黙示録講解

(第487回)


説教日:2022年1月30日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(240)


 黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束と関連するみことばについてのお話を続けます。
 これまで、この栄光のキリストの約束と関連するみことばの一つとしてエペソ人への手紙2章1節ー10節に記されていることからお話してきて、その最後の10節に、

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

と記されているみことばについてお話ししました。
 この10節に記されていることは、その前に記されていることを踏まえていますが、これまで特に注目してきたのは、6節に、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されているみことばとのつながりです。
 この6節では、神さまが、私たちを「キリスト・イエス」と結び合わせてくださって、「キリスト・イエス」とともによみがえらせてくださり、「キリスト・イエス」とともに「天上に座らせて」くださったということを示しています。
 まず、今日お話しすることとかかわっていることの結論的なことをお話しします。
 エペソ人への手紙2章10節に記されている「良い行い」は、一般的な意味での「良い行い」ではなく、6節で、神さまが、御霊によって、私たちを「キリスト・イエス」と結び合わせてくださって、私たちを「キリスト・イエスにあって」、「キリスト・イエス」とともによみがえらせてくださり、「キリスト・イエス」とともに「天上に座らせて」くださったと言われていることとのかかわりで考えられる「良い行い」です。それで、この「良い行い」は、私たちが今すでに、新しい天と新しい地に属している者、ピリピ人への手紙3章20節のことばで言うと、天に国籍をもっている者として、「新しい時代」とも呼ばれますが、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たすことにおける「良い行い」です。
 この意味での「良い行い」は、10節で、神さまが、

 その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

と言われているように、神さまが一方的な恵みによって備えてくださっているものです。それは、私たちが「来たるべき時代」を特徴づけ、動かしている御霊によって導いていただいて初めて行うことができるものです。
 昨年末にお話ししましたように、この「来たるべき時代」を特徴づけ、動かしている御霊は、父なる神さまの右に着座された栄光のキリストが聖霊降臨節(ペンテコステ)の日に遣わしてくださった聖霊のことです。その時以来、栄光のキリストはこの御霊によって、あらゆる点において、ご自身の民を支えてくださり、神の子どもとして歩むことができるように導いてくださっています。
 この御霊は、ローマ人への手紙8章14節ー15節に、

神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

と記されている御霊です。また、ガラテヤ人への手紙4章6節ー7節に、

そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。

と記されている「御子の御霊」です。
 この御霊は、御子イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊で、私たちをその贖いの御業にあずかる者としてくださいます。
 そのお働きの最初にあり、中心にあるのは、私たちを栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリスト、すなわち栄光のキリストと結び合わせてくださったことです。これを神学的には「キリストとの神秘的結合」と呼びます。この「キリストとの神秘的結合」と呼ばれる御霊のお働きによって、私たちはキリストのうちにある者となり、キリストが私たちのうちに住んでくださるようになりました。
 ガラテヤ人への手紙2章20節に、

 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

と記されていることはこのことを踏まえています。
 また、ローマ人への手紙8章9節ー11節に、

しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。

と記されていることもこのことを踏まえています。


 このローマ人への手紙8章9節ー11節に記されていることで注目したいのは、9節前半に、

しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。

と記されていることです。
 ここでは「御霊」と「」が対比されています。冒頭の「しかし」という接続詞が示しているように、この「御霊」と「」の対比は、その前の1節ー8節に記されていることを受けています。そこには、

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。

と記されています。
 ここに記されていることの根底にあるのは、「御霊」によって特徴づけられ、導かれている領域(時間的には「来たるべき時代」)と、「」によって特徴づけられ、支配されている領域(時間的には「この時代」)の対比です。
 1節に出てくる「キリスト・イエスにある者」、すなわち、御霊によって栄光のキリストと結ばれて、「キリスト・イエスにある者」となった私たちは、先ほどの9節前半に記されていたように「御霊のうちに」、すなわち、「御霊」によって特徴づけられ、導かれている領域(来たるべき時代)にあります。この「御霊に従う者は御霊に属することを考えます」(5節)。そして「御霊の思いはいのちと平安です」(6節)。
 しかし、かつての私たちは、今も「キリスト・イエスに」はない人々と同じように、8節に記されている「肉のうちに」、すなわち、「」によって特徴づけられ、支配されている領域(この時代)にありました。この「肉に従う者は肉に属することを考えます」(5節)。そして、「肉の思いは死です」(6節)。なぜなら、「肉の思いは神に敵対するからです」(7節)。[7節のこの後の部分を直訳調に言いますが]それは、「肉の思い」は「神の律法に」従わないからですが、それも、「肉の思い」は「神の律法に」「従うことができない」からです。
 私たちが「キリスト・イエスにある者」としていただいたのは、3節後半に記されているように、神さまが「ご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰された」ことによっています。具体的には、父なる神さまが、十字架におかかりになった御子イエス・キリストに対して、私たちご自身の民のすべての罪に対する聖なる御怒りによる刑罰を執行されて、私たちの罪を完全に清算してくださったことによっています。それによって、1節ー2節に記されている、

