが、その本が絶版になっていますので、この機会に、いくつかのことを、補足したり、省略したり、さらには、言い回しを変えたりしてお話しすることには意味があると考えました。

 人の目から見れば、十字架につけられたイエス・キリストはまったく不自由な状態にありました。しかし、まことの神の御子であられるイエス・キリストにとって、十字架から降りること自体は、いともたやすいことでした。その点は、その時代に十字架につけられて処刑された人々とは違っています。
 その手足は十字架に釘づけにされて身動きもままなりません。苦しみの余りに身を動かせば、かえって骨を砕かれている激痛の苦しみを深めるだけです。息をするためには足を踏ん張らなければなりませんが、そのことによる身の動きも、その激痛を増し加えます。そして、自由に呼吸することができないために生ずる、さまざまな障害が全身に現れてきて、痛みと苦しみを深めていったと言われています。
 イエス・キリストは、そのような痛みと苦しみの中にあって、ご自身の意志で、十字架にとどまり続けられました。
 さらに、そのイエス・キリストには、マタイの福音書27章42節に記されている、

他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。

というようなあざけりのことばが、「通りすがりの人たち」、「祭司長たち」、「律法学者たち、長老たち」、「イエスと一緒に十字架につけられた強盗たち」[そのうちの一人は、やがて、イエス・キリストを信じるようになります(ルカの福音書23章40節ー43節)]から浴びせられました。
 その時、イエス・キリストは、ご自身の民の罪を贖ってくださるために――ご自身の民を罪と死の力から解き放って、永遠のいのちのうちに生かしてくださるために――十字架にとどまっておられます。しかし、そのような、イエス・キリストの愛による思いは、誰一人として知らなかったのです。
 これらの肉体的、精神的な苦しみだけでも、私たちの想像をはるかに越えたものです。しかし、これらの苦しみは、それがどんなに深いものであっても、イエス・キリストが十字架の上で味わわれた死の苦しみへの「序曲」、「序奏」でしかありませんでした。
 昼の12時から3時まで続いた「暗やみ」の中で、イエス・キリストは、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わってすべて受けてくださいました。
 人が加えることができる十字架刑の苦しみは、ある程度までは想像することができます。医学の発達とともに、それがどのような苦痛であったかが具体的に語られるようになりました。今では、それをインターネットでも調べることができます。
 また、自分が心にかけて、そのためにいのちをも捨てようとしている人々からまったく誤解され、逆に、自分のしていることが非難され、あざけりと罵りの的となってしまう苦しみも、ある程度、理解することができます。
 けれども、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰がどのようなものであるかについては、私たちには想像することすらできません。まさに、この時のイエス・キリストにおいて、申命記21章23節に記されている、

 木にかけられた者は神にのろわれた者である

ということが、その最も深い意味において、現実になっていました。第二神殿期と呼ばれる、その当時の時代においては、ユダヤ人の独立のために戦って十字架刑によって処刑された人々、さらには、イエス・キリストを主と信じていたために十字架刑によって処刑された人々は数え切れないほどいました。しかし、このような、イエス・キリストがお受けになった、人間が想像することもできない苦しみをもたらすのろいを受けたのはイエス・キリストだけでした。
 そのように、十字架につけられて、肉体的にも、精神的にも、霊的にも、私たちの想像を絶する痛みと苦しみを味わいながら、なおも十字架の上にとどまっておられるイエス・キリストは、最も深くて豊かな意味において、愛にある自由のうちにおられました。それで、十字架におかかりになったイエス・キリストにおいて、父なる神さまの愛が最も深くまた豊かに現され、父なる神さまの栄光がこの上なく鮮明に現されたのです。ヨハネの手紙第一・4章9節ー10節に、

 神はそのひとり子を世に遣わし、
 その方によって
 私たちにいのちを得させてくださいました。
 それによって
 神の愛が私たちに示されたのです。
 私たちが神を愛したのではなく、
 神が私たちを愛し、
 私たちの罪のために、
 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。
 ここに愛があるのです。

と記されているとおりです。


 イエス・キリストは、私たちの想像を絶する死の苦しみをその身に負われることを前にして、ゲツセマネにおいて祈られました。それは、マタイの福音書26章38節にイエス・キリストご自身が、

 わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。

とあかししておられる死ぬほどの悲しみと、ルカの福音書22章44節に、

イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。

と記されている苦しみの中での祈りでした。
 マタイの福音書26章39節に記されているように、その祈りの中で、イエス・キリストは、

わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。

とお祈りになり、さらに2度目には、42節に記されているように、

わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように

とお祈りになりました。
 このイエス・キリストの祈りには、二つのことが含まれています。
 一つは、イエス・キリストが、

 わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。

と祈っておられることです。
 ヨハネの福音書1章1節ー2節に、

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。

と記されているように、御子イエス・キリストは永遠に、父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛にある交わりのうちにおられます。そのイエス・キリストが――人としての性質においてですが――私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わってすべてお受けになるということは、無限、永遠、不変の愛において結ばれている父なる神さまとの交わりが絶たれてしまうこと、さらには、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りが容赦なく注がれるということを意味しています。マタイの福音書27章46節に記されているように、イエス・キリストが十字架の上で、

 わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか

と叫ばれたことは、そのことが、イエス・キリストに起こったことを意味しています。
 イエス・キリストが死ぬほどの悲しみの中で、汗が血の滴のように滴り落ちるほどの苦しみとともに、

 わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。

とお祈りになったことは、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰が、イエス・キリストにとって、どれほど恐ろしいものであるかを示しています。同時に、それは、

 わたしは悲しみのあまり死ぬほどです

と言われた、イエス・キリストにとって、父なる神さまとの愛の交わりを絶たれてしまうことがどれほど悲しいものであったかを示しています。
 ですから、この、

 わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください

という祈りは、無限、永遠、不変の愛において父なる神さまと結ばれている御子イエス・キリストにとっては、最も自然な祈りです。御子イエス・キリストが十字架の上で味わわなければならない苦しみも悲しみも、父なる神さまとの愛の交わりが絶たれてしまうだけでなく、最も恐るべき神さまの聖なる御怒りがご自身に注がれるようになるということから来る苦しみであり、悲しみです。ですから、この祈りには、御子イエス・キリストの父なる神さまに対する愛が、決して父なる神さまの愛を失いたくないという深い思いとともに表されています。
 もう一つのことですが、しかし、イエス・キリストの祈りは、そこで終わってはいません。イエス・キリストは続いて、

しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。

とお祈りになりました。また、2度目の祈りでは、

わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように

とお祈りになりました。
 イエス・キリストは、父なる神さまとの愛の交わりがまったく絶たれてしまうことは何としても避けたいという、思いを父なる神さまに告白しました。それは、イエス・キリストにとって最も自然で当然の願いです。しかし、イエス・キリストは、そのようなご自分の願いを越えて、父なる神さまのみこころが実現することを祈り求めておられます。
 このように言うと、イエス・キリストに十字架の辱めと苦しみを味わわせること、また、それ以上に、私たちの罪に対する聖なる御怒りをイエス・キリストに注がれて刑罰を執行なさることが、父なる神さまのみこころであるかのように聞こえてしまいます。しかし、そのようなことは、決して、父なる神さまのみこころではありません。
 人間的な言い方をしますが、無限、永遠、不変の愛において御子を愛しておられる父なる神さまにとって、御子イエス・キリストに人の手によって加えられる十字架刑の死の苦しみを味わわせることは耐えられないことです。まして、ご自身が、私たちの罪に対する聖なる御怒りを御子イエス・キリストの上にお注ぎになって、さばきを執行されることは、決して、なさりたくないことです。
 その意味で、御子に無限の死の苦しみを負わせること自体は、父なる神さまのみこころではありません。しかし、それにもかかわらず、父なる神さまは、「私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を」遣わされたのです。
 御子イエス・キリストは、このような、父なる神さまの私たちに対する愛から出ているみこころを理解し受け止めておられるだけでなく、それをご自身の思いとし、また、願いとして、地上の歩みを歩んでこられました。そのために、イエス・キリストは、一貫して、十字架を回避しようとする誘惑を断固として退けておられます。

 私たちは、このような御子イエス・キリストを長子とする神の家族に迎え入れていただいており、このような父なる神さまの子どもとしていただいています。
 ですから、これらのことから、御霊に導かれて歩む神の子どもとしての愛にある自由の一端が見えてきます。
 御子イエス・キリストが十字架につけられて、人が加えることができる十字架刑の苦しみを味わわれただけでなく、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わって、すべてその身に負ってくださったことには、父なる神さまと御子イエス・キリストに共通していることがあります。
 それは、父なる神さまも、御子イエス・キリストも、ご自身にとって自然で当然の思いと願いをお捨てになって――あるいは、ご自身の思いと願いを越えて、ご自身の御手によって造られたものでしかなく、しかも、ご自身に背いて罪を犯していた私たちに対する愛を貫いてくださっておられる、ということです。そして、そのような私たちを愛してくださったので、私たちを死と滅びの中から贖い出してくださるために、父なる神さまは「私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました」。そして、御子イエス・キリストは、十字架にかかって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべて、その身に負ってくださいました。
 これまでお話ししてきたように、神の子どもとしての自由は、御霊に導かれて、愛のうちを歩むことにおいて現実のものになります。そして、そのように、私たちが御霊に導かれて、神の子どもとしての自由にあって、愛のうちを歩むことは、ご自身にとって自然であり当然である思いや願いをもお捨てになって、「私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を」遣わしてくださった父なる神さまの愛と、十字架にかかって死んでくださり、ご自身の意志で十字架にとどまり続けられて、私たちの罪に対する神さまの御怒りとさばきを、私たちに代わってすべて受けてくださった御子イエス・キリストの愛を映し出す歩みとなります。
 それが、御子イエス・キリストを長子とする父なる神さまの家族に迎え入れていただいている神の子どもとしての歩みです。そして、そのように、神さまの一方的な愛と恵みによって、神の子どもとしての自由を与えていただいている私たちが、御霊によって導いていただいて、愛のうちを歩むことによって、私たち自身が、御子イエス・キリストのかたちに似た者へと成長し、成熟していくことになります。
 このことは、私たちが地上にある間は、完全には実現しません。しかし、先にお話ししたように、神さまは、すでに、私たちを栄光から栄光へと、御子イエス・キリスト同じかたちへと造り変えてくださっています。そして、イエス・キリストの再臨の日には、この私たちに対する御業を完成してくださいます。


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