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説教日:2021年11月27日 |
今は、このこととのかかわりで、ガラテヤ人への手紙5章13節ー14節に記されている、 兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。 というみことばについてお話ししています。 まず、これまでお話ししたことで今日お話しすることとかかわっていることをまとめておきます。 これまで、ここで、 兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。 と言われているときの「自由」について、ガラテヤ人への手紙の流れの中でお話ししてきました。 この「自由」についてはいろいろなことがかかわっていますが、結論的なことをまとめておきます。この「自由」は神の子どもとしての自由です。 この神の子どもとしての自由を理解するためには、神さまが創造の御業において、神のかたちとしてお造りになった人の本来のあり方、本来の状態を理解しておく必要があります。 神さまは神のかたちとしてお造りになった人の知性と感情と意志からなる人格の中心にある「心」に「愛の律法」を記してくださっています。それは、ヨハネの手紙第一・4章8節と16節に、 神は愛です。 と記されているように神さまの本質的な特質が愛であることと、神さまの本質的な特質が愛であるので神のかたちの本質的な特質が愛であるということと符合しています。その愛の律法は、 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 という「重要な第一の戒め」と、 あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい という「第二の戒め」に集約されます。 神のかたちとして造られている人の本来のあり方、本来の状態は、人の人格的な働きの全体――知性と感情と意志の働きの全体――が、自然と、この「愛の律法」に導かれている状態、それによって、人が、あらゆる時に、また、あらゆる場合に、自然と、神のかたちの本質的な特質である愛を現している状態です。神のかたちとして造られている人は、そのような状態にあるとき、すなわち、神である「主」を愛し、隣人を愛して生きるとき、人は真の意味で自由な状態にあります。 この愛は相互的なものです。そして、「愛の律法」の第一の戒めが神である「主」を愛することであることには意味があります。それは、言うまでもなく、すべてのことにおいて神である「主」こそが第一のお方であられるということによっていますが、それだけではありません。神である「主」は愛そのものであられ、造り主であり、愛の源であられるからです。ヨハネの手紙第一・4章7節に、 愛は神から出ているのです。 と記されているとおりです。 神さまが人を神のかたちとしてお造りになったのは、人にご自身の愛を注いでくださり、人をご自身との愛の交わりに生きるようにしてくださるためでした。それで、神のかたちとして造られている人のいのちの本質は、神である「主」との愛の交わりに生きることにあります。ですから、神である「主」を愛することは、人にご自身の愛を注いでくださり、人をご自身との愛の交わりに生きるようにしてくださるために神のかたちとして造ってくださった神である「主」の愛を受け止めることから始まります。まず神である「主」の愛を受け止め、その愛に応答して神である「主」を愛することです。また、神である「主」の愛を受け止め、その愛に応答して神である「主」を愛することは、神である「主」が愛しておられる人々、すなわち隣人を愛することをも意味しています。 このことは、先ほど引用したヨハネの手紙第一も含めて、新約聖書では、私たちの罪を贖ってくださるために、ご自身の御子をも贖い主として遣わしてくださった父なる神さまの愛、すなわち、御子によって贖いの御業を成し遂げてくださった父なる神さまの愛が踏まえられて記されています。しかし、このことは、創造の御業において、人を神のかたちとしてお造りになったことに現されている神さまの愛にも当てはまります。 このようなことを念頭に置いて、先ほど引用したヨハネの手紙第一・4章7節に記されている、 愛は神から出ているのです。 という教えを見てみましょう。実は、この冒頭には、新改訳2017年版には訳し出されていませんが、理由や根拠を表す接続詞(ホティ)がついています。それを生かして、前の部分から訳しますと、 愛する者たち。 私たちは互いに愛し合いましょう。 なぜなら、愛は神から出ているからです。 となります。 ここでは、 愛は神から出ている ということ、すなわち、神のかたちとして造られている私たちの愛は確かに私たち自身のうちから出てくるのですが、それにはさらに深い起源があり、その根源的な起源は、愛そのものであられる神さまであるということが、 愛する者たち。 私たちは互いに愛し合いましょう。 ということの理由となっています。 ただし、先ほど触れたように、ここでは、創造の御業において神さまが人を豊かな愛をもって愛してくださって、ご自身のかたちとしてお造りになったことはより根本的なこととして踏まえられていますが、同時に、そのように神さまの愛を受けていた人が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことも踏まえられています。 その上で、父なる神さまが、創造の御業の初めからの愛を変えたもうことなく、むしろ、さらに豊かに愛を私たちご自身の民に注いでくださって、私たちの罪を贖ってくださるために、ご自身の御子をも贖い主として遣わしてくださったことに現されている父なる神さまの愛のことが記されています。 