黙示録講解

(第485回)


説教日:2022年1月2日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(238)


 黙示録からのお話としては2週間開いてしまいましたが、今日も、2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束と関連するみことばについてのお話を続けます。
 これまで、この栄光のキリストの約束と関連するみことばの一つとしてエペソ人への手紙2章1節ー10節に記されていることからお話してきて、その最後の10節に、

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

と記されているみことばの後半において、神さまが、

 その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

と言われていることについてお話ししました。
 この10節に記されていることは、その前に記されていることを踏まえていますが、これまで特に注目してきたのは、6節に、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されているみことばとのつながりです。
 この6節では、神さまが、私たちを(栄光のキリストが父なる神さまの右の座から遣わしてくださった御霊によって)「キリスト・イエス」と一つに結び合わせてくださって、「キリスト・イエス」とともによみがえらせてくださり、「キリスト・イエス」とともに「天上に座らせて」くださったということを示しています。
 今日は2022年の最初の主日ということもありますので、今私たちが神である「」の贖いの御業の歴史の中でどのようなところにあって歩んでいるかについて、これまでお話ししてきたことを振り返りながら、特に、霊的な戦いの状況にあることにかかわるお話をしたいと思います。
 6節で、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と言われているときの「キリスト・イエス」は、1章20節ー23節に、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

と記されている、「キリスト」のことです。――1章20節ー23節では明記されていませんが、十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰をすべてお受けになって、私たちの罪の贖いを成し遂げられてから――栄光を受けて死者の中からよみがえられ、天に上って父なる神さまの右に着座された栄光のキリストです。
 この天に上って父なる神さまの右に着座された栄光のキリストは、1章21節で、

 すべての支配、権威、権力、主権の上に・・・置かれました。

と言われています。
 これは、旧約聖書においてダビデ契約に約束されている、まことのダビデの子が着座される永遠の王座が神である「」の右の座であることを預言として示している、詩篇110篇1節に、

 は 私の主に言われた。
 「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。
 わたしがあなたの敵を
 あなたの足台とするまで。」

と記されているみことばが、栄光のキリストにおいて成就していることを示しています。それで、ここに出てくる「すべての支配、権威、権力、主権」は、詩篇110篇1節で「」が「あなたの敵」と呼んでおられるサタンをかしらとする暗やみの主権者たちのことです。そして、ここでは、栄光のキリストがサタンをかしらとする暗やみの主権者たちとの霊的な戦いに、原理的・実質的に、勝利しておられることが示されています。


 このことは、黙示録では、12章1節ー12節に、

 また、大きなしるしが天に現れた。一人の女が太陽をまとい、月を足の下にし、頭に十二の星の冠をかぶっていた。女は身ごもっていて、子を産む痛みと苦しみのために、叫び声をあげていた。また、別のしるしが天に現れた。見よ、炎のように赤い大きな竜。それは、七つの頭と十本の角を持ち、その頭に七つの王冠をかぶっていた。その尾は天の星の三分の一を引き寄せて、それらを地に投げ落とした。また竜は、子を産もうとしている女の前に立ち、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもってすべての国々の民を牧することになっていた。その子は神のみもとに、その御座に引き上げられた。女は荒野に逃れた。そこには、千二百六十日の間、人々が彼女を養うようにと、神によって備えられた場所があった。
 さて、天に戦いが起こって、ミカエルとその御使いたちは竜と戦った。竜とその使いたちも戦ったが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に投げ落とされた。また、彼の使いたちも彼とともに投げ落とされた。私は、大きな声が天でこう言うのを聞いた。
 「今や、私たちの神の救いと力と王国と、
 神のキリストの権威が現れた。
 私たちの兄弟たちの告発者、
 昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、
 投げ落とされたからである。
 兄弟たちは、子羊の血と、
 自分たちの証しのことばのゆえに
 竜に打ち勝った。
 彼らは死に至るまでも
 自分のいのちを惜しまなかった。
 それゆえ、天とそこに住む者たちよ、喜べ。
 しかし、地と海はわざわいだ。
 悪魔が自分の時が短いことを知って激しく憤り、
 おまえたちのところへ下ったからだ。」

