黙示録講解

(第481回)


説教日:2021年10月31日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(234)


 本主日も、黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束と関連するみことばについてのお話を続けます。
 これまで、この栄光のキリストの約束と関連するみことばの一つとしてエペソ人への手紙2章1節ー10節に記されていることからお話してきました。
 そして、その最後の10節に、

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

と記されているみことばの後半において、神さまが、

 その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

と言われていることについてお話ししました。
 この10節に記されていることは、これより前の6節に、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されているみことばを踏まえています。
 そして、この6節においては、私たちは、すでに、栄光のキリストが聖霊降臨節(ペンテコステ)の日に、父なる神さまの右から遣わしてくださった御霊に導いていただいて、その御霊によって特徴づけられ、御霊によって造り出される「来たるべき時代」、「新しい時代」の歴史と文化を造る使命を果たしているということが示されています。
 これらのことから、10節の「良い行い」は、私たちが御霊に導いていただいて、御霊によって特徴づけられ、御霊によって造り出される「来たるべき時代」、「新しい時代」の歴史と文化を造る使命を果たしていくことの中でなされることであること、そして、私たちが御霊に導いていただいて「良い行い」に歩むことのすべては、初めから終わりまで、神さまの一方的で主権的な愛と恵みによることであるということが示されていることが分かります。


 今は、このこととのかかわりで、ガラテヤ人への手紙5章13節ー14節に記されている、

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。

というみことばについてお話をしています。
 今日は、おもに、前回お話ししたことを補足するお話をします。
 これまで、ここで、

 兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。

と言われているときの「自由」について、ガラテヤ人への手紙の流れの中でお話ししてきました。
 この「自由」には「(何々)からの自由」という消極的な面と、「(何々)への自由」という積極的な面があります。
 「(何々)からの自由」という消極的な面は、1節に、

キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。

と記されていることに示されている「奴隷のくびき」から解放されて「自由」な者とされたということにあります。
 かつての私たちが「奴隷のくびき」を負わされていた状態とは、ガラテヤ人への手紙の流れの中では、4章3節で、

同じように私たちも、子どもであったときには、この世のもろもろの霊の下に奴隷となっていました。

と言われているときの「もろもろの霊」と訳されている「ストイケイア」の下に「奴隷となって」いた状態のことです。
 この「『この世の』ストイケイア」は、詩篇14篇1節に、

 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。

と記されているように、「」、すなわち、人の人格的な働きの全体、知性と感情と意志の働きの全体を根底から規制し、縛っている「神はいない」という根本的な原理、根本的な発想に基づいて生み出されている、ものの見方、考え方、価値観に基づく、さまざまな社会的な制度、教え、決まり、習慣、風習、伝統などを表していると考えられます。
 かつて「『この世の』ストイケイア」の下に「奴隷となって」いた状態にあった私たちは、エペソ人への手紙2章1節ー3節に出てくることばで言いますと、「自分の背きと罪の中に死んでい」ましたし、「それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んで」いました。そのために、「生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」。
 ここに出てくる「この世のストイケイア」の「この世」や「この世の流れ」(直訳「この世の時代」)ということばが示しているように、かつての私たちは御霊と対立する肉によって特徴づけられ、肉によって動かされている「この世」、「この時代」に属しており、「この世」、「この時代」の歴史と文化を造っていました。それは、肉が生み出す「神はいない」という根本的な原理、根本的な発想に基づいて造り出される歴史と文化であり、それを造り出した人々とともに、終わりの日に再臨される栄光のキリストによって執行されるさばきによってさばかれ滅び去るべきものです。
 その終わりの日に執行されるべきさばきは、神さまの律法にしたがって執行されます。ローマ人への手紙3章19節に、

私たちは知っています。律法が言うことはみな、律法の下にある者たちに対して語られているのです。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。

と記されているとおりです。
 その神さまの律法はモーセ律法に限定されるものではありません。前回も引用しましたが、ローマ人への手紙2章14節ー15節には、

律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じることを行う場合は、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法なのです。彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。

と記されています。モーセ律法をもっていない異邦人も、「律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています」。それは、神さまが創造の御業において、神のかたちとしてお造りになった人の「心」、すなわち、人の人格的な働きの全体、知性と感情と意志の働きの全体に、ご自身の律法を記しておられるからです。その本来の状態においては、神のかたちの本質的な特質が愛であることと符合して、神のかたちとして造られている人の心に記されている律法も愛の律法です。その愛の律法は、

あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

という、「重要な第一の戒め」と、

あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい

という、「それと同じように重要」な「第二の戒め」に集約されます。
 この愛の律法が「心」に記されている状態、すなわち、知性と感情と意志を含む人格の中心にある「心」に記されている状態が神さまが創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人の本来のあり方、本来の状態です。それは、また、人の人格的な働きの全体、知性と感情と意志の働きの全体が、自然と、この「愛の律法」に導かれて、その人が、あらゆる時に、またあらゆる場合に、自然と、神のかたちの本質的な特質である愛を現している状態です。それが神のかたちとして造られている人の本来の状態であり、本来のあり方です。
 しかし、そのように造られている人が、神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、人の心に記されている愛の律法も、その「」、すなわち、人の人格的な働きの全体を根底から規制し、縛っている「神はいない」という根本的な原理、根本的な発想によって、歪められてしまっています。そのために、人は造り主である神さまを愛することがなくなってしまったばかりでなく、そもそも、造り主である神さまを神とすることがなくなってしまっています。
 そうであっても、神さまが創造の御業において、人を愛を本質的な特質とする神のかたちとしてお造りになって、その心にご自身の律法、すなわち、愛の律法を記してくださっていることには変わりがありません。それで神さまは神のかたちとしてお造りになった人の心に記しておられるご自身の律法、すなわち、愛の律法に従って、すべての人をおさばきになります。
 15節で、

彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。

と言われているのは、モーセ律法をもっていない異邦人であっても、自らの心に記されている律法に基づいて「良心」が働いて、自らを責めたり、弁明したりしているという現在の状態を示しています。
 しかし、これはそれで終わるものではありません。続く、16節には、

私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって、人々の隠された事柄をさばかれるその日に行われるのです。

と記されています。
 神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人は、造り主である神さまを神とすることはありません。それで、自らの心に記されている律法に基づいて働く「良心」も、自分たちの考えている倫理的・道徳的な基準――その基準も、「神はいない」という根本的な原理、根本的な発想によって規制され、縛られてしまっています――に従って働くようになっています。そのために、自分たちが造り主である神さまを神としていないという、あらゆる罪がそこから生まれてくる、根本的で、根源的な罪を犯しているということには、まったく気づくことはありませんし、そのことで良心が痛むことも、良心に責められることもありません。自分たちが造り主である神さまを神としていないという、根本的で根源的な罪は、まさに、その罪がもたらしている霊的な闇によって隠されてしまっています。16節で、

私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって、人々の隠された事柄をさばかれるその日に行われるのです。

と言われていることは、ただ単に、人の目から隠されているという意味での秘かな罪だけでなく、罪の闇によって隠されてしまっている、造り主である神さまを神としていないという、根本的で根源的な罪をも明らかにする神さまの律法に従ってさばきが執行されることを示しています。

 私たちは、神さまの一方的で主権的な愛と恵みによって、御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずからせていただいています。私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきは、御子イエス・キリストが十字架の上で、私たちに代わってすべて受けてくださったことによって終わっています。そればかりでなく、イエス・キリストは私たちの契約の「かしら」として栄光を受けて死者の中からよみがえってくださり、私たちをそのよみがえりにあずからせてくださっています。
 これに当たることがガラテヤ人への手紙では、先ほど引用した、4章3節に、

同じように私たちも、子どもであったときには、この世のもろもろの霊[ストイケイア]の下に奴隷となっていました。

と記されていることに続いて、4節ー5節に、

しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。

と記されています。
 このことは、栄光のキリストが聖霊降臨節(ペンテコステ)の日に父なる神さまの右から遣わしてくださった御霊によって、私たちの間に実現しています。その御霊は、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになり、私たちをその贖いの御業にあずからせてくださっています。
 私たちはこの御霊によって、栄光のキリストと結び合わせていただいて、新しく生まれています。そして、福音のみことばを聞いた時に、十字架につけられて死んでくださった御子イエス・キリストを信じて、神さまの御前に義と認めていただき、神の子どもとしていただいています。
 ガラテヤ人への手紙5章13節で、

 兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。

と言われているときの「自由」の「(何々)への自由」という積極的な面は、ガラテヤ人への手紙の流れの中では、先ほど引用した、4章4節ー5節で、

しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。

と言われているときの「私たちが子としての身分を受ける」ということに示されている、神の子どもとしての自由のことです。

 このことは、ガラテヤ人への手紙の流れの中では、アブラハム契約とのかかわりで示されています。というのは、アブラハム契約の約束は、「相続人としての子」にかかわる約束であるからです。
 3章6節ー7節には、

「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。

と記されています。6節に引用されている、

 アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた

というみことばは、創世記15章6節に記されています。
 これがどのような状況で記されているかを、創世記の記事をさかのぼって見てみますと、11章30節に、

 サライは不妊の女で、彼女には子がいなかった。

と記されているように、サラが「不妊の女」であったために、アブラハムとサラには子どもがいませんでした。
 12章1節ー3節に、

 はアブラムに言われた。
 「あなたは、あなたの土地、
 あなたの親族、あなたの父の家を離れて、
 わたしが示す地へ行きなさい。
 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
 あなたを祝福し、
 あなたの名を大いなるものとする。
 あなたは祝福となりなさい。
 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、
 あなたを呪う者をのろう。
 地のすべての部族は、
 あなたによって祝福される。」

と記されているように、「」はアブラハムに、「ハラン」に定住するようになった父テラの家を離れて、「」が示してくださる地に行くように命じられました。
 この時、「」はアブラハムに、

 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とする

と約束してくださっています。
 4節には、アブラハムが「」のみことばに従って、

 ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。

と記されています。これは11章10節ー26節に記されている「セムの歴史」に記されている父祖たち――セムの息子アルパクシャデからエベルまでの寿命が4百数十年で、ペレグからセレグまでの寿命が2百数十年でした――が、3十年前後で子どもを生んでいることに比べると、かなりの歳になっていますが、子どもが生まれていないということを意味しています。それは、サラが「不妊の女」であったためです。後に、アブラハムは百歳を過ぎてから、ケトラによって子どもたちを生んでいます(25章1節ー4節)。
 また、アブラハムがカナンの地に来た時のことを記している12章7節には、

はアブラムに現れて言われた。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」アブラムは、自分に現れてくださったのために、そこに祭壇を築いた。

と記されています。この時も、アブラハムに約束の地であるカナンのことが示されるとともに、それがアブラハムの「子孫」に与えられると約束されたことによって、アブラハムに「子孫」が与えられることが示されています。
 さらに、アブラハムと甥のロトの家畜の群れが多くなり過ぎて、群れを飼うしもべたちの間に争いが起こったために、二人は別々の地に住むようになりました。そのとき、アブラハムは、どこに住むかの選択権を甥のロトに与えました。
 こうして、アブラハムが(ロトが選ばなかった)カナンの地に住むようになった時のことを記している13章15節ー16節には、

わたしは、あなたが見渡しているこの地をすべて、あなたに、そしてあなたの子孫に永久に与えるからだ。わたしは、あなたの子孫を地のちりのように増やす。もし人が、地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えることができる。

と記されています。
 しかし、その後にも、アブラハムには子どもが生まれませんでした。そのような状況にあって、15章には「」がアブラハムに現れてくださったことが記されています。その1節ー6節には、

これらの出来事の後、のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」アブラムは言った。「、主よ、あなたは私に何を下さるのですか。私は子がないままで死のうとしています。私の家の相続人は、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか。」さらに、アブラムは言った。「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう。」すると見よ、のことばが彼に臨んだ。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」アブラムはを信じた。それで、それが彼の義と認められた。

と記されています。
 この15章に記されていることで注目すべきことがあります。
 これ以前に記されているアブラハムへの約束は、アブラハムが「」のみことばに従って、あるいは、「」のみこころにかなう、何らかの行いをしたこと、あるいは、するようになることとかかわっています。これに対して、15章1節ー6節に記されていることは、アブラハムが、自分たちの常識ではもう子どもの誕生は望めない状況の中で、何らかの行いをしたというのではなく、そのような状況の中で、子孫に関する約束を与えてくださった「」を信じたということです。そして、それを「」はアブラハムの義と認めてくださったということです。いわば、アブラハムが義と認められることが、この時まで「とっておかれた」とも言えるのです。
 改めて確認しておきたいことは、アブラハムはただ「」を信じたというのではなく、子孫を与えてくださると約束してくださった「」を信じたということです。それは、アブラハムが「」が与えてくださった子孫に関する約束を信じたということでもあります。

 このようなことを背景として、先ほど引用しましたガラテヤ人への手紙3章6節ー7節には、

「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。

と記されています。さらに、13節ー14節には、

キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。

と記されています。
 すべての人は神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっています。そのために、神さまの律法ののろいの下にあります。そして、終わりの日にはすべての人のすべての罪が、神さまの律法にしたがってさばかれることになります。しかし、御子イエス・キリストは、

ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。

しかも、それは、それだけで終わらないで、

それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。

と言われています。
 また、同じ3章の26節には、

 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。

と記されており、29節には、

 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

と記されています。
 そしてこれらのことを受けて、先ほど一部引用しましたが、4章4節ー7節には、

しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。

と記されています。
 このように、ガラテヤ人への手紙5章13節で、

 兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。

と言われている、私たちに与えられている「自由」は神の子どもとしての自由ですが、それは、神である「」がアブラハムに与えてくださった契約の祝福として与えられています。
 ですから、私たちは、神である「」がアブラハムに与えてくださった契約の祝福にあずかって、神さまに向かって「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊を」「心に遣わ」していただいています。これは、私たちがローマ人への手紙8章29節に、

神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。

と記されている、神さまの永遠からのみこころにしたがって、御子を長子とする神の家族に迎え入れていただいている神の子どもであることを意味しています。
 この神の家族にあって、私たちは「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」に導いていただいて、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるとともに、「愛をもって互いに仕え合」う、神の子どもとしての交わりに生きるようにしていただいています。
 私たちが御霊に導いていただいて、御霊によって特徴づけられ、御霊によって造り出される「来たるべき時代」、「新しい時代」の歴史と文化を造る使命を果たしていくことは、私たちが「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」に導いていただいて、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるとともに、「愛をもって互いに仕え合」う、神の子どもとしての交わりに生きることと切り離し難く結び合っています。私たちが「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」に導いていただいて、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるとともに、「愛をもって互いに仕え合」う、神の子どもとしての交わりに生きることがなければ、私たちは御霊によって特徴づけられ、御霊によって造り出される「来たるべき時代」、「新しい時代」の歴史と文化を造る使命を果たすことはできません。


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