神さまが愛であられ、私たちの愛の源であられるので、私たちが互いに愛し合うことは、神さまが愛であられることと、神さまが私たちの愛の源であられることの現れであるのです。これをより積極的な言い方で表すと、私たちが互いに愛し合うことによって、私たちは、神さまが愛であられることと、神さまが私たちの愛の源であられることを映し出すということになります。 さらに、これに続く7節後半ー8節には、 愛がある者はみな神から生まれ、 神を知っています。 愛のない者は神を知りません。 神は愛だからです。 と記されています。 これは、単なる説明ではありません。これは、その前に記されている、 愛する者たち。 私たちは互いに愛し合いましょう。 なぜなら、 愛は神から出ているからです。 という、呼びかけ(勧告)のことばを受けています。それで、 愛がある者はみな神から生まれ、 神を知っています。 愛のない者は神を知りません。 神は愛だからです。 と言われていることは、私たちの実際の生き方において現れてきます。 このことは、ここで「愛がある者」と訳されていることば(ホ・アガポーン)が、「愛する」(アガパオー)という動詞の現在分詞に冠詞(ホ)をつけて実体化して表されていて、文字通りには、(兄弟姉妹たちを)いつも変わることなく「愛している人」を表していることからも、汲み取ることができます。ただ単に、愛という性質がある人というだけでなく、実際に、いつも変わることなく、互いに愛し合っている人です。 また、ここで、 神を知っています。 と言われていることは、「神」のことを知っているとか、「神」について知っているというだけでなく、「神から生まれ」た神の子どもとして「神を知って」いるということです。 同じ手紙の3章1節には、 私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。 と記されています。 私たちは私たちの思いを超えた「すばらしい愛を与えてくださった」父なる神さまを知っています。それは、父なる神さまの限りない愛を受けている神の子どもとして、それゆえに、父なる神さまとの愛の交わりに生きている神の子どもとして、また、お互いに愛し合っている神の子どもとして、父なる神さまを知っているということです。ここでは、 神を知っています。 ということは現在時制で表されていて、いつも変わることなく、父なる神さまとの愛の交わりのうちにあって、父なる神さまを知っているということを伝えています。 これに続いて、 愛のない者は神を知りません。 と言われているときの「愛のない者」(ホ・メエー・アガポーン)も、先ほどの「愛がある者」の否定の形[「メエー」は否定詞]で表されていて、文字通りには「愛していない者」です。これは、3章10節に、 このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義を行わない者はだれであれ、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。 と記されているときの(兄弟を)「愛さない者」と同じことばです。 また、ここで、 愛のない者は神を知りません。 と言われているときの「神を知りません」は、不定過去時制で表されています。これによって、今、知っていないというだけでなく、一度たりとも知ったことはない、ということを伝えています。 3章10節には「神の子どもと悪魔の子どもの区別」のことが記されていました。ヤコブの手紙2章19節には、 あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。 と記されています。悪霊たちは生きておられる唯一の神さまを「身震い」するほど現実的な方として知っています。しかし、悪霊たちはお互いを愛してはいませんし、神さまを愛するどころか憎んでいます。悪霊たちは愛そのものであられ、愛の源であられる神さまの愛を受け止めることがないばかりか、その神さまを憎んでいます。それで、悪霊たちは、生きておられる唯一の神さまを「身震い」するほど現実的な方として知っていますが、(堕落以来)ずっと神さまを憎み続けており、一度たりとも、神さまとの愛の交わりにあって神さまを知ったことはありません。 これまで、神のかたちとして造られている人の「心」に記されている「愛の律法」の第一の戒めが、神である「主」を愛するであるということを、神である「主」が愛そのものであられ、愛の源であられることによっているということとのかかわりでお話ししてきました。そのことを、これまでお話ししたこととは少し違った角度から見てみましょう。 神さまのみことばは、一貫して、神である「主」の愛が主権的で、一方的な愛であることを示しています。 そのことは、創造の御業においても示されています。 神さまは創造の御業において人をご自身のかたちとしてお造りになりましたが、それは、人にその権利や資格があるからではなく、ただ、神さまの主権的で、一方的な愛によることです。 創世記2章7節には、 神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。 と記されています。 ここでは、神である「主」が陶器師の表象で表されています。陶器師がよい土を選んで、丹精を込めて陶器を作るように、神である「主」は心を込めて、人を形造られました。そして、人と向き合うようにして「その鼻にいのちの息を吹き込まれ」ました。これは、無限、永遠、不変の栄光に満ちておられる神である「主」が、その主権的で一方的な愛をもって、無限に身を低くされて、この地にご臨在してくださって、親しく人とかかわってくださったことを示しています。 このように、神である「主」が主権的で一方的な愛を豊かに注いでくださって、人を神のかたちとしてお造りになったので、人は神である「主」との愛の交わりに生きることができるようになりました。それで、人が神である「主」との愛の交わりに生きることは、神である「主」の愛を受け止めることから始まります。人はそのようにして、神である「主」の愛を受け止め、その愛に応答して神である「主」を愛するのです。 神さまの愛が主権的で一方的な愛であるということは、神さまの愛は、まったくの恵みによって、私たちに注がれているということを意味しています。 神さまの愛が主権的で一方的な愛であり、まったくの恵みによって、私たちに注がれていることは、特に、贖いの御業において、より豊かに、また、より鮮明に表されています。 そのことは、先ほど一部を引用しました、ヨハネの手紙第一・4章に記されていることからも汲み取ることができます。 先ほど引用しました7節ー8節に続く9節ー10節には、 神はそのひとり子を世に遣わし、 その方によって 私たちにいのちを得させてくださいました。 それによって 神の愛が私たちに示されたのです。 私たちが神を愛したのではなく、 神が私たちを愛し、 私たちの罪のために、 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。 ここに愛があるのです。 と記されています。 9節と10節は、それぞれ、同じことば(エン・トゥートー)で始まっています。新改訳2017年版では、それぞれの節の最後の部分に置かれていて、このことばの後にくる動詞の違いによって、9節では「それによって(神の愛が私たちに示されたのです)」、10節では「ここに(愛があるのです)」と訳されています。このことばは、ヨハネの手紙第一では14回(Yarbrough, BECNT, p.82)用いられています[注]。ここでは、これによって、著者がこれから言おうとしていることを特に強調しています。ですから、9節においても、10節においても、神さまの私たちへの愛が特に強調されています。 [注]主の日の説教でお伝えした、このことばのこの書や新約聖書の他の書の用例の数は、ある著作によるものでしたが、ギリシア語本文をざっと見ただけですが、不正確であると思われます。それで、その時に触れた別の数(Yarbroughが挙げている数)を示しました。 9節で、 神はそのひとり子を世に遣わし、 その方によって 私たちにいのちを得させてくださいました。 それによって 神の愛が私たちに示されたのです。 と言われているときの「私たちにいのちを得させてくださいました」ということは、すでにお話ししました、 愛する者たち。 私たちは互いに愛し合いましょう。 という呼びかけによって始まる7節からの文脈から、ただ私たちが死と滅びから救い出されて生きるようになったということだけではなく、私たちがそのように示された神さまの愛を受け止め、互いに愛し合ういのちに生きるようになったということを意味しています。 また、10節では、 私たちが神を愛したのではなく、 神が私たちを愛し、 私たちの罪のために、 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。 ここに愛があるのです。 と言われています。 ここでは、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し(てくださった)」と言われています。ギリシア語では主語は、通常、動詞の人称と数(単数か複数か)によって示されていますが、ここでは「私たちが」と「神(「彼」が」が代名詞によって明示されていて、対比が強調されています。これによって、愛は神さまから出ているものであって、私たちの内から出ているものではないことが示されています。 そのことは、創造の御業においても示されていましたが、ここでは、贖いの御業において、より明確になっていることが示されています。 ここでは「私たちが神を愛したのではない」と言われていますが、実際には、私たちは神さまに背き、神さまの敵となって、神さまの愛を踏みにじって生きていました。しかし、神さまはそのような私たちを、なおも、愛してくださり、ご自身の御子を「私たちの罪のために、宥めのささげ物として」遣わしてくださいました。ローマ人への手紙5章8節には、 私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。 と記されており、10節には、 敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。 と記されています。 神さまから出ているこのような愛こそが、まことの愛です。私たちは、この神さまの愛に包んでいただき、神さまの愛のうちに生きる神の子どもとしていただいて、愛を知るようになりました。それによって、私たちも、神さまを愛するようにしていただいて、神さまとの愛の交わりにおいて、神さまを知るようになりました。 このようにして、父なる神さまの一方的で主権的な愛によって神の子どもとしていただいている私たちは、常に、 愛する者たち。 私たちは互いに愛し合いましょう。 と呼びかけられています。 ヨハネの手紙第一・4章では、9節ー10節に続く11節ー12節に、 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。 と記されていますし、さらに、4章19節ー5章2節には、 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。 と記されています。 |
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