と記されていることに当たります。
 今お話ししていることとかかわっていることの結論的なことだけをまとめておきますと、ここに出てくる「」は古い契約と新しい契約をとおして存在している「」の契約の民を指しています。そして、3節に出てくる「炎のように赤い大きな竜」は、9節で「その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者」と言われていることからわかるように、サタンのことですが、特に、「古い蛇」とも呼ばれているように、創世記3章に出てくる最初の「」、エバを惑わして、神である「」に罪を犯させた「」を用いて働いていたサタンを指しています。
 このことから、2節に、

 女は身ごもっていて、子を産む痛みと苦しみのために、叫び声をあげていた。

と記されており、4節で、

 竜は、子を産もうとしている女の前に立ち、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。

と記されていること、そして、5節で、

 女は男の子を産んだ。

と記されていることが、創世記3章15節に、

 わたしは敵意を、おまえと女の間に、
 おまえの子孫と女の子孫の間に置く。
 彼はおまえの頭を打ち、
 おまえは彼のかかとを打つ。」

と記されている「」(を用いて働いていたサタン)に対するさばきの宣告として語られた「最初の福音」を踏まえて記されていることが分かります。
 また、5節でさらに、

 この子は、鉄の杖をもってすべての国々の民を牧することになっていた。

と記されていることは、メシア詩篇である詩篇2篇8節ー9節に、

 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。
 地の果ての果てまで あなたの所有として。
 あなたは 鉄の杖で彼らを牧し
 陶器師が器を砕くように粉々にする。

と記されている、「」がメシアに語られた約束のみことばを踏まえて記されています。
 黙示録12章5節では、さらに、

 その子は神のみもとに、その御座に引き上げられた。

と記されています。これは、エペソ人への手紙1章20節に、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせ、

と記されていることに当たります。そして、エペソ人への手紙1章で続く21節前半に、

 すべての支配、権威、権力、主権の上に・・・置かれました。

と記されていることに基づいて起こったことが、黙示録12章7節ー9節に、

さて、天に戦いが起こって、ミカエルとその御使いたちは竜と戦った。竜とその使いたちも戦ったが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に投げ落とされた。また、彼の使いたちも彼とともに投げ落とされた。

と記されています。
 今、私たち「」の民が生きている時代は、黙示録12章10節ー12節に、

私は、大きな声が天でこう言うのを聞いた。
 「今や、私たちの神の救いと力と王国と、
 神のキリストの権威が現れた。
 私たちの兄弟たちの告発者、
 昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、
 投げ落とされたからである。
 兄弟たちは、子羊の血と、
 自分たちの証しのことばのゆえに
 竜に打ち勝った。
 彼らは死に至るまでも
 自分のいのちを惜しまなかった。
 それゆえ、天とそこに住む者たちよ、喜べ。
 しかし、地と海はわざわいだ。
 悪魔が自分の時が短いことを知って激しく憤り、
 おまえたちのところへ下ったからだ。」

