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説教日:2021年12月5日 |
今は、このこととのかかわりで、ガラテヤ人への手紙5章13節ー14節に記されている、 兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。 というみことばについてお話ししています。 今日も、これまでお話ししたことをさらに補足することをお話しします。 これまで、ここで、 兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。 と言われているときの「自由」は神の子どもとしての自由であるということをお話ししてきました。 この神の子どもとしての自由は、ガラテヤ人への手紙の流れの中では、「主」がアブラハムに与えてくださった契約、アブラハム契約とのかかわりで示されています。それは、「主」がアブラハムと結んでくださった契約の中心にあることが、相続人としてのアブラハムの子孫であるからです。 今お話ししていることにかかわることの結論的なことだけをお話ししますと、「主」がアブラハムを召してくださった時のことを記している創世記12章3節には、 地のすべての部族は、 あなたによって祝福される。 と記されています。 また、創世記15章5節ー6節には、 そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。 と記されています。アブラハムは「あなたの子孫は、このようになる。」と約束してくださった「主を信じた」のです。それは、またその「主」の約束を信じたということでもあります。そして「主」は、それをアブラハムの「義と認められた」のです。 これらのことを受けて、ガラテヤ人への手紙では、3章6節ー9節に、 「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。 と記されています。 ここでは、創世記15章5節ー6節に記されているみことばを引用して、 アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。 と記されており、創世記12章3節に記されているみことばに基づいて、 聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。 と記されています。 そして、このことがどのようにして成就し、私たちの間で実現するようになったかということが、13節ー14節に、 キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。 と記されています。 ここでは、すでにお話しした、神の子どもの自由の消極的な面としての「・・・からの自由」が「律法ののろい」からの自由として出てきます。その自由は、イエス・キリストが「私たちのためにのろわれた者」となってくださったことによって、私たちを「律法ののろいから贖い出して」くださったことによってもたらされました。より具体的には、イエス・キリストが十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わってすべてお受けになったことによっています。 これには目的があります。13節に続いて14節には、その目的のことが、 それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。 と記されています。ここに記されていることが、神の子どもの自由の積極的な面にかかわっています。 このこととのかかわりで、パウロはアブラハム契約の祝福について、16節で、 約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。神は、「子孫たちに」と言って多数を指すことなく、一人を指して「あなたの子孫に」と言っておられます。それはキリストのことです。 と述べています。 ここでパウロはアブラハム契約の約束が「アブラハムとその子孫に告げられ」たときの、「子孫」ということば(スペルマ)が単数形であることに触れて、 神は、「子孫たちに」と言って多数を指すことなく、一人を指して「あなたの子孫に」と言っておられます。それはキリストのことです。 と述べています。しかし、アブラハム契約において、単数形の「子孫」は集合名詞として、後にアブラハムの血肉の子孫として生まれてくるイスラエルの民のように、多くの子孫を意味していると理解することができます。 それで、このパウロのことばをどのように理解するかということについてはいろいろな見方があります。 はっきりしていることは、その当時のギリシア語が母国語であったパウロは、単数形の「子孫」が集合名詞として多くの「子孫」を表すということを、当たり前のこととして、知っていたということです。それで、パウロがこのことを知らなかったかのように論じることはできません。 結論的なことをお話ししますと、これについては、神である「主」が、ご自身の贖いの御業の歴史の中で、古い契約の下にあった時代に贖い主を約束してくださったときに、単数形の「子孫」(ヘブル語・ゼラァ、ギリシア語スペルマ)が用いられていることがあります。そのような場合には、その単数形の「子孫」は集合名詞的に多くの「子孫」、すなわち、「子孫」の共同体を示しつつ、その「子孫」の共同体の「かしら」である一人の「子孫」をも示しています。 その最初の事例が創世記3章15節に、 わたしは敵意を、おまえと女の間に、 おまえの子孫と女の子孫の間に置く。 彼はおまえの頭を打ち、 おまえは彼のかかとを打つ。 と記されている「最初の福音」です。 ここに約束されている「女の子孫」は単数形ですが、集合名詞として、この後の歴史をとおして「主」が興してくださる「女の子孫」の共同体を示しつつ、その「かしら」であり、「おまえ」と呼ばれている「蛇」の背後にあって働いていたサタンと対立するメシアをも表しています。 そして、アブラハム契約の祝福の約束も、この「最初の福音」に示されている「女の子孫」の約束を踏まえていて、その上に積み上げられる形で与えられています。 また、創世記12章3節に、 地のすべての部族は、 あなたによって祝福される。 