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説教日:2022年1月16日 |
このこととのかかわりで注目したいのは、5節に出てくる「来たるべき世」のことです。 ここで「来たるべき世」と言われているときの「世」ということば(オイクーメネー)は、ヘブル人への手紙では2回用いられていて、ここのほか1章6節に出てきます。それを5節から引用すると、 (五節)神はいったい、どの御使いに向かって言われたでしょうか。 「あなたはわたしの子。 わたしが今日、あなたを生んだ」 と。またさらに、 「わたしは彼の父となり、 彼はわたしの子となる」 と。(六節)そのうえ、この長子をこの世界に送られたとき、神はこう言われました。 「神のすべての御使いよ、彼にひれ伏せ。」 と記されています。5節で引用されているのは詩篇2篇7節に記されているみことばで、御子がダビデ契約に基づくメシアとして立てられるときのことを預言として示しています。また、6節では、神さまがこのメシアを「この世界[オイクーメネー]に送られた」と言われています。 そして、2章5節ー10節では、神さまは、御子をメシアとしてお遣わしになった「この世界[オイクーメネー]」に対応する「来たるべき世[オイクーメネー]」を、御使いたちにではなく、神のかたちとして造られている人に従わせたと言われているのです。 さらに、御子がメシアとして神さまの右の座に着座されたことが、1章3節に、 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。 と記されています。 ここでは、御子がダビデ契約に約束されていた永遠の王座である父なる神さまの右の座に着座されたこととのかかわりで、二つのことが示されています。一つは、その御子ご自身がどなたであるかということです。「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」であられる御子が、「その力あるみことばによって万物を保っておられます」ということです。これは、その前の2節後半に、 神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。 と記されているように、御子が父なる神さまのみこころにしたがって天地創造の御業を遂行されたこととかかわっています。 この2節後半では、御子が「世界を造られ」た方であることが示されていますが、ここで「世界」と訳されていることば[アイオーネス(アイオーンの複数形)]は、基本的には、時間的な意味合いをもっていますが、空間的な意味合いももっています。それで、これは時間的であり、空間的な広がりをもっている世界を表しています。つまり、御子は歴史的なこの世界のすべてのものをお造りになった方であるのです。 このことが、3節において、 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。 と言われていることにつながっています。これによって、御子はまことの神であられ、「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れで」あられるとともに、ご自身が造り出された「万物」、すなわち、この歴史的な世界のすべてのものを、「その力あるみことばによって」、「保っておられます」ということが示されています。これは、御子が歴史の主として、契約の神である「主」ヤハウェであられることを意味しています。 それで、ここで、御子が、 その力あるみことばによって万物を保っておられます。 と言われていることは、御子がただ「万物」を保っておられるというだけでなく、歴史の主として、この歴史的な世界が神さまのお定めになった目的に向かって進展していくように、すべてのものを支え、導いておられることを意味しています。 このことは、神さまが創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人に、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命ををお委ねになったことと深くかかわっています。この神さまのみこころを実現するようにと歴史的な世界のすべてのものを支え、導いておられる御子が、その人としての性質において、歴史と文化を造る使命を、原理的・実質的に成就しておられるのです。 神さまの本質的な特質は愛です。それで、神のかたちの本質的な特質も愛です。神さまが人をご自身のかたちにお造りになったのは、人がご自身との愛の交わりに生きるようになるためでした。神さまが人に歴史と文化を造るために必要な能力を与えてくださった上で、その使命をお委ねになったのは、人が歴史と文化を造る使命を果たすことによって、この世界のすべてのものをお造りになって、一つ一つを真実に支えてくださっている神である「主」の愛といつくしみに触れるようになるためです。神である「主」は、それによって、人が愛といつくしみに満ちている「主」の栄光を汲み取り、その栄光を「主」に帰して、「主」を神として愛し、礼拝することを中心とした歴史と文化を造っていくようにしてくださっています。 このように、創造の御業において、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を遂行することを支え、導いてくださっているのは、契約の神である「主」ヤハウェであられる御子です。 しかし、実際には、人は神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。そのために、人は造り主である神さまを神とすることはなくなってしまいましたし、神のかたちとして造られている人のいのちの本質である、「主」との愛にある交わりを失って、罪とその結果である死の力に捕らえられてしまっています。 そうではあっても、人が神のかたちとして造られていることも、造り主である神さまから歴史と文化を造る使命を委ねられていることには変わりがありません〔これは形而上的、心理的なことです)。そのために、罪によって堕落してしまった後も、すべての人が歴史と文化を造ります。ただ、それは人が、自分を神のかたちとしてお造りになり、真実に支え続けてくださっている、神さまを神としていないことを現す歴史と文化です。 神さまは人がどのようにご自身がお委ねになった歴史と文化を造る使命を果たしたかを評価されます。