今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。

ということが私たちの現実になっています。これは、神さまが「ご自分の御子」を遣わしてくださって、私たちのために成し遂げてくださったことです。ここで、注目したいのは、

 今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

と言われていることです。これは、私たちが神さまの御前に、言い換えますと、天の法廷において、義と認められているということを意味しています。これは、繰り返しになりますが、神さまが「ご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰された」ことによっています。
 これによって、私たちは「」によって特徴づけられ、支配されている領域(この時代)から贖い出されて、「御霊のうちに」、すなわち、「御霊」によって特徴づけられ、導かれている領域(来たるべき時代)に移されています。それで、私たちは「肉に従わず御霊に従って歩む」者となっています(4節)。
 4節に記されている、

それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。

ということについては、優れた学者たちの間でも見方が分かれていて、判断することが難しいことです。
 一つの見方は、ここに記されていることが受動態で記されていますが、それは「神的受動態」で、神さまが私たちのためになしてくださったことを記していると理解します。そして、完全に「律法の要求」を満たされたのは、人としての性質を取って来てくださって、律法の下にある者となられ、十字架の死にいたるまで父なる神さまのみこころに従いとおされた御子イエス・キリストであるということから、ここには、神さまが御子イエス・キリストによって私たちのために成し遂げてくださったことが記されていると理解します。
 確かに、完全に「律法の要求」を満たされたのは、人としての性質を取って来てくださって、律法の下にある者となられ、十字架の死にいたるまで父なる神さまのみこころに従いとおされた御子イエス・キリストですし、御子イエス・キリストだけです。そして、私たちは、このようにして御子イエス・キリストが立ててくださった義にあずかって義と認められています。
 しかし、そのことは1節ー3節に記されていることに示されています。それで、ここ4節では、神さまが「ご自分の御子」によって、私たちのために成し遂げてくださったことに基づいて、特に、2節で、「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放した」―― 一般的なこととしてではなく「『あなたを』解放した」―― と言われていることに基づいて、「肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされる」ようになることが示されていると考えられます。
 また、ここで「肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされる」と言われているときの「御霊に従って歩む私たちのうちに」と言われていることは、「律法の要求が満たされる」ことは、私たちが「」に従って、自分の力でなすことではなく、「御霊に従って」、すなわち、御霊に導かれ、御霊の力によってなすことであることを示しています。このことも、「律法の要求が満たされる」と言われていることは私たちの歩みのことを指しているという見方を支持していると考えられます。
 そして、それは、

 今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

と言われているように、神の御子の十字架の死による完全な罪の贖いにあずかって、罪に対するさばきへの恐れからまったく解放された者としての自由、さらには、御子イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からのよみがえられたことにあずかって、永遠のいのちをもつ者として新しく生まれた神の子どもとしての自由にあって、御霊に導かれて歩むことによってなすことです。
 先ほど引用しました14節ー15節に、

神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

と記されています。ここでは、「神の子ども」が恐怖によって奴隷化されることがないことが示されています。御霊は私たちを恐怖によって支配し、動かそうとされることはありません。

 また、同じことは、やはり先ほど引用しましたガラテヤ人への手紙4章6節ー7節に、

そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。

と記されています。
 ここでも神の子どもたちが「この世のもろもろの霊[ストイケイア]の下に奴隷となって」いた状態(3節)、また、「律法の下にある」状態から、神さまが遣わしてくださった「ご自分の御子」によって贖い出されて(5節)、「もはや奴隷ではな」いことが示されています。
 ガラテヤ人への手紙では、このことを受けて、5章1節に、

キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。

と記されています。また、13節ー14節には、

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。

と記されています。
 このことは、神さまが私たちに与えてくださった神の子どもとしての自由は「愛をもって互いに仕え合」うことにおいて、私たちの現実になる自由であることを意味しています。そして、私たちが神の子どもとしての自由にあって、「愛をもって互いに仕え合」うことによって愛の律法が全うされるということを意味しています。
 そして、続く15節で、ガラテヤにある教会の実情を踏まえて、

気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。

と、獣が「かみつき合ったり、食い合ったりしている」ことを表すことばを使って警告した後、16節で、

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。

と述べています。
 これは、ローマ人への手紙8章4節に、

それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。

と記されていることに当たります。
 このように、私たちが神の子どもとしての自由を与えていただいている神の子どもとして、御霊によって歩むことの中で、「愛をもって互いに仕え合」うようになることによって、「私たちのうちに、律法の要求が満たされる」ようになります。
 もちろん、信仰によって義と認められ、神の子どもとしていただいている私たちの本性には、なお、罪の性質が残っています。そのために、私たちが地上の生涯を歩む間は、私たちは愛の律法を完全に守ることはできません。私たちは、絶えず、御子イエス・キリストが私たちのために成し遂げてくださった罪の完全な贖いにあずからせていただいて、私たち自身と私たちが行うことをきよめていただく必要があります。
 それと同時に、私たちが神の子どもとしての自由を与えていただいている神の子どもとして、御霊によって歩むことの中で、「愛をもって互いに仕え合」うようになることによって、私たちのうちに「御霊の実」が結ばれていきます。ガラテヤ人への手紙5章22節ー23節には、

