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説教日:2021年11月7日 |
このように言いますと、今、私たちが見ているこの世界の現実は、この栄光のキリストが約束してくださっていることとはほど遠くて、それが、原理的・実質的にも、現実になっているとは思えないという疑問が湧いてくることでしょう。 私は、受信記録が残っているだけでも2010年から、世界福音同盟の宗教的自由委員会の担当者が、毎週、配信してくださっている祈りの課題をとおして、また、時に応じて、ある特定の国や地域に関する情報を配信してくださっている通信社から、情報を得ていますが、確かに、この約束を与えていただいている「主」の民は、今、世界のさまざまな所において激しい迫害にさらされています。それらの迫害のほとんどは長く続く迫害であり、より広範囲に及ぶようになっており、より厳しくなってきているという現実があります。 その迫害の中で、多くの血が流され、主の御許に召された方々も数え切れないほどおられます。家や教会堂が破壊されたり、火を放たれたりして、住んでいる所を追われて、森林に逃げ込んだりして、生き残るためにもがいておられる方々が数知れずおられます。また、独裁国家では、福音を曲げることなく宣べ伝えているというだけで、逮捕され、投獄されて、獄中で10年以上過ごしておられる方々がおられますし、中には、その行方が分からなくなってしまった方々もおられます。 それでも、そのような激しい迫害のさ中から漏れてくる光のように、苦難を受けておられる方々のみことばに基づく信仰告白と「主」への愛と信頼の証しも伝えられています。 このような迫害にさらされていない国々においても、「主」の民は少数派であり、「主」に従って歩み続けることへの困難さが感じられることもしばしばあります。また、少数派であるか多数派であるかにかかわりなく、時代の風潮に影響されて福音のみことばが歪められてしまっているという現実も顕著になってきています。このような現実は、主が終わりの日に起こることとして警告してくださっていることではないかと思わされます(参照・マタイの福音書24章4節ー14節、テモテへの手紙第二・4章3節ー4節など)。 これらの現実を前にして、なお、 勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。 彼は鉄の杖で彼らを牧する。 土の器を砕くように。 わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。 という栄光のキリストの約束が、原理的・実質的に、現実になっているとは思えないという疑問がわいてくることは理解できます。 けれども、その疑問は、イエス・キリストが、その約束の最後に述べておられる、 わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。 という教えを、みことば全体の光の下で理解していないために生まれてくるのではないかと思われます。 イエス・キリストが父なる神さまから委ねられた「支配する権威」は、この世の支配者たちの権威と本質的に違っています。このことを理解しないまま、この栄光のキリストの約束を考えますと、この約束が、すでに、原理的・実質的に、私たち「主」の民の現実になっているということは理解できません。 * イエス・キリストが父なる神さまから委ねられた「支配する権威」は、この世の支配者たちの権威と本質的に違っていることを明確に示しているみことばは、いくつかあります。今日は、そのうちの二つを取り上げてお話しします。 まず、取り上げたいのは、マルコの福音書10章35節ー45節に記されていることです。 そこに記されていることで今お話ししていることと関わっていることをまとめますと、35節ー37節には、 ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」 と記されています。そして、41節には、 ほかの十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネに腹を立て始めた。 と記されています。「ほかの十人」の弟子たちも、ヤコブとヨハネと同じ思いをもっていたことがわかります。この時、弟子たちはお互いにライバル心をもっており、自分がほかの弟子たちより上に立とうとしていたのです。 そのことは、この時に始まったことではありません。9章33節ー34節には、 一行はカペナウムに着いた。イエスは家に入ってから、弟子たちにお尋ねになった。「来る途中、何を論じ合っていたのですか。」彼らは黙っていた。来る途中、だれが一番偉いか論じ合っていたからである。 と記されています。 この時すでに、弟子たちは「だれが一番偉いか論じ合って」いました。その弟子たちは、イエス・キリストの「来る途中、何を論じ合っていたのですか」という問いかけに答えることができませんでした。それは、彼ら自身の中に、ある種の「やましさ」があったこと、より具体的には、彼らがお互いに対してライバル心を燃やしていたことによっています。 これに対して、続く35節には、 イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」 と記されています。 ここで、イエス・キリストは、メシアの国においては、先頭に立つ者、「一番偉い」者は、「皆の後になり、皆に仕える者」であるということを教えておられます。 もし弟子たちがこのイエス・キリストの教えを理解することができていたなら、ヤコブとヨハネが、 あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。 と願い出ることもなかったでしょうし、ほかの弟子たちがそれを聞いて腹を立てることもなかったでしょう。 マルコは、弟子たちが「だれが一番偉いか論じ合っていた」ことと、それに対するイエス・キリストの教えを理解することができなかったことの原因がどこにあったかを示しています。 この9章33節ー35節の前の、30節ー32節には、 さて、一行はそこを去り、ガリラヤを通って行った。イエスは、人に知られたくないと思われた。それは、イエスが弟子たちに教えて「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」と言っておられたからである。しかし、弟子たちにはこのことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。 と記されています。 弟子たちが「だれが一番偉いか論じ合っていた」のも、それに対するイエス・キリストの教えを理解することができなかったのも、ひとえに、メシアであるイエス・キリストが「人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」ということ、特に、「人々の手に引き渡され、殺される」ということがどのような意味をもっているかを理解することができなかったからである、ということです。 10章35節ー45節に記されていることにおいても、同じことを見ることができます。マルコは、この35節ー45節に記されていることに先立って32節ー34節において、 さて、一行はエルサレムに上る途上にあった。イエスは弟子たちの先に立って行かれた。弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二人をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを話し始められた。「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」 と記しています。 これによって、マルコは、ヤコブとヨハネがイエス・キリストに、 あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。 と願ったのも、ほかの弟子たちが腹を立てたのも、彼らがこの時も、イエス・キリストが語られたメシアの苦難と死の意味を理解することができなかったからであるということを示しています。 この時、イエス・キリストは弟子たちに、 あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。 と教えられました。 ここでイエス・キリストは、まず、 あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。 と言われて、この世の権力者たちのことをお話しになりました。 イエス・キリストがまず、 あなたがたも知っているとおり と言われたことは、続く、 異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。 ということを、弟子たちが、今日の私たちが考えるより、はるかに深刻な現実として知っていたということを意味しています。というのは、このときのユダヤはローマの属州になっていて総督ピラト(在位26年ー36年)によって治められていて、直接税(人頭税、家屋税など)や間接税(通行税、港湾税、市場税など)が課せられるとともに、人や動物を徴用する強制労働の義務が課せられていたからですし、理不尽なことに対する反乱も起きていたからです。このような現実にあったユダの民は、メシアがローマ帝国を撃ち破って、このような状態から解放してくれることを期待していました。 この時、弟子たちが考えている「あなたが栄光をお受けになるとき」とは、イエス・キリストがメシアとして、この世の支配者の頂点に立って、すべての国々を支配するようになるときのことです。 これに対して、イエス・キリストは、まず、 しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。 と教えておられます。ここでイエス・キリストは、先ほど触れた、9章35節に記されている、 だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。 という教えを、この世の支配者たちのあり方と対比させて、さらに詳しく説明しておられます。これによってイエス・キリストは、メシアの国の権威のあり方や価値観、偉大さの基準がこの世の支配者たちの権威のあり方や価値観、偉大さの基準と本質的に違うことを示しておられます。 そして、そのことは、メシアの国の王であられるイエス・キリストご自身において体現されていることであることをお示しになって、 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。 と教えておられます。 このイエス・キリストの教えにおいて、メシアとしてのイエス・キリストの苦難と死が「多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるため」のことであることが明らかにされています。 このことは、その当時のユダヤ教、すなわち、第二神殿時代のユダヤ教の考え方からは出てこないことでした。 そればかりか、第二神殿時代のユダヤ教にとって、イエス・キリストが9章31節で教えておられる、 人の子[すなわち、メシア]は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる ということも、10章33節ー34節で教えておられる、 人の子[メシア]は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。 ということも、ありえないことでした。 ですから、弟子たちがこれらのイエス・キリストの教えを理解することができなかったのも、言わば、当然のことだったのです。 弟子たちがこのことを理解することができるようになったのは、十字架にかかってご自身の民の罪を贖ってくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストが、その後、「四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた」こと(使徒の働き1章3節、参照・ルカの福音書24章25節ー27節、44節ー49節)、そして、天に上られて父なる神さまの右に着座され、そこから、聖霊を遣わしてくださったことによっています。 イエス・キリストが父なる神さまから委ねられた「支配する権威」は、この世の支配者たちの権威と本質的に違っていることを示しているみことばを、もう一つ見てみましょう。 ヨハネの福音書10章17節ー18節には、 わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。 と記されています。 先ほど引用したように、イエス・キリストは、 人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる と教えておられますし、 人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。 とも教えておられます。 しかし、これは単なる予告ではありませんでした。ここでイエス・キリストは、ことの成り行きで、そのようになってしまうと教えておられるのではありません。イエス・キリストこそは契約の神である「主」ヤハウェであり、歴史の主です。それで、ご自身の権威において、「祭司長たちや律法学者たち」の思惑やローマの総督ピラトの思惑をもお用いになられて、ご自身の自由なる意志で、十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わってすべて受けてくださいました。 それは私たちご自身の民への愛によっていますが、同時に、 わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。 というみことばに示されているように、父なる神さまを愛して、その「命令」に従われたことによっています。 このことは、また、父なる神さまが私たちを愛してくださって、その「命令」をイエス・キリストに与えられたということをも意味しています。 さらに、イエス・キリストが、 わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。 と教えておられるように、父なる神さまも、私たちを愛して私たちのためにいのちをお捨てになったイエス・キリストを愛してくださっています。 なんと、私たちを愛して私たちのために十字架におかかりになったイエス・キリストに対して、私たちの罪に対する聖なる御怒りによる刑罰を執行された父なる神さまは、そのイエス・キリストを愛しておられたというのです。 イエス・キリストが父なる神さまから委ねられた権威はこのような権威で、父なる神さまの愛を極みまで現してくださったことに示されている権威です。 ここで注目したいのは、イエス・キリストはご自身の自由な意志で十字架におかかりになりましたが、その自由な意志は父なる神さまと私たちご自身の民への愛によって働いているということです。 このことを踏まえて、改めて、これまでお話ししてきたガラテヤ人への手紙5章13節ー14節に記されている、 兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。 というみことばを見てみましょう。 このみことばが示している「愛をもって互いに仕え合」うことに現れてくる私たちのの「自由」は、父なる神さまを愛され、私たちご自身の民を愛してくださって十字架におかかりになったイエス・キリストの、愛に導かれている「自由」が模範、あるいは、原型になっていることが分かります。 また、この教えが、メシアの国の権威のあり方を示している、 あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。 というイエス・キリストの教えとつながっていることも分かります。 私たちは御霊に導いていただいて、「愛をもって互いに仕え合」うことにおいて、メシアの国の支配権がどのようなものであるかを現していますし、それによって、「来たるべき時代」、「新しい時代」の歴史と文化を造る歩みをしています。 |
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