そして、それが歴史と文化を造る使命ですので、その評価は歴史の終わりになされます。もし人が神である「主」に罪を犯すことがなかったら、それは人が歴史と文化を造る使命を果たしたことへの報いを与えてくださるための評価となっていたはずです(参照・マタイの福音書25章21節、23節、ルカの福音書19章17節、コリント人への手紙第一・4章5節))。しかし、人は神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。そのために、その評価は、造り主である神さまを神としない、罪を現す歴史と文化を造り出したことへのさばきとなってしまっています。 人がこのような状態になってしまっていることに対して、神さまは、ご自身の民を罪とその結果から救い出してくださって、ご自身との愛の交わりに生きる者としてくださるために、しかも、最初の人アダムが享受していた神のかたちとしての栄光にある「主」との愛の交わりより、さらに豊かな栄光にある「主」との愛の交わりを本質とする永遠のいのちに生きる者としてくださるために、御子をお遣わしになりました。ヘブル人への手紙1章3節後半では、そのことが、 御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。 と記されています。 ここでは、御子が詩篇110篇1節に記されているダビデ契約に約束されている永遠の王座に着座されたことが記されていますが、これが御子が「罪のきよめを成し遂げ」られたことと結びつけられています。これは、同じ詩篇110篇の4節に、 主は誓われた。思い直されることはない。 「あなたは メルキゼデクの例に倣い とこしえに祭司である。」 と記されていることを背景としていて、御子がとこしえの祭司として「大いなる方の右の座に着かれ」たことを示しています。 ここでは、契約の神である「主」ヤハウェとして、この歴史的な世界のすべてを支え導いておられる御子は、また、私たちご自身の民の大祭司であられるということを意味しています。このことは、ヘブル人への手紙では、この後、最後まで一貫して流れていく主要なテーマとなっていきます。 御子が「罪のきよめを成し遂げ」られたということは、御子がまことの人としての性質をとって来てくださって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を私たちに代わってすべて受けてくださったということを意味しています。このようにして、人としての性質をとって来てくださった御子は、私たちの契約の「かしら」となってくださり、私たちをご自身と一つに結ばれたものとしてくださっています。 ここで心に刻んでおきたいのは、ヘブル人への手紙の流れの中では、このようにして御子が私たちの大祭司となってくださっていることも、私たちが神の子どもとして父なる神さまとのより豊かな栄光にあって愛の交わりに生きるようになっていることと、そのことの中で、「来たるべき世」の歴史と文化を造る使命を果たしていくこととかかわっているということです。 2章5節ー8節aに続く、8節後半ー10節には、 神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。 と記されています。 ここでは、詩篇8篇5節ー6節の最後に記されている、神さまが、 万物を彼の足の下に置かれました というみことばが完全には実現していないことを示すとともに、「御使いよりもわずかの間低くされた方」、すなわち、人としての性質をとって来てくださったイエス・キリストが、 死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。 と言われています。 これは、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされて、神のかたちとして造られたときの人としての栄光よりさらに豊かな栄光を受けてよみがえられた栄光のキリストのことを指しています。ここでは、この方は、ダビデ契約に約束されている永遠の王座である父なる神さまの右の座に着座された王として、神さまが創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人にお委ねになった歴史と文化を造る使命を、原理的・実質的に成就しておられることが示されています。 また、ここでは、続けて、 その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。 と言われていますし、それは、「多くの子たちを栄光に導くため」のことであると言われています。これは、エペソ人への手紙2章6節に、 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。 と言われていることに当たります。 この方は、また、私たちご自身の民と一つになられて、私たちのために贖いの御業を成し遂げてくださった大祭司でもあられます。 そのことは、2章では、14節ー18節に、 そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。当然ながら、イエスは御使いたちを助け出すのではなく、アブラハムの子孫を助け出してくださるのです。したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。 と記されています。 御子が私たちのために「あわれみ深い、忠実な大祭司」となってくださって、試練にあっている私たちを助けてくださるということは、この部分の流れの中では、特に、激しい迫害の中にあった、このヘブル人への手紙の読者たちに当てはまることですが、この世にありながら、この世の歴史と文化とは異質の「来たるべき世」の歴史と文化を造る使命を果たしていくことの中で味わわなければならない厳しい試練にあっている私たちご自身の民を助けてくださるということです。 前回もお話ししましたように、今、この世の様相は「主」の契約の民にとってはますます厳しい状況になってきています。この年も、私たち自身がこの「あわれみ深い、忠実な大祭司」の助けをいただくために御許に近づくとともに、この時代にあって厳しい試練と苦しみの中にある聖徒たちのためにとりなし祈り続ける歩みを続けていきたいと思います。 |
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