御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。

と記されています。ここには、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という九つの人格的な特質が出てきます。しかし、「御霊の実」は単数です。つまり、これらの九つの人格的な特質はばらばらなものではなく、「御霊の実」としての特質としてひとまとまりをなしているのです。それで、この「御霊の実」は一つの人格であることが分かります。
 また、このガラテヤ人への手紙5章の流れの中では、この「御霊の実」としての「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という九つの人格的な特質は、先ほどの、13節ー14節に、

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。

と記されているように、私たちが神の子どもとしての自由にあって、「愛をもって互いに仕え合」うことの中で現実のものとなることが分かります。
 ここでは、私たちが「愛をもって互いに仕え合」うことにおいて、律法が全うされることが示されています。これは22節ー23節において、「御霊の実」としての「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という九つの人格的な特質について、「このようなものに反対する律法はありません」と言われていることに相当します。
 そればかりでなく、この「御霊の実」としての「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という九つの人格的な特質は、私たちが神の子どもとしての自由にあって、「愛をもって互いに仕え合」うことの中で、さらに、磨かれ、豊かなものになっていきます。それは、また、これら九つの人格的な特質をもっている「御霊の実」としての人格も成長し、成熟していきます。
 この「御霊の実」は、御霊が私たちのうちに結んでくださる「」です。そして、これは、御霊が私たちを栄光のキリストと結び合わせてくださって、新しく生まれさせてくださり、神の子どもとしてくださった、私たちのうちに結んでくださるものです。それで、この「御霊の実」としての人格は、「御子のかたちと同じ姿」の者――栄光のキリストに似た者――のことです。それは、神さまの永遠のみこころによることです。ローマ人への手紙8章29節に、

神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。

と記されているとおりです。
 今お話ししていることとのかかわりでは、エペソ人への手紙2章6節に、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されていることに示されているように、私たちが「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たすことは、「キリスト・イエスにあって」のことであり、「来たるべき時代」を特徴づけ、動かしている御霊によることです。それで、私たちが「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たすことは、神の子どもとしての自由のうちにあって、御霊に導いていただいて、「愛をもって互いに仕え合」うことによって実現します。
 このように、私たちが「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たすことは、私たちが神の子どもとしての自由にあって、御霊に導いていただいて、「愛をもって互いに仕え合」うことによって実現しますが、それによって、私たち自身が、御霊によって、御子イエス・キリストのかたちと同じ姿の者として成長し、成熟していくようになります。コリント人への手紙第二・3章18節に、

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と記されているとおりです。
 当然、それによって、お互いの間の愛の交わりが深く豊かになっていきます。そればかりではありません、そのようにして、私たちが、御霊によって、御子イエス・キリストのかたちと同じ姿の神の子どもとして成長し、成熟していくことによって、父なる神さまとのより深く豊かな愛の交わりに生きるようになっていきます。
 これによって、ガラテヤ人への手紙5章13節ー14節に記されているように、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という律法が私たちの間で全うされますし、マタイの福音書22章37節に記されている「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という「重要な第一の戒め」が私たちの間で全うされます。
 このことはまた、私たちが地上の生涯においては、愛の律法を完全には守ることができないということとかかわっています。
 私たちは地上の生涯においては、愛の律法を完全には守ることができません。
 しかし、私たちが神の子どもとしての自由にあって、御霊に導いていただいて、「愛をもって互いに仕え合」うことによって、私たち自身が、御霊によって、御子イエス・キリストと同じ姿の者として成長し、成熟していきます。そして、それによって、お互いの間の愛の交わりが深く豊かになっていくことによって、また、私たちが父なる神さまとのより深く豊かな愛の交わりに生きるようになっていくことによって、私たちの間に愛の律法が、より深く、豊かに全うされるようになっていきます。
 このことは、私たちの地上の生涯においては完全に実現しませんが、ピリピ人への手紙3章21節に、

キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。

と記されているように、終わりの日には、栄光のキリストが再臨されて、私たちを栄光のからだによみがえらせてくださいます。
 それによって、ヨハネの手紙第一・3章2節に、

愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。

と記されているように、私たちは「キリストに似た者」になります。また、それによって、「キリストをありのままに見る」と言われていることに示されている栄光のキリストとの直接的な愛の交わりが完成されるようになります。もちろん、新しい天と新しい地も歴史的な世界ですので、その栄光のキリストとの直接的な愛の交わりも、さらに、深く豊かになっていきます。

 今日は、その時間的な余裕がありませんが、最後に、お話ししたいことがあります。
 私たちが「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たすことは、私たちが神の子どもとしての自由はにあって、御霊に導いていただいて、「愛をもって互いに仕え合」うことにおいて現実になります。その愛において現される自由は、私たちご自身のしもべを愛してくださって、十字架におかかりになった御子イエス・キリストにおいてもっとも豊かに、また、鮮明に現されました。
 このことは、20年ほど前に、神さまのみこころの中心に、神さまが私たちを御子イエス・キリストのかたちに似た者としてくださることがあるということとのかかわりでお話ししたことがありますが、この一連のお話の最後に、そのことについて、改めて、お話ししたいと思います。


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