と記されているアブラハムに与えられている祝福の約束は、22章1節ー19節に記されているように、アブラハムが約束によって与えられたイサクを実質的に「主」にささげた(9節ー13節)ことを受けて与えられた、 あなたの子孫(ゼラァ)によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。 という約束につながっていきます。 この場合のアブラハムの「子孫」は、古い契約の下での、アブラハムが「主」にささげた約束の子イサクから出た、アブラハムの血肉の「子孫」であるイスラエルの民を指しつつ、アブラハムの子として遣わされたイエス・キリスト(マタイの福音書1章1節)をも預言的に示しています。 同じことは、「最初の福音」に示されている約束や、アブラハム契約に示されている約束を踏まえて記されている、サムエル記第二・7章12節ーー13節に あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子(ゼラァ)をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。 と記されている、ダビデに与えられた約束、ダビデ契約の約束に示されている「ダビデの子」にも当てはまります。 それは古い契約の下での、ダビデの血肉の子孫であるダビデ王朝の王たちとともに、まことのダビデの子として来てくださったイエス・キリストをも預言的に示しています。 そのことは、ダビデ契約の約束を踏まえて、ダビデが記している、詩篇110篇1節に、 主は 私の主に言われた。 「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。 わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」 と記されていることからも分かります。 ここでは、ダビデ契約において約束されている、「主」が「とこしえまでも堅く立て」てくださる王座は神さまの「右の座」であること、そして、そのとこしえの王座に着座されるのは、ダビデ王朝の歴代の王たちの父であるダビデが「私の主」と呼んでおられる方であることが、預言的に示されています(参照・マタイの福音書22章41節ー45節)。 ガラテヤ人への手紙3章16節に、 約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。神は、「子孫たちに」と言って多数を指すことなく、一人を指して「あなたの子孫に」と言っておられます。それはキリストのことです。 と記されていることも、このような、古い契約の下において贖い主の約束が「子孫」として示されているときに、その贖い主を「かしら」とする共同体とともに、その「かしら」である贖い主をも示しているということを踏まえていると考えられます。 また、このようなことが底流にあって、先ほど引用しました13節ー14節には、 キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。 と記されていると考えられます。 これを記されている順序に従って見てみますと、13節ー14節に記されていることでは、アブラハムとアブラハムの子孫に与えられたすべての民への祝福の約束は、アブラハムの子として来てくださった、唯一の贖い主であるイエス・キリストによって成就しており、私たちの間の現実になっているということが示されています。そして、16節では、このことを、古い契約の下において与えられている贖い主の約束において用いられている単数形の「子孫」(ゼラァ、スペルマ)の用例に照らして、さらに説明しているということになります。 さらに、これ以下においては、このような理解の上に立って論述が進められていきます。そして、26節には、 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。 と記されており、3章の最後の39節には、 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。 と記されています。 ガラテヤ人への手紙3章に記されているこれらのことを踏まえて、4章1節ー7節が記されています。 特に関連している4節ー7節には、 しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。 と記されています。 4節で「時が満ちて」と言われていることは、言うまでもなく、神である「主」の贖いの御業の歴史の中で、「主」が定めておられた時が満ちたということで、時間が神さまから独立して流れていて、時が満ちたということではありません。神さまが「ご自分の御子を」遣わしてくださったことによって、贖いの御業の歴史における新しい時代が始まったということです。 また、ここで神さまが遣わしてくださった「ご自分の御子」は、まことの神であられ、無限、永遠、不変の栄光の主です。その方が「女から生まれた者」となられたと言われていることは、神の御子がまことの人としての性質をお取りになって来てくださったこと、また、それゆえに「律法の下にある者」となられたことを意味しています。このことにおいて、神の御子なる方が、神さまの契約における私たちの「かしら」となられて、私たちのための贖いの御業を遂行してくださいました。 5節で、 それは、律法の下にある者を贖い出すためであり と言われていることは、3章13節に、 キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。 と記されていたことを受けています。5節で「律法の下にある者を贖い出すためであり」と言われているときの「贖い出す」ということばは、3章13節で「私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」と言われているときの「贖い出す」ということばと同じことば(エクスアゴラゾー)です。 まことの人として「律法の下にある者」となられた御子が、神さまに対して罪を犯したために「律法ののろい」の下にあった私たちに代わって、「律法ののろい」をすべて受けてくださったことによって、「私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」。 4章5節では、続いて、 私たちが子としての身分を受けるためでした。 と言われています。 これは、3章26節に、 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。 と記されていることを受けています。 ここで「子としての身分」と訳されていることば(ヒュイオセシア)は、「養子とすること」や「養子としての身分」を表しています。[注] それは、固有の意味で父なる神さまの「子」である方は御子イエス・キリストお一人であり、私たちは御霊によって御子イエス・キリストと結び合わされて、養子として神の家族に迎え入れていただいています。 [注]このことば(ヒュイオセシア)がヘブル語聖書のギリシア語訳である七十人訳に出てこないということから、養子の制度はイスラエルにはないので、ローマ法に基づいているという見方と、これが神さまの養子とされるということから、「主」がイスラエルのことを「わたしの子」、「わたしの子たち」と呼んでおられること(出エジプト記4章22節ー23節、イザヤ書45章11節、ホセア書11章1節)から、旧約聖書に基づいているという見方がありますが、どちらかに限定することはできないと考えられます。 とはいえ、(5節に記されている)このことを受けて記されている6節で、 そして、あなたがたが子であるので、 と言われているときのは、「子」は文字通りの「子」を表すことば(ヒュイオス)が用いられています。これは、養子も実子と同じ祝福と特権にあずかっているということによっています。 この6節に、 そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。 と記されていることは、3章14節に、 それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。 と記されていることと、3章26節に、 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。 と記されていることを受けています。 『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」は、マルコの福音書14章36節に記されているように、実際に、イエス・キリトがゲツセマネにおいて、十字架の死を前にしての苦しみと悲しみの中にあって、父なる神さまに「アバ、父よ」と呼びかけて祈っておられることを受けていると考えられます。 私たちは今すでに、神の子どもとして「神の家族」に迎え入れていただいています。それは、神さまが「私たちの心に遣わ」してくださった「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」に導いていただいて、(「『アバ、父よ』と叫ぶ」ということの意味にかかわっていますが)父なる神さまに向かって、個人的に親しく、また信頼と確信をもって、「アバ、父よ」と呼びかけるという祝福と特権にあずかっているということを意味しています。 また、4章7節に、 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。 と記されていることは、3章29節に、 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。 と記されていることを受けています。 ここでは、私たちが「相続人」として何を相続するのかは示されていません。これについては、アブラハム契約に約束されている相続財産が約束の地にあることが考えられます。 このことにかかわるみことばを、いくつか見ておきましょう。 アブラハムが「主」のみことばに従ってカナンの地に入った時のことを記している創世記12章7節には、 主はアブラムに現れて言われた。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」アブラムは、自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。 と記されています。また、アブラハムが、ヨルダンの低地を選んで移り住んだロトと別れてカナンの地に住むようになった時のことを記している13章15節には、 わたしは、あなたが見渡しているこの地をすべて、あなたに、そしてあなたの子孫に永久に与える という「主」の約束みことばが記されています。さらに、「主」がアブラハムと契約を結んでくださったことを記している15章18節には、 その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」 と記されていますし、17章7節ー8節には、 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。わたしは、あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。わたしは彼らの神となる。 と記されています。 そして、その相続財産としての約束の地の核心にあるのは、そこにご臨在してくださる神である「主」との愛にあるいのちの交わりに生きることです。そのことは、最後に引用しました創世記17章7節ー8節に、「主」がアブラハムの子孫の神となってくださるという「主」の契約の祝福の約束に挟まれて、相続地であるカナンの地が約束されていることから汲み取ることができます。 そして、そのことは、突き詰めていくと、神である「主」こそが、私たちが受け継ぐべき「割り当ての地」であるということに行き着きます。詩篇16篇5節には、 主は私への割り当て分 また杯。 と記されており、73篇25節ー26節には、 あなたのほかに 天では 私にだれがいるでしょう。 地では 私はだれをも望みません。 この身も心も尽き果てるでしょう。 しかし 神は私の心の岩 とこしえに私が受ける割り当ての地。 と記されています(そのほか、119篇57節、142篇5節、哀歌3章24節などを見てください)。 このことは、すでに私たちが栄光のキリストにあって、神の子どもとして、「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」に導いていただいて、父なる神さまに向かって、個人的に親しく、また信頼と確信をもって、「アバ、父よ」と呼びかけるという祝福と特権にあずかっていることによって、私たちの現実になっています。また、それは、終わりの日に再臨される栄光のキリストによって再創造される新しい天と新しい地において完全に実現します。 |
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