と記されている霊的な戦いの状態にあります。
 私たちは、今、「」にあって「」の契約の民として歩んでいます。それで、私たちには、

 しかし、地と海はわざわいだ。
 悪魔が自分の時が短いことを知って激しく憤り、
 おまえたちのところへ下ったからだ。」

と言われていることが当てはまります。
 それで、「」にある「」の民には厳しい試練が降りかかってきます。そうではあっても、私たちは、私たちの主イエス・キリストが天において父なる神さまの右に座しておられて、サタンとその使いたちとの霊的な戦いに勝利しておられること――霊的な戦いの勝敗を決定づける「Dディ」[第二次世界大戦のヨーロッパ戦線で、ナチス軍に対する連合軍の勝利を決定づけた、連合軍がノルマンディーの海岸に上陸した日]の戦いは、すでに、今から2千年前の御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、勝利が決しているということ――を心に刻みたいと思います。
 さらに、「」の約束の確かさにかかわることですが、このことは、黙示録12章に記されているように、「最初の福音」に示されている約束を初めとする、神である「」の契約に示されている約束が、すべて、私たちの主イエス・キリストにあって成就していることによっている、ということを心に刻みたいと思います。「」は約束してくださっていることを必ず成就してくださいます。
 その上で、エペソ人への手紙2章6節に、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されているように、私たちが天において父なる神さまの右に座しておられて、サタンとその使いたちとの霊的な戦いに勝利しておられる栄光のキリストと一つに結ばれて、その霊的な戦いの勝利にあずかっているということを心に刻みたいと思います。
 とはいえ、それは、もはや霊的な戦いが終わっているということではありません。黙示録12章11節に、

 兄弟たちは、子羊の血と、
 自分たちの証しのことばのゆえに
 竜に打ち勝った。
 彼らは死に至るまでも
 自分のいのちを惜しまなかった。

と記されているように、「死に至るまでも自分のいのちを惜しまなかった」と言われている霊的な戦いの厳しさは続いています。しかし、それは「子羊の血と自分たちの証しのことばのゆえに竜に打ち勝った」と言われている、霊的な戦いにおける勝利につながっています。それは、栄光のキリストが、ご自身の御霊によって、私たちを支えてくださり、導いてくださって、霊的な戦いにおける勝利へと導いてくださるからです。ローマ人への手紙8章31節ー39節に、

では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれています。
 「あなたのために、私たちは休みなく殺され、
 屠られる羊と見なされています。」
しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

と記されているとおりです。

          *
 このこととのかかわりで、もう一つのことに触れておきたいと思います。
 マタイの福音書24章には「終わりの日」についてのイエス・キリストの教えが記されています。
 そのうちの全般的なことを記している4節ー14節には、

人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。そのとき、人々はあなたがたを苦しみにあわせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。そのとき多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。

と記されています。
 ここには、偽キリストや偽預言者が「大勢現れて、多くの人を惑わ」すことによって、福音の真理が歪められ、いつわりが蔓延し、「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷え」ること、「戦争や戦争のうわさを聞くこと」や「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上が」ること、さらには、「あちこちで飢饉と地震が起こります」と言われている自然界の混乱、そして、「」の民がその信仰のゆえに迫害を受けることが記されています。
 このことは、初代教会の時代から、今日に至るまでのいつの時代においても起こってきたことです。しかし、今日では、これらのことが、グローバル化に伴い、文字通り、世界的な規模において起こっています。
 お話を進める前に、やはり、「」の約束の確かさにかかわる一つのことを心に留めておきたいと思います。それは、引用したイエス・キリストの教えの最後に、

御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。

と記されていることです。これは、創世記12章3節に記されている、

 地のすべての部族は、
 あなたによって祝福される。

という「」のアブラハムへの約束が必ず成就することを示していて、実際に、それは現実になりつつあります。
 このようなことを踏まえてのことですが、「」の民がその信仰のゆえに迫害を受けることは、この国にいると分かりにくいことですが、私が、毎週、受信している迫害を受けている「」の民に関する情報には、この時代の、多くの国や地域において激しい迫害を受けて苦しんでおられる方々の実情が示されています。それを配信してくださっておられる方々は、実際に現地に行って迫害を受けている人々に寄り添って、その現実を報告してくださる方々と、その方々の情報を整理して配信してくださっている方々ですが、私たち「」の民が信仰のために迫害を受けておられる方々の実情を知って、その方々のために歴史の主にとりなし祈ることを支援してくださっています。
 私はそのことにはみことばの根拠があると考えてきました。最近、そのことを、私なりに整理する機会が与えられましたので、それをお話ししたいと思います。
 マタイの福音書25章31節ー46節には、たとえによるイエス・キリストの教えが記されています。そこでは、「」に譬えられているイエス・キリストが、「」に譬えられている人々(33節、37節では「正しい人たち」)に、

さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。

と記されています(34節ー36節)。
 ここでは、弱く貧しい状態にあって、苦しみ痛んでいたことが記されています。「空腹であった」こと、「渇いていた」こと、「裸のとき」があったことは、貧しさの中にあったときの経験です。それらの苦しみも、だんだんとその厳しさが増していくように記されていますが、その最後に出てくるのは「牢に」入れられていることです。
 そして、

主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。

という「正しい人たち」の問いかけ(37節ー39節)に答えて、「」は、

まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。

と答えています(40節)。
 ここでは、私たちの主ご自身が、そのような人々と一つになってくださって、苦しみ、痛んでおられることが示されています。
 これは、私たちにとっては慰めのことばでもあります。私たちがどのような苦しみや痛みの中にあっても、主イエス・キリストが私たちと一つになってくださって、苦しみ、痛んでくださっていることが示されています。しかも、「それも最も小さい者たちの一人に」と言われていることは、私たちが、自らの罪の深さを痛感したり、自分がいかに無力で小さな者であるかということを痛感させられるときに思い起こすべきことでしょう。
 それとともに、ここでは、私たちも、私たちの主からそのようなあわれみを受けている者として、苦しみや痛みの中にある兄弟姉妹を思いやり、ともに苦しみ痛みつつ、自分たちにできることをしていくように招かれています。
 これと同じように、栄光のキリストが私たちご自身の民と一つになってくださっていることは、使徒の働き9章1節ー8節に記されている、主の民を殺害しようとしてダマスコに向かう途中のサウロ〔ユダヤ教時代のパウロ)に、栄光のキリストがに現れてくださったことにも示されています。3節ー5節には、

ところが、サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」彼が「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

と記されています。
 この世の損得の規準からすれば、これらの弱く貧しい人々を思いやったり、支えたりすることによって、何かを得られることはありません。しかし、そのことにおいて、私たちはあわれみ深い主と一つに結ばれている者であることの幸いにあずかっており、主と思いを一つにしているという幸いにあずかっているのです。
 このことは、キリストのからだである教会においては、コリント人への手紙第一・12章26節ー27節に記されているように、

一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。

という形で私たちの現実になります。
 また、厳しい迫害の中で試練にあっている(10章32節ー34節、12章1節ー12節、13章12節ー13節、参照・11章36節ー38節)「」の民に宛てて記されているヘブル人への手紙13章3節には、

牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやりなさい。また、自分も肉体を持っているのですから、虐げられている人々を思いやりなさい。

と記されています。さらに、2章17節ー18節には、

したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。

と記されていますし、4章14節ー16節には、

さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

と記されています。
 この「あわれみ深い、忠実な大祭司」は、先に引用した、ローマ人への手紙8章34節に記されているように、父なる神さまの右に着座されて、私たちのためにとりなしてくださっています。
 また、エペソ人への手紙6章10節ー18節においては、霊的な戦いのことが記されています。その最後の18節には、

あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。

と記されています。
 私たちはこの世にあっては霊的な戦いの状況に置かれています。それで、このみことばはどのような場合にも当てはまることで、文字通り「すべての聖徒」たちのためのとりなしの祈りですが、特に、霊的な戦いの状況にあって試練の中にある「すべての聖徒」たちのためのとりなしの祈りに当てはまります。
 エペソ人への手紙は特定の教会を念頭において記されたものではありませんので、この場合の、「すべての聖徒」たちは、ともに集って心を合わせて「」を神として礼拝する「信仰の家族」(ガラテヤ人への手紙6章11節)の「すべての聖徒」を初めとして、それを越えて、時代と地域を越えて存在している「聖なる公同の教会」の、時代をともにする「すべての聖徒」たちでもあります。
 私たちは、「すべての聖徒」たちのためにとりなしてくださっているイエス・キリストを大祭司として戴く御国の祭司として、「すべての聖徒」たちのためにとりなし祈っています。


【メッセージ】のリストに戻る

「黙示録講解」
(第484回)へ戻る

「黙示録講解」
(第486回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church