黙示録講解

(第480回)


説教日:2021年10月17日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(233)


 本主日も、黙示録2章26節ー28節前半に記されている、

勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。
 彼は鉄の杖で彼らを牧する。
 土の器を砕くように。
わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。

という、栄光のキリストの約束と関連するみことばについてのお話を続けます。
 これまで、この栄光のキリストの約束と関連するみことばの一つとしてエペソ人への手紙2章1節ー10節に記されていることからお話してきました。
 これまで、10節に、

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

と記されているみことばの後半において、神さまが、

 その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

と言われていることについてお話ししました。
 これは、これまでの言い方を繰り返しますと、「私たちが良い行いに歩むように」なるのは、初めから終わりまで、すなわち、私たちを「キリスト・イエスにあって」新しく造られた者、新しく生まれた者としてくださったことから、「私たちが良い行いに歩む」歩みを御霊によって最後まで導いてくださって、やがて完成に至らせてくださることまでのすべてが、ただ、神さまの一方的で主権的な愛と恵みによることであるということを意味しています。
 そして、この10節に記されていることが6節に、

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されているみことばを踏まえているということから考えられることをお話ししました。
 それは、私たちは、すでに、栄光のキリストが聖霊降臨節(ペンテコステ)の日に、父なる神さまの右から遣わしてくださった御霊に導いていただいて、その御霊によって特徴づけられ、御霊によって造り出される「来たるべき時代」、「新しい時代」の歴史と文化を造る使命を果たしているということ、そして、この私たちの歩みのすべてが、神さまの一方的で主権的な愛と恵みによることであるということが示されているということです。


 今は、このこととのかかわりで、ガラテヤ人への手紙5章13節ー14節に記されている、

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。

というみことばについてお話をしています。
 すでにお話ししたことの復習ですが、ここで、

 兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。

と言われているときの「自由」は、1節で、

キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。

と言われているときの「自由」です。
 「自由」には「(何々)からの自由」という消極的な面と、「(何々)への自由」という積極的な面があります。1節では、

 再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい

と言われているように「奴隷のくびき」から解放されて「自由」な者とされたという消極的な面が示されています。
 そして、この「奴隷のくびき」を負わされていた状態とは、4章3節で、

同じように私たちも、子どもであったときには、この世のもろもろの霊の下に奴隷となっていました。

と言われているときの「もろもろの霊」と訳されている「ストイケイア」の下に「奴隷となって」いた状態のことです。
 この「『この世の』ストイケイア」は、聖書の中で「御霊」と対比されている「」が生み出す、「神はいない」(詩篇14篇1節)という根本的な原理、根本的な発想によって規制され、縛られている、「この世」、「この時代の」ものの見方、考え方、価値観に基づく、さまざまな社会的な制度、教え、決まり、習慣、風習、伝統などを表していると考えられます。
 堕落後の人は、それぞれが属している時代と文化と社会によって現れ方は違っているけれども、「神はいない」という根本的な原理、根本的な発想によって規制され、縛られているという点で共通している、さまざまな「ストイケイア」によって成り立っている時代と文化と社会の中に生まれてきて、「子どもであったとき」から、それらの中で育っていて、それらが自然なものとなって、身に付いてしまっています。それで、「『この世の』ストイケイア」「の下に奴隷となって」いる人は、「肉」によって特徴づけられ、「肉」によって造り出される「この世」、「この時代」の歴史と文化を造ってしまいます。
 私たちは、神さまの一方的で主権的な愛と恵みによって、御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずからせていただいています。
 それで、栄光のキリストが聖霊降臨節(ペンテコステ)の日に父なる神さまの右から遣わしてくださった御霊によって栄光のキリストと結び合わせていただいて、新しく生まれています。そして、福音のみことばを聞いた時に、十字架につけられて死んでくださった御子イエス・キリストを信じて、神さまの御前に義と認めていただき、神の子どもとしていただいています。さらに、4章6節ー7節に、

そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。

と記されているように、「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」が私たちそれぞれのうちに住んでいてくださり、私たちを導いてくださっています。ローマ人への手紙8章14節ー15節に、

神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

と記されているとおりです。
 今引用したローマ人への手紙8章14節ー15節と、先ほど引用したガラテヤ人への手紙4章6節ー7節に記されていることから分かりますが、「神の御霊」、すなわち、「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」が私たちのうちに住んでいてくださること、そして、私たちがこの御霊によって導いていただいていることが、私たちが「もはや奴隷ではなく、子で」あること、神の子どもとしての自由な状態にあることの核心にあることです。

 これと同じように、御霊と自由のことが結びつけられている個所として、コリント人への手紙第二・3章17節ー18節を見てみましょう。そこには、

主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と記されています。
 ここでは、

 主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。

と言われています。
 この「自由」は無冠詞ですし、何らかの修飾や説明もなく、限定されていませんので、「主の御霊」がご臨在してくださってお働きになっていることによってもたらされる、あらゆる種類の自由を指していると考えられています。このコリント人への手紙第二・3章の文脈では、この節より前に記されている、古い契約の下でのさまざまな限界に縛られている状態から自由にされていることが考えられます。ここで特に注目したいのは、6節に、

神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。

と記されていることです。ここでは、パウロたち、おもに使徒たちですが、より広く、福音のみことばに仕えている人々は、新しい契約の下にあって、「文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格」を与えていただいていると言われています。ここでは、「文字は殺し、御霊は生かす」と言われていますが、これは、3節に、

あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。

と記されていることに照らして見ることによって理解することができます。「文字」は「石の板」に「書き記されたもの」(出エジプト記24章12節、31章18節)で、古い契約の下で、モーセをとおして与えられた律法を指しています。
 このモーセ律法は、イスラエルの民にとっては、外から与えられた戒めであり、それとしての限界をもっています。そのことは、新しい契約のことを預言として記している、エレミヤ書31節31節ー34節に、

見よ、その時代が来る――のことば――。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った――のことば――。これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである――のことば――。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ――のことば――。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。

と記されていることに、新しい契約の下にある律法との対比において示されています。
 エジプトの奴隷の状態から解放されたイスラエルの民は、シナイ山において、動物の血によって結ばれた契約、すなわち古い契約を与えられ、その契約の条項であるモーセ律法を与えられましたが、彼らはそれを守ることができないで、「」の契約を破ってしまいました。それは、エジプトの奴隷の状態からの解放が、外面的な解放であり、動物の血による罪の贖いも儀式的なもので、人の罪を贖って、その人を内側からきよめるものではなかったからです。
 これに対して、「」は、エレミヤをとおして、

 わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。

と約束してくださいました。そして、

 わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

という、「」の契約の祝福が真の意味で実現することを約束してくださいました。また、

彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ

と言われています。古い契約の下では、モーセや預言者たちなど特定の任務を与えられた人々たちだけがより豊かな啓示を受けましたが、新しい契約の下にあるすべての者が、真の意味で「」を知るようになるということが示されています。さらに、

わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。

と言われているように、新しい契約の下にあるすべての者の罪がまったく赦されるようになることが示されています。
 それは、イエス・キリストの地上の生涯の最後の過越の食事の時のことを記している、マルコの福音書14章23節ー24節に、

また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、彼らにお与えになった。彼らはみなその杯から飲んだ。イエスは彼らに言われた。「これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です。」

と記されているように、新しい契約が、私たち「」の民のために十字架の上で流されたイエス・キリストの血によって結ばれているからです。
 先ほど引用したコリント人への手紙第二・3章3節には、

あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。

と記されていました。
 ここで、

それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。

と言われているときの「人の心の板」は、直訳では「肉の心の板」です。これは、エゼキエル書36章26節ー27節に、

あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。

と記されていることを受けています。
 ここでは、「」がご自身の契約の民の「からだから石の心を取り除き・・・肉の心を与える」と約束してくださっています。そして、ご自身の民のうちに授けてくださる「わたしの霊」、すなわち、「」ヤハウェの霊によって、「」の民が「」の「掟に従って歩み」、「」の「定めを守り行うように」してくださると言われています。
 パウロはこれが新しい契約の下で成就していて、コリントの教会の信徒たち、ひいては、私たち自身が「キリストの手紙」であり、栄光のキリストが「生ける神の御霊によって」、私たちの「『肉の心』の板」に書き記してくださったもの(「キリストの手紙」)であると言っています。
 そして、この「生ける神の御霊」は、また、先ほど引用した6節で「御霊は生かす」と言われているように、私たちにいのちを与えてくださっている御霊ですし、17節では、

 主の御霊がおられるところには自由があります。

と言われているように、私たちに「自由」を与えてくださっている御霊です。

          *
 これらのことから、一つのことが見えてきます。栄光の主であるキリストが、「生ける神の御霊」によって、新しくされた私たちの心に「」の律法を書き記してくださることによって、私たち自身が「キリストの手紙」となっていますし、私たちは「生ける神の御霊」によって導いていただいて、愛の律法にしたがって歩むようになります。そして、私たちが「生ける神の御霊」によって導いていただいて、愛の律法にしたがって歩むときに、私たちは真の意味で自由なものとなります。
 そのことは、さかのぼっていきますと、創造の御業において神のかたちとして造られている人の本来のあり方に行き着きます。
 ヨハネの手紙第一・4章8節、16節に、

 神は愛です。

と記されているように、神さまの本質的な特質は愛です。それで、神のかたちとして造られている人の本質的な特質も愛です。また、ローマ人への手紙2章14節ー15節に、

律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じることを行う場合は、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法なのです。彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。

と記されていることから分かりますが、創造の御業において神のかたちとして造られている人の心には神さまの律法、すなわち、愛の律法が書き記されています。
 最初に造られた人は、神さまから律法の書を渡されて、それを学んで律法を理解するようになったのではありません。あるいは、神である「」から律法についてお教えを受けてて、律法を理解するようになったのではありません。
 創世記2章7節には、

神であるは、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。

と記されています。
 ここでは、陶器師の表象が用いられています。陶器師がよい土を選んで、丹精を込めて陶器を作るように、神である「」は人を形造られました。そして、人と向き合うようにして「その鼻にいのちの息を吹き込まれ」ました。これは、神である「」が、ご自身の契約に基づいて、無限に身を低くされて、この地にご臨在してくださって、親しく人とかかわってくださったことを示しています。また、

 それで人は生きるものとなった。

と言われているとき、人が最初に自覚したことは、自分が神である「」の御臨在の御前にあるということ、あるいは、自分と向き合うようにして親しくご臨在してくださっている神である「」ご自身であったと考えられます。

 それで人は生きるものとなった。

ということは、人として何かが欠けているという状態ではなく、神である「」の御手の作品として完成しているということを意味しています。
 最初の人は成人として造られています。その最初の人は、造られたその時から、そこにご臨在してくださっている神である「」との愛にあるいのちの交わりに生きるようになったと考えられます。なぜなら、その神である「」との愛にあるいのちの交わりこそが、神のかたちとして造られている人のいのちの本質であるからです。
 そして、「」の律法は、マタイの福音書22章37節ー40節に、

イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」

と記されているように、愛の律法です。そして、その第一の戒めは、神である「」との関係のあり方を示していて、その核心にあるのは神である「」への愛にあります。先ほどお話ししたように、モーセ律法はイスラエルの民にとっては、外から与えられたものでしたが、本来は、神である「」の律法は神のかたちとして造られている人の心に記されていました。神である「」はエレミヤをとおして、

 わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。

と約束してくださいましたが、それは、神のかたちとして造られている人の本来の状態が回復されるということでもあるのです。
 その神のかたちとして造られている人の本質的な特質は愛ですし、その心に記されている律法も愛の律法です。その本来の状態にある人は、自分の考えることも、感じることも、意志することもすべて、自らの本質的な特質である愛と一致する、愛の律法に導かれていますので、どのようなことをするにしても、それが愛の表現になります。
 それは、神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後の、「神はいない」という根本的な原理、根本的な発想によって規制され、縛られている人の状態を記しているローマ人への手紙2章15節で、

彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。

と言われているような、自分自身のうちで良心のとがめを感じたり、弁明して乗り切ろうとするような分裂はありません。
 さらには、ローマ人への手紙7章15節に、

私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。

と記されているように、神さまの一方的な愛と恵みによって罪を贖われて、神さまがどなたであるかを知るようになったからこそ、自らのうちになおも残っている罪によって本性が汚れていることを嘆かないではいられない、私たち「」の民の「不自由な状態」もありません。
 もちろん、その私たちは、父なる神さまの一方的な愛と恵みによって、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の完全な贖いにあずかって、罪を贖っていただいていますし、すべての罪を赦していただいています。また、私たちはイエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、新しく生まれています。さらに、福音のみことばに証しされているイエス・キリストを信じたことによって、義と認めていただいていますし、神の子どもとしていただいて、イエス・キリストを長子とする神の家族に迎え入れていただいています。――そうであるからこそ、自らのうちになおも残っている罪によって本性が汚れていることを嘆く嘆きは深いのです――
 そして、栄光のキリストが父なる神さまの右から遣わしてくださった御霊のお働きによって、

鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。

 それは、自動的にそうなっていくという意味ではありません。ガラテヤ人への手紙5章13節ー14節に、

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。

と記されているように、私たちがその御霊に導いていただいて、「愛をもって互いに仕え合」うこと中で、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて」いくことが、私たちの現実になるということです。

 ここで、

律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。

と言われているように、私たちが「愛をもって互いに仕え合」うことにおいて、「生ける神の御霊」が私たちの心に記してくださっている愛の律法が全うされるようになっていきます。このように、「」がエレミヤやエゼキエルをとおして預言してくださっていたことが、私たちの間で実現していくのです。

 それは、私たちが神のかたちとして造られている人の本来のあり方、本来の自由なあり方に回復されつつあるということですが、実は、それ以上のことです。というのは、私たちが、御霊のお働きによって、

鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます

と言われていることは、私たちが最初に造られたときのアダムと同じ状態になるということではなく、それ以上のことを意味しているからです。
 私たちの主であられるイエス・キリストは、最初に造られたときのアダムと同じ人としての性質を取って来てくださいました。そして、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことへの報いとして、アダムと同じ人としての性質よりさらに豊かな栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。
 私たちは、御霊によって、その栄光のキリストと結び合わされています。そして、御霊のお働きによって、栄光のキリストと「同じかたちに姿を変えられて」いくと言われています。このことは、私たちが「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊」を与えていただいている神の子どもとしての自由をもつようになっていることを意味しています。さらに、それとともに、その神の子どもとしての自由にあって、「愛をもって互いに仕え合」うことによって、それぞれがより豊かな自由をもつようになっていくということをも